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 源義経の死に関して、「吾妻鏡」に「予州持仏堂に入り、まず妻(22歳)、子(女児4歳)を害し、次に自殺する」とあるそうです。……義経のことだと思うのですが……(*^_^*)

 義経には、有名な愛妾「静御前」がいるし、確か、「正妻」もいたはずだと思い、義経には、どんな女性が、何人くらい……静御前と、正妻と、平泉で亡くなった女性と、少なくとも、3人は……関係していたのだろうかと、調べてみて驚いたのですが、平泉で死んだ母娘というのは、もともとの正妻で、河越重頼女だということでした。しかも、この女性とは、離縁し、故郷に帰したとのことでした。

 このとき、ふと想い出したのが、「北条政子」でした。当時はとらわれの身とはいいながら、敵方の頭領である頼朝のもとへ「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」という、鎌倉時代?の女性の気持ちと、離縁されたにもかかわらず、東北・平泉……当時は、気が遠くなるほど、遠かったのではないか?と想像するのですが……まで、追いかけていった「河越重頼女」とに、女性としての生き方に何か共通点があるのではないか?と思い質問しました。

 「平安~鎌倉」という時代背景があるのでしょうか?あるとすれば、女性の生き方にどんな影響を与えていますか?

 あるいは、そもそも女性の生き方というのは、時代を問わず、こんなにも激しいものなのでしょうか?

 私の場合は、優劣付けがたいと自分で思うご回答が2つ以上あると、BAを選ばないで締め切る場合があります。それでもよろしければ、お考えを教えて下さい。

A 回答 (2件)

22azqq22さん,こんにちは。



平安~鎌倉時代には,女子にも所領の相続権がありました。
つまり,経済的に自立ができたのです。

女性の地位の低下は,相続権がなくなり,
経済的な自立が困難になってからだと思われます。

参考URL:http://blog.goo.ne.jp/syaraku0812/e/923658afbbd0 …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

なるほど、なるほど、頷けるところがありますね。現代の女性が…………なのも、経済的に自立していることが要因の1つかな。(*^_^*)

現在、気の向くままですが、「鎌倉時代」を勉強しています。大変参考になるサイトをご紹介いただきましてありがとうございます。m(_ _)m

お礼日時:2014/11/28 04:06

こんにちは



まず、「予州」ですが、「前の伊予守源義顕」の「伊予守」の異称の「予州」のことです。源義経は「義行」を経て「義顕」と名を替えていますので、つまるところ「予州」とは源義経のことです。
次の、「河越重頼女」は「郷(さと)御前」と呼ばれていたようですが、義経と離婚したとはされていません。義経が都落ちしたと同じく身を隠し出産、その後義経と連絡を取って共に奥州に下ったようです。義経の再度の奥州下りは、潤色されたり、誇張された部分が多く、判然としないのですが。
「女性の生き方というのは、時代を問わず、こんなにも激しいものなのでしょうか?」
「時代を問わず」はともかく、この時代の女性は激しかった例はあります。頼朝の前で義経を慕う歌と踊りを堂々と披露する静御前も激しい女性ならば、激昂する頼朝をなだめて静御前を助命させた北条政子も激しい女性と言わざるを得ません。その政子は頼朝の愛人の亀の前の邸宅を、継母の牧の方の父親の牧宗親に命じて「*うわなり打ち」をし、邸宅を破壊します。これに怒った頼朝は政子を怒れず、実行者の牧宗親を追放処分にしています。さらに、娘大姫の婚約者の*清水冠者義高が木曽義仲の滅亡後、大姫の手引きで鎌倉を脱出すると、頼朝の命で義高を討った堀近家の郎党を政子は頼朝に要求して殺害させています。
*うわなり打ち=後妻打ち、次妻打ちとも書き、本妻や先妻が、めかけや後妻を打つこと。家を襲うこと。
*清水冠者義高=木曽義仲の嫡男で、大姫との結婚という条件で実質人質として鎌倉に送られる。
鎌倉期の女性が土地の相続権を持っていたのは確かですが、その多くは一期分で、女性所有者の死後は、惣領に返還されるか、最初から次の相続者が決まっている相続でした。このような相続の方法は、所領の分散を防ぐとともに、女性の生活を支える目的があったのは言うまでもないのですが、それ以外に、所領を政争の外に置くという目的もありました。鎌倉時代に北条氏に対抗して乱を起こし、破れた御家人勢力の中でも、女性の場合除名され、所領も奪われない例が見られます。中には男性名義の所領で、没収された後に、後家などに一部返却された例もあります。朝廷社会でも八条女院領のように女性の所有者もあり、これも政争の外に所領を置く処置であったとする有力な説があります。

以上、簡単な例を上げましたが、もう少し調べてみたいと思います。しばらく、この質問を締め切られないようでしたら幸いです。

この回答への補足

他に回答して下さる方もおられないようですので、いったん締め切ります。もし、調べられたことがありましたら、次の私の質問(お目にとまりましたら)の機会にお知らせいただければ幸いです。

補足日時:2014/11/30 16:36
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

ご回答が、『まず、「予州」ですが、』で始まりましたので、私の誤解だったのかと、一瞬不安に陥りましたが。「義経」とのこと、安心しました。(*^_^*)

質問投稿後も、河越重頼女と北条政子の生き方に、思いを巡らしていて、ふと考えたのですが、この二人の生き方は、伝承されている静御前の生き方とは少し違うのではないかと思いました。

ご回答にあるように、静御前にも「激しさ」というのはあったと思いますが、武家の育ちではありませんよね。当時、台頭しつつあった「武士」の子女として育った、すなわち「武家の育ち」ということが影響しているのではないかと考えてしまいました。元々知識がありませんので、この考えに、何の根拠もありませんが。

それにしても、北条政子というのは、「激しさ」を通り越して、ある種の「恐怖」も感じますね。頼朝の浮気をしたい気持ちも分からないではない……。(*^_^*)

お礼日時:2014/11/28 04:31

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