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海外在住の高校一年です。学校で最近国文法をやり始めたのですがなんでこんなことしてるのか分かりません。そもそも国文法が現代文と古文の両方なのは分かりますが、なぜ古文を学ぶのですか?文系の人を育てようとしているのなら分かりますが理系の僕にはつまらないし、普段の生活で使った試しがありません。強いて言うなら「矛盾」とかそこら辺の言葉だけです。そもそも古文とか上一段活用とか意識しながら使いますか?なのにどうして日本はこんなに非効率的なことをしているんですか?古文の部分を教科書に入れるだけで何トン、何万枚の紙が毎年無駄になっているかを考えると腹が立ってきます。

現代文の必要な部分だけを教えないで、何故古文やら上一段活用なんぞに資源を無駄にしているのですか?

A 回答 (4件)

使う使わないレベルの話なら、文法も古文も一般人は使いません。


専門家にでもならない限りは高校卒業と同時にオサラバです。

じゃあなんでやるの?っていう話ですが、3つあると思います。
1つは、それに対するアプローチが重要であるということです。
つまり文法や古文の知識自体はどうでもよく、それを理解し、覚えるプロセスが肝要であると。
そのプロセスは大学に入ろうが社会人になろうが、何かを学ぶ上で必要不可欠です。
ましてそれが苦手or嫌いな分野なら、それへの対処法をどう確立するかで、今後の人生が決まります。
嫌だと言って逃げるのも対処法ですが、それを確立すると進歩のない人生になります。
嫌でもどうにかしようと挑み対処法を模索し続けるなら、少なくとも進歩の可能性は残るわけです。
実用という意味では、小中高の勉強なんて小学校算数だけで十分です。
他は全部イラナイです。
それでもやるのはそういったプロセス、あるいは習慣形成が目的だと思います。

2つ目は惰性です。
オイ、って感じですが、昔からやってるんだからやりましょうね、ということです。
それのおかげかどうかは誰も調べてないから不明ですが、それなりに何か上手くいってるんだからやっとけば?という。
まあ学校の先生とかは内心こんなふうに考えてると思いますよ。

3つ目は文化です。
文法も古文も日本固有の文化だから日本人ならやっておこうよ、って感じです。
胡散臭い大人が言いそうなことですね。

1つ目は持論です。
2つ目と3つ目はよく言われることです。
まあ大学で経済とか商学に入れば、金融とかマーケとか実学を勉強できますから、それまでは忍耐ですね。
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 一見「エコロジスト」や理系を装っていて化けの皮は剥がれていますね。

その上に似非エコノミストでもある。
「必要な学問と必要でない学問」を分ける基準が何であるかすらも質問者は定義できてもいない。この段階で既に理系であるとの自慢は根底から崩れ去りもする。
 端的に説明しましょう。現代の英語文法の知識で150年前の英語の文献を読むことは可能です。理由も簡単です。言語として変化していないから。
 けれども150年前の日本語を今の日本語だけで理解することはできません。「同じ日本語」であっても、なぜこの様な現象が起きているのでしょうか、不思議だと思いません?。
 それは「日本語」には「話し言葉」と「書き言葉」の二種類があり、表音文字を如何にして表記文字に書き改めるかとの議論が続いてきたからでもあり、一応の終止符を打つことになったのが、明治時代に登場する「言文一致体」と呼ばれる表記法です。
 実際に例を覧てみましょう。これは室町時代の徳政令の史料ですが「一 米コク并サコク等、七ヶ月タルヘキ事
 右條々、任先例サタメオカルゝトコロナリ。シヨセン十分壹オサタセシメ、以女白晝トルヘシ、若コノヤク月ヲハセスキハ、ナカレ質タルヘキ上着、徳政ノサタニオヨフヘカラス、萬一寄事於左右、カウゝノ儀ニヲヨハバ、ヲキテトイヒ、トリテトイヒ、共ニ以サイクワニシヨセラルタルヘシ、此外ノ借銭以下事、相互令注進、御下知ヲモツテ、其沙汰アルヘキノ由、所被仰下也。仍下知如件」との記述を覧ることができます。ご覧のように全文の殆どが仮名文です。それは畢竟庶民に理解しやすくするためですが、この様に法令を仮名文で出すのは室町幕府になってからです。さしあたりこうした法文を理解するには何が必要でしょう。そのまま現代の漢字かな表記に置き換えても意味不明となってしまいます。もし英語の様に、発音からそのまま表記に置き換えることが可能な言語でも、同じ現象はしばしば起こります。これは現代文であれ古文や漢文であれ同じ原則です。先ずそのテクスト(文章)をそのままに「音として」読む、これが第一段階です。次が「音声信号」を意味のある一つづりのものとして「読者が自らの頭の中で翻訳する」との作業です。これができなければ、文意を理解する取っ掛かりすら見つける事はできません。そのためには文法という約束事を手掛かりとする。理科や数学の定理や公式と同じです。道具がなければ何も作ることができませんから。
 
 そして貴方にはキツイ言葉で申し上げますが、数学や物理が日常生活の中で何か具体的な役に立っていますか?。オイラーの公式やベルヌーイの定理などは糞の役にも立ちません。けれども日本の高校生はキチンとそれを学びもします。なぜか。貴方の様に近視眼的な結論など求めもしないから。
 
 先の「徳政令」ですが、貴方にはこの史料を漢字に置き換えることは不可能なはずです。なぜなら明治時代以前の文章では、仮名文字に濁点を着けないとのケースがごく普通にあるからであって、それは「話し言葉」をそのまま「書き言葉」としては使わないとの日本語独特のルールがあったからです。
 そうした部分を古典文法の一番最初に聴いたことを憶えてはいませんか?。そして「矛盾」は漢文での「故事成語」で扱い、それは中学校段階での対象です。指導要領をご覧下さい。
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この回答へのお礼

お礼日時:2014/02/28 23:58

昨今、貴方のような感性の人が多いように思うし、それはそれでどちらが正しいとも言い難い。



ただ、言えることは、「原理原則」の把握の方法とか、「根っ子の部分」の思想哲学を承知することで、物事は極めて単純になって、覚えておくべき事とか、記憶しておかないと正解が得られないという事態が減少する。

つまり、「原理原則」を承知していないと、あらゆる事象を「一枚一枚の葉っぱ」と捉えなければならない。文法学習も全く同じ事。根本理解が出来ていなければ、一つ一つ、新たに出現した問題として、常に新鮮な気持ち(?)で事に当たらなければならないし、そうなると、その時々の気分次第で、対処に差異が生じたりもする。

で、そういう事態を避けようと思ったら、「原理原則」を、まず把握する。文法の本則を承知してしまう。そして、全ての事柄が本則に完全に従うわけではないので、その数少ないはずの「例外規定」をしっかりと記憶する。一度、本則を理解してしまえば、本則を「記憶」しておく必要は無く、日常感覚で、何時でも理解までの手順を再現できるから、忘れていて良いのが本則ということ。

こういうのが勉強の正しいやり方で、そういう手法を成績の良い学生というものは体得している。そういうことに対して要領が悪いと、一つ一つ、別の事案、案件として対応するので、間違いが増えるし、記憶違いで×を貰う。

原理原則の把握の仕方、その体得の為の、自分なりに一番効率の良い手法を模索させるために勉強している。こういうことが学生時代に身に付いていない人は、社会人になってからも、原理原則が分からないので、何が正しいのか、どうすれば真実に近づけたのかを理解できない為、同じ失敗を何度も繰り返す。

しかし、感性の時代、多様性の時代と言われて久しく、思想哲学的気分に接近していく「原理原則」を理解しようというのは、若者にとっては、ウザイのかも知れない。
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それを言ったら・・・国語・数学・理科・社会・英語なんて、殆どの人は社会に出ても使えないことだらけだよ。

まさしく環境破壊だよ。
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この回答へのお礼

お礼日時:2014/03/01 00:00

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