牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

盧溝橋事件は、現地では停戦協定が成立しましたが、いつのまにか宣戦布告のないまま戦争に発展してしまいました。
政府や軍の一部には戦争を回避しようとする動きもあったのでしょうが、それを抑えて
この事件を機に中国に派兵して一撃を与えようと画策した積極論者を一人挙げるとすればそれは誰ですか。
よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

こんにちは。




局地的な武力衝突だった盧溝橋事件なのに、これを契機として、支那事変(事実上の戦争状態。日中戦争)を生起させてしまった日本側の責任者を、かりに軍部の中で探すとすれば、最高の責任者は米内光政海軍大将・海軍大臣(第一次近衛内閣)ではないでしょうか。

・S12(1937).07.07 中国の北平市郊外で盧溝橋事件が発生

・S12.07.11 現地で停戦協定が成立(松井太久郎・秦徳純協定)

・S12.08.13 上海で日本海軍陸戦隊と中国軍とが本格的な武力衝突(第二次上海事変)

・S12.08.13 政府閣議で、米内海軍大臣が陸軍の派兵を要求。中国での武力衝突の拡大を懸念した杉山陸軍大臣が承諾しなかったが、米内の強い要求に折れて、陸軍を支那に派遣することを閣議決定。三個師団による上海派遣軍が編成された。

・S12.08.14 上海で、中国軍機が日本総領事館と日本租界を無差別空爆。また上海港に停泊中の日本海軍の戦艦「出雲」を空爆。

・S12.08.15 日本海軍は九六式陸上攻撃機で、大村空港と台北空港から中国の都市を目標とする渡洋爆撃を敢行。戦争拡大の既成事実を作った。

・S12.08.15 近衛首相は「………最早隠忍其ノ限度ニ達シ、支那軍ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス為、今ヤ断固タル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ………」との政府声明を発出。中国に対する実質的な宣戦布告になったこの声明は、政府閣議で米内海軍大臣が提議して、閣議が承認したものである。 

7月11日の閣議では北支事変(北中国)と呼ばれた事変が、9月2日の閣議では支那事変(中国全体)と呼ばれました。このように戦線が拡大したのは、海軍が事変の拡大を主導したからであり、その最高責任者は米内光政海軍大将・海軍大臣であると言うべきです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

盧溝橋は華北で陸軍の縄張り、上海を含む中南支は海軍の縄張りですから、海軍主犯論から言えば米内光政海軍大臣ですか、なるほど。
一人に絞るのは難しいことがよく分かりました。
回答して下さったお陰でいろいろ調べることができました。

お礼日時:2014/09/22 19:47

<参考>


 No.4です。
 「どんな論法で不拡大方針の石原莞爾を押し切ったのか」

 日華事変当時よりは前になりますが、雰囲気的に伝わるエピソードかもしれないので、以下に記載します。

 1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう説得に出かけた時には、現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

 その後、石原は彼らを評して、「鵜のまねをする烏」が・・・と言ったとか。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
石原莞爾が、作戦課長に選んだのがその武藤章ですから、歴史は面白いです。
回答頂いたお陰でいろいろ調べることができましたが、複雑で一人に絞るのは無理だと思いました。

お礼日時:2014/09/22 20:29

軍人の中から挙げるとしたら、


田中新一でしょうか?

盧溝橋事件発生後、武藤章参謀本部作戦課長と連携し、不拡大方針をとる石原莞爾参謀本部第1部長を押し切って5個師団10万人規模の北支増派を決定させた。

松岡洋右と連携して関東軍特別演習で、対ソ連開戦準備
本気でアメリカとソ連の両方と同時に戦おうと考えていた。

第二次近衛内閣が南進政策を進めると、対米開戦を主張し、押し進めた。
アメリカや中国との妥協をするくらいならば、戦争をすること以外考えられない人格だった

カタルカナル島撤退に猛反発し、佐藤軍務局長と乱闘事件を起こす、

蒙古では、傅作義に襲われたた腹いせに報復を計画するが、大本営の不不拡大方針に計画を阻止される。
そこで日本軍ではなく、警察部隊に軽装備で進軍させて全滅させられる。(五原事件)

インパール作戦にも関与し、ここでも多くの日本人将兵を無駄に死に追いやった。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
無理矢理、一人に絞っていただきましたが、田中新一ですね。
40代の課長クラスの判断がその後の日本の運命を左右したということになりますね。

お礼日時:2014/09/21 13:38

 当時の日本陸軍内部だけに限ってみれば、一般的な通例解釈としては・・・



 不拡大派の石原莞爾参謀本部作戦部長に対して、武藤章参謀本部作戦課長・田中新一軍務局軍事課長と言う構図か。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
やはりその二人ですか!!課長クラスですね。
どんな論法で不拡大方針の石原莞爾を押し切ったのか、知りたいです。

お礼日時:2014/09/21 13:37

ほかの人も書いていると思うけど「尾崎秀実」でしょう。




朝日新聞などで、対中強硬論を強硬に主張。近衛文麿のブレーンとなり、特に対中国への影響力を発揮させます。


1941年10月、ソ連のスパイ、ドイツ人ゾルゲの諜報団として検挙され、ゾルゲ事件の首謀者の一人として処刑されます。

彼の行った工作は、朝日新聞をはじめとするマスコミを使い、日本が中国へ進行するようにし向けソ連極東方面での安全を確保することが目的でした。そして、マスコミで論陣を張り、近衛内閣のブレーンとなり日本の対中国対策に大きな影響を与えました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
質問が拙かったです。
軍部では誰ですか、と聞くべきでした。
しかし、軍人を除くと尾崎秀美で納得です。

お礼日時:2014/09/20 19:45

近衛文麿です。

この近衛文麿、支持を出していたのが共産党のスパイ、朝日新聞の尾崎秀実です。のちに近衛文麿は青酸カリで自殺。尾崎秀実はソ連共産党のスパイ、ゾルゲと共に絞首刑になっております。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
質問が拙かったです。
軍部では誰ですか、と聞くべきでした。

お礼日時:2014/09/20 19:41

充分に調べて、判った上で、書き込んでいますよね?



当然に日本人の総意です。

当時の日本は議会制民主主義を貫いており、軍部も国民の支持無しには動けませんでした。

逆に言うと民意に沿わなければ、暴動も起き得る時代でした。

何しろ徴兵制ですから、兵の後ろには家族がいますので。

中国の日本に対する態度は、西欧に対する其れとは異なり、何れは日本が対応をするという認識は西欧の大使の中で懸念されていた節も見られたとの話があります。


日中戦争は国家や軍部が綿密に計画を立てて始めた騒乱では無く、偶発的に始まってしまった騒動です。

ですので、未だに誰かに集約する事が出来ないのです。

まぁ、其の上で犯人を挙げろと言うならば、石原莞爾に習って私はペリーを挙げますw
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
ペリーですか、とどのつまりはそこに行き着くということですね。

質問が拙かったです。
軍部では誰ですか、と聞くべきでした。

お礼日時:2014/09/20 19:39

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