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歴史には、「当然」も「必然」もないとは思いますが、「鳥羽・伏見の戦い」で、幕府軍は負けました。客観的には圧倒的に有利であったにもかかわらず。そこには、「裏切り者」がいたようです。「鳥羽・伏見の戦い」に限らず、「戦い」というのは「裏切り者の歴史」とも言えるかも知れないと考えてしまうのですが、『あなたが考える幕末・維新における「最大・最悪の裏切り者」』は誰でしょうか?面倒だとは思いますが、理由も含めて教えていただけるとありがたいです。

A 回答 (4件)

最悪ではないが最大の裏切り者


・徳川慶喜  元征夷大将軍・徳川家当主

将軍になるまえから、天皇や将軍以上の実力を持つ
一・会・桑政権という面妖な存在を組織していたが、
鳥羽・伏見の戦いでも、大坂城で徹底抗戦を叫んだ、その夜に、
少数の側近と共に、海路江戸へ退却、総司令官の敵前逃亡
(慶喜さんからは戦略的撤退なんでしょうが\(^^;)
ということを、やらかず。
 ここに、いたっては、軍備の質の差や、錦旗の威力以前に
全軍、士気阻喪、江戸めざして逃げ帰るしかなかった。

※しかし、徳川勢と官軍が、徹底抗戦しあい、
日本が何十年も、南北朝や戦国のような混乱におちいるよりはと、
江戸無血開城を受け入れ、余生を遊び人元将軍として過ごした
慶喜さんは、憎みがたい( ^^) _旦~~
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。

 「総司令官の敵前逃亡」、やはり、徳川慶喜の名前はあがってきますよね。(*^_^*)

 「慶喜さんは、憎みがたい( ^^) 」……う~ん、同感できるような気もするし、気持ちが複雑ですね。

 慶喜さんが、今日の日本を想定して、あのような行動を取ったとも思えないし……。

 将軍というよりは、「一人の人間」という姿を感じます。

お礼日時:2014/01/16 15:59

>客観的には圧倒的に有利であったにもかかわらず



そうとも限りません。そもそも先立つ第二次長州征討で幕府軍は圧倒的ともいえる戦力を持ちながら戦術的には長州軍に完敗を喫しました。その理由はご存じのとおり幕府軍が古い軍隊で、長州軍が近代化されていたからです。
鳥羽伏見の戦いの頃にはようよう幕府軍も近代化はされていましたが、それでも薩長軍に比べれば実に遅々たるものでした。あの新撰組も鳥羽伏見の戦いに参加していますが、胴よろいをつけ、槍と刀で武装するという滑稽なまでの時代遅れの装備で、案の定何も出番はないまま潰走しています。土方歳三さんなどは、これでスッパリ槍とよろいは捨てて、銃を使った近代戦術を学びます。もし鳥羽伏見の戦いで幕府軍が勝っていたら、歳三さんもそこまで危機感は持たなかったでしょう。
幕府軍にはもう当時槍と同じくらいなんの役にも立たなかった火縄銃が少なからず装備されていました。だから、仮に鳥羽伏見の戦いで局地的勝利を得たとしても、その後の戦いでどのみち敗北を喫したと思います。

だからそれを踏まえると、私は「最大・最悪の裏切者はいなかった」と思います。

裏切り者は沢山いました。なんとなれば、幕末の志士のちに明治の元勲となった人たちの多くが元々は「攘夷論者」でしたが、皆さん「開国派」に変節(裏切り)しています。しかしこの裏切りが日本の歴史にマイナスになったかというと、むしろプラスになっていますよね。
鳥羽伏見の敗戦を受けて徳川慶喜が大阪から逃げたので幕府の崩壊は決定的になりましたが、しかしもし慶喜公が大阪城で徹底抗戦していたら、大阪は大変な被害を受け市民に多くの犠牲者が出たでしょう。どのみち江戸時代初期に作られた大阪城では近代軍隊の攻撃に耐えうることはできません。慶喜公が逃げたことで戊辰戦争(内戦)は早期に終結し、そのおかげで日本中が戦場になることもなく、犠牲者も少なく、スムースに政権交代が行われ、日本は外国の植民地になることもなく近代国家へと歩むことができました。
つまり「裏切った」人たちはむしろ歴史にプラスに働いているわけです。むしろ松平容保公も藩祖の教えを「裏切って」新政府に恭順したら、会津若松は戦場にならなかったし、明治以降に福島が新政府に嫌がらせをされることもなかったかもしれません。福島県の人々にとっては「裏切らなかったことが最悪の結果を招いた」わけです。
そして、「最悪の人」はいました。鳥居耀蔵とかね。だけど、鳥居さんも「裏切り」はしていないからなあ。むしろ彼自身はどこまでも幕府に対して忠実だったし。彼は頑なに「江戸時代」というのを守ろうとしたのですよ。
だから裏切った人もいたし、最悪の人もいたけど、最悪の裏切者はいなかったんじゃないかと思います。

もし「最良の裏切者」を選ぶなら、やっぱり慶喜公でしょうなあ。そういう意味では幕府関係者をみんな裏切ったけど、おかげで犠牲も少なく、政権交代もスムースになりました。
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この回答へのお礼

 ご丁寧な回答ありがとうございました。

 又、「客観的には圧倒的に有利であったにもかかわらず」について、ご指摘いただきましてありがとうございます。少し軽率だったと反省しています。

 私が「鳥羽伏見の戦い」を例にあげたのは、たまたま、今読んでいる小説の中で、その戦いにおける彦根藩や藤堂藩の行動に、ふと、幕末から、明治維新にかけては、いろいろな「裏切り」があったのだろうなぁ……と思い質問した次第です。

 「誰を裏切ったのか」という観点から考えてもおもしろいと思っています。幕末から維新にかけての有志の苦労や犠牲を、私利私欲で汚してしまった井上馨や山県有朋も相当「悪」な裏切り者だと考えいますが、もっとあるのではないか?それを知りたかったのです。

 私は、『攘夷論から開国への変節』、これは「裏切り」とは考えていません。もちろん「思想」が戦術として利用された面はありますが。

 歴史ですから、「IF」には意味ありませんし、「結果オーライだから、それて良いではないか」……もっとも、「結果オーライ」を、ある程度の犠牲を前提として、全体で仕組んだのであれば別ですが……とも思いませんが、「最良の裏切者」という見方もあるのですね。

 ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/16 16:38

どの時点、どの立場で考えるかで180度変わります。


徳川の禄を食んでいた、勝海舟、山岡鉄斎などは、それこそ裏切り者と呼ばれてもおかしくはないでしょう。
おめおめ軍門に下ったあげく優遇された榎本武揚も裏切り者でしょう。
坂本龍馬も主家を無断で脱藩しています。山内家に対する裏切り者です。

鳥羽伏見以前に、尾張徳川、紀州徳川は本来であれば会津、長岡のように徹底抗戦すべき立場でした。
家康がこの二家を配置した主旨からすれば、薩長軍を喰いとめて当然です。
つまり完全な裏切り者です。

外様大名連中も薩長軍が死闘を繰り広げているのに日和見に終始していたのは、薩長に対する裏切りでしょう
終わってからのうのうと伯爵だの公爵だのと優遇されています。
さっさと参戦していれば、薩長の兵も無駄に死なずに済んだでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。馬鹿な質問をしてしまいました。おっしゃるとおり、「どの時点、どの立場で考えるかで180度変わります。」ですよね。的が外れているかも知れませんが、大東亜戦争における戦勝国の日本に対する後処理のことを想い出してしまいました。

また、沢山の「裏切り者」をあげていただきまして、ありがとうごさいます。勝海舟、山岡鉄斎、榎本武揚も「裏切り者」なのですか。何か本を探して読んでみます。

坂本龍馬も「裏切り者」なのですね。「裏切り者」という言葉には、非常にダークなイメージがつきまといます。龍馬の活躍した時期だとか、最期を考えると、「裏切り者」のレッテルを貼るのは、少しかわいそうな気持ちもしますが。

「鳥羽伏見以前に、尾張徳川、紀州徳川は本来であれば会津、長岡のように徹底抗戦すべき立場でした。家康がこの二家を配置した主旨からすれば、薩長軍を喰いとめて当然です。つまり完全な裏切り者です。」……まったく同感です。

大変おもしろい見方ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/17 04:41

22azqq22 さん、こんばんわ。



裏切り者といえば、土佐の山内容堂と越前の松平春嶽です。彼らは慶喜を将軍にと推挙しておきながら、彼が将軍になった途端、わが身可愛さに彼を見限りました。
「鳥羽・伏見の戦い」では、伊勢藤堂藩が見事に裏切りました。幕府側からは「藩祖の裏切りの心がまだ生きている」といわれたそうです。
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この回答へのお礼

 ithiさん、おはようございます。(*^_^*)

 「土佐の山内容堂と越前の松平春嶽です。」か。なるほど。思い浮かびませんでした。再度参考書を開いてみます。

 藤堂藩……「裏切りの家系」というのがあるのですね。つくづく感心しますが、しかし、失敗していないのですから、良く言えば「流れを見る」能力の長けていたということでしょうか?好き・嫌いは別にして。

 ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/17 04:52

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