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大谷吉継が越前敦賀5万石だったのは何故でしょうか?
彼は秀吉に「100万の兵の采配を任せてみたい」と言わせたほどの武将です

せめて10万石ぐらいもらってても良かったのでは?

A 回答 (4件)

九州征伐では、兵站奉行石田三成の下、功績を立てた。


三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当。
常に三成の弟分での扱いであり、三成は秀次事件等で加増されたのに対し、三成配下以外での活躍に乏しく、五奉行格になれなかった彼が5万石以降加増なしは妥当ではないでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7% …
そもそも「100万の兵の采配を任せてみたい」が作り話です。秀吉自身100万の兵など見たことない。
その気になれば小田原攻め、朝鮮出兵の采配を任せてみればよかったはずです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

それがあながち作り話でもないようです

お礼日時:2015/01/12 16:47

azuki-7 さん おはようございます。



私も他の回答者と、ほぼ同じ意見です。

補足として、想像上の歴史ロマンを書きますが、大谷吉継は病身のため、5万石以上の土地を与えると、秀吉から言われても、大谷吉継のような知者は領地経営が出来ないと、自ら断ったのかもしれない。

当事、豊臣の天下の維持に対し、秀吉が恐れたのは、徳川家康と黒田官兵衛。

ご存知と思いますが、危険分子の黒田官兵衛は九州に飛ばし、筑前12万石。それに比べれば、京に近い越前敦賀5万石は破格の待遇と思います。土地の開拓もする必要のないほど、すでに朝倉氏が開拓していた土地と思います。

おそらくは裏で石田光成が動いていた。なにしろ、北条氏との戦で、黒田官兵衛の高松城水攻めをパクリ、忍城水攻めをしても失敗するほどの戦下手。

佐和山19万石のどれくらいを島佐近に与えたかは、知りませんが、おそらくは、茶の湯で粗相した大谷吉継の茶を飲み、大谷吉継と親交が深かった石田光成は、島佐近と大谷吉継を交え茶の湯において軍事会議を頻繁にひらき、対徳川家康対策を練っていたと想像します。

まあ歴女ぽい、azuki-7さんは、これからは、お城めぐりはやめて、旧家のお蔵めぐりをして、資料集めに励んでください(笑)。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
私は歴女ではありません

お礼日時:2015/01/12 16:47

>大谷吉継が越前敦賀5万石だったのは何故でしょうか?



先ず、他にも回答がありますが領地が無かった事でしようね。
その代わり、日本海から京都・大坂に向かう街道の重要地(要衝)を任されています。
信頼出来る家臣だからこそ、敦賀を任せたのでしようね。
また、5万石というのは・・・。
官僚としての石高で、戦闘能力としての石高ではありません。
秀吉が政権末期に異常にならなければ、各街道の要衝に配置換えになっていたとの説もあります。
一種の転勤族ですから、そんなに石高は必要ありません。

>せめて10万石ぐらいもらってても良かったのでは?

10万石ももらうと、領地経営で忙しくなります。
領地経営に力を入れると、領地に愛着を持ち「在郷(土着)武士化」しますよね。
一種の「一方通行の出向」です。
大谷吉継は、あくまで官僚なんです。
官僚と言っても、三成とは異なりますよ。軍事司令官としての官僚です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2015/01/12 16:47

領土に出来る土地は限られてますから、増やそうにも、その土地が無かったでしょう。


恩賞として領土を与えるには、合戦でそれだけの活躍が必要ですけど、そのチャンスが無かったとも言えます。
 軍師としての才より、最前線で戦う武闘派の人たちを優遇しなければいけないという事情もあります。
 後の家康も、有能な譜代を冷遇し、外様に広大な領地を与えてます。

 彼の病気も、障害だったでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2015/01/12 16:47

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