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キリスト教なりイスラム教なり、色々な宗教、あるいは神が存在していると思います。
それぞれの神の言っている(示している)ことは

【本質的に】

何が違うのか、できるだけ具体的に教えていただけませんか。
または、本質的な違いは無いですか。

A 回答 (27件中11~20件)

非思考の庭。

非知なる非経験の場。
これは、仏教で云う処の阿頼耶の心の事。

私流に表現すれば宇宙の本体から分出した精神、種。
この種に、それを個として存続させるために必要な力(仏教では欲、畢竟それは煩悩)を身に付けながら成長します。

ブラジュロンヌ氏はそのブラジュロンヌ哲学ゆえに、既成の言葉を安易に使うことなく哲学的に真理を捕えようと、独自の表現を使っているのです。

ブラジュロンヌ氏の"信仰"とはこの阿頼耶の心を大切にしようと云う思いなのです。

また、ヒラメキとは、仏教で云う四大智慧である大円境智、平等性智、妙観察智、成所作智、の内の妙観察智の働きの事かと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

色々参考になりました。

お礼日時:2016/01/23 23:16

真の宗教は個人の善意を育てる為の信仰、であると云えます。


社会や、組織はそこから生み出されるのが理想でしょう。
これを通して生み出されるトップが望ましいと思います。
いきなりのトップダウンは個人を蔑ろにしてしまいがちだからです。

でも昔は個人の力は無力。伝える手立てが無かったので、いきなりの強力なトップを必要とし、受け入れてきました。
その結果、トップの資質によって数多のいざこざが生じ、それこそ平和と云えるような社会ではありませんでした。

日本ほどには、生き抜くためにあくせくと働かなくても良い環境がインドに有ったのかも知れません。そこで生まれた釈尊は心の内を見つめることで"真理"に辿り着き、心の仕組みを顕わしました。
これが内向き、です。

西洋は戦いが生き抜く事に必要の様でした。その行動に神の心を含ませて指針としたのがキリスト教で、だからそれは"行動"に付いてです。
これを外向きと云いました。

"何とか"は良く知らないと云う事です。
ただ、仏教的な、またキリスト教的な、慈悲・博愛に拘っていては生きていけない世界(環境)の為の宗教のようには思っています。

こう、考えながら作文して居たら、行きつくところ宗教とは生きるための教え、と云う事になるのかなぁと思いました。

この回答は、何とかなりましたでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>でも昔は個人の力は無力。伝える手立てが無かったので、いきなりの強力なトップを必要とし、受け入れてきました。

なるほど。
宗教は必要悪であった(ある)、ということですね。

内向き、外向きの意味、了解しました。
アジア圏はのんびりした、西洋圏はせわしない歴史が長かったのですね。
個人的には、インドは怖いような面白いような不思議な印象で一環しているようです。

>"何とか"は良く知らないと云う事です。

素直に受け取ればよかったのですね。

>ただ、仏教的な、またキリスト教的な、慈悲・博愛に拘っていては生きていけない世界(環境)の為の宗教のようには思っています。

ますます気になりますねえ。

>この回答は、何とかなりましたでしょうか。

若干、食い足りない印象でしたが、大変参考になりましたよ。
改めて御礼申し上げます。

お礼日時:2016/01/23 23:13

No.12へのお礼有難うございます。


そこでの追加のご質問に回答します。

【質問1への回答】
あなたの言われる通り、イスラム教の「アッラー」も旧約聖書上の神の呼称「ヤハウェ」(ユダヤ教やキリスト教で使用され、「ヤーウェ」、或いは「エホバ」とも表記される)も、同じ神であり、呼び名が違うだけです。尚、現在のキリスト教では、「ヤーウェ」は使わず、英語では'God'、日本語表記では「主」と呼ばれることが多いです。
詳細は、以下の私の過去回答をご覧下さい。

キリスト教の唯一神の名は何ですか
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8810312.html (No.7)

上に書いた通り、「アッラー」や「ヤハウェ」は「神」そのものであり、「預言者」ではありません。「預言者」とは、神から遣わされて、神の「言葉を預かる者」と言う意味で、「旧約聖書」(ユダヤ教・キリスト教の経典)に載っているイザヤやエレミヤ、エゼキエルといった人々が代表的です。
(未来のことを「予言」する「予言者」とは意味が違います。)
彼らは、未来のこと、特に当時虐げられていたイスラエルを救うために、やがて「メシア」(救世主)が訪れる、という神の「言葉」を預かり、人々に伝えました。
キリスト教では、神でありながら人間として降誕したイエス・キリストこそ、この「メシア」であると信じており、イエスの行跡などを12使徒や弟子達、そしてパウロらが広めて、キリスト教として普及していきました。

一方、イスラム教では、旧約聖書にも登場するノア、アブラハム、モーセと並んでイエス・キリストとマホメットを「五大預言者」と見ており、コーランをはじめとしたイスラム教の経典と旧約聖書の記述には関連性があるようです。

尚、「キリスト教」の神は、一つの神ですが、「父」と「子」(キリストのこと)と「聖霊」という3つの「ペルソナ」(英語のパーソン、つまり人格というほどの意味。一人だけど、3つの顔があると思えばわかりやすい)からなっており、このことを「三位一体」と言い、カトリックの重要な教義になっています。(プロテスタントの教派の中には、これを認めないものもある。)

【質問2への回答】
私は、キリスト教の神には、「意志」があり、意志を以て万物を創造したと理解しています。宇宙や大気など自然のように、意志を持たず、そこに存在するだけのものとは考えていません。キリスト教の神は、「時間」を超越し、「形」を持たない存在であるので、「顔」が見えず、人間には冷酷な存在のようにも感じられますが、「子」(キリスト)を通じて、人間に「隣人愛」などの大切さを教え、人間のように「顔」の見える親しみやすい存在になったと思います。

「神の意志」は、よく、あなたも使用されている「摂理」という言葉で表現されます。
「摂理」とは、人生の出来事や、人間の歴史は、神の深い配慮・意志によって起きているということです。(ヒンドゥー教・仏教で言う「因果・業・カルマ」に当たるようです。)

キリスト教では、「人間は、自分の善行だけでは救われず、神のいつくしみ(慈悲)によってはじめて救われる」と教えられており、そこに働くのが、神の「摂理」即ち「意志」なのだと思います。⇒教皇フランシスコは、昨年2015年の12月8日から本年2016年11月20日までを「いつくしみの特別聖年」とする、宣言されました。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/2016/jub …


尚、前々回の回答(No.8)時に、
>(キリスト教の)隣人愛はたしかに素晴らしいことだとは思うのですが、なぜ隣人を愛さなくてはならないのか、という点についての根拠が、おそらくですが、違っているような気がするんですよね。
と書かれましたが、最後に少しコメントします。(答えになっているか分かりませんが・・・)
・・・大方の宗教の究極の目的は「救い」だと思うのですが、ユダヤ教やイスラム教などでは、その宗教の「戒律」を重んじ、それを律儀に守って行けば、救われると説いたのだと思います。しかし、回答No.8に書いた通り、キリストは、「戒律」を守ることよりも「神への愛」そしてそれと同じくらい「隣人愛」の方が重要だと主張した。しかも、ユダヤ教の時代には、ユダヤ民族内での愛はあったかもしれないが、もっと他の世界にも向けた人類愛を主張した。それが結果的にキリスト教が世界宗教となることに寄与した。いや、世界宗教となるためには、そうした教えが不可欠だったと言ってもいいのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>【質問1への回答】

「アッラー」も「ヤハウェ」も「エホバ」もすべて神を指すのですね。
その場合、たとえばカトリック教徒の「アッラー」や「エホバ」に対する認識、また、イメージはどういったものでしょうか。
唯一神だとされる割には、結構な確執があるような気もするわけです。
このあたりを少し掘ってみたいんですよね。

>【質問2への回答】
私は、キリスト教の神には、「意志」があり、意志を以て万物を創造したと理解しています。宇宙や大気など自然のように、意志を持たず、そこに存在するだけのものとは考えていません。

ご見解を教えていただき、ありがとうございました。
たいへんわかりやすかったです。

>キリストは、「戒律」を守ることよりも「神への愛」そしてそれと同じくらい「隣人愛」の方が重要だと主張した

戒律を守らなければ救う意志は持たない、ということですね?

お礼日時:2016/01/23 23:00

人も人それぞれ言語も違ったり、言う事も違うじゃないですか。

それと同じですよ。

良い事いう人も多いですが たまにはトンデモない事を言う人もいます

或いは日頃いい人が何かの問題で激怒することもあります。髪もおんなじですよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人も人それぞれ言語も違ったり、言う事も違うじゃないですか。それと同じですよ。

言う事は違っても構わないと思うんですよね。
しかし、神というのは「唯一絶対の真理」と同義のはずでしょう。
この点で違う、となれば、果たして神と呼べるのか?という疑問が生じませんかね。
だから争いが起こるのだ、ということなのかもしれませんが、ひょっとして、世の信仰者において、神に対する認識が間違っている可能性はないものでしょうか。

お礼日時:2016/01/20 17:16

★ (№11お礼欄) ~~~~~~~~~~~


 ★ 思考の放棄による信仰
 ☆ は 自己矛盾としての表現になります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 信仰は 思考を成す・成さないや思考の中断・継続・放棄とはかかわりなく 成り
立つ。という仮説です。

もしそうでなければ あたかも《思考の延長》として捉えているに過ぎないでしょう。

もしどうしても
★ 思考の放棄による信仰
☆ という表現を活かそうと思えば その信仰は 思考から離れた思い込みのことです。
思い込みが 信仰とは別だということは あたりまえのことです。同じなら 信仰とい
う言葉は要らないでしょう。

神は 普遍神のことでしかないならば その神の信仰は とうぜん類型としてひとつで
す。
思考の放棄をしたからと言って 普遍神には何の関係もありません。信仰も成り立ちま
せん。

こういうことは 常識(共同の判断力)に属すと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>★ (№11お礼欄) ~~~~~~~~~~~
 ★ 思考の放棄による信仰
 ☆ は 自己矛盾としての表現になります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 信仰は 思考を成す・成さないや思考の中断・継続・放棄とはかかわりなく 成り
立つ。という仮説です。

もしそうでなければ あたかも《思考の延長》として捉えているに過ぎないでしょう。

この論理が良くわからないんですよね・・。
信仰が思考でできるとは全く思っていません。
つまり、信仰という行為自体と思考とは、そもそも何の関係もないでしょう。
しかし、信仰の扉を叩きたい気持ちになったとすれば、その入り口の時点で思考の放棄が行なわれていたと考えるのが、むしろ、自然ではないかという気がするわけです。
これは、宗教への入信であっても、個人的な祈りなどの場合も同様だろうと思います。

>思考の放棄をしたからと言って 普遍神には何の関係もありません。信仰も成り立ちま
せん。

こういうことは 常識(共同の判断力)に属すと考えます。

何も考えず、何も思考しない状態で、ただひたすら神を信仰するのは、本当の信仰ではない、ということになりますか?
私に常識がないのでしょうか・・・ほんと分かりませんね。

お礼日時:2016/01/20 18:42

はじめまして。


歴史上はアブラハムの前にすべての人がたくさんの神々を信じていました。
一神教はありませんでした。
その宗教は民や言語のように数万がありましたが、その起源は先史の時で、誰も知りません、人が作って、今までも数千年間変更させた宗教です。
紀元前2000年ぐらいの時に一つの神がアブラハムに与えたこの約束で歴史を変わりました;
「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」

一つの家族で始まったのはイエスの誕生の時にもう何百万人の民族となって、今は世界の半分がこの神を信じています。
この神についての伝えが三つあります:キリスト教・ユダヤ教・イスラム教。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/01/20 18:19

No.8です。

お礼有難うございます。
ご自分なりにもかなりしっかりしたお考えをお持ちの質問者様に敬意を表します。

以下、その後のご回答や、質問者様のお礼を見て感じたことを、いくつか書いてみます。

★「普遍神」について

ひとつ注目すべきと思ったのは、質問者様が、No.10さんの回答の冒頭にある
「神とは 普遍神のことであり それ以外にはありません。」に同意されたことです。
私は、偶々縁がありカトリックの洗礼を受けていますが、実は、かねてより、「神」とは「普通名詞としての神」ではないか?とのイメージを持っており、以下でも質問しています。

(私の質問1)
「普通名詞としての神」に祈ること 
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html
この表現が適正かどうかわかりませんが、「普遍神」とは、これと似たようなことではないでしょうか?

どうも多くの日本人は、特定の宗教に属することを敬遠し、むしろ「宗教」というメンドクサイ媒体を通さずに、「普通名詞としての神」と直接相対したいと考えているのではないでしょうか?

確かに、「宗教」という人間のこしらえた組織を媒体とするまでもなく、「神」は宇宙万物を創造した訳ですから、それ以前から存在しており、普遍的な存在だと言えるのではないでしょうか?
(特に、キリスト教をはじめとした「アブラハムの神」を信仰する宗教や、日本の神道でも、神は宇宙万物を創造した、と言っています。)

★「宇宙創造神」と異なる仏教の立場

そこで、微妙なのは、仏教の考え方です。仏教は、上のような「宇宙創造神」を崇拝している宗教とは異なり、前に書いた通り、我々今生きている人間や、山川草木に至るまで、「仏性」を宿している存在であり、修行によって、或いは死んだ後「仏」になるというイメージを持っているようです。(尤も、密教=高野山真言宗等のように、大日如来を中心に壮大な宇宙観を唱えている宗派もあります。)

★「祈り」について

これに関して、私が、いつも疑問に思うのは、日本人の「祈り」に対する考え方です。
我々キリスト教徒が、神(「主」と呼ぶことが多いです)に対して、「天におられる私たちの神よ」等と祈るのに対して、仏教では、「祈る」というよりも「お経」を読むことが多いですし、多くの日本人が神仏に手を合わせる姿は、「先祖でもある神仏に手を合わせて、感謝をしたり、一体感を得る、又、加護も願う。」と色んな要素があるにはあるようですが、キリスト教徒とは少し違う感覚を持っているようで、興味を持ちました。
しかし、そんな仏教ですが、私は、以下2番目のように「祈る」ために、お寺さんにお願いしたこともあります。

(私の質問2)
あなたは「祈る」ことがありますか?
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8735362.html

(私の質問3)
法事以外で寺にお経を上げてもらったことありますか?
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/6969735.html

★仏教は「宗教」か? それとも「精神修養法」か?
~仏教とキリスト教における「修行」についての考え方の違い

このように、仏教のあり方や、神仏に対する考え方は、かなり特殊で、仏教のお坊さんの中にも、これは、「宗教」ではなく、「精神修養法」であるなどのように捉えている方もいるほどです。
⇒上座仏教のスマナサーラ師の本など読むと、そのように感じます。

確かに、禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗等)のように坐禅という瞑想(メディテーション)を基調にしている宗派もありますし、比叡山延暦寺の「千日回峰行」や、仏教と日本独自の山岳宗教が混交した修験道のように、厳しい修行を課しているものもあります。

又、神道にも、身を浄めて行う神聖な修養があるように聞いていることを申し添えます。

一方、キリスト教の場合は、修行にはあまり重点が置かれておらず、社会の中で、人間らしく愛を以て生きることにこそ重点が置かれていることを、次の質問に答える中で、再確認しました。

(私の回答1)
キリスト教に身体的・肉体的修行はありますか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7365596.html (回答No.5)

(他にも、oozora2000, 宗教 などで検索されると、山ほどの回答や質問が出てきます。)

以上のように、各宗教によって、宗教や神に対する考え方の違いは、沢山あり、興味深い問題です。
しかし、それにもかかわらず、私は、キリスト教(カトリック)に軸足を置きつつも、他の宗教、或いは、宗教そのもの(「神」でも良い)についても、これからも真摯に考え、研究しつつ、手を合わせて行こうと考えています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

極めて近いお考えだと思います。
せっかくですので、恐縮ですが、2点ほど質問させていただきたいと思います。

1.
>私も「神」というものを、「特定宗教の神」としてではなく、全ての宗教に共通した超越的存在であるという見方をしており、カトリックであることは、単に便宜的なアクセスの方法としてしか考えていません。(「普通名詞としての神」に祈ること 
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html

個人的には、それぞれの神たち(アッラーなりヤハウェなり)自体を預言者と考えれば良いのか・・などと考えていたところです。
仮にそう考えて差し支えないなら、預言者への信仰、という形が成立し得るものでしょうか?
キリストも預言者という立場らしいので(違ったらご指摘ください)、キリストへの信仰は常態なのかもしれません。
ただ、わたしの捉え方としては 普遍神=唯一神 のはずで、その意味では非常に荒っぽい切り口をお示しするとすれば、アッラー=ヤハウェ ともなってしまうわけです。
こうした認識に基づきながら、私はキリスト教徒です、と言うことに、果たして確執は生じないものだろうか?
といった疑問も生じるわけです。
ここで、ひとつめの質問です。
【質問1】
「イスラム教徒も便宜的にアッラーを信仰しているのであって、私たちがキリストを通して信仰している神(主 ヤハウェ)と同じものを彼らも信仰しているのだ」という認識が、現実的にあるものでしょうか。または可能でしょうか。

2.
>確かに、「宗教」という人間のこしらえた組織を媒体とするまでもなく、「神」は宇宙万物を創造した訳ですから、それ以前から存在しており、普遍的な存在だと言えるのではないでしょうか?

【質問2】
「神」は宇宙の摂理の比喩としての表現でしょうから意志を持たないと思いますが、「宇宙万物を創造した」というのも、あくまで比喩ですよね?
つまり、神が意志的に何かを行なうことはありませんよね?

お礼日時:2016/01/20 18:18

★(№10お礼欄) 思考の放棄による信仰


☆ この捉え方について異議を述べます。この一点にしぼります。

☆☆(回答№10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受
け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから
成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。

   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・・・・・【プラス・アルファ】
   ---------------------------------
   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト・・・・・・・【自然本性】
   【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス・【自然本性】

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここで 《非思考の庭――としての信仰の動態――》は 《思考の緑野や感性の原野》
とは 隔たりがあるということを――仮説としてながら――言い添えることができます。

では 非思考の庭は 自然本性ではないのか?
じつは 《超えている》とも言わなければなりません。思考をおこなっていても休んでい
てもあるいは放棄していても 言わば独立してハタラキを持つからです。

具体的なハタラキは ヒラメキです。
信じる対象(非対象)としての普遍神とそしてわれわれ人間とを仲介するのは もしそれ
をも別枠として取り上げるとしたら 天使であるということは すでに議論を経て合意に
達しています。

つまりこの天使という使いのハタラキは 《思考の継続や中断や放棄》とはいっさいかか
わっていません。よって
★ 思考の放棄による信仰
☆ は 自己矛盾としての表現になります。

もしそれをそれでも是とするということでしたら 《非思考の庭――ヒラメキの庭――》
なる仮説のほうを批判してくださるようにと願います。

なにぶんこの仮説を言うのは わたししかいませんので 無視してもかまわんだろうくら
いに扱っておられるのかも分かりませんが 願っておきます。

なお《信じる――つまりは 〈かみ〉を心に受け容れたというコト――》は 自然本性の
精神による意志行為であり 経験事象です。しかも その《かみ》は 非経験の場であり
非知なのです。人知によって知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾです。その点で
思考の緑野とは一線を画しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆ この捉え方について異議を述べます。この一点にしぼります。

推測や思い込みで、らしきことを答えても良いのですが、やはり、前回申し上げましたように、
>★これは、よくわからない文ですね。

を繰り返すほうが、むしろ親切と思います。
おそらくですが、下記について、ごく当たり前の言葉で表現、または補足していただかないと、(わたしならずとも)理解に困難が伴なうように思います。
ご面倒かもしれませんが、少し汗をかいていただけませんか。
特に造語に関しての定義ですね。
因みに、他のURLを挙げて、そこを読めというスタイルは、極力避けていただくほうが理解につながりやすくなるでしょう。
箇所を挙げつつ補足質問をする際などにも、そのようにしていただくほうがよろしいかと。
無愛想なままですが、とりあえずこれが最善策と思いますので。

☆☆(回答№10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受
け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから
成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。

   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・・・・・【プラス・アルファ】
   ---------------------------------
   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト・・・・・・・【自然本性】
   【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス・【自然本性】

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここで 《非思考の庭――としての信仰の動態――》は 《思考の緑野や感性の原野》
とは 隔たりがあるということを――仮説としてながら――言い添えることができます。

お礼日時:2016/01/19 18:51

神とは 普遍神のことであり それ以外にはありません。



名が違っても・あるいは《有る神》ではなく《無い神》であっても同じです。
普遍神は 有る無しや因果関係から成っているこの経験世界を超えているからです。

違いは 個人の内面における信仰の問題ではなく そこから出たオシへとそれを信奉する
宗教の問題です。つまり 人間が勝手にクリスマスツリーにカザリをつけてああぢゃこう
ぢゃと言っているその違いです。

【Q:《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論】 ~~~~~~~~~~~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9147089.html

1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカ
ラである。《非経験の場》とよび そのように想定する。

2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

   経験事象
     可知
       既知
       未知
     不可知(知り得ないと証明し得たものごと)

   非経験の場
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受
け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから
成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。

   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ
   -------------------------
   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 
   【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス

4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコス
モス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>神とは 普遍神のことであり それ以外にはありません。

「神」の解釈にもよりますが(また、そこが論点なわけですが)、唯一=普遍 といった意味では異論ありませんね。

>名が違っても・あるいは《有る神》ではなく《無い神》であっても同じです。
普遍神は 有る無しや因果関係から成っているこの経験世界を超えているからです。

構文としての、この因果関係がよくわかりませんね。

>違いは 個人の内面における信仰の問題ではなく そこから出たオシへとそれを信奉する
宗教の問題です。

まあ、それは同意できます。
ただ、それは一部の問題でしょう。
つまり、
>個人の内面における信仰

自体が、(私の考えによれば)団体としての宗教に取り込まれたのと同様の形態である場合も多いのではないか、ということです。
思考の放棄による信仰なら、当然、そうなる。

>3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受
け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから
成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。

これは、よくわからない文ですね。
>心に受け容れたとき(つまり 信じたとき)

の対象が
>非知なる非経験の場

という論理構文がよくわからないため、全体的にも意味不明の内容という印象を受けます。
もう少しわかりやすい表現に変えるのは難しいのですか?

>梵我一如

というのは、別質問の文中4で、私がすでに述べている次の記述とほぼ同じことでしょう。
『摂理が絶対であるなら、そのようなものとしてしか人間は存在していないはずだからです。』
ただ、それだけだと言葉遊びになってしまうゆえ、そのことから、
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
を導くことが有効であるだろう、ということを述べているわけです。
どちらか一方だけでは、何の意味も無いわけだから、この関連性に着目することが重要なのです。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9151024.html

お礼日時:2016/01/17 18:38

1.先ず、「神」というものの捉え方の違いから言うと、


キリスト教やその前身であるユダヤ教、そしてイスラム教など「アブラハムの宗教」と言われている宗教では、
神を、宇宙と全ての被造物を創造した「絶対神」、「超越神」として捉え、神と人間の間には越えられないものがあると考えています。
ただ、キリスト教になると、神でありながら人間となってこの世に下られた救世主(メシア)であるイエス・キリストを通して、神は、ただ崇める存在であるだけではなく、父のように、何でも祈りに応えてくれる存在であるとみなされているようです。

一方、神道や多くのインド系などの神々は、「人格神」と考えられ、人間とくに天皇家の先祖、近くは我々の先祖も神になると考えているようです。

仏教の場合は、尊崇する対象が「神」ではなく主に「仏」なのですが(但し、仏教にも「神」という存在はある)、「仏」の最高位が「如来」(釈迦如来(おしゃか様)、阿弥陀如来、大日如来)、その下に「菩薩」等があり、今生きている我々でさえ、仏(菩薩)にはなれる可能性がある、と考えられているようです。よく、全ての人間(そして、生き物にも)「仏性」が宿っている、という考え方を伺いますが、これは仏教的な考えだと思います。

2.「宇宙」や「自然」に対しても、この考え方の違いは顕著です。最初に書いた通り、「アブラハムの宗教」では、「宇宙」や「自然」も神が創造した被造物と考え、人間もこれらを「征服」してもよいと考えているようですが、東洋の宗教では、自然は、神と同等の「畏れる」べき存在と考えられ、我々は自然と一体になりたい、共存したいとする感覚が支配的なようで、そうした考えが日本人の自然観の基本になっているようです。

3.最後に、それぞれの宗教で最も重んじていることは何か、ということですが、
「アブラハムの宗教」では、元来、モーセが神から賜った「十戒」をはじめとした「教義」や「教典」、「律法」を何よりも重んじていたのだと思いますが、イエス・キリストは、その当時、律法を杓子定規に守ることばかりに汲々として、人間愛を忘れた「パリサイ人」という支配階級に対して、批判的な目を向け、そこに「隣人愛」という概念を持ち込み、以後、これがキリスト教最大の価値観になりました。

この「隣人愛」の対象は、文字通りの「隣人」である家族など周囲などだけに向けられる愛ではなく、地域、民族、国家、宗教などを異にする未知の人に対しても向けられるものであり、これが、キリスト教が最大の世界宗教として大きく飛躍した源泉でもあります。「なんじの敵をも愛せよ。」、あるいは「右のほほを打たれたら、左のほほも向けよ。」という言葉は皆さん、良くご存じだと思います。

一方、仏教でも、「慈悲」という概念を重要視する(ということは、キリスト教と通い合うものがあるように思います。

4.最後に、宗教には、大きく分けて、「自力」の宗教と、「他力」の宗教があります。
「自力」とは、文字通り、最終的には、自分だけが頼りで、教えは単なるそのための支え、と考えているもので、創価学会などがその代表と思われますが、仏教も、前に書いたように、我々も自ら「仏」を目指しているということから考えても、基本的には「自力」の宗教と考えられます。しかし、鎌倉時代以来、世の中が乱れる中で、「自力」では生きていけない多くの民衆に応えるために、念仏さえ唱えれば極楽に行ける、と言った「他力」の教えが導入されていきました。(浄土宗・浄土真宗など)(参考サイト⇒http://www.higan.net/somosan/2014/07/jirikitarik … )

キリスト教の場合は、「自力」の側面もあると思いますが、イエス・キリストの登場以降、我々キリスト教徒は、「至らぬ我々人間は、自分の力だけでは救われない、神のいつくしみに依存することによってのみ、我々は救われうるのだ。」という気持ちをもつように言われていますので、「他力」の宗教だと考えています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>父のように、何でも祈りに応えてくれる存在

と見なしているのはキリスト教だけなのですね。

>「仏」の最高位が「如来」(釈迦如来(おしゃか様)、阿弥陀如来、大日如来)、その下に「菩薩」等があり、今生きている我々でさえ、仏(菩薩)にはなれる可能性がある

今まであやふやだったので、参考になりました。
心の持ち方に重点を置いている点で仏教のほうが、何となくですが、真理に近づきやすいのかもしれません。

>そこに「隣人愛」という概念を持ち込み、以後、これがキリスト教最大の価値観になりました。

なるほど。勉強になりました。
私見としては、こうした隣人愛はたしかに素晴らしいことだとは思うのですが、なぜ隣人を愛さなくてはならないのか、という点についての根拠が、おそらくですが、違っているような気がするんですよね。
今回の質問には、そうした含みがあります。

>宗教には、大きく分けて、「自力」の宗教と、「他力」の宗教があります。

これに関するご見解も大変参考になりました。

お礼日時:2016/01/17 17:50

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