電子書籍の厳選無料作品が豊富!

私は大学1年の理系です。中学、高校で多くの人が古文の勉強をしますが、現在では使われていないものを学習することに何の意味があるのでしょうか?古文の代わりに物理、数学を勉強させたほうがいいと私は考えます。

また、「若者の言葉の乱れ」、「古式ゆかしき日本語を大切に」といったことをよく耳にしますが、なぜでしょう?新しい言葉が生まれるのはそれが便利で有用であるからで、言葉がなくなるのはそれがもう必要でなくなったためと考えられます。現在正しいとされている日本語も、古文とは違うことから、「乱れている」といえると思います。
では、なぜ若者の言葉の乱れは問題視されるのでしょうか?もちろん、言葉の乱れにより世代間の意思疎通ができなくなるのであれば問題だと思いますが・・・

自分で考えても結論が出なかったので、皆さんの意見を聞かせてくれればうれしいです。

A 回答 (6件)

文部科学省は、古典学習の目標を「古典としての古文と漢文を読む能力を養うとともに,ものの見方,感じ方,考え方を広くし,古典に親しむことによって人生を豊かにする態度を育てる」と掲げています。


http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/9903 …

これについて、私は次のように考えます。

理系だと、つい数年前に出版された論文や本でも、ちょっと古いと思ってしまいますね。私の分野も、理系というわけではないのですが、同じです。それでも、その分野の過去の金字塔的な本(その分野の“古典”と呼ばれるもの)を読んだりします。あるいは、分野全体とまではいかなくとも、自分が研究しているトピックの背景を知り、問題点を明らかにするため、けっこう古い論文、専門書を集めたりします。

一方で、日本に生まれ、そこで生きているのだから、日本特有の考え方に囲まれています。その考えを形成してきた歴史的過程を知るためのひとつの手段が、古典を紐解くことだと思います。

この2つ、似たところがあると思います。
(1) あるトピックを研究する→文献をさかのぼって背景を調べる
  →問題点が明らかになる
(2) 日本の社会で生きている→古典をさかのぼって背景を調べる
  →日本人特有の考え方の起源がわかる

(1)については、そのトピックの研究者であれば自然に手が出ます。(2)については、自分が日本で生きていることなんて、そうそう意識しません。だから、教養として教える必要が出てくるのかもしれません。

私にとって高校の古典は鬱陶しい科目でしたが、いま思えば自国のことを知る貴重な機会でした。覚えることも多く、面倒ではありますが、逆にいうと、知るための効率よい方法が整備されているということなので、ありがたいことでもあります。

偉そうに書きましたが、私自身は、高校古典の成績がよかったわけでも真剣に勉強してわけでもありません。まして、いま歴史や古典の教養をもちあわせているわけでもありません。自分に対する戒めの意もこめて、この回答をさせていただきました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なかなか面白く、わかりやすい考察ですね!
今回この質問に対したくさんの回答をいただき、私の視野が広まったように感じます。上にある古典学習の目標のように、古典に親しまなかったため視野が狭かったんでしょうか(笑)
今回、回答してくださった皆様、ありがとうございました!

お礼日時:2006/07/30 22:56

それを言ってしまったら物理や数学も同じでは?


大学レベルの物理や数学なんて普通の人は社会に出て使いませんよ。

基本的な漢字や簡単な計算などといった生活していくうえで必要となるものを除いては、ほとんどがそうなのではないでしょうか?
だから自分は「勉強は役に立たないもの」と割り切っています。

勉強の意味は、頭脳自体の強化と、専門的な職に進むため、あとは趣味などに限られるのではないでしょうか。
ただ、古文や歴史の場合はそれに加えて、自国や世界の過去を知り、過去を大切にするという意味もあると思います。

ただ、質問文を読むとその「過去の文化を大切にする」ということの意味がわからないみたいですね。
おそらくですが、自分が自分自身の過去を知るということと同じではないでしょうか。
例えばあなたが自分の過去が分からない記憶喪失になったらどうでしょう?自分自身というものが分からなくなるのではないでしょうか。
それと同じで、「過去」の世界を知るということによって「現在」の世界を理解する、というものだと自分は解釈しています。

自分は世界の理解なんてどうでもいいので、自分も歴史とか古文に興味はないんですけどね^^;


言葉の乱れという点においては、ほとんど質問者さんと同意見です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

私も、過去の世界を知って現在の世界を理解する力というのは大切だと思っています。しかし、それと、高校生が古文の文法まで習う必要があることとは結びつかない気がします。古文よりも理科・数学を勉強し、技術者や研究者を目指す人が増える環境を作って欲しいと思ってしまうんですよね。日本は文系偏重である気がします。まだ社会に出てないガキの戯言ですが(笑)
それにしても、記憶喪失の例えはなかなかウマイですね!
回答ありがとうございました!

お礼日時:2006/07/30 22:32

若者の言葉の乱れを漠然と問題視するのはよくないですね。


いい言葉だってきっとあると思います。

闇雲に「乱れている」といっても、何処がどう乱れているのか、
乱れていることが全部悪いのか、どう乱れてきたのか、
「乱れ」に対して緻密な指摘が必要だと思います。

反対にいえば、古来から使われてきた言葉が全部必要なのか、
なぜ使われなくなったのか、どのように変化したのか、
「乱れ」がよくないというには、これに対しても考察が必要ですね。

ただ僕が思うのは、人間誰でも初心を忘れるように、言葉を忘れてしまうことがあるように思うのです。
それは心と言葉がつながっているからです。

これが表情にあらわれ、交流が生まれます。

古来の言葉を知ることによって、現在の日本人が忘れている大切な価値観をもう一度再認識することが出来るかもしれません。
大切な初心をもう一度振り返れるということです。

なぜなら古来の生活が分かり、人と人とのつながり、物の大切さ、命の尊さなど、本当は大切なのに今の暮らしでは忘れられてしまっているものがあり、生きるヒントを与えてくれるかもしれないからです。

もちろん醜い争いごとや、腐敗した貴族の生活なども、時には書かれているでしょう。でも、そこからも反面教師として学ぶことが出来ます。


>古文の代わりに物理、数学を勉強させたほうがいいと私は考えます。
僕はこの考えに対して反対しません。物理、数学を学びたいと思うのであれば、学んだ方がいいと思います。

「好きこそものの上手なれ」といいますが、やはりそれぞれが本当に必要だと思って勉強しないと何事も成就しないと思うのです。

無理やりやることはないですよ。
それこそ無理に古文をやらされると嫌いになってしまいますもんね。
僕は理数系は弱いですが、それらに強い人を尊敬します。
頑張ってください!
    • good
    • 0
この回答へのお礼

古文によって、初心をもう一度振り返れる。確かにそういう面では大切なことなのかもしれませんね。
回答ありがとうございました!

お礼日時:2006/07/30 22:05

理系とのことですが、アイザック・ニュートンの『プリンキピア』はご存知でしょうか。



『プリンキピア』はラテン語で書かれています。もっともこれに限らず、この頃までの学術論文の多くがはラテン語で書かれています。ラテン語は現在どこの地方ででも使われていません。ラテン語を誰も学んでいなかったとしたら、古文書の解読は一体誰がやるんでしょうね?

日本の歴史的、民俗学的な資料の解読も同様でしょう?
新しく発掘された古墳で漢文や万葉仮名の文書がみつかったら、中国に解読を依頼しますか?
 *
言葉の乱れは、若者に限りません。間違った日本語をそのままにしておく理由もないと思います。
それとも、論文に「実験結果は微妙だった」とかゼミで「まじやばいふいんき」とか使います?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「中学生・高校生が」古文を学習する必要があるかという質問をしたつもりですが、分かりづらかったですね。すみません。もちろん、古文の研究は必要であると考えてます。

誰だって言葉はTPOを考えて使いますよ。私が言いたかったのは、それらの「間違った」日本語がそのまま「正しい」日本語として定着していくことに問題はないんではないかということです。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/30 21:58

 これは広く勉強の意味と捉える事が出来ます。


あなたの「必要か、必要でないか」「意味があるか、意味がないか」は、恣意的に聞こえます。

 人によっては、数学が不必要であったり、物理が意味がないと考えるのです。
 現在日本の学校で、今にある多数の全ての教科が高等教育や、教養ある人格として、広く必要と考えられてきたと言えると思います(時代による変動はあるにしても)。

 教科に対する得意、不得意。好き、嫌いは勿論あると思いますが、現在のところ私は全て、必要であると納得しています。(ただ、現在の学校の物理的な時間の関係で、履修できない情況の科目もある)

 特に古文のことを言うなら、私たちの日本語が、或る日突然、宇宙から降ってきた言語では無いのですから(日本人が、突然あなたの知るような、ほんのつい数年前に、降って湧いて来たのでないように)、また幸いなことに、その「古典」が残っているのですから、これに親しみ、習う事は当然の事と考えます。(世界中には民族の独自の古典をこんなに多く持たないー残せないー民族も、極端には独自の言語を抹殺された民族もあります)

 この古文(古典)が、今に繋がっている事を思うなら、まるで自分は、誰の世話にもならずこの世に生まれ、今生きている、というような発想は出来ないと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

私は、それが最も合理的であるならば、「既存の言語をなくして、地球の言語を英語のみに統一してもいい」とさえ考える人間ですから。私の考えが世間とはズレているのかもしれませんね。
ありがとうございました!

お礼日時:2006/07/30 21:48

コピーライターです。



僕も貴方の意見に賛同です。陳腐な表現ですが、言葉は生き物ですから・・・時代に沿って進化していくものだと思います。

ただし、僕が古文から学ぶものは文法や日本語そのものではないと思うのです。それは「日本の心」だと思います。美しいものを美しいと感じる。

雨についても五月雨、霧雨、涙雨など・・・日本人特有の感情表現がありますよね?その一端として、同じように古文も我々日本人の豊かな感受性を学ぶ学問であると思いますし、またそうあるべきだと思います。

現状、「和心」を教えられる教育が成されているかどうかは疑問ですけどね。そんな感じです。どうでしょう?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど、日本の心を学ぶ教科ですか。専門家の貴重な意見ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/30 21:35

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!