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日本史好きの知人から聞いたのですが、どうなのでしょうか。
「生粋の江戸っ子」も、もとは、名古屋から移ってきた人(が大半)である、と。

詳しい方、ご回答よろしくお願いいたします。

A 回答 (8件)

>江戸(東京)の人は、元は名古屋の人達だった?


巷間よく言われることですが、実は江戸、東京、名古屋という何気ない言葉をどのように解釈するのかで変わります。

江戸=東京という図式がまず成り立ちません。
東京という場所に元は江戸という街があったということは言えます。
しかし、住んでいる人も江戸の街に住んでいた人達のの子孫かと言われればNOです。
いたとしても1200万人の中の例外中の例外です。
江戸時代にも「三代住まにゃ江戸っ子たぁいわねぇ」と言われたぐらい人口の流動の激しい街でした。
明治以降東京と地名が変わっても同じです。

なぜ巷間で言われるかというと、江戸の街の人口構成にあります。
江戸の街の人口は100万人だったといわれますが、約半分が武家です。
No.3の回答者さんがご指摘になられているWikipediaの記事では
1750年122万人1850年115万人と推定しています。
同じころに人別改帳から幕府がはじき出した町人の数は
1747年51万3327人1822年57万4721人となっています。
残りがほぼ武家です。
江戸城で働いていた旗本御家人は約2~3万人前後と言われています。
家族を入れて約15万人前後ということになります。
この人達のご先祖は家康に従って尾張や三河からやってきました。

江戸の街には全国の大名屋敷があり、一年おきに国元から家臣が殿様についてきていました。
尾張徳川家のご家臣はもとより、三河のお大名のご家来もいました。
ということで、元はと言えばご先祖様は云々、という話になると、一大勢力であったことは間違いはありません。
現在の三井グループの発祥の地も伊勢松坂です。
江戸っ子という言葉も江戸時代の半ば1770年ごろに現れた言葉です。

名古屋の人たちが名古屋は云々という場合には、意識として尾張藩の領地と三河の旗本領であった地域を指します。
現在の岐阜県と愛知県およびその隣接地域を指します。

まぁ~この辺の時代までであれば、江戸は元はと言えば名古屋の人間が多いのだと言えないことはないかと思います。

ただし、東京というと話が変わってしまいます。
明治になると、お大名は全員国元へ返され江戸屋敷は空っぽになりました。
又、旗本御家人の多くは徳川慶喜の後について駿河へ引っ越していきました。
江戸の街の60%~70%が空き地になりました。
榎本武揚が函館から戻ってきて牧場をやったのが、かつて旗本屋敷が櫛比していた駿河台です。
現在の靖国神社の近くです。
やがてお大名の家族は東京へ戻ってきますが、お大名と奥方様というのは江戸生まれ江戸育ちの人たちです。
東京の人口が大阪を上回るのは第二次世界大戦後です。

東京の人口推移をみて頂くと、1920年以降に人口増加率が急激に増えています。
これは、第一次世界大戦のあとの恐慌と東北地方の冷害が重なり、東北地方の農村が疲弊して、東京へ職を求めて人口の移動が起こったことが引き金になっています。
更に、1945年には極端に人口が減ったのち今日までの増加が続いています。
第二次世界大戦末期の疎開の影響と戦後復興、高度成長が政府主導で行われました。
この為に、許認可および融資機能が東京に一極集中していた結果です。
この間は、自然増を上回る勢いで人口が増えています。
つまり他の地方からの流入人口が急激に増えていったということです。
この増えた人たちの出身地は関東以北が大半でした。
残念ながら名古屋圏からの移動は少ないものでした。
現在も名古屋圏出身者は非常に少ないのが現実です。
国立社会保障人口研究所というところが、人口移動調査というものを実施していて、報告書が出されています
ネットで検索してみて下さい。

東京という町は全国の人達が集まって作った町です。
言葉も、出身地のお国ことばでは不便なので、共通語を生み出しました。
原型は旗本の女性が使っていた言葉です。
およそ江戸っ子にゃ敷居が高い言葉です。
江戸っ子が使っていた江戸弁も今や完全な方言で絶滅危機に瀕しています。
江戸っ子の末裔は細々暮らしています。
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この回答へのお礼

大変詳しく教えて下さり、とても参考になりました。
知らないことばかりで、日本史に興味が出てきました。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/19 03:01

まずそれはないでしょう。



第一に家康は名古屋を領したことはありません。
関東に移る前は三河、遠州、駿河、甲州、信濃の五か国です。
名古屋は尾張ですから家康の領地ではありません。

そして江戸を本拠地と定め、開発に乗り出した時に連れてきた領民は三河、遠州、駿河の人たちが殆どです。
まぁ人足などは当然現地(江戸周辺)で雇ったでしょうが。
私自身以前は浜松在住だったのですが、江戸の下町言葉は明らかに発祥は尾張弁ではありません。
近いとしたら、三河弁や遠州弁です。
ですから、「生粋の江戸っ子」はもとは三河、遠州から移ってきた人(が大半)である、と言えると思います。
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この回答へのお礼

わかりやすく教えて下さり、とても参考になりました。
知らないことばかりで、日本史に興味が出てきました。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/19 03:02

まぁそうでしょう


家康が江戸に国替えになるときに名古屋・岡崎・浜松・駿河(静岡)の人々を大挙して連れてきました(江戸の街づくりのために)

名古屋に不細工な女子が多いのもそれです 美人はみーんな江戸に連れて行かれて不細工ちゃんだけ残ったらしいので
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この回答へのお礼

面白いですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/19 03:06

先祖から伝わる苗字の分布や気性の特徴から、質問の説に同調します。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/19 03:07

名古屋はええよ!やっとかめ



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4% …

この歌の中で指摘されている内容ですね。
しかし この歌の中でも「江戸城では名古屋弁が標準語」という内容だった。
親藩・譜代は基本的に 三河弁
外様も織豊系は尾張弁

江戸といういみで言えばやっぱり関東人だらけ
http://kotobank.jp/word/%E3%81%B9%E3%81%84

http://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E3%81 …
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この回答へのお礼

興味深いです。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/19 03:08

こちらに正確とは言わないまでも、かなり的確な


各時代の各都市の人口推移が載っていますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3% …

そんなに人口のいなかった、名古屋というか中部圏の人間が
どんなに集まっても18世紀中ごろの江戸の人口100万人
オーバーとなることはありえず、
(もともと江戸周辺の人口はごくわずかでしたし)
まさか150年やそこらで名古屋人カップルが20人も30人も
子供を作って人口急増となったわけではないでしょうから、
日本全国から人が集まってきたと考えるが適切です。

もちろん、江戸城に参勤するトップクラスの武士たちは
名古屋周辺(主に三河)出身が多かったことは
間違いないとは思われますが。
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この回答へのお礼

とても参考になりました。
詳しいご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/19 03:08

●家康が連れてきた人々


○はっきり書かなかったのでわかりにくかったのかもしれませんが、家康が江戸入府以前に名古屋を領したことはありません。
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この回答へのお礼

そのようですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/19 03:09

徳川家康が江戸に入府したとき、三河にいた家臣や領民を連れてきたというのは「史実」です。


しかし、それを「生粋の江戸っ子は名古屋人の子孫」などと曲論するのは名古屋人のやっかみ・妄想かと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
その知人は名古屋人ではないのですが、何か含みを持って言っていた気がしたので、真相が気になり質問してみた次第です。
その家康が連れて来た人々の数というのは「江戸っ子は名古屋人の子孫」と言っていいほどの大人数だったのでしょうか?
もしも大した数でないのなら、子孫というのは曲論かもしれませんね。
気になるところです。

お礼日時:2014/05/15 22:46

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