全ては座興という事で御容赦願いしたいが、秀吉の死後半年を出ずして、家康もまたあの世に旅立ったとします。
何しろこの時代、後の徳川幕藩・官僚体制とは異なり、一人の英雄の死で、如何様にも歴史が変わる可能性がある訳で、信玄に於ける武田家・信長に於ける織田家他、例を挙げればそれはもう枚挙に暇がない。
さてその後数十年程度のスパンでは、我が国の歴史はどうなったと予想されるでしょうか?
最終的な覇権は一体誰の手に?、関ヶ原と類似の天下分け目の戦いは?、豊臣家・徳川家の行く末は?等々、皆様の御存念が有りましたら、希望的観測或いは偏見に満ちた回答でも宜しいので、是非御聞かせ願いたいと存じます。
(以下、私が考える一例)
家康の勢威に渋々従っていた野心の塊伊達政宗が、ここぞとばかりに不倶戴天の敵上杉・佐竹と同盟を結び、関東への・ひいては中原争覇への道筋を付ける。
何しろ正宗は、ほぼ天下統一を成し遂げた秀吉の治世下に於いてすら、内々で反乱を企てた武将、家康亡き徳川家にさほど拘泥するとは、恐らく考えられない。
加えて三者合算の石高は二百数十万石を越え、ゆうに関東平野で徳川と決戦し得る勢力となる為、あながち荒唐無稽な仮定ではないでしょう。
一方西に於いては、豊臣家の奉行派と武断派の争いが激化、そこに毛利・宇喜多・前田他の諸将が加わり、それはもう応仁の乱の如き状態に陥る。
そして勝ち残った東・西の勝者に依り、小関ヶ原の如き最終決戦が為され、一事的な天下統一が実現。
・・と、まあこういった感じですが・・。
No.9ベストアンサー
- 回答日時:
>秀吉の死後半年を出ずして、家康もまたあの世に旅立ったとします。
●回答・・・とすると、
1598年8月に豊臣秀吉が亡くなり、
1599年2月に徳川家康が亡くなり、
1599年3月に前田利家が亡くなりますね。
そうなると豊臣秀吉が身罷って約7ヵ月後には五大老のうち2人が代替わりするわけですが、その五大老は、
毛利輝元、46歳(120万石)
上杉景勝、44歳(120万石)
宇喜多秀家、27歳(58万石)
前田利長、37歳(84万石)
徳川秀忠、20歳(256万石)
なわけで、石高は徳川家が一番とは言えど、治世と戦の経験の少なさ故に、五大老筆頭は年齢が一番上で、朝鮮の役でも大将を務めた経験のある毛利輝元になるのではないかと。
毛利輝元の性格からして徳川家康のような専横に走る事なく、他の四大老、五奉行とよく協議して豊臣政権を支えていくのではないかと思います。それゆえに上杉、宇喜多、前田も協力的なのではないかと。
また徳川秀忠もその性格からして家康とは違い、野心を顕わにする事なく、豊臣政権に協力し、豊臣家との約束通り、後の千姫と秀頼の婚姻を滞りなく挙げる事を考えるかと。
これには秀忠が頭の上がらない正室、お江の方と、豊臣方の淀君が姉妹である事もあり、この面では豊臣、徳川の関係は家康よりもはるかに良い関係になるかと。
文治派と武断派の対立は史実通り、前田利家が亡くなれば噴出するでしょうが、五大老が足並みを揃えて調停役になれば、大きな事にはならず、やはり石田三成の蟄居程度で収まるのではないかと思います。
史実で石田三成を討とうとした武断派七武将は、全員合わせても約120万石に過ぎません。しかもその領地は、九州、尾張、甲斐、伊予、三河、丹後とバラバラです。五大老がその面目にかけて調停すれば、武断派とてそうそう無理はしないでしょう。
ただ、問題は徳川家の内部ではないかと。
家康が存命の時でさえ、徳川家内部には大久保VS本多という深刻な重臣同士の対立をはじめとする勢力争いがあり、重臣が複数、失脚しています。
二十歳という何事にも経験不足の秀忠への影響力を巡って、重臣同士の激しい権力闘争が起きる事が予想されます。
それが酷くなればお家騒動に発展し、秀忠に重んじられない者の中には結城秀康を担ごうとする者さえ出てくるやもしれません。
これは他の四大老や奉行にとって徳川家の力を削ぐ良い機会と思われるかもしれません。
豊臣政権では、重臣達の争いや、お家騒動を理由に大名達を減封にしその力を削いできた歴史があります。
蒲生秀行などは92万石を18万石にされ、丹羽長重などは123万石が4万石にまで減封されました。
主君の豊臣家は別にして256万石という別格の大領でNO2の座にいる徳川家は、他の大老、奉行、大名達からすれば目の上の瘤とも言えましょう。
もし、徳川家でお家騒動ともなれば、治政不行き届きを大義名分に、四大老と奉行達が結託して、徳川家の勢力を削ぐため大幅な減封を命じる可能性もあるのではないかと。
百戦錬磨の家康ならともかく、青二才の秀忠でお家騒動中ならば、戦の危険を冒しても、厳罰を命じるかと思います。
徳川家がおとなしく減封を受け入れれば、戦は起こらず、徳川の力が大きく削がれた事から、大老の力関係はどんぐりの背比べみたいになり、その後の治世は平穏なまま豊臣の時代が続くかもしれません。
徳川家が減封を受け入れず戦となった場合でも、四大老、奉行が結託し、率先して兵を率いて大名達に戦を命じれば、徳川に味方する者は多くなく徳川家は後北条のように滅びるかもしれません。
ただし、この戦を利用しようとする大名は出るかもしれません。
例えば伊達政宗などは旧領が上杉領になっているので、上杉軍が徳川征討に兵を派遣しているところを狙い、旧領で一揆を扇動したりするかもしれません。
ただし、それを行えば伊達も終わりかもしれません。
伊達政宗が若き野心家なのは分かっていますから、上杉景勝と直江兼続も油断はしていないでしょうし、それを逆に狙うかもしれません。伊達政宗が一揆を扇動したり、何かしら不穏な動きをすれば、すぐさま他の大老、奉行に諮り、伊達征討に出るのではないかと。
そもそも伊達政宗のような野心家が隣の領地にいては、いつ寝首をかかれるか安心できません。
上杉としては伊達を潰す機会を逃すような事はしないでしょう。
伊達は58万石で上杉は120万石ですから上杉が圧倒的に兵力が上です。それに豊臣政権からの命令として伊達征討ができるなら、他の東北大名、常陸の大名を動員すれば余裕でしょうし、伊達に味方する大名はいないでしょう。伊達に領地を接しているのは上杉以外では南部、最上、小野寺、相馬と、あまり仲の良い大名というか仇敵が多いですから。
勝ち目があるなら喜んで伊達と戦うでしょう。
さらに上杉について言えば、最上義光と小野寺義道の領地争いについて、豊臣政権の下に介入し、最上の勢力を大きく減ずる事ができれば、もはや上杉家には東北に脅威となる大名はおらず、いつの日か京や大阪で何かあった場合でも背後を気にする事なく、それどころか東北勢をまとめあげて北方の雄として、天下に進軍する事も可能になるかと。
いつの日か天下が再び乱れ再度、天下が統一された時、上杉が天下を握っている事があるやもしれません。
ともかく、家康が亡くなったとしても基本的には大老・奉行を中心にした合議制の豊臣の世が続いていくかと思います。
お礼が遅くなり申し訳ありません、回答ありがとうございます。
ざっと一読させて頂きましたが、毛利輝元の件・豊臣家内紛の顛末・徳川の処し方・伊達/上杉の在り様他、前後の整合性も取れ、皆様から頂戴した回答を統べた感のある恐らく最も無理の無い予測、そして御回答かと思います。
御回答を頂いた皆様そうなのですが、何れにしましても戦国乱世の歴史を良く御存知であり、バランス感覚にも富んでおられる、感心しました。
No.8
- 回答日時:
史実から考えると、野心家で実力があってこの二人が消えてまず動き出すのは、黒田官兵衛かと思います。
関ヶ原で不穏な動きをしたことは史実。なので、家康亡き戦国で、自分よりも達者な武将はいないと踏んだはず。そうなると九州動乱。おそらく島津・毛利とは競り合うとこう着するので、ある程度の勢力を作った段階で同盟することになるでしょう。
東北関東では徳川の勢力が強いですが、家康後に天下を狙うことはないでしょう。家康ですら秀吉存命後の情勢の変化の中で勝ち取ったものなので、秀吉死後半年ないのであれば、天下を取りにはいけません。
豊臣内では、朝鮮出兵後に体制内でのぶつかり合いで、内部分裂して、結局明確な支配体制のないままそれぞれ統治するという形がしばらく続くことになります。
現実問題として、兵農分離や政教分離を成し遂げた信長以外に日本を統一しようという動きは見られませんし、天皇から位階をもらって喜ぶ武士層ですから、しばらくは良く言えば群雄割拠の時代。悪く言えば突出した英雄のない時代が続くと思われます。
正宗贔屓が見受けられますが、東北を統べる程度でしょう。
日本を統一するというのは、今の我々が見ると当たり前のようですが、当時は武田はじめ、信長以外だれも本気で取りかかろうとはしていない事業です。特に国司上がりの守護大名たちはそんな思いは抱いている気配がみじんもないので、佐竹、上杉、武田などの名家では、お家大事で、まったくその動きはとらないでしょう。
もしかすると、ヨーロッパが本気で植民地化の動きを取ってきたときは、連合して対抗するかもしれませんが、次の英雄を待つことになるでしょうね。
回答ありがとうございます。
>史実から考えると、野心家で実力があってこの二人が消えてまず動き出すのは、黒田官兵衛かと思います。
う~ん、関東以北に目が行き過ぎ、肝心要のこの人を忘れておりましたが、確かに秀吉・家康亡き後の天下は、黒田官兵衛を置いては語れない。
関ヶ原ですらあわよくばとの動きを見せましたから、家康亡き後の天下騒乱には、必ずしや何等かの能動的な行動に出た事でしょう。
しかも天下というキャンパスに絵を描く才能では、あの時代彼以上の人物は恐らく見当たらない、欲得ずくの大名を糾合して、或いは一大勢力になったかも知れません。
何しろ毛利一族・宇喜多辺りとは元々そう浅くない関係ですから、豊臣家の摂政の地位をちらつかせて、人の良い輝元・秀家を抱き込み、島津の押さえに加藤清正を配置して、数万を超える大軍で山陽道を遡れば、天下分け目の一方の旗頭には成り得たはずです。
但し一方に於いて、黒田官兵衛はより仕事師としての一面が強い、つまり自分の能力さえ満天下に示せればそれでよしとする、権力・富貴に対し意外に淡白な一面をも併せ持ちますからどうでしょう。
>正宗贔屓が見受けられますが、東北を統べる程度でしょう。
すみません、好きなものですから・・。
まあそうでしょうね、恐らく彼の力量はその程度、但しその野心は並大抵ではなかった、それが正宗の魅力です。
No.7
- 回答日時:
御礼ありがとうございます
しかし秀吉亡き後の天下の実力者は徳川家康か前田利家なのです
家康は「太閤殿下は逝かれた…しかし加賀殿は健在…今天下でわしに抗えるのは加賀大納言を於いて他にない」と自ら認めています
再度の回答を賜りまして、誠にありがとうございます。
>家康は「太閤殿下は逝かれた…しかし加賀殿は健在…今天下でわしに抗えるのは加賀大納言を於いて他にない」と自ら認めています
この辺りは見解の相違、客観的評価の違いでして、各自の判断基準で宜しいかと思います。
確か蒲生氏郷辺りは、秀吉亡き後仮に徳川と前田が争えば、躊躇無く利家に馳走仕ると言っておりますが、彼の場合は部類の家康嫌いでしたから、割り引いて考える必要があろうかと・・。
何しろ私の目に映る加賀大納言は、余りにお人が宜しい。
衆望は集まるかも知れませんが、天下の騒乱を損得・強弱のみで考える大多数の大名を惹きつける求心力に欠ける、そう考えます。
No.6
- 回答日時:
こんにちは。
面白い質問をされますね・・・。
今ほど、皆さんの回答を眺めていて皆さんご尤も!
殊にNO1、2の方が現実的なシナリオなのかなとも思います。
質問と回答ですから、少し私の思うところを・・・
前田利家が秀頼を抱えて後見を務める、おそらくそうなるのでしょう。
利家なり高台院の目の黒いうちはそうでしょうね。
ただ、利家が目を瞑った後はさすがに予測も難しそうです。
加藤、福島を始めとする武断派と三成の文治派、
この対立はもう火をみるより明らかです・・・。
ただそれでこの両者が武力に訴えて戦いになるか?
これは私はいささか疑問です。
豊臣家大事と言うことで穏やかに収束され、豊臣幕藩体制が出来上がる!
そう思いますが、どうでしょう?
政宗が兵を挙げる?!
また乱暴なことを・・・(笑)
小説にすればさぞ面白い読み物になるのでしょうけど。
まあ、isokenさんは承知のうえで仰っているのでしょうが・・・
まず政宗が兵を挙げる大義名分がありませんものね。
不承不承にしても世間が納得する大義名分がなければ、
明智光秀の二の舞でしょうし。
今、映画「清洲会議」が公開されているようですが、
秀吉、家康、共に苦労だなと思うくらいに段取りを踏んでいます。
以降は楽しいので私も少し妄想を・・・(笑)
私も上杉、佐竹と手を組むでしょうね。
どなたかが前田慶次郎の一件で難しいと言われたが、
上杉家の命運と武将一人を秤にかけるほど景勝も馬鹿ではないでしょう。
あなたは反対のようですが、
私なら徳川とも手を結ぶ・・・家康が半年後でしたら、
忠輝、五郎八姫の婚儀はまだでしょうか?
それなら少し厄介かも知れませんが・・・。
当然、徳川も忠勝、康政の武断派と正信、正純の文治派の軋轢、
これは当然あるはずです。
秀康ならいざ知らず凡庸な秀忠、
手を入れるのはさほどに難しくもない、どうでしょう?
これもどなたか兵站補給の不安を言っておられますが、
私なら心配しません!
それを言えば源平の昔に遡って範頼、景時、後発義経・・・・
当時、京都朝廷には補給能力はありませんから、
極端な話、鎌倉から屋島、壇ノ浦・・・
兵站が伸びると言ってこれほどに伸びています。
まあ、意見も分かれるところでしょうけど。
乾坤一擲、政宗の天下とり、見てみたかったですね。(笑)
長くなりました、少し雑談をして終わりにしましょう。
CSの時代劇専門チャンネルで「独眼竜政宗」を放映しております。
28万8000円とお聞きして、
有り難味が出て20話頃から録画もしております。
そのうち焼き付けてネット通販で小商いでもしようかと・・・
私も考えることがいじましい。(笑)
こんにちは、回答ありがとうございます。
>豊臣家大事と言うことで穏やかに収束され、豊臣幕藩体制が出来上がる!
>そう思いますが、どうでしょう?
秀吉に続く家康の死は、豊臣政権の強化に繋がる、私もそう思います。
徳川の勢威はやはり家康あってのもの、秀忠では広大な徳川領の現状維持が精一杯であったでしょう。
上杉・佐竹・東海道に連なった豊臣恩顧の大名群はもとより、伊達政宗・最上義光辺りも、家康亡き後の徳川に、そう易々と尻尾を振るとは思えず、最悪のシナリオは四面楚歌。
その際豊臣家に強力な執権職おれば、場合に依っては国替え・減俸も有り得るかなと考えます。
一方に於いて前田利家の死後、武断派と文治派の争いはのっぴきならないところまで来ておりましたから、その争いに油を注いだ家康がいなくても、行き着くところまで行ったのではないでしょうか?
加藤清正・福島正則辺りに、さして思慮があるとも思えませんし・・。
>政宗が兵を挙げる?!
>また乱暴なことを・・・(笑)
まあ多少乱暴な仮定ではありましたが、秀吉・家康亡き後天下広しといえども、正直彼の野心を抑えきれる人物が見当たらない。
・・とすれば、徳川と組むよりも、むしろ上杉・佐竹と組んで、関東に打って出る選択肢を志向する、正宗ならばそう考えるかなと勝手に考えた次第です。
尚豊臣に仇為す徳川征伐、という名分では弱いでしょうか?
>あなたは反対のようですが、
>私なら徳川とも手を結ぶ・・・家康が半年後でしたら、
>忠輝、五郎八姫の婚儀はまだでしょうか?
ああ、その点は見過ごしておりました。
但し徳川・伊達の縁組は関ヶ原後です。
当時徳川の世がほぼ定まりかけておりましたから、忠輝を後押ししあわよくば家康の後釜に据えて、徳川政権下での影響力を保持するという狙いがあったのでしょう。
・・とすれば、家康亡き後の徳川の公達と縁組をしたか否か、恐らく微妙であったかと・・。
それともう一点、徳川・伊達・上杉・佐竹の連携は恐らく不可能だったでしょう、正宗にすれば徳川に付くか、上杉・佐竹と組むか、究極の選択になったと思われます。
>当然、徳川も忠勝、康政の武断派と正信、正純の文治派の軋轢、
>これは当然あるはずです。
>秀康ならいざ知らず凡庸な秀忠、
>手を入れるのはさほどに難しくもない、どうでしょう?
一方に於いて徳川内部の対立、そしてそれを取っ掛かりに徳川家そのものを自家薬籠中の物ものにする方法論、正直申してそこまでは考えが及びませんでしたが、確かにその可能性も無いとは言えません。
>乾坤一擲、政宗の天下とり、見てみたかったですね。(笑)
まあ或る種の妄想・座興のようなものでして、私自身がその可能性の低さを充分に理解しております。
ただ歴史の if を夢想するのは本当に楽しい、白川の関を越えた本邦初の武家政権・伊達幕府の誕生を、後世の歴史で習って見たかった気もしますね。
>そのうち焼き付けてネット通販で小商いでもしようかと・・・
>私も考えることがいじましい。(笑)
一万円ぐらいなら買うかも、私もいじましいお仲間です。
No.5
- 回答日時:
私も秀吉家康が前田利家よりさきに死ぬとなると、利家が強烈に豊臣政権を引っ張る立場になると思います。
ただしその後の利久が野心が無い人物でしたので、前田家が代々豊臣家筆頭の重鎮としてそのまま豊臣政権内で権勢をふるうと思います。
回答ありがとうございます。
>私も秀吉家康が前田利家よりさきに死ぬとなると、利家が強烈に豊臣政権を引っ張る立場になると思います。
残念ながら利家も早くに亡くなってしまいました、なお存命しておれば、仰る通りの働きをしたと思います。
但し彼の場合、天下取りの能力も無ければその野心も無かった、つまり豊臣恩顧の大名を取り纏めるのが精々で、例えば家康の寿命が、後の天下の在り方に大きな影響を与えた例とは異なり、さほど大きな歴史的エポック・メイキングにはならなかったのかなあ、そう考える次第。
No.4
- 回答日時:
「歴史にIFはない」とはいいますが、状況としては可能性はあり得た話だと思います。
家康もジイサンでしたから、いつころっと逝ってもおかしくはなかったです。で、どうなっていたかですが、やはり近畿周辺にいた人のほうが状況的には有利だったでしょうね。そうなると、前田利長がキーマンになったかなあという気がします。父利家が晩年露骨に反家康の立場をとって、その後を任されるという難しい立場でいながら結局加賀百万石を維持したわけですから、その政治力は極めて評価されてよいと思います。
他には、黒田長政、立花宗茂なんかがキーとなる人物になるでしょうね。家康もそうですが、天下を取る人というのは結局自分が天下を取れる立場にならない限りは野心を露骨にするようなことはありません。あの信長でさえ、自分の立場が盤石になるまでは足利義昭に頭を下げていたわけですからね。だから、もしそうなったときに頭角を現すのは「えっ、その人なの?」っていうような人物だったのではないかと思います。
そういう意味では伊達政宗は(個人的には好きな武将ですが)ポカが多くて天下をとれる器ではなかったかもしれません。スキャンダルで潰れる政治家みたいなもんじゃないかな。
また、当時は信長から秀吉にかけて天下が統一され、平和になり、なによりそれによって経済力が飛躍的に伸びました。平和になることで流通が安定して商業が活発になり、生産力が伸びたのですね。つまり、人々は「統一政権が誕生することで生活は平和で豊かになった」ことを実感していたと思うので、今さら乱世に逆戻りすることは望まなかったと思います。高度成長期の日本で外国に攻めようという人はほとんどいなかったのと同じです。だから「この際誰が天下人でもいいから、平和で安定した世の中にして欲しい」と願っていたはずなので、結局誰かの元に収束していったのではないかと思います。そういう意味で「歴史にIFはない」のは、「歴史のベクトルが乱世の終わりを告げていた」ということではないでしょうか。現代のアフガニスタンなんかもそうですが、平和ではない国では経済は絶対成長しないんですね。周辺のナントカスタンという国々は戦争がないので確実に経済成長をしているのと比べれば明らかでしょう?
あと、人様のお説にけちをつけるのはルール違反ですが、当時の東北の軍隊はまだ兵站に問題があって遠隔地に大軍の補給線を維持できるだけの兵站組織を持っていなかったんですね。関ヶ原のとき、上杉軍は家康の背後を撃たずに、山形へ攻め込みましたよね。郡山に出て宇都宮方面に進出した方が家康は立場が難しくなるのに。あれは、上杉軍の兵站能力がそれだけの能力を持っていなかったからです。
だから、仮に伊達政宗が佐竹や上杉と和睦して背後や側面を撃たれる心配がなかったとしても、当時の伊達軍の兵站能力からするとせいぜい数千の兵力を関東に出すのが精一杯だったと思います。なぜ無理なのかというと、兵站に陸路しか使えないからです。陸路しか使えない兵站はすごく不利なんです。大阪~京都や瀬戸内、中京~静岡は船を使えるから大軍を維持できるんです。
私はミリタリーマニアだったものですから、いろいろと妄想も楽しみましたが、いろいろ勉強しますとね、結局軍隊というのはお金がないと動けないし、兵站という鎖に縛られるものなんですよ。世のミリタリーマニアはまったくこの点に関して無関心なんですけど。
結局、戦争というものは経済(カネ)が主で、ミリタリーは従にしか過ぎないんですよね。
回答ありがとうございます。
>前田利長がキーマンになったかなあという気がします。父利家が晩年露骨に反家康の立場をとって、そ>の後を任されるという難しい立場でいながら結局加賀百万石を維持したわけですから、その政治力は極>めて評価されてよいと思います。
全く同感、世上利家を評価される方は少なくないが、私としましては親父殿よりもむしろ利長の方を高く買います。
何しろ利家亡き後、家康は躍起になって前田家を潰そうと種々画策し、言い掛かりとしか思えない無理難題を押し付けましたが、或る意味その意図を挫いた訳で、その能力が主として自家の存続というマイナス方向へ発揮された為、後世の評価は今一つだが、時と所さえ得れば、或いは天下人の器量ではなかったか、そう考える次第。
>そういう意味では伊達政宗は(個人的には好きな武将ですが)ポカが多くて天下をとれる器ではなかったかもしれません。スキャンダルで潰れる政治家みたいなもんじゃないかな。
ああ面白い見方ですね、一発があるが三振も多い、例えて言えば穴が大きい長距離砲みたいなものでしょうか。
>人様のお説にけちをつけるのはルール違反ですが、
全く構いませんよ、貴説はけちでも何でもない、真摯な御意見と了解しております。
まあ私としましても、家康の死後、相当な好環境下に恵まれたとしても、伊達政宗が天下を取るとは正直思っていない、全てはロマンの世界。
但し徳川領を喰う程度の画策はしたでしょう、あの人の事ですから・・。
>陸路しか使えない兵站はすごく不利なんです。大阪~京都や瀬戸内、中京~静岡は船を使えるから大軍>を維持できるんです。
なるほど、仰る通りかも知れません。
No.3
- 回答日時:
普通に考えたら、そのまま、秀頼成人前は、五大老・五奉行(後継者含む)の集団指導体制、その後は、秀頼を中心とした政治体制になる可能性が最も高いと思いますけど。
ようは、豊臣の天下が定まるということです。豊臣体制はそれなりに強力(安定している)ですし、豊臣体制でいることにメリットを感じている大名も多い(せっかく豊臣体制下で大名になっているのに、少なくとも史実の関ヶ原のように、自分の全人生と家の運命がかけた究極の選択を迫らるのはイヤというのが本音)でしょうから、その現状を変えるには相当の力量が必要だと思います。それこそ、豊臣体制内での最重要な地位(五大老筆頭)にあり、200万石の領地を持ち、中央での戦経験も申し分ない、という家康だからこそできたと思います。
伊達政宗は、秀吉に警戒されたからか、所詮、豊臣体制の中では中央の役職についていない田舎大名ですからね。伊達政宗が天下をとろうと思ったら、豊臣体制を根本から全てひっくり返さなければいけません。
実際、家康でさえ、豊臣体制を外部からひっくり返したわけではありませんからね。
回答ありがとうございます。
>普通に考えたら、そのまま、秀頼成人前は、五大老・五奉行(後継者含む)の集団指導体制、その後
>は、秀頼を中心とした政治体制になる可能性が最も高いと思いますけど。ようは、豊臣の天下が定まる>ということです。
秀吉に次ぐ実力者家康の死、加えて残された者がどんぐりの背比べとなれば、提示されたシナリオが、恐らく最も合理的な推論であると思います。
ただ無責任な傍観者・歴史の検証者としましては、正直もう一捻り・一波乱欲しい、関ヶ原とは違った形での天下分け目の戦いがあったならば・・、そんな気がするのも正直なところ。
>豊臣体制はそれなりに強力(安定している)ですし、豊臣体制でいることにメリットを感じている大名>も多い(せっかく豊臣体制下で大名になっているのに、少なくとも史実の関ヶ原のように、自分の全人>生と家の運命がかけた究極の選択を迫らるのはイヤというのが本音)でしょうから、
豊臣体制の在り方に関しては、正直懐疑的ですが、既に大名家である身で、 all or nothing / 天下分け目の関ヶ原を、一部を除く大名が望まなかったというのは確かにその通りでしょう。
>伊達政宗は、秀吉に警戒されたからか、所詮、豊臣体制の中では中央の役職についていない田舎大名で>すからね。伊達政宗が天下をとろうと思ったら、豊臣体制を根本から全てひっくり返さなければいけま>せん。
ほぼ固まっていた既成の体制・勢力を薙ぎ倒し或いは同盟して、伊達正宗が中原に兵を進めるのは確かに難しい、むしろほぼ不可能と断言していいほどですが、家康亡き後のカオスで、我々が考える以上に彼が図抜けた器量の持ち主であったならば・・、そう夢想してしまいます。
No.2
- 回答日時:
前田利家でしょう
秀吉と家康が同時期に死んでいて かつ前田利家が生きながらえていたなら
間違いなく…
しかし利家に天下統一の野心はありませんので恐らく秀頼を抱いて代わりに豊臣軍を指揮して戦ったでしょう
懸念は東の伊達と西の島津です
伊達が上杉を誘っても同調は無いでしょう
前田利家と伊達政宗の天下決戦にもしなったなら上杉はそのよしみから前田についたはずです(慶次郎の件があるので)
何しろ直江兼続が居ます 彼は政宗の野心を知っています
大阪に秀頼が健在である限り上杉を伊達に加担させる事はさせないはずです
佐竹・真田らの勢力も豊臣加担でしょう
前田利家はとにかく人望があったのです
福島・加藤・黒田・細川も有無を言わさず前田(豊臣)についたはずです
彼らが関ヶ原で東についたのは単に三成が嫌いだったという理由だけです
前田利家が頭領なら裏切る理由はありませんし
宇喜多は前田利家の義理の息子(秀家の妻の実父です)なので豊臣に
毛利は微妙ですが東に宇喜多 西に九州の細川・黒田に挟まれれば何も出来ないでしょう
伊達政宗は奥州・関東を制圧できてもそれまでです
西日本は前田利家を頭領とする豊臣恩顧の大名が支配して天下分け目の決戦で伊達政宗は敗れ…
というのが一番自然な流れな気が…
回答ありがとうございます。
>前田利家でしょう
前田利家は私としても好きな人物ではありますが、正直申し上げてとても天下人の器とは思えない、秀吉は無論の事、家康と比較致しましても、その器量・力量は相当に落ちると考えますが・・。
>伊達が上杉を誘っても同調は無いでしょう
かなり無理がある仮定である事は、私自身充分に承知しておりますが、仮に伊達政宗に天下を窺う器量と色気が有ったとしたならば、対上杉という不毛な局地戦は是非とも避けねばならず、身を低くしてでも上杉との同盟を意図した事でしょう。
一方の上杉も、徳川憎しの一点では利害が一致する、そこに両者が同盟に至る最低の前提条件が存在するかと・・。
その際伊達・上杉・佐竹連合軍 VS 徳川というシナリオが最も面白い、また勢力的にも拮抗する、全ては個人的趣味の領域です。
>伊達政宗は奥州・関東を制圧できてもそれまでです
まあ正直申しまして、家康亡き後の徳川家が相当に弱体化し、且つ正宗が獅子奮迅の切り取りを成し遂げて、漸く天下へ打って出る為の布石が成される。
つまり天下取りの野望は、正宗以降に託される、そう考えましたが・・。
>西日本は前田利家を頭領とする豊臣恩顧の大名が支配して天下分け目の決戦で伊達政宗は敗れ…
う~ん面白い、天下分け目の決戦の一方の旗頭が伊達政宗ですか、彼を好きな私としましては、胸がわくわくします。
No.1
- 回答日時:
はじめまして
キーになるのは秀吉と家康の死去する時期でしょうね
もしそれが北条制圧直後の90年頃で
小早川隆景、蒲生氏郷が存命だったなら
史実の家康も存命中には手を出せなかった前田利家の存在が大き過ぎますね
前田利家には蒲生氏郷や宇喜多秀家は勿論
史実の関ヶ原で豊臣恩顧の武断派で反三成に所属する加藤清正や浅野幸長も熱烈な前田利家支持派でしたから
徳川に付くとは思えない
秀吉が史実通りの死を迎え家康が半年後になると
前田利家がそれより少しだけ存命するから
後の三大老に豊臣政権存続を託す体制を作り、自らの死を迎えると思います
伊達が単独で事を起こすのはかなり無理があるのでは?
上杉景勝は勿論のこと
佐竹義重の力も過小評価できないと思いますよ
義重は80年代半ばに北条と対陣した時、自軍含め宇都宮など同盟、従属領主で北条軍を圧倒する8000挺以上の鉄砲をかき集め北条に手を出せなくさせましたから
伊達が動くとすれば、まず徳川と結び、豊臣残存勢力を破った後では?
zep19さん、こんにちは、回答ありがとうございます。
>秀吉が史実通りの死を迎え家康が半年後になると
>前田利家がそれより少しだけ存命するから
>後の三大老に豊臣政権存続を託す体制を作り、自らの死を迎えると思います
前田利家も若い頃は、山っ気充分でしたが、その晩年は秀吉への友情と恩義を感じ、また自らの器量の限界を感じ取ったようで、仰る通り、豊臣体制存続の為に尽力した事でしょう。
>伊達が単独で事を起こすのはかなり無理があるのでは?
いや、伊達は上杉・佐竹を抱きこんで、家康亡き後の徳川の領土を喰いに掛かるのでは?と予想した訳でして、徳川憎しの一点で、この三家も恩讐を越えて利害が一致する、同盟に至る前提条件は充分でしょう。
無論佐竹のポテンシャルは見逃せません。
>伊達が動くとすれば、まず徳川と結び、豊臣残存勢力を破った後では?
この点は少々異論が有ります、徳川と組んでしまうと、その補完勢力との位置付けが完全に為されてしまう。
依って先にも申しましたが、天下に野心を持つ正宗としては、さほど変わらぬ勢力の上杉と組んで、先ず最上領の分割を意図し、然る後に佐竹を抱きこみ関東平野への進出を図る、そんな気がしますが・・。
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