『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

徳川家康は事実上、信長にありもしない嫌疑をかけられ妻子を失っていますが、同盟国(従属)である社会的(家を存続させる)な立場の思い、と人間としての想い、などのわだかまりは一切なかったのでしょうか?

またチャンスがあれば織田家を裏切ろう、といった野心はあったのでしょうか?歴史的な文献はないと思われますので個人的な意見をよろしくお願いいたします。

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A 回答 (6件)

ちょっと違います


家康が信康と築山殿を斬られて恨んだのは信長ではなく家臣の酒井忠次ですよ

息子と妻が盟主に嫌疑を掛けられて切腹させられたのは 確かに理不尽とは言え
事実上信長の従属下にあった家康は仕方ないことだと 有る程度諦めをつけています

しかし名代として信長に申し開きに行った酒井忠次は何の弁解もせずに帰還
家康は大久保某から信康が切腹した事を聞かされると「斬ったと言ってどこかに逃がしてやれば良かったものを…」と悔やんだそうです
その後 酒井忠次の子 家次がわずか10万石に抑えられていた事に不満を持った忠次は家康に
「息子の石高を加増してほしい」と頼んだところ 家康は「お前でも息子はかわいいのか?」と言い放ったと言います
あの時 信康を救わなかった酒井に対する恨み のようなものがあったのでしょう
あるいは信長に向けたくてもどうしょうもないうらみを酒井に向けた可能性もあります


信長を裏切ろうとは思わなかったでしょう
徳川家が存続し得たのは間違いなく信長との同盟があったからです

まぁ一説には本能寺の変の黒幕が家康で この信康の件の恨みでの犯行という説もありますが
家康自身光秀に命を狙われてるわけですから それはありえないでしょう

この回答への補足

アズキさんこんにちわ!なるほど、ありがとうございます。丁寧な回答読んでるうちにさっそく疑問が沸いてきたので補足質問とさせて頂きます。
酒井忠次が名代として信長に申し開き、とありましたがお家の最も大切な事案(妻と子の命もそうですが何より疑いを払拭させる為にも)であるこの件になぜ家康本人が申し開きに行かなかったのか気になります。
それよりも大事な用件でどうしても行けなかったのか、主である家康の身を案じた酒井が自ら志願したのか、当時、どんな重大な案件でも側近の家臣が申し開きに行くことが当たり前だったのでしょうか?
酒井にしても、もはやそうなることはある程度予測して行ったかと思うと「漢」を感じます。
補足の質問ですみませんが解る範囲で教えて頂ければ嬉しいです!

補足日時:2014/05/28 07:38
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信長の命で信康に切腹を命じたというのはそもそも三河物語の記載ですよね?


これは徳川を称えるための物語なので、NO3さん同様やはり私も信用していません。

人質に取ることは可能であったかもしれませんが、いくらなんでも他国の嫡男に切腹を命じるのはいきすぎでしょう。
素直に考えるなら家康が信長に忠誠を示すために自分の判断で切腹を命じた、あるいは後継ぎに相応しくないと判断して信長にかこつけて切腹させたといったところでしょう。

あるいは家康と歳が近すぎるためにお家争いが起きないようチャンスを見て殺す機会をうかがっていたのかもしれません。
1543年うまれの家康と1559年生まれの信康では年齢が近すぎます。今川の血などどうでもいい時代ですし。
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この回答へのお礼

なるほど。こういった陰謀説もあるのですね。人間の想う心ですから様々な思惑が交差したことは自分としても否めないと思います。
15歳ほどの年齢差は当時としてはそう珍しくなかったようですがどうなんでしょうね。皆様の色々な意見が聞けてまたひとつ勉強になりました。ありがとうございました!!

お礼日時:2014/06/02 08:46

酒井忠次は信康の守役でもありました


そのため信長が忠次に出頭を命じたようです

確かに
謀反の疑いを掛けられて許してくれるほど信長は甘くないというのは酒井も分かってはいたでしょう
ました事の発端は信長の娘からの告げ口です 娘かわいい信長の事です性格も考えれば…ねぇ?
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この回答へのお礼

補足質問に解りやすい説明いただきまして感謝します。この事件にも似た仕置、信長の性格、そして家康の性格なども深いところで密接に関係していたんでしょうね。

お礼日時:2014/06/02 08:40

信長から家康への手紙では、「先だっての信康の処断の相談事について、徳川家の事であるから、家康の思い通り行えば良いのではないか」との内容です。




私は家康が人情家で家族思いであったとは思っていません。

何故なら次男の結城秀康への対応や、六男の松平忠輝等に対する態度には問題があると思います。

第一世話になった今川家に対する態度も、後足で砂を掛ける行為ですからね。(義元が死んだ時点で、当たり前と言えば当たり前ですが)


また家臣でもない徳川家の長子を織田家が切腹させるのも、計算が成り立ちません。

そんな命令を聞く位の力関係なら、優秀な武将の方が後々使い勝手がいい筈です。

使えない位に盆暗なら、却って乗っ取れると言う物ですし。

切腹を命じる理由とメリットが全く、辻褄が合わないのです。

こう言うと、殺せる内に殺せと考えたのではないか?と言う方がいるかもしれませんが、力関係に差が有れば、そもそも領土の割譲も信長の胸先三寸です。

何も危険だと判断した徳川家に、嫡男の命さえ自由に出来る信長が領地の優遇をする必要もないのですから、脅威には成り得ない計算が成り立ちます。

以上から考えて、自分で息子を殺したと考えるのが無理が無いかと思います。


“松平忠輝は、その容貌などから父・家康に嫌われ続けたが、忠輝が7歳の時に面会した家康は次のような発言を残している。「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」(野史)。「恐ろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけり」(『藩翰譜』)。この発言から、信康の面影を見いだしたがゆえに家康は忠輝を恐れ嫌ったことが伺える。”

との情報もあり、事実と状況の整合性を取ると、親子不仲説が一番しっくり来ると私は考えます。


チャンスがあれば織田家を裏切るかどうかは、今川家に対して行った通りの事をしたでしょうね。

別に冷酷だからではなく、それが普通だからですけど。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうさまです。先日、東京江戸博物館に行って改めて徳川幕府、そして江戸時代の内情を客観的に考えることができました。ちょうど家康公の像があったのでジッと見ていたら像とはいえ、やはりなんというか目の力が半端なく感じました。
時として非情なまでに冷たい判断や義に背く裏切り・・・自らのお家を守り永続させるため、ただその一点を追求しなければならなかった当時の大名の立場、心労というものが伺え見えるようでした。

自分の中で家康は伊達政宗などと違い血気盛んな武将、というよりやはりタヌキ、というか決して腹を割らず虎視眈々と着実に基盤を固め天下を狙う稀有な大名の1人だったように思えます。

お礼日時:2014/05/28 07:53

>徳川家康の織田信長に対する思い



全ては想像という事で、御容赦を・・。

毀誉褒貶が常である戦国大名の中でも、徳川家康ほど辛い憂き目を見た武将はそう多くはないでしょう。
ところがその彼をして、生涯の痛恨事と死の間際まで言わせせしめたのが、長男信康と築山殿を死へと追いやった、件の事件です。

武勇が優れていると評判であった信康を家康は当然愛していた、築山殿にしましても、疎ましい存在ながら憎んでまでいた訳ではなく、何とか知恵を絞って助命しようと画策した形跡が窺えるほど。

ただ信長の命令は絶対でして、御指摘の通り当時の徳川は名前のみの同盟関係、その実織田家の傘下にあり、その武将達よりも追い使われる存在でした。

家康としては当然悩んだでしょう、無論信玄存命の頃の武田家であれば、躊躇する事無くいとも簡単に織田家を見限り、武田西上の先兵となったはずです。

ところで当時家康が蟠踞した三河・遠江を取り巻く勢力図・位置関係を俯瞰しますと、織田を裏切る上での新たな同盟先として、甲斐の武田・越後の上杉・相模の北条、当然その三家という事になるのでしょう。

但し代替わりし・長篠の戦いで敗れた武田かつての武田に非ず、加えて緊急時の後ろ盾として越後は余りにも遠い、更には老大国北条は兵数ばかり多いが、優柔不断で頼りにならない、つまりは帯に短し襷に長しという状況でした。

信長の命令を無視する事は、即ち徳川家の滅亡を意味する、家康としてはそう冷静な回答を出さざるを得ず、そこで徳川家の存亡と親子・夫婦としての情を秤に掛けて、悩みに悩んだ末に出した答えが、広く歴史に知られている顛末、恐らくそういう事なのでしょう。
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この回答へのお礼

いえいえ、こういった想像論?の方が色々な方々の参考意見を聞けて自分としては嬉しいです!
やはり小国の従属関係にあったその立場からしてみれば苦渋の決断、致し方なかったのでしょうけれどそんな恨みを抱かせたまま仕えさせる信長も信長だと思いました。

信長としては自分に対する忠誠を試す天秤にも似た行為も含まれていたのでしょうが試される側はたまったものじゃないですもんね。
妻子を処断しなければならない・・・そう聞かされた時の家康の胸中、そしてそれからの実際の心の変化を知りたく質問した次第です。
当時の勢力解説と人間関係を交えたご回答、非常に楽しく読ませて頂きました。ありがとうございます!

お礼日時:2014/05/28 08:09

>わだかまりは一切なかったのでしょうか?



ないわきゃないです。秀忠のあほさ加減に「あ~ぁ、信康が生きてたらなァ」と死ぬまで愚痴ってたとかどうとかといわれていますからね。脚色されているかもしれませんが、そういう話が残っているということは、火のない所に煙は立たないと思いますよ。

>チャンスがあれば織田家を裏切ろう、といった野心はあったのでしょうか?

最終的に天下を取ったんですから、野心というのは人一倍あったに決まっています。そうじゃないと天下は取れなかったでしょうからね。しかし、そういう野心がちょっとでも見えてしまったらどういう目に遭うかということも知り尽くしている人でもあったので、そんなことは側近中の側近にも見せなかったのだと思いますよ。
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この回答へのお礼

明快なご回答ありがとうさまです。色々な歴史人物像に付き物の古書の改ざんや噂混じりの伝記なども、全く根拠がないのではなく「火のない所に煙はたたない」的な感じ、自分も同感です。
実際は本人の腹をわってみないと解らないところも多々ありますが、そういったのも込みで歴史は面白くて興味深いです。

お礼日時:2014/05/27 23:33

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Q織田信長と徳川家康の関係

この時代のテレビドラマは、大河ドラマをはじめとして非常に多く製作されていますが、見ていていつも気になるのは、織田信長の時代に、信長は家康を厚遇しているような描写が多いことです。その頃、確かに信長と家康は同盟していたとはいえ、力や勢いでは信長の方がはるかに上で、足利義昭にもあれだけ不遜な態度をとっていた信長が家康にだけ賓客のように扱っていたというのが信じられないのですが(秀吉に対しては「さる」なのに、家康に対しては「家康殿」などと言っています)。このような家康の「持ち上げ」は、やっぱり後で幕府を開いたことによる製作者のご祝儀相場であると考えていいでしょうか?実際の信長は家康に対し、もっと偉そうな態度をとっていただろうと考えている私が間違っているでしょうか?

Aベストアンサー

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田家の敵であったわけですが、これは「戦国の習い」であり、致し方ないものとされたでしょう。

今川義元の死後しばらくして家康は今川氏真と手を切り、信長と同盟を結んで背後の憂いを経ちました。この時に家康が信長の居城である清洲城を訪問したといわれますが、ここで両者は約20年前の思い出を語り合ったと想像できます。この時期に織田と徳川が同盟し、信長の死までの20年間揺るぎなく同盟が継続したのも、「信長・家康の少年時代の良き思い出」があったからかもしれません。

その後、信長の娘の五徳姫が家康の嫡男の信康に嫁いで血縁関係が結ばれ、信長と家康は誠実に同盟義務を果たしあったと評価できます。

家康は朝倉攻撃(浅井の裏切りで失敗に終わる)や姉川の合戦で近江に出陣して信長を助けましたが、一方で家康は主敵である武田信玄・武田勝頼との抗争で少なくとも3度、織田からの援軍を得ています。

(1) 三方ヶ原の戦いの前後 (信長は、足利義昭が諸大名を扇動して形成した『信長包囲網』でがんじがらめにされていましたが、約3千人の援軍を出しました。この兵力は、家康が浜松城に篭城して信玄に対抗するのであれば大きな戦力となります)

(2) 信玄の死後、勝頼が遠江の高天神城を攻略した時 (結果として援軍は間に合いませんでしたが、信長自身が出馬しました)

(3) 勝頼が長篠城を攻囲した時 (信長の本拠地から近いこともあり、信長自身が大兵力を率いて出馬し、家康軍と共同して、長篠の合戦で大勝利を収めました)

長篠の合戦で武田軍が大損害を蒙った後は、武田と織田+徳川のパワーバランスが明らかに武田に不利になりましたので、武田が積極的に織田・徳川に戦を仕掛けてくることは減りましたが、長篠の合戦の後は家康が信長の合戦に援軍として参加することはなくなり、徳川が独力で武田の脅威を排除する(排除できる)ようになっていたようです。結果として、遠江から武田の勢力は次第に駆逐され、家康は三河・遠江の二国の太守となりました。

「信長が、家康の嫡男の信康と正室の築山殿の処刑を家康に命じた」
とされる事件ですが、近年の研究では
「信康と五徳姫の仲が悪かったのは事実のようだが、五徳姫が信康の非を父の信長に訴え、それが信康と築山殿の『信長から家康への処刑命令』につながった」
というのは俗説であるとする見方が有力になっているようです。

史料から伺えることは、
「家康と信康との間に対立が生じ、家康が自分の意思で信康を幽閉、次いで切腹させた。信長は『家康殿の思うように処置されれば良い』という立場であった」
ということのようです。

現に、織田と徳川の同盟は信康の死の後も全く揺らいだ形跡はありません。
これは私見ですが、
「『家康が嫡子である信康と対立して腹を切らせた』というのは、信玄の嫡子の義信に対する仕打ちと全く同じで人倫にもとり、外聞が悪い。『信長に命じられて止む無く腹を切らせた』とすれば、家康の名誉が守られる」
ということで、江戸時代になってストーリーを作ったのではないかと考えます。

また、信長の死後に、羽柴秀吉と対立した織田信雄を助ける形で、家康は小牧・長久手の合戦を戦っています。
後世から見れば、「家康の武略に秀吉が翻弄された」「羽柴と織田の対立を徳川が利用した」ようにも見えますが、実際の所、兵力では羽柴軍は徳川・織田軍より圧倒的に優位です。羽柴軍の戦いようによっては「圧倒的な兵力で徳川を押し潰す」ことも可能であり、家康はそれを覚悟して開戦した筈です。
「家康が、信長の死後も友諠を忘れていなかった」状況証拠となるでしょう。

家康が信長に対してどのような感情を持っていたのかは史料からはなかなか伺えませんが、状況証拠として、
「関ヶ原の戦いの後で家康が天下を取った後の、信長の子孫への待遇」
で推し量れるのではないでしょうか。

関ヶ原の合戦で家康に明らかに敵対し、剃髪して高野山に上った織田秀信は仕方ないとして、

信長の弟の織田長益(有楽斎)
信長の不肖の子であった信雄

の二名が、1600年現在で生き残っていた信長の主な近親ですが、家康はいずれにも「大名」の地位を与えております。

信長の縁者の江戸時代以降の状況については、ウィキペディアに詳細に書かれていますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3.E4.BB.A5.E9.99.8D
さしたる武功もなく、「積極的ながら西軍についた」者も少なくない中で、天下人となった家康は、信長の縁者を十分に優遇していると言えるのではないでしょうか。

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田...続きを読む

Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む

Qどうして家康は内府と呼ばれていたのですか?

豊臣政権末期で、徳川家康が「内府」と呼ばれています。どうして内府と呼ばれていたのでしょうか? 国内の政府の代表だからですか? 家康以前にこの様に呼ばれていた人はいたのでしょうか?

呼び方(読み方)も「ないふ」と「だいふ」とあるようですが、どちらが正しいのでしょうか?

「内府」があるならば、「外府」「小府?」等と呼ばれたりした人がいたのでしょうか?

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「内府」とは朝廷の官名「内大臣」の漢名です。
徳川家康は「内大臣」の命を受けていたので、「内府」と呼ばれました。
豊臣秀吉のことを「太閤」と呼ぶのも、
「太政大臣」の官名が「太閤」だから。
ということだったかと。
中納言のことを「黄門」と呼ぶとか。
(水戸黄門ですね)

尊称として呼ぶときに、中国由来の呼び方をしたと思われます。
たしか、総理大臣のことを「首相」とよぶのもそういう意味合いですね。

外大臣はいないから、外府と呼ばれた人は、いないと思います。

Q徳川15代将軍の各人のイメージを教えてください

高校の日本史でいま江戸時代のことを
勉強しています。僕は15人もいて覚えるのが
大変なので徳川家が嫌いです笑
しかし各人のイメージを覚えればその人の
行った行動なども一緒に覚えれることに
きづきました。例えば・・・・・・・

8代将軍 吉宗 暴れん坊将軍。紀州藩出身。身長2メートルの巨人。
図体がでかいくせに死に際には米の値段を記した米価表を握っていた。
(意外と経済に詳しかった。別名米将軍)

11代将軍 家斉 すごい遊び人。子供と奥さんの数は半端じゃない(エロ親父)

こういう風にイメージで覚えると全員覚えれそうな気がします。
あなたがもつ徳川歴代将軍のイメージを教えてください!!!!

Aベストアンサー

あらかた回答が出ていますので、私の回答はもっと意外性を含ませたものにします。

家康:未亡人が好み
家康は未亡人を、子を産んだ女性を好んで妾にしていました。これは自分の子供を作るには、子を産む能力は合格な女性が1番である、という合理的な考えからきたようです。健康オタクぶりといい、情より利益を考えて行動するタイプでした。
秀忠:とことんカタブツ
妻のお与に遠慮してか秀忠が女性に固いのを心配した家康が、女性をプレゼントします。しかし、秀忠は丁寧におもてなしして、とうとう指一本も触れなかったのに家康は呆れるやら褒めるやらだったとか。ちなみに豊臣家を完全に叩き潰せ!と家康に進言したのも秀忠だったとか、
家光:甘ったれお坊ちゃま
家光が名君といわれたのは将軍時代後半からの事です。若い頃は現代風にいえばバンドにはまったり、ビジュアル系のファッションをしたり、夜遊びやゲイに走ったりして重臣を困惑させていました。あと、乳母の春日局には、マザコンでした。
家綱:面倒くさがり屋
10歳ぐらいで将軍になったため、人の上に立つ事が苦痛だった。政治は老中任せで「そうせぇ(あ~分かった分かった、それでいいよ)」と熱心ではなかった。
綱吉:チビの犬公方
お寺に残っている位牌の大きさからすると、綱吉は身長が130cmと低かったらしい(残されている絵では面長の長身だが、これはオーバーに描いた結果?)。そのため、学問好きなど、かなりのコンプレクス持ちだったというのも納得。
家宣:無名の美男子
家宣はキリっとした顔の美男子だったらしい。綱吉が将軍を死ぬまで譲らず、やっと将軍になれたのは48歳。しかも3年目で死んだため、知名度があまりなく可哀想な人。
家綱:薄幸の幼将軍
将軍になったのは4歳。そのため病気の父・家宣に心配される。僅か3年目で風邪が悪化して7歳で夭折してしまう。でも、頭がいい子だったという。
吉宗:名君の顔した独裁者
表向きは民衆に優しい名君だったが、裏では御三卿をつくり自分の子孫が将軍になれるようにした独裁者だった。自分が大名・将軍になるのにジャマな人たちを全員毒殺したのでは?という説があるだけに、本当は恐い人だったのかもしれない。
家重:知恵遅れの小便公方
難病か、行動もおぼつかなく言語不明瞭だった。あまり表に出る事が無かったが、お寺で墓参りする時に、トイレが近い家重のためにトイレをアチコチ多く作ったので、「小便公方」とあだ名を言われていた。ただ、将棋好きで、そんなに頭は悪くなかったよう。
家治:帝王学ニート
祖父の吉宗に期待されて、帝王学を受けて育った。しかし、政治は苦手で趣味の将棋にこもるばかりで、今で言う高学歴ニートの感じになってしまった。田沼意次に毒殺されたと噂が流れて、田沼人気は完全に地に落ちてしまった。
家斉:大野望の好色家
御三家・御三卿や親藩に自分の息子を養子に、娘を嫁に押し付けて自分の血統による日本支配を目論んだ好色家。最初のうちは松平定信を信頼して改革を任せていたが、カタブツな彼がだんだん嫌いになってしまった。
家慶:ショウガで激怒
水野忠邦の天保の改革で、好物だったショウガが贅沢品で栽培禁止になって食べられなくなったのに激怒、すぐやめさせた。政治手腕は下手だったとも、普通にできたとも、評価が難しい。
家定:無能なイモ公方
家重以上に無能な将軍。病弱で何も出来ず、ただ人前でイモを蒸かしたり、マメをいってその場で食べるなど理解不能な行動を繰り返した。そのため、「イモ公方」とバカにされていた。将軍の役は完全に務まらないまま、35歳で死亡。
家茂:酷い虫歯持ち
家茂の遺骨はまともな歯が無いほど酷い虫歯だった、そのため虫歯が要因で若死した説が有力。羊羹など甘くて柔らかい物が好きだった。性格は素直で、政略結婚した和宮とも仲はよく、勝海舟は彼の事の信望していた。
慶喜:コロコロ変わるインテリ
家茂の事が好きだった勝海舟は、逆に慶喜が嫌いだった。インテリぶるくせに、言う事がコロコロ変わるのを嫌っていたから。明治維新後は趣味にたくさん生きた自由人になるが、これは反政府運動に担がれないためにこういう行動をしたためとも。評価が難しい将軍でもあるが、大正時代まで76歳と家康より長生きした。

徳川将軍家(宗家)はここで終わったのではく、家達・家正・恒孝と現在まで続いています。この3人にも面白いエピソードがあります。

あらかた回答が出ていますので、私の回答はもっと意外性を含ませたものにします。

家康:未亡人が好み
家康は未亡人を、子を産んだ女性を好んで妾にしていました。これは自分の子供を作るには、子を産む能力は合格な女性が1番である、という合理的な考えからきたようです。健康オタクぶりといい、情より利益を考えて行動するタイプでした。
秀忠:とことんカタブツ
妻のお与に遠慮してか秀忠が女性に固いのを心配した家康が、女性をプレゼントします。しかし、秀忠は丁寧におもてなしして、とうとう指一本...続きを読む

Q織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??

織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??
個人的には信長が天下統一をして、他の国を侵略していたんじゃないかと思います。
(すぐに病死したなどはやめて下さい)実際塩分を取りすぎて健康ではなかったようですが・・・

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


 信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。

 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、今の自由主義のような、貿易・経済活動を目指していたと思われます。

 また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、都市建設・道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開・海外進出したと思われます。

 更に一つの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。

 信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1595年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)
 新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです。

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に...続きを読む

Q明智光秀はどうして信長を殺したんでしょか?

こんにちは
日本史に詳しくないのですが、
明智光秀はどうして信長を殺したいと思ったんでしょうか?

また信長というのは攻撃的な性格という印象がありますが
いろんな人間から恨みを買ったため、そのうちこういう目にあうのも
自然な成り行きだったという事なんでしょうか?
それとも…???

Aベストアンサー

 本能寺の変は、日本史の謎の一つですね。

 さて、下記のサイトがありましたのでご紹介します。
■本能寺の変
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/honnoujinohen.html

 よく言われるのは母親の見殺し説です。
 光秀が波多野秀治を攻略する際に、自分の母親を人質として差し出すことで開城に成功しました。しかし、信長は波多野秀治を殺してしまい、それに怒った家臣は光秀の母親を殺してしまいます。こうしたことが引き金になったのではないかと言われています。

 ただまあ、理由は一つではないでしょう。ご紹介したサイトには7つもの推測が記載されていますが、これだけの背景があれば、謀反を起こすには十分すぎるたのではなかったかと思います。

 光秀は、今で言うインテリで、大変まじめな性格でした。逆に、プライドが高く、融通の利かない面があったと推察されます。このことから、信長の過酷な性格と相容れない部分が多く、最後には追い詰められて限界に達したのでしょう。

 彼は信長に見出され、一気に出世階段を駆け上がっていきますが、人使いの面では、他の織田家の武将同様、酷使されていました。信長は、今まで評価してきた幹部でさえも、働きが少し鈍るだけで首にしたりしたのですが、こうした面が、彼を追い詰めることになったのでしょう。

 余談ですが、現代を見ても、急成長している企業で、社長の腹心が唐突に辞職するケースは大変多いのです。社長からすれば、部下に十分すぎる給料をやって、相応のポストを与えて、一体何の不満があるんだ?と言うことなのでしょうが、それに応える部下の心労は、人並みではないと言うことでしょう。こうした企業では総じて、頭脳だけでなく、図太い神経をも持ち合わせていなければ、勤まらないことが多いようです。

 ご参考まで。

 本能寺の変は、日本史の謎の一つですね。

 さて、下記のサイトがありましたのでご紹介します。
■本能寺の変
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/honnoujinohen.html

 よく言われるのは母親の見殺し説です。
 光秀が波多野秀治を攻略する際に、自分の母親を人質として差し出すことで開城に成功しました。しかし、信長は波多野秀治を殺してしまい、それに怒った家臣は光秀の母親を殺してしまいます。こうしたことが引き金になったのではないかと言われています。

 ただまあ、理由は一つではな...続きを読む

Q太平洋戦争当時日本軍が三八式銃を使用していた理由は

三八式銃とは、明治38年 に発明された旧式の銃らしいですが、
これを太平洋戦争当時でも使用していたそうです。
戦争中の兵器の進歩は日進月歩なのが普通なので、
これは不思議なことです。
使用し続けた理由は何でしょうか?

大量に余っていたとしても新式に鋳直せばよいだけのことです。
現に戦闘機などはどんどん改良を重ねています。
なにか特別なことがあったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られていますね。
新しいともいえませんが、それほど古いともいえません。つまり、ボルトアクション式では、すでに三八式は「決定版」ともいえる代物だったのです(No12の方が言っているように日本人にとって扱いやすいのも大きい)。
決定版なので、それ以上のものは戦術的転換がないかぎりは不要です。現在でもピストル、小銃などは50年以上前の設計の物だって十分現役で使っている国もあります。これらは現代の戦術では決定版足りえる代物だからです。

さて、先ほどから「戦術」という言葉を使っていますが、これが、三八式におきた一つ目の悲劇です。
時代は第1次大戦、火器は「小銃による打ち合い(砲は補助的)」から「重砲と機関銃(小銃は補助的)」による戦術に「転換」しました。

つまり三八式の作られた時代の戦術概念と第2次大戦では大きく様相が変わったのです。
基本的に新しく作られた戦術というのは、前に使われていた戦術よりも優れています(優れているから採用される)。
つまり、三八は世界的な戦術である、火砲、機関銃の大量使用による弾幕戦と戦うようには対応していません。
諸外国のようにそれらの「補助兵器」として使うならば十二分の性能だったでしょう。

当時の戦術において勝利を決めるのは火砲、機関銃、戦車といった兵器で、小銃はすでに勝利を左右する兵器ではなくなっていました。
しかし、日本軍にはそれらで力のある兵器はありません。

勝利を左右する兵器を持っていない軍隊と、勝利を左右する兵器を大量保有している国が戦えば・・・どうなるかはわかりますね?

日本軍が、(あくまでボルトアクションから進歩した存在であり、補助兵器の域を出ない自動小銃はともかくとして、です。諸外国がこれの更新を遅らせたのは、他に国力を注いでいたためです)火砲や機関銃の大量配備を嫌ったのは、塹壕戦による経験が薄かったために有効性を信用しきっていなかったのもありますが、最大の理由は、工業力がこれらの兵器を「全軍にいきわたらせて、かつ戦えるだけ」の力を持ち合わせていなかったことです。
国力と軍事力の兼ね合いが著しく悪いとも見れます。海軍でもいえますが、国力以上の軍事費は維持費や更新費用の面で国家を破綻させます。弾薬についてもそうです。自国の国力でまかなえる以上の弾薬を使う軍隊を持てば、補給にひずみが生じて、供給が追いつかなくなります。
かといって軍隊を減らすわけにもいかない状態ですし、そのおかげで更新(つまり戦術転換)に使う国力もない。新しい戦術では弾薬を多く使うので、転換したところで維持できるだけの国力もない(諸外国は生産量を増やしたのですが、日本ではそれができるだけの国力すら残っていなかった)。
日本軍が抱えていたひずみとかゆがみが、小銃にも現れているのです。

もう一つの悲劇が、1つ目の後半とかぶりますが日本の工業力の低さです。
当時、日本の技術力はとにかく欧米に追いつけということでタッチアップを図っていましたが、まだまだ追いついていません。
よく「日本の技術力は世界一だった。アメリカに物量で負けた」なんていう人がいますがこれは大間違いです(空技廠から上がってきた航空機の図面で、「この部分は鋳型をつかった鋳造で」となっていても金型が作れずに削り込み部品にしたというのはよく聞く話です。つまり当時の技術はその程度)。
中でも惨憺たる分野が重工業全般の中でも最重要分野の鉄鋼業でして、製鉄も自国では補完できない、鋳型技術も低い状態です。
さらには、精密機械技術が発展途上でして、とにかく精度が悪い(戦前の日本兵器において「統一規格」はありません。というより作れなかったのです。精度が維持できないのですね)。そのため小銃ですら調整しないと命中精度が維持できない上、部品の互換性がない。これは前線において問題です。
別々の箇所が壊れた銃をばらして一つの壊れていない銃にするというのは、軍隊ではある程度普通ですが、日本ではこれが出来ない。つまり不経済な状態です。
また、弾薬の製造精度も悪いため、弾詰まりが多い。これは自動小銃のほうで批判されますが、こちらについては「吐き出す量が多いためハズレに当たる確率が高い」だけなのです(まあ、自動小銃のほうが若干弾詰まりを起こしやすいというのはありますが・・・)。

ながくなりましたが、結局は日本と日本軍の構造上の問題なのです。
日本において三八式が評判が悪いのは、本来的に責任はない三八式に、日本の抱える問題を添付してしまっているからです。結局問題は日本自体にあるのです・・・
というわけで、三八自体の設計は優秀ですし、ボルトアクション式小銃の決定版でもあります。

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られてい...続きを読む

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

こんにちは。

私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。
徳川家は八百万石という力を持っていたにも拘わらず、江戸と呼ばれる範囲はあまりにも小さいと気が付きました。
他の裕福な藩は(加賀など)広々とした領土なのに、どうして徳川家の領土(城下町?)はこんなに狭いのでしょうか。
江戸以外にも、直の領土があったのでしょうか。
それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。

教えていただけたら、ありがたいです。

Aベストアンサー

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代に...続きを読む

Qお公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住

お公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住の四条家や京都在住の冷泉家は裕福そうですが、旧五摂家や他の旧公家はどうでしょうか?ご回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

私の知人は藤原北家隆家流の堂上家で、ご本家は明治維新後は子爵でしたが、曾祖父の代で傍流になり、祖父が変な修験道に凝って土地を切り売りして没落、父親はそれでも一流企業の役員として悠々自適の生活でしたが、子ども(私の知人ですけど)の代で相続争いで残った資産も散逸し、現在は何とか暮らしているという状況です。

別の知人は堂上華族で、維新の後はうまく資産家のところに婿養子に入り込み、戦前戦中は上手に生き抜いて、この知人の父親の代は徴兵逃れで医者になり、知人の代でも医者や歯医者が多く、比較的裕福に暮らしています。

両方ともご本家ではなく、傍流ですけど、ご本家は神社関係の仕事をしています。


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