プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

こんにちは。
日本の歴史において、他国の軍隊から2度日本列島に上陸されています。
1度目は鎌倉時代の元寇、2度目は第二次世界大戦でのアメリカ侵攻。

本日教えていただきたいのは、元寇における元軍(元・高麗連合軍)と日本軍の武器・武装のことです。
ウィキ等で調べましたが、あまり記述がありませんでした。
多少、当時の絵巻が載っていたりします。

この当時、北九州で行われた白兵戦での双方の武器はどんなものだったんでしょう。
日本軍は大体戦国時代を想像すればよいでしょうが、特に元軍の武器はなんだったんでしょうか。
ただ、資料によると、~1279年まで南宋にて銃の生産が行われていたようで、元軍は銃を携帯していたのでしょうか。(持っていたら日本軍は堪らなかったでしょうね)
大モンゴル帝国ですから日本軍より近代的な武器を持っていたと思うのですが。

あと、水軍です。
日本の松浦水軍がかなり元軍の船にダメージを与えたようです。
この当時の水軍の武器・武装はなんだたのでしょう。
まだ大砲なんて無いでしょうから、石の投的機みたいなものとか、近ずいて火炎瓶みたいなものを投げるとか。弓、矢の先に火をつけて放つとか。

この時の戦術は別にしまして、双方の地上軍、水軍の武器を教えてください。
元軍の中には支配下の南宋の兵がかなり多くいて鋤、鍬を持っていたとも書いてありましたが。
神風の話は結構です。
よろしくお願いします。

A 回答 (9件)

元軍の武器


短弓、弩、鎖帷子に皮鎧、鉾、盾、てつはう、諸刃の剣


元軍の軍船
大別すると千料船(大型船)、バートル軽疾舟(上陸用快速船艇)、汲水小船(補給船)の三タイプ

また、南宋型の船は概して大型船が多いが壊れやすく、高麗船は小型だが頑丈な船が多かった。
これは、海洋を想定していない南宋型の旧南宋船に対して、高麗が高麗船を外洋向きの頑丈な作りにしたため。

対して…

日本の武装
長弓、大鎧、日本刀、薙刀

軍船は小型船

双方を比較した場合、弓では日本側の長弓と元の短弓では、射程と威力ともに日本側の長弓が優位。ただし、実戦用の和弓は耐弓性にきわめてすぐれた大鎧を想定して矢じりを重くして威力を上げているため、射程がその分犠牲になっている。
刀では南朝遺臣の鄭思肖が「倭刀はきわめて鋭い」とし、日本征服が難しい理由の一つに日本刀の存在を挙げている。また、クビライに仕えた王惲も元寇を受けて「刀は長くて極めて犀なるものを製り…」と日本刀の切れ味に言及している。

てつはうは使用法が不明。『八幡愚童訓』という宗教書によると、元軍は逃げる時に使用したという。ただし、四キロから十キロもあるてつはうを持ちながら戦うのは不可能。実際のところどのようにしたか不明。

軍船は、元軍の船は渡海用に作られた船に関しては龍骨を備え底が二重底にであるなど、頑丈に作られた大型船にバートルや汲水小船を乗せて使用。
対して、日本側の舟は刳船などを使用したため元軍の舟に比べると性能は落ちたが、小型である分、小回りが利いた。これは壇ノ浦の戦いで小型船中心の源氏が大型船中心の平氏を破ったことからも、必ずしも大型船が有利とは限らない。

それと日本側の一騎打ちなどは俗説にしかすぎず、鎌倉時代の武士が一騎討ち戦法だったという一次史料は存在しない。そもそも、源平合戦自体が鎌倉時代の武士が集団戦法だったことを表す好例。これに関しては、wiki元寇が詳しいので転載。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87# …

節「軍事面」の「集団戦法・一騎打ち」の節を参照
    • good
    • 2
この回答へのお礼

成程ですね。

飛び道具は双方とも弓矢。元軍のみ「てつはう」を使用。
後は、日本刀対鉾。諸刃の剣対薙刀
 

弓矢については、和弓の方が射程距離が長く、威力、精度(腕にもよりますが)があり、日本が有利。
鉾対刀については、日本刀の方が長く、殺傷力が強く、日本が有利。
諸刃の剣対薙刀は良く判りませんが五分五分だったのかな。
ただ、それだけで元軍を押し戻したとは言えないでしょうが、勝因の大きな部分であったと思います。

「てつはう」が炸裂した時は、何が起こったのかと思ったでしょうね。
ただ、仰るように殆ど戦闘を左右するようなものではなかった。

水軍の戦いでは、海流・天候などを把握していた日本が有利に攻撃をしたのかなと思いますね。
全く個人的意見ですが、過去の「白村江の戦い」で惨敗した経験を生かしたのかな、とかも思いました。

系統立ったご回答有難うございました。

お礼日時:2013/11/29 15:06

弓についてだけ。



他の方が書かれているように、日本は長弓、元は短弓でした。これの一番の違いは、威力ではなく命中精度です。
弓道の経験がある人は分かるのですが、長弓は顔の後ろまで引くので、狙いが付けにくく、また放った時にブレて飛ぶ方向が変わることが良くあります。
対して短弓は、顔の前までしか引かないので狙いが付けやすく、またブレにくい。
弓道が的に当たるかどうかなのに対して、アーチェリーが的のどこに当たるかを競うのは、それだけ命中精度が高いためでしょう。

威力は、弓を固くすればどうとでもなります。どちらも人の力で引くのですから、大差ないです。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

なるほど、そういうものなのですか。
弓に限らず、使用目的・使用する環境により姿・形が変わるのは道理ですものね。
長弓・短弓とも一長一短があるということですね。
アーチェリーはオリンピックで見かけますが、顔の後ろまで引いているのは、これまた短弓とは違うものなのかなと思いました。でも、弓は長いですが、矢は和弓より短い感じですよね。

感覚としては、弓に関しては五分五分でしょうか。
武器の差という意味では、鉾と日本刀では日本刀に分があったように思いました。

有難うございました。

お礼日時:2013/12/01 08:34

水軍の戦いですが、主体は夜襲(切り込み)です。



闇に紛れて、近寄って、船内に忍び込み、日本刀で切り刻む。こんな感じだったかと。
特に日本刀は凄まじい威力を発揮したことだろうと思います。
幕末もそうですが、日本刀の真髄は室内や船内など狭い環境で抜群の威力を発揮する武器なのです。

特に日本刀で切り刻まれた死体などは相手に強烈な恐怖心を与えたことでしょう。

再現不可能と言われる鎌倉期の日本刀の切れ味はすごかったでしょうね。


ほかに逸話としては他には、鎧を着たまま泳ぐ日本人はおかしいとかでしょうかw



ちなみに、元寇でさらわれた家族などを助けるためや、復讐のためにはじまったのが倭寇です。
実際に朝鮮で家族を見つけ出して取り戻した幸運な例もあるそうです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

確か、元史(?)に日本刀の恐ろしさの記述があったように思います。
日本征服が困難な理由に日本刀の切れ味の凄まじさの記録だったと思います。
日本はこの頃すでに鉄加工(鍛冶)の技術が優れていたのですね。
以前、テレビで観たのですが、「鉾×盾」だったかな? 日本刀対拳銃弾。日本刀を立てて、それに向け拳銃を
撃ち、日本刀が欠けるか、弾が割れるか・・・日本刀はびくともせず弾が割れたのを記憶しています。

あと、鎧を着て泳ぐ日本人を見ても元軍はびっくりしたことでしょう。

また、9世紀から大陸の海賊に何度も襲われてきた、特に九州沿岸の島々の人たちは復讐のために倭寇となったことも理解できますね。

有難うございました。

お礼日時:2013/12/01 08:15

江南軍は旧南宋軍主力の弱体な軍でクビライが棄兵を目的として


日本に攻め込んだとの俗説がありますが、江南軍の主力は南宋を
滅ぼした主力軍の漢軍と南宋兵のうち選抜化された精鋭たちが主力
であり、棄兵は俗説にしかすぎません。

そもそも、せっかく手に入れた強大な海軍力を無駄に海外に派兵する
ほどクビライは愚かではありません。

棄兵が全くのデタラメな俗説であることは、以下の論文を読んで
頂ければ良いと思います。

http://www.docin.com/touch/detail.do?id=64847678
    • good
    • 0
この回答へのお礼

元軍の武器を教えていただきたかったのですが・・・。

文永・弘安の元寇でしたが、結果的に元軍の海軍戦力の3分の2以上が失われ、残った軍船も、相当数が破損された。とありますね。(wiki引用)

戦術の面で言うなれば、日本の高麗での情報収集力、本土防衛に対する危機感がモンゴル大帝を追い返したと言えるのではないでしょうか。

クビライは、たかが東の小さな島国と思っていたと思います。
弘安では、4,400隻の艦隊と150,000の軍勢を送れば1日、2日で決着がつくくらいに思っていたのかも知れません。

ご教授いただいたURLはうまく開けませんでした。

ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/29 22:33

>元軍の中には支配下の南宋の兵がかなり多くいて鋤、鍬を持っていたとも書いてありましたが。



最近の研究にて弘安の役の時の江南軍10万人は戦闘員ではなく、南宋降伏後に持てあました旧南宋軍の人間を強制的に日本に移民させる為のものだったのではないか、とする学説が出ています。
つまり鋤や鍬は戦闘の為では無く、日本攻略後に農作業させるためのものです。
また江南軍の状況ですが、彼等の殆どは海に慣れた人間では無く、当時の暗くじめじめした船倉に一週間以上すし詰めにされて揺らされ続けたわけで、まともに戦闘の出来る人間は殆どいなかったと思われます。
このことから江南軍は「元にとっての不穏分子の捨て場所」として日本遠征に送られたのでは無いかとも見られています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

当時の武器のことを知りたかったのですが・・・

モンゴル(元)軍の兵隊や南宋の兵隊にしろ、何日も船で移動するといった経験がなかったこと、馬もたくさん積んでいたでしょうし、一艘あたり何人、何頭乗っていたんでしょうね。 

文永の役では、疲れていざ上陸部隊が九州沿岸に上陸したら、日本軍の思わぬ反撃に会い、一旦船に戻る。
その晩に多分低気圧の通過といわれていますが、かなりの船が損害を受けて国に帰る。

弘安の役では、元軍 戦艦4、400隻 150,000の軍勢。 この艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であったと記録されています。
当時のモンゴル大帝の勢いは感じますが。

回答者様が仰るとおり、東路軍が中国出航から3か月、博多湾に侵入してから2か月、大陸を駆け回っていた人達が船の中に2、3か月も閉じ込められたら・・・ほとんどの兵はげっそりしてたでしょう。
しかも、この時期、九州沿岸に2か月もいれば台風の一つや2つ来ますわな。

クビライ(或いは側近)は日本が即降伏し、まず農業を抑えようとした、と考えるのもありかな。
日本ごときはすぐ言いなりになると。

お礼日時:2013/11/29 22:10

”日本の歴史において、他国の軍隊から2度日本列島に上陸されています。


1度目は鎌倉時代の元寇、2度目は第二次世界大戦でのアメリカ侵攻。”
    ↑
そのほかに、
刀伊の入寇(1019年)が有名です。
小さいのを含めると、かなりありますよ。
例えば、
869年~870年(貞観の韓寇)
878年~879年(元慶の乱)
893年~894年(寛平の韓寇)
等々です。


”白兵戦での双方の武器はどんなものだったんでしょう”
    ↑
弓、刀槍、ですね。
モンゴル兵はテツハウという武器を持っていました。

モンゴル軍の戦法は、日本の武士とは大きく違っていました。
日本のように一対一で名乗りあって戦うのではなく、
銅鑼や鐘の合図に合わせて整然と集団で戦うのです。
武器の弓矢は小型で接近戦に適し、また毒矢も使いました。
さらに「てつはう」という火薬を使った飛び道具は日本側を驚かせました。

”この当時の水軍の武器・武装はなんだたのでしょう”
     ↑
小舟によるゲリラ的戦術が中心だったと言われて
いますので、弓と、あとは乗り込んでの白兵戦だった
と思われます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

日本がそんなに襲われていたのは知りませんでした。
調べてみましたが、軍というより、賊のようですね。
賊は新羅、高麗、モンゴル系賊のようで、流石に日本と交流の深かった百済はなかったようです。
それにしても9世紀~11世紀の間に数十回も襲われていたたとは。
しかも被害を受けたのはほとんどが九州沿岸でした。

話は武器とは違いますが、逆にこの頃の日本も朝鮮半島や中国で賊をしていたのでしょうか。
「倭寇」はもう少し後13、4世紀頃ですものね。

元寇時の元軍の武器は「てつはう」以外は日本とあまり変わらないようですね。
宗や金に勝ったモンゴル帝国だからもっと近代的な武器を使用していたと思ったのですが。

元々水軍(海軍)を持っていなかったモンゴルだから、(持っていたのかな?)せいぜい船上から矢を放ったり、横付けして乗り込んでの白兵戦だったのですね。

勉強になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2013/11/29 13:29

>日本軍は大体戦国時代を想像すればよいでしょうが、特に元軍の武器はなんだったんでしょうか。


日本軍は、戦国時代よりも源平合戦絵巻の方がより近いものです。
戦国時代には足軽という軽装備の歩兵が活躍しましたが、元寇のころは居ませんでした。
有名な蒙古襲来図の主人公の従者もあくまでも主人の護衛が責務でした。
鎧も大鎧と呼ばれる装飾が主体のもので、戦国時代には使われませんでした。
戦国時代は実用本位のデザインです。

弓は日本は和弓と呼ばれる長いデザインで静止した状態で使われました。
元軍は元々蒙古草原での騎馬戦が主体ですら携行に便利な短いデザインで動きながら発射します。
装備も騎馬戦用の胡服と呼ばれる軽装で機動性にすぐれたものでした。
水上戦などというものは騎馬民族の眼中にも意識にもありません。
あくまでも地上戦の延長です。
特別な武器はありません。弓、刀、槍、薙刀などでデザインがお互いに違うだけです。
急ごしらえの当時の船の積載能力では重い攻城用の武器を携行する訳にはいきません。

日本軍は名乗りという習慣があって、戦闘開始前に、最前列に出て来て何の何兵衛とかなんとか名乗るのが作法でした。
元軍はそんなものはお構いなしに、ノコノコ出てくれば片端から集団で弓を射かけました。
これで日本軍は大混乱となりました。

鉄砲は別の回答者さんが説明されておられるように所謂火縄銃のような銃ではありません。
シーソーのような形をした装置の片側に、黒色火薬の詰まった、今の花火の玉のようなものの導火線に火をつけてシーソーの板を勢いよく跳ね上げることでこの玉を相手に放り込みます。
これが「てつほう」と呼ばれる炸裂弾です。
これには、日本軍は度胆を抜かれました。

元軍は騎馬軍団ですから、船は高麗に用意させ航海も高麗人にやらせました。
南宋(漢人)を元(蒙古人)が完全に平定するのは元寇の後です。
蒙古人の軍に戦争中の漢人が援軍として参戦することはありません
せいぜい荷役人夫として無理矢理駆り集めた農民がいた程度でしょう。
どこの軍が兵に鋤だの鍬を持たせるとお考えですか。

戦闘はひたすら相手に接近して白兵戦を行います。
長い棒の先に鉤型の金具がついたものでお互いの船を固定し合います。
あくまでも陸上戦の延長です。
カリブ海の大型の洋式帆船どうしの海戦とは全く様子が違います。

船の扱いは日本の船頭のほうが慣れていたので、機動性は高かったです。
肝心の武家が揺れる船の上での戦闘になれていませんでした。
実際に白兵戦をやる人間どうしは五分五分でした。
船頭どうしの腕の差があったということです。
松浦水軍と言っても瀬戸内海の海賊です。
海上戦は90年前の壇ノ浦で終わりです。

上陸されたと言っても、第二次世界御大戦のときのような敵前上陸という代物ではありません。
日本軍の手薄なところに、一部の軍船が座礁する形で接岸して兵が飛び降りて陸上で白兵戦を繰り広げただけです。
これを数か所でやられて日本軍はあわてました。

そうこうしているうちにお互いに埒が明かないままに日が暮れて、夜中に暴風雨が来て朝海に出てみたら元軍の船が消えていたという経緯です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

日本の武士は大鎧でごつかったでしょうね。矢を跳ね返す程?。
元兵は薄く機動性のある服だから、矢や日本刀では一撃だったことでしょう。

和弓は元弓より射程も長く威力があったということでしょうね。
元弓は騎馬戦用に短く扱い易いようなもの、というのは近接戦用で、変な例ですが、現代のライフル銃が和弓でカービン銃が元弓みたいな感じですね。

火器としての「てつはう」には驚いたことでしょう。それまで日本人は火薬を知りませんでしたものね。
ただ、中央アジア等の大草原で何十台、何百台の投石器で使うには威力があったでしょうが、狭い日本ではあまり効果
があったとは想像できません。

九州の松浦水軍は瀬戸内海の渡辺水軍の一族だったようです。仰るとおり、元々海賊(倭寇)だったから、天候、海流の知識や操船術も日本の水軍が一枚上手だった。ということですね。
水軍どおしで船に乗り込み合い、船上で白兵戦ですか。そういえば海賊映画でもそんな感じでしたね。

詳しい情報をありがとうございました。

お礼日時:2013/11/29 11:13

元の武器はてつはう


火薬球を矢で射抜いて爆発させる武器で これを改良したのがのちの鉄砲です

日本は陸上では弓矢と刀です
当時は鉄砲も長槍もありませんので

水軍は火炎瓶や投石
あるいは水銃(水鉄砲)でしょう



ちなみに元寇って実は無かったって知ってました?
モンゴルは日本に攻めてきて無いんですよね…
    • good
    • 0
この回答へのお礼

有難うございます。

>ちなみに元寇って実は無かったって知ってました?
 モンゴルは日本に攻めてきて無いんですよね…

またまたご冗談を。

お礼日時:2013/11/29 10:24

 元寇時はてつはうが使用されました。


文永11年(1274)、九州の博多湾に来襲した元軍は震天雷(しんてんらい)という破裂弾を使用していました。
昔は鉄砲が使われ、その時の印象がこのような絵になったと教科書にも載っていましたが、今では「てつはう」は陶器製の破裂弾であることが確認されています。
▲「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)
 後に加筆されているようなのですが、「てつはう」の記述としては最も有名です。
元寇の際の震天雷が海中より発掘されています。

詳しくは下のホームページを見て下さい。

http://www.geocities.jp/shimizuke1955/370hinawaj …

ご参考になれば幸いです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「てつはう」とは初めて知りました。
調べてみました。ウィキ「元寇」の最後の方にもありました。見過ごしていました。
直径平均15cm、重さ4kgの炸裂弾。ちょうど女子砲丸投げの重さと一緒ですよ。大きさは2回り大きい。
女子砲丸投げの世界記録をみても22mです。
これを日本の武士軍団にどうやって使ったのでしょうかね。
投げるにしても、50m先から一斉に弓を打たれたら投げるどころではないと思いますし、投石器を使うとなれば連射はできないから、武士軍団が一斉に投石器に突っ込んだらアウトでしょうし。

元軍はやはり、大陸の大草原で10万の兵で戦うのと、船で海を渡り限られた兵装で戦うのでは、無理があったのでしょうね。それと、日本の武士軍団や水軍を甘くみていたのか。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/28 16:41

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!