痔になりやすい生活習慣とは?

タイトルどおりですが、信仰という要素が極めて大きな関連性を持つと考えますので、「信仰」の意味を曲解している可能性は無いか?という切り口から入らせていただきます。
1.【本来の信仰とは?】
まず、わかりやすい定義(語釈)をネット辞書から拾って提示してみます。
[ 信仰 ]
 1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「―が厚い」「守護神として―する」
 2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への―」「ブランド―」
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/114011/meaning/m1 …
[ 信仰(しんこう)/信ずる(しんずる)/信心(しんじん)/帰依(きえ)/狂信(きょうしん) ]
[共通する意味]
神仏を信頼して尊び、その教えに心から従うこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/9804/meaning/m …
「信じる・信頼する」という意志的動詞に着目していただきたいのですが、信仰とは、少なくともそのきっかけにおいては、「自我による思考」によって選択されたものだと判断するのが妥当と思われます。

2.【信仰の現状は?】
しかし、この点を失念して神におんぶに抱っこ状態になってしまうため、誤った信仰(盲信)に転落してしまうのではないでしょうか。
ある人にとっての信仰とは、論理的手段によっては解決不可能と判断された(漠然としたものも含む)不安や怖れなどを解消するための、最終的な手段になっていると思います。
そうだとするなら、論理の入る余地が無いという意味で、信仰は自我による思考の放棄だと(論理的に)言わざるを得ません。
「自我による思考の放棄」とは、同時的に、または結果的に「あるものへの盲信」へとつながるはずです。
念のため確認しておきますと、信仰が「自我による思考の放棄」の結果と仮定した場合、それが「盲信」であることに議論の余地はありません。(何も信じない、というのは「自我による思考の放棄」には含まれない)

3.【つまるところ・・】
自我の放棄による信仰状態を脱し、自らの信仰は自我によって選択されたものであることを確認することが必要ではないか、と思うわけです。
ところで「盲信」とは、
【わけもわからず、ただひたすらに信じること。】という意味です。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/218564/meaning/m1 …
このように再確認してみれば、これは信仰者に限らず人間の常態であると言っても良さそうです。実際、信仰の有無にかかわらず人は何かを「盲信」というほどに深く信じ込んで生きているようにも見えます。
ただ、その選択が自らの意志(自我)によって為されたものである、という認識を持っているか否かが重要ではないかと思うわけです。

4.【では、我々は何を為すべきか?】
信仰というものが、自我によってその選択が為されるとするなら、そこには(形態はどうあれ)根拠が必須になります。
この根拠として、宇宙の摂理(法則よりも適切でしょうから、このように表現します)という絶対性を挙げてよいのではないかと考えます。
「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当でしょう。
ただし、摂理(法則)とは、天体運行に関する科学的な仕組みや、宇宙の構造などを指すわけではない。(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。
そして、この摂理を背景に、人間という種を俯瞰してみるという作業が重要ではないかと思います。
なぜかというと、摂理が絶対であるなら、そのようなものとしてしか人間は存在していないはずだからです。
そのような視点で、人間という種としての自己を観察してみた場合、次のような発想が自然に生まれると思うのですが、いかがでしょうか。

【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】

これを「哲学」と呼べるかどうかはわかりませんが、個人的には、これで、かなりの問題(いずれ触れることもあると思います)が解決しやすく、あるいは納得しやすくなるのではないか、という気がしています。
-------------------------------------------------------------------------
諸賢の厳しい検証に敢えてさらすことによって、さらに充実させることができればと考える次第。
若干、過去質問と重複した部分もあるでしょう。ですので、必要であれば重複したご見解であっても、さらにおっしゃってみてください。
論旨が曖昧な点もあるかもしれませんが、その辺りご斟酌の上、ご回答いただけるとありがたく思います。

質問者からの補足コメント

  • #13お礼欄の続き。

    >(こ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     (け) 【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが
    妥当でしょう。】

    ☆ という定義の場合 《〈その神に人間が恣意性を期待する〉から間違いが起こる》こ
    とはあるのですか。ないのですか? 

    ほんと、人の言うこと全然聞いてませんね。
    いいですか?
    そもそも過去の遣り取りにおいて、恣意性を期待する神に対抗する形で宇宙の摂理としての神を持ち出してきたことは、十分に了解済みのはずですよね?
    神を宇宙の摂理と認識する人が、恣意性を期待するはずが無いじゃありませんか。
    しかし、恣意性を期待する人は、意図的な能力を神に期待するわけですよ。
    人格神とでも言いますかね。そういった存在として神を認識する。
    そこに誤りが生じる、と言っているわけ。
    こんなこと今さら言わないと通じないんですか?

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/12 23:04
  • #15お礼欄のつづき

    念のため修正しておきましょう。
    ×
    要するに「象徴」なのだから「概念」に決まってるでしょ、

    要するに感覚的形象としての「象徴」なのだから、どちらも「概念」に決まってるでしょ、

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/13 01:18
  • #30お礼欄からの続きです。

    >ただ、そういう哲学を一般的にするために、どのような方法論を考
    えておられるのか、気になったのです。

    先を見通したご指摘ですね。
    いくつかの箇所でも触れていますが、個人的に考える上で、いずれ、そうした方向に敷衍していくつもりです。
    また、そのことのほうがむしろ本題と言っても良いと考えています。
    その前提としてみなさんのご見解を参考にさせていただきたい、というのが質問の背景にある趣旨でもあります。
    かなり多岐にわたるはずですが、たとえば、こちらのカテでも色々な方がおられます。
    中には品位に欠ける発言を平気でされる方も数は少ないながらもいます。
    その場合、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という考え方をすることで、そうした相手に対しても静かに見守っていくのが良いだろうという結論が自然に導かれることでしょう。
    次の補足欄へ。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 16:34
  • (上補足欄からの続き)
    ただ、そのように考える根拠が、単なる善として、あるいは単なる神の教えとしてであっては普遍性に、おそらく欠けるような気がするわけです。
    端的に申し上げるとイスラムでもキリストでも良いと思います。
    ただ、それらの神は、あくまで 《宇宙の摂理》の象徴 としてしか存在していないのだ、ということを頭の片隅に入れて信仰するなら、宗教はもっと違う局面に入るのではないか、といったことを思います。
    アッラーやキリストは真理として納得するのは(思考放棄しない限り)難しいのではないでしょうか。しかし、《宇宙の摂理》が存在するのは自明の真理と言えるでしょうし、それに基づいて象徴として存在する神なら真理として納得できるはずです。
    今、思ったのですが、アッラーやキリストは真理そのものではなく、真理の語り部と捉えると良いのかもしれません。
    語り口は異なれ、元となる真理はひとつ、ということです。

      補足日時:2016/01/15 16:43
  • >★ (前記第二の引用箇所)~~~~~~~~~~~~~~
     《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」

    を想定してこそ得られるものだからです。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ☆ すなわち このお示しの神によるからこそ《人間の恣意性を期待する》ことが出
    来る。というわけになるようですね。

    まず、端的にお答えすると全く逆です。
    私の表現不足だったのだと思いますが、
    《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」

    「人智を超えた存在としての神」
    を対比的に扱っている点を再確認の上、論じていただく必要があります。
    少し切り口を変えて表現してみると、
    アッラーは、
    「人智を超えたものの象徴」としての神
    なのか、
    アッラーそのものが人智を超えた存在としての神
    なのか。
    こうした違いと捉えていただくとわかりやすくなるかもしれません。

    No.29の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 18:11
  • (タイトル命題は)
    >何故自然にそういう発想になるのかの論理構造がわかりません。

    4と重複する形になりますが、若干補足を加えつつ述べます。
    まず、(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということが大前提です。
    そうした絶対的摂理の結果として我々は存在しているのであり、しかも、その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である。よって、
    【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
    と言わざるを得ないことは自明なことと言える。
    そのようなものとしてしか人間は存在していないはずであり、そうした真理を認識することが、自ずと自らの(魂の)救済とならないはずがない。
    大体、こういった論理展開です。
    神が言うから平等なのだ、とは、思考放棄でない点で大きく異なっていると思うわけです。
    次の補足欄へ

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/16 22:52
  • 上欄の続きです。

    >宗教的対立を問題にしているのでしょうが、その発想を元にしたら、全ての宗教を統一する事も許されてしまいます。(人間の個別性が必要なければ、宗教は一つでかまわない事になります)

    それが理想ではないかと思います。
    アブラハムの宗教も「唯一神」なのですから、本来、それを目指していたのではないか、という気がします。
    従来の「宗教」の概念は、変わらざるを得ないでしょうね。
    どう変わるべきかまでは、とても考えが及んではいませんが。
    何かヒントをください。
    ただ、おっしゃるように、
    >人間の個別性

    あるいは自我が絡んでくるので厄介です。
    そもそも、問題の本質は、まさに、この点にあります。
    いろいろ教えていただきながら、いずれ、この点についても論議の対象とできるようになればと考えている次第。
    今は、総論的な観点からとりあえずの概要を把握したいという段階です。

      補足日時:2016/01/16 23:02
  • お答えいただきありがとうございました。
    納得がいったり、わかりやすかったりしたのは、ご自分のお考えに沿って解釈なさったからなのでしょうね。
    >他律的に、周囲が意味を類推する他ないです。

    わたしの至らぬ点として、極力改善を目指してみたいと思います。
    貴重なご意見でした。

    腑に落ちない点は、さらに補足質問していただければ助かります。
    見解の相違(「同意」なら、なお好ましいですが)の地点まで辿りつければ良いが、と思っています。

    No.47の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/18 17:35
  • >自我には何通りかあって、「人類としての この我」というものがあるとおっしゃる。

    これは、その通りです。

    >私はこれを「死を超えた視点」だと理解している次第です。

    そこまで深くは考えていませんでしたが、参考にさせていただきます。

    >これはポンとそういって、分かるようなものではないのです。

    おっしゃるとおりかもしれませんね。

    No.59の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/21 00:01
  • >・ われのあやまちは かれのあやまちであったかも知れない。

    極めて興味深い視点ですが、私の意図は全く逆で、
    ・ かれのあやまちは われのあやまちであったかも知れない。
    です。
    人が何かを語るとき、何の意図で語るのか、ということが極めて重要であることを改めて思い知らされます。
    ハイデガーの犯した誤謬に学ぶべきでしょう。
    何を語りたいのか、という点は曖昧なまま質疑を続けてきたわけですが、最後に思わぬ発見があったということのようです。

    No.60の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/21 17:37

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A 回答 (99件中1~10件)

バランスですか。

いい言葉ですね。

古代インドの神に、維持の神ブラフマーという名の神が信仰されていたと聞きます。ブラフマーはシヴァやヴィシュヌのように派手な神ではありませんが、最高神として祀られるそうです。

この宇宙は確かに、微妙なバランスを取っているように見えます。包括者という言葉がありますが、包括するものとしての宇宙の摂理には、万物をバランスに導く機能があると言う考えは突飛なものには思えませんし、人智の及ばない宇宙の摂理というものがある、その事自体が、諸々の宗教間における見解の相違を緩和するのではないかという見方は、ありだと思いました。

ハコブルさんはこの事について私よりも深く考えておられる事が想像でき、全部を理解できたとは思いませんが、表題にある言葉は、素朴で普遍性を帯びている様に感じます。ここでは、論理を緻密にする事が重要なのでは無く、この表題を思いついた事と、その動機にこそスポットライトが当てられれば良いのにと、私などは思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

エールとありがたく受け止めさせていただきます。

お礼日時:2016/01/30 23:33

もう少し大人な対応が返ってくるかと思っていましたが、難しいものですね。



>【証明】したつもりです。

 たぶん「証明」の意味が分かっていらっしゃらないのでしょうね。例示が必要のようです。

>「人智の及ばぬ何かによって自らが生かされている( A )」のは、「主観的な真理」ではなく「客観的な真理」です。なぜなら、この命題( A )を否定するためには、「人智の及ぶ何かによって自らが生かされている( AA )」という反証が必要になるからです。

 証明の必要があると言ったら、否定される理由をお前が証明しろというわけですね。別に私は否定していないんですけれどもね。しかしそれはさておき、否定されないならば、真だと認められるんですね。では幽霊も存在を否定する方法がないから、真だと認められるでしょうね。存在の確認の方法として、全く適切じゃないことをハコブルさんが言っていると思われませんかね。

>ここで重要なのは(そして、おそらく、ここを勘違いなさっておられるのだと思いますが)、この懸案に関しては、
「人智の及ばぬ何かによって自らが生かされている( A )」
または、
「人智の及ぶ何かによって自らが生かされている( AA )」
という2とおりの選択肢しか存在していない、という点です。
( AA )が証明できなければ、( A )は「客観的な真理」と言わざるを得ない、ということ。

 それは話を狭め過ぎです。「生かされている」という動詞が適切かどうかも分かりません。そして「人智の及ばぬ」の意味も、揺らいでいてよく分かりません。「人間に知覚は出来るのだが、力の大きさが甚だ大きいことを示す比喩」なのか、それとも「人間の知覚を超えている」という意味なのか。結局、ハコブルさんの論法だと、何を言っているのか意味内容さえ定められないです。だからこういうお話を出来る段階でさえないのです。さらに次に論法として不適切な理由も示していきます。

>「人智の及ぶ何かによって自らが生かされているかどうかわからない( AAA )」という選択肢は存在しないのです。

 その理由は示されていませんね。それに私はAAAを言っているのではありませんよ。「人智の及ばない何か」とは中身が「分からない」と言っているのです。動詞「わからない」の場所が違います。

>★逆は表だは間違いであり、☆事実だと確認できない、とおっしゃっていることになる。

 いや、正確ではありません。コインに二面性があったとしますね。表があれば裏が推定できる。コインの場合それは事実です。しかしなぜこれが摂理とか宇宙に当てはまるのでしょう。二つ考えなければなりませんが、この点についてハコブルさんは全く触れていないのです。

 まずこの事象は、コインの表と裏のように単純な二項対立で捉えられるのでしょうか。このためには第一に「人智の及ばない」の意味が、「知覚できない」という意味でなければなりません。しかしハコブルさんは、認識は出来るが程度の大きいことだと言っていらっしゃる。では「人智の及ばない」の反対の「人智が及ぶ」は、力の大小を言っているに過ぎません。第二に、この事象はそもそも、コインの二面性と何ら関係のない、もっと複雑な問題かもしれない。だって人智を超えているんでしょうから。

 次にハコブルさんは裏があるという以上のことを言っているのではないか。つまり裏面をみていないけれども、あるはずだからという話で、コインの裏に描いてある紋様を説明しはじめていないか。つまり摂理が自他の区分を曖昧にするというお話は、摂理を観て来た人しかいえないんです。ハコブルさんは、それを観ていないんでしょう? ではその中身は真ではないでしょう。

>★事実だと確認できる!ということを、言を尽くして証明したはず。

 確認できるなら、確認してくれば良いではないですか。なぜそれができないのですか? それが全てを物語っています。これは確認できないことなんですよ。まあ深呼吸して、別の角度から検討してみてくださいな。ハコブルさんの理屈は次の感じです。
 ・Xは存在する。それはXが存在しないと言うことを立証しない限り真である。
 ・Xは我々に干渉するか、しないかの二つである。干渉するかどうかも分からないという話はない。
 Xが摂理とか宇宙だったらもっともらしく聞こえますが、仮に幽霊とかSF的な諸問題を当てはめてみたら、おかしいことがわかるのではないですか。ハコブル論法に従えば、幽霊だって存在することになってしまうでしょう。任意の全てが存在することになります。

 こういうの、オッカムの剃刀と言うのですよ。不要な仮定を多くいれて、間違った結論が導かれてしまうお話です。この場合でいえば、この事象がコインの表と裏のようなものであるという仮定がまず該当しますね。さらに自他の区別がつかなくなるという話なら、宇宙とか摂理の話が不要でしょう。そういう条件を入れない地点で、やっと鋭い認識が導かれるはずです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

概ね、
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9162646.html
で、お答えした内容で、ご理解いただけたとは思いますので、特には申しません。
必要があるなら、おっしゃっていただけば応じることにやぶさかではありませんが。
ただ、若干、触れておいたほうが良い点についてコメントいたします。

> まずこの事象は、コインの表と裏のように単純な二項対立で捉えられるのでしょうか。このためには第一に「人智の及ばない」の意味が、「知覚できない」という意味でなければなりません。

この論理がよくわからないです。
何度も申し上げたはずですが、
「人間の知恵。人間の知能。」という意味で使っています。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/115063/meaning/m1 …


 ・幽霊は存在する。それは幽霊が存在しないと言うことを立証しない限り真である。
 ・幽霊は我々に干渉するか、しないかの二つである。干渉するかどうかも分からないという話はない。

こう言うこともできる、ということですね。
まあ、これも別質問でのお礼や補足を見ていただけば理解していただけるとは思いますが、若干の補足を試みることにしましょう。
まずですが、
・(裏と表しかないのだとすれば)「裏でなければ表である」は真(T)
は公理である。
これを確認すると話が見えやすいでしょう。
幽霊は、この公理の適用外なので同列には論じられません。
つまり、
幽霊はいる
幽霊はいない
幽霊はいるかいないかわからない
という3つの可能性が主張可能だからです。
(裏と表しかないのだとすれば)という条件が付けられない、ということ。
幽霊を(比喩ではなくて恣意的な)神に置き換えても、これは同じです。
さらに説明が必要なら論点を絞った上で、お手数ですがお知らせいただければ、と思います。

しかし、がっぷりと組んでいただいたおかげで、大変、深いところまで考えることができたと思っております。
改めて御礼申し上げます。
これに懲りずに、今後ともよろしくお願いいたします。
あなたは逃げたり、逸らしたり、捨て台詞で紛らわそうとしたり、といったことが全くない、極めて誠実な方だという印象を受けます。

お礼日時:2016/01/27 19:35

宗教関係でよく聞く話に、「私は信仰へと導かれた。

」というものがあります。
自分で信仰を選択したというのではなく、自分ならざるもの、例えば神の力によって、導かれたのだと。このような人の自己認識においては、自分が神を選んだのではなく、神が自分を選んだのだと、なっているのではないでしょうか。このような人は、つまりはじめから、自己の裁量で判断することについて、自信がなかったのではないでしょうか。故に宗教に出会った時に、それに嵌まるのではないかと。

また、宇宙の摂理について私は次のような見解を持っています。
宇宙の摂理は、昔から、人類にとっては僅かばかり知られても、ほとんどは未知の、即ち謎の領域を指していたのだと。科学が進歩した現代でも、分かっていることよりも分からないことの方が多いでしょう。それに、科学者たちが見出してきた宇宙の法則は、人間の作り出したものであって、宇宙の真実の姿を表したものではありません。(人には法則性を見出すという能力が備わっており、それによって形作られたものが、法則と呼ばれるものだと私は思います。法則を描く力といいますか。)
そんな未知の領域に、未だ知られぬ神を想定するのはある意味で自然な傾向だと思います。ですが、その神が絶対だと言うには早いと思います。人は、自然界に神を見る時、数多の神をそこに見出して、人の生きる世界観を構築してきました。今、望遠鏡で覗いている宇宙という未知の領域ならなおさら、唯一絶対ではなく、無数の神々が想定され、人に見つけられるのを待っておるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまりはじめから、自己の裁量で判断することについて、自信がなかったのではないでしょうか。

おっしゃるとおりと思います。
まあ、しかし、それ自体を批難することはできないため、難しい問題を孕んでいるのでしょう。

>今、望遠鏡で覗いている宇宙という未知の領域ならなおさら、唯一絶対ではなく、無数の神々が想定され、人に見つけられるのを待っておるのではないでしょうか。

「宇宙の摂理」は、「人智の及ばぬ何かの力」といった意味で使っています。
あるいは、

バランスさせる力

とすれば、意図が通じやすいかもしれません。
つまり、(むろん象徴、あるいは比喩の意味でおっしゃっているのだと思いますが)無数の神々が見つけられたなら、それも含めて「宇宙の摂理」です。
人智が及ばないのですから、これが「宇宙の摂理」だ、と言うことは当然、できません。
だからこそ、比喩として神という表現にも耐えられるのだと思います。

お礼日時:2016/01/27 19:14

自我も超自我もムイシキも ぜんぜん知らんくせに


いったい何が言いたいのやら。
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>ここまで追い詰めてしまったとは気づかずにすみません。



 品のない冗談ですね。ハコブルさんはずっと同じことを繰り返しているばかりですが、きちんと答えられないという点で言えば、追い詰まっているのはハコブルさんご自身ではないですか。気の毒になって参りました。再度繰り返しますが、ここで終わりにさせてください。

 コインの例を持ち出して事実だと確認しろということが言い掛かりだと居直っていらっしゃる。裏があれば表もあるはずだ。だから自分は正しいことを言っているとおっしゃる。その根拠は「人智が及ぶ」の反対が「人智が及ばない」だから。前に私におっしゃった言葉をそっくりそのまま返しますよ。ただの言葉遊びが根拠ではないですか。そんなことやって、何の意味があるのですか?

 いろいろとお付き合いしたけれども、私は正直な話、どうでもいいことになぜここまで拘泥しているのかが、わけがわからないのです。事実だと確認できないならば、仮定であると認めればそれでいいではないですか。言い掛かりというより、ただの論理ですよ。

 喧嘩にしない形で終わらせてもらいたかったですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

★(宇宙について)この場合、「じゃあ、どんな力か証明してみろ」というのは、言い掛かりとしか、私には思われません。
☆ いや、ただの論理なのですけれどもね。証明できないとすると、それは仮説として扱わないとなりません。(#89)

とおっしゃるので、
★「人智の及ばぬ何かによって自らが生かされている( A )」のは、「主観的な真理」ではなく「客観的な真理」。(#89お礼欄)
であることを【証明】したつもりです。
具体的な記述を指し示して根拠を挙げた上で、これは証明になっていない、と反論なさるのが筋のはずですが、私の記述内容には全く触れず、
☆仮に「人智の及ばない」を「程度の大きいことの比喩」だと捉えたら、ハコブルさんの議論は一気に壊れます。
と、非論理的な仮定を持ち出して、論を展開されましたよね。
ですから、
☆・程度の大きさを「人智を超えた」と表現しているのである。
という最初の滑り出しが、すでに事実誤認なわけですよ。
そもそも、「程度の大きさ」なんてことは一言も言ってません。

>そんなことやって、何の意味があるのですか?

重大な意味がありますよ。
#86で、
★(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在している
に対して
☆(推論か憶測を客観的な真理として語る)
という批判をされたわけですが、「宇宙の摂理」は、(人智の及ばぬ)宇宙というものの存在を前提にしているからです。
同意は不要なんです。
私はそう思わない、と言ってくれれば、「あ~、見解の相違ですね」で一件落着。
しかし、あなたは、
「コインの裏表を互いに確認していても、現在、裏が見えているからといって、反対側が表であるとは思わない。」
とおっしゃっていることになる。
ほんとにそれでいいんですか?と問いかけているわけなので、
イエスorノー
でお答えいただければ、それで済みます。
因みに、
☆裏があれば表もあるはずだ。
ではありません。
★裏があり表もあるのだから、裏が見えてるなら逆は表だ
です。
あなたは、
★逆は表だ
は間違いであり、
☆事実だと確認できない、
とおっしゃっていることになる。
私は、
★事実だと確認
できる!ということを、言を尽くして証明したはず。
>事実だと確認できないならば、

という前提で論を進めるのは筋違いでしょう。
返答は任意ですよ。

お礼日時:2016/01/25 19:19

★ 超自我性


☆ を持ち出すのなら きっちり定義してからにしなさい。

話にならない。

利口の壁! ズラシというより 横っ飛び!
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>★ 超自我性
☆ を持ち出すのなら きっちり定義してからにしなさい。

☆自然本性にそなわっている
わけではない。
だけで十分ですよね?
★超自我性として後づけされるものです。
はあくまで補足。
理解できなければスルーしていただいて構わない箇所。
つまり、
★いずれにせよ、
以下の内容が本旨であることぐらいお分かりでしょう。
しっかりしてくださいよ。

お礼日時:2016/01/25 00:10

★(№90お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 >もしこうだとして それならその《自由・平等》観は すでにわれわれ人間の生
 まれつきの自然本性にそなわっている。

かろうじて引っかかりを持つならここかもしれませんが、全く本質からずれています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ まさに《本質》にかかわる議論だったのだから まづ前言を訂正するか撤去せよ。

★ スタンス
☆ はいま問うていない。仮説が十全に成り立つということを 確認せよ。

話をズラすな。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆ まさに《本質》にかかわる議論だったのだから まづ前言を訂正するか撤去せよ。

☆もしこうだとして それならその《自由・平等》観は すでにわれわれ人間の生まれつきの自然本性にそなわっている。
★それは論点の本質ではない、という意味ですよ。
そもそも、
☆自然本性にそなわっている
わけではない。
★超自我性として後づけされるものです。
いずれにせよ、
★のに、なにゆえ、それが発揮される形が現出していないのか?
それを現出させるための哲学的指標を提示することはできないのか?
これが課題(本質)なんじゃありませんかね。

と言っていますよね?

>★ スタンス
☆ はいま問うていない。

私は問題にすべきと思うわけですよ。

>仮説が十全に成り立つということを 確認せよ。

上の繰り返しになりますが、
☆自然本性にそなわっている
わけではなく
★超自我性として後づけされるものです。

お礼日時:2016/01/24 23:49

★(№90お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 >人間の生まれつきの自然本性にそなわっている

のに、なにゆえ、それが発揮される形が現出していないのか?
それを現出させるための哲学的指標を提示することはできないのか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 言語能力を例に出せば 一発で議論は済みます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆ 言語能力を例に出せば 一発で議論は済みます。

まあ、ある意味ではその通りでしょうね。
教育がキーになるとは思っています。
ただ、その際に教育する側の指針ぐらいはしっかりしたもの、つまり、真理により近いものである必要がある。
ここが問われるべきでしょう。
言葉遊びか否かの違いは、たとえば、こういったスタンスにも現れてくるのでは?

お礼日時:2016/01/24 21:58

>#86で整理していただいた内容について論破する形をとるのが、ご理解への近道となりそうです。



 私の議論の弱点をお見つけになったと誤解して、そこを突きたいということですか。いやー、たぶん違うんです。ご自分の論理を点検なさると良いかもしれません。仮に「人智の及ばない」を「程度の大きいことの比喩」だと捉えたら、ハコブルさんの議論は一気に壊れます。それは鍋の底のようなもので、底が抜けたら、後は無効化されてしまいます。と言うのも次のような話になるからです。
 ・程度の大きさを「人智を超えた」と表現しているのである。
 ・ならば、その対象はハコブルさんには既に、知覚できているということである。
 ・知覚できているが、細部が分からないということに過ぎない。
 ・では再三「宇宙」と言っているものを大枠で良いから示してみよ。
 また同じ話に戻っていくでしょう。それを見越して、論を壊さないようにと思って配慮したのですけれどもね。

 事実と言うなら、自他の境界線が曖昧になった事例を示し、その力学を解明しないとなりません。それができていないのに、事実だと繰り返していらっしゃるのは、何をしたいのかが、実はさっぱり分からないのです。

 話が噛み合ないので諦めます。一つ指摘させてください。仮に摂理が分かっていれば、論理に身を任せて持説を修正することくらいわけないはずなんですけれどもね。学術では批判とは、決して悪い意味ではないです。カントが「◯◯批判」とか著作の表題にしているように、これは可能性と限界を見極める行為なのです。残念です。誰か噛み合う人が見つかることを願っております。

 ともあれ、私が何か深いお話を伺ったと思っていることを繰り返してお伝えし、お礼で終わりにさせていただきます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 私の議論の弱点をお見つけになったと誤解して、そこを突きたいということですか。

ここまで追い詰めてしまったとは気づかずにすみません。
そういう意図ではないのです。
☆ここでハコブルさんの論理を整理させてください。括弧内は私から見えていることです。(#86)
とおっしゃっておられたので、これに沿って反論すれば、何を言っているのか、iacta-alea-estさんにも理解されやすいのではないか、ということにすぎません。

>仮に「人智の及ばない」を「程度の大きいことの比喩」だと捉えたら、

とのことですが、
「人智」⇒人間の知恵。人間の知能。
です。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/115063/meaning/m1 …
程度は関係ないように思うのですが・・。
多少でも考えが及ぶなら、それは人智が及んでいることになるのではありませんか?
こうした非論理的な前提を勝手に取り上げ、
☆~だと捉えたら、ハコブルさんの議論は一気に壊れます。
と結論づけるのは、どうなんでしょう?
つまり、ここでも、(#86と同様に)最初から、
☆・程度の大きさを「人智を超えた」と表現しているのである。
と、ボタンの掛け違いが始まっているわけですよ。
おわかりでしょう?

#89お礼欄の論破については、
★「人智の及ばぬ何かによって自らが生かされている( A )」
または、
「人智の及ぶ何かによって自らが生かされている( AA )」
という2とおりの選択肢しか存在していない、

これを繰り返した上で、少し補足します。
コインの裏表を互いに確認していたとします。
だとするなら、現在、裏が見えているなら、見えてない側は表であることは明らかですよね?
しかし、あなたは、「そんなことはない。実際にひっくり返して、たしかに表であることを証明する必要がある」とおっしゃっていることになる。
この論理は正しいですか?
なぜ宇宙にコイン同様、裏表のみの選択肢より許されないのかとおっしゃるかもしれませんね。それは、

「人智の及ぶ何か」が自らを生かしているのだとすれば、「人智の及ぶ」なのですから、それによって「生かされているかどうかわからない」というのは論理的に不整合となるからです。

詳細は乞う再読

お礼日時:2016/01/24 22:29

カフェ・みちくさ



さいころさんの触れている《死生観》を 《人間観かつ宇宙観》として・しかもゴータマ・
ブッダの《さとり》の中身であるとして 苫米地英人が議論しています。

○ 苫米地英夫:【仏教】釈迦の悟った内容 -


☆ でもこれは 長いです。(15分x8回)。中ほどでやっとその内容が明かされます。

ちょうどその解説によい議論が見つかりました。それを掲げます。:
▲ (知恵袋 Q:釈迦が悟ったものはなにか? 苫米地さんの解釈は正しいですか?)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

△ (BA:colorinc01さん 2012/8/24) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「釈迦が悟ったもの」について、動画の中で苫米地氏が言っていることは、言い方は様々
な言い方で言えますが、基本的には正しいです。

悟りとは「すべてのものが同じように重要だったときに、釈迦に見えたもの」であり
「自分とは、今の自分だけを選び出す部分関数であり、だから自分を正確に見ることがで
きると、宇宙を正確に見ることができる」
大雑把に言うと、苫米地氏が言っていることはこういうことです。

ただ、悟りについては、もっと簡単に、もっと適切な言い方ができます。
苫米地氏自身も言っている通り、自分とは実在しない「点」そのものです。
それは概念であって、実在するものではありません。
しかし、(自分の)意識や身体は実在しています。
つまり、悟りとは「自分は実在ではないこと」「ここで実在している意識や身体は、自分
ではなく宇宙であること」に気づくことです。
その時、これに気づき、これを体感しているのは(自分ではなく)宇宙ですから、全宇宙
のありように正確に気づくことができるのです。
この説明の仕方の方が理解しやすいのではないかと、ぼくは思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 天の邪鬼による批評:
(あ) やはり 《ひとは互いに同じヒトなる生物種である》と言っている。

(い) すなわち 自由意志を持つことにおいて互いに同じであり このことは対等・平
等という公理をもみちびいている。(自由ないし自由意志というのも 証明抜きの公理み
たいなものですが)。

(う) 苫米地は このさとりを得ると われとほかの人やモノゴトの一つひとつに到る
まで そのあいだのマ(間)は 定性的に言っているのだと思いますが 等距離であるよ
うになると言っています。全方位外交ですね。

(え) すなわち 【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】。

(お) ぶらじゅろんぬ史観によると:
もしこうだとして それならその《自由・平等》観は すでにわれわれ人間の生まれつき
の自然本性にそなわっている。(神を持ち出すなら その非知なる神の霊が それぞれの
人にやどる。つまり アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)なる非思考の庭)。

(か) よって さとりは前にある目標ではなく そうではなくすでにそのオシマイから
始める出発点である。(即身成仏;即得往生)。
少しづつ実現させて行けばよい。(という実存志向)。
基礎( basis )とは 歩み( basis; going )のことであると。

(き) 神は 生活世界のもんだいでなくてはいけない。(つまり 生活共同の世界では
神のカの字も持ち出す必要のない神論であるのがよい。=普遍神 つまり 非知なる大い
なるナゾ)。
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    • 1
この回答へのお礼

ご回答?ありがとうございます。と、とりあえずは述べておきましょう。

余裕で「みちくさ」を食っているようですね。
他人の言うことは無視して、ひたすら持論を展開する。
#87、#88について応答してもらうほうが理解は進むはずなのですけど、それもスタイルなのでしょう。
無理強いはしません。
このカテは自分専用のものだと思い込んでいるようですが、まあ、いいじゃないの幸せならば、と申し上げておきましょう。

>もしこうだとして それならその《自由・平等》観は すでにわれわれ人間の生まれつきの自然本性にそなわっている。

かろうじて引っかかりを持つならここかもしれませんが、全く本質からずれています。
>人間の生まれつきの自然本性にそなわっている

のに、なにゆえ、それが発揮される形が現出していないのか?
それを現出させるための哲学的指標を提示することはできないのか?
これが課題なんじゃありませんかね。

お礼日時:2016/01/24 19:36

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Q《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》とは どういう意味か

1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。

2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。


◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~

3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。

4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思います。

5. むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦( 超
弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦
は何からできているのか、ということになるでしょう。

6. つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。

7. よって、

  「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
  せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

を定理として認めざるを得ない。

8. この場合、

  「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満
  たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければ
  ならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

7. よって、

  「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

という命題が結論として導き出される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?

9. 《大元の大元》としてここでは《ナゾ》という言葉で統一したいと
思うのですが (7)なる命題(つまり A )は 次のようにみちびかれ
ているのでしょうか?

9-1.(編集版A‐1) ナゾはナゾであり続けるゆえ それを《人智の
及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》と
呼び 同じくそのように説明する。

9-2.(編集版A‐2) われわれは ナゾによって・絶対的摂理によっ
て・あらゆる事象をバランスさせる力によって生まれた。

10. (8)の B なる命題について:

10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?

10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。

11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?

11-1. もしそうだとすると この命題で《彼は我であったかもしれ
ず うんぬん》というとき 一方では 《[ 人類の一員としての我 ]》どう
しとしては互いにその存在を共通のものとしていると言えると同時に 他
方ではなぜ――だからと言って――それぞれが互換が可能であるかのよう
な見方をしなければならないのか? という疑問がとうぜん起きる。

12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか? 

12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?

1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。

2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。


◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~

3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。

4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思...続きを読む

Aベストアンサー

#72です。

(ア)
>連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。

おっしゃっりたいことはよくわかります。
「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」という定義に対する批判ですね。
「法則・原因」はあるとしても、それによって、
★経験事象 A を顕現させている
とは限らない、ということなのでしょう。

私の場合、
★自然宇宙の絶対的摂理=あらゆる事象をバランスさせる力
というスタンスがあります。
卓袱台返しをするわけではなく、逆に言うと、
★あらゆる事象をバランスさせる力
が無ければ、宇宙・世界はバラバラにならざるを得ないはずなのだから、それを、
★自然宇宙の絶対的摂理
と呼ぶのは論理的であり妥当な思考だろう、ということ。
その上で、経験事象 A が
★自然宇宙の絶対的摂理
以外によって顕現しているとするのは極めて不合理なのであるから、
★「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」
のように定義したとしても何ら齟齬は生じない、という論理になるかと思います。

上の表現において、
★ならざるを得ない
★妥当な思考だろう
★何ら齟齬は生じない
などの見解が、その根拠と共に示されていると思いますが、それらは(今のところ)わたしにとって動かしがたいものであるようで、経験事象 A と、それを顕現させている法則・原因が、
☆非連続
であるといった視点をとることは、なかなかむずかしいようです。
やはり「見解の相違」という落としどころに来ているように思うのですけどね。

(イ)
>~~《物理現象⇒物理法則⇒その抽象化・純粋化》は 非連続を無
視していると見られてしまいます。
じつは それゆえにも――詭弁を弄すると映るかも知れませんが――《非
知》という想定を初めに持って来るのです。人間の思考としての投影作業
を この定義の仕方によって切ったのです。
ですから:
★ ただ、個人的には、これは「思考の停止」と位置づけます。
☆ に対しては 《非思考》を掲げるわけです。

ともおっしゃるわけですが、「思考の停止」を否定する必要はないという気もするのですけどね。
ここにきて、神と摂理の食い違い、つまり信仰と論理の問題。も生じてくるのかもしれません。
その場合、(本来の)信仰が思考停止であるとして、それは、むしろbragelloneさんにとっても本意ではないか、という印象も受けるのですが、その点についてはまた別の機会に譲るのが妥当なのでしょう。

(ウ)
>神をその限りで――シルシなる仮りの小世界における限りで―― 思考の対
象として扱っています。
けれども だからと言って:
★ 「神」がすでに思考対象として 認 識 さ れ ていることになる。
☆ ことは ありません。思考され認識されているのは あくまで神を指し
示すシルシとしての言葉であり その概念内容なのです。

ここも実によくわかるのですが、(イ)と同様、
★神と摂理の食い違い
についてつまびらかにしないまま論じるのは難しいように思います。
☆非連続
と前提するなら、たしかに
☆神は非知
と言う論理は成立するでしょうね。
この辺りの論理はおかげさまで腑に落ちました。
ただ、そうした前提が(神に対して)妥当か否か、という問題と、仮に妥当だとして、それを「絶対的摂理」にも適用することが妥当か否か、という2つが論点としてあると思われます。
わたしの場合、現時点では、とりあえず、後者については(見解の相違という形ではありますが)否定しつつ、前者については積み残しの状態と言えるでしょう。

#72です。

(ア)
>連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。

おっしゃっりたいことはよくわかります。
「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」という定義に対する批判ですね。
「法則・原因」はあるとしても、それによって、
★経験事象 A を顕現させている
とは限らない、ということなのでしょう。

私の場合、
★...続きを読む

Q神についての勘違いが なぜあとを絶たないか?

このような問いかけをすると 問い求めやすいかも分かりません。


A. 神は 精神であるという勘違い。
――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。

B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
――宗教とは 一般に教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に
かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般
をけっきょくは信じるというおかしなこととなる。

C. 同じく 教義を信じるという間違い。
――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的
な能力とその行為成果であるに過ぎない。オシヘは 神秘の部分をふくむ
けれど けっきょくは経験思想であり 倫理規範である。やはり 精神主
義的な人間信仰ないし《信念の人》主義となってしまう。

D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい
る間違い。
――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像と思
考の産物である。《人間の能力》信仰となる。



ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いではないか。
 
偶像は 神本体の仮りのシルシです。正解へとみちびく補助線です。

オシヘが 偶像なのです。仮りの表現としての偶像です。神を指し示すた
めのシルシです。

人びとは 指の先を見るのではなく 指を見ている。

いかに?

このような問いかけをすると 問い求めやすいかも分かりません。


A. 神は 精神であるという勘違い。
――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。

B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
――宗教とは 一般に教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に
かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般
をけっきょくは信じるというおかしなこととなる。

C. 同じく 教義を信じるという間違い。
――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆ...続きを読む

Aベストアンサー

「神=究極の実在」は人間にとって非経験事象であるから、分かるはずのないものである。
しかし、宗教では「神」「仏性」などがそれであるとして、これを信ぜよとしている。
それが、正しい「神=究極の実在」であるはずがない。間違いである。
間違ったものを信ずれば、幸せにはなれない。
だから宗教は間違いである。

簡単に言えばこういうことであると理解しました。

であるならば、次のことが言えると思います。

「直観知=ヒラメキ」によって、「神=究極の実在」を覚知してしまうことが「ない」と
言いきれないだろう、ということ。
それは、「神」は「梵我一如」で自分の中にあり、ヒラメキや良心などから「一端」にせ
よその存在を常に感じることが可能であるから、完全に「非経験事象」とは言えないと思
うからです。
また、生まれ持った資質、努力の量と質によって、自分の中にある「神」の全体像を感じ
取ることは全く可能なことに思えます。

要するに、「神」は完全な非経験事象ではないから、「分かるはずのないもの」(とお考え
ならば)とは言えない、ということです。


>オシへは言葉で表されています。ゆえに考えるものであり、信ずる(無条件で受け容れる)
ものではない。

これは、信仰の微妙で難しい点をご指摘している気もします。
信ずべきものを正しく信じているか、です。
言葉や仏像やキリストの像などの「イメージ」によって惑わされていないか?聖職者自身も
含めて。
教義というものは本来、信者を正しい信仰に導くためのものであるはずですが(だから常に
研究を怠ってはならないのですが)不勉強により、逆に教義が独り歩きしてしまうというこ
とが、残念ながら往々にしてあると思います。

長くなりましたので、今回はここまで。

「神=究極の実在」は人間にとって非経験事象であるから、分かるはずのないものである。
しかし、宗教では「神」「仏性」などがそれであるとして、これを信ぜよとしている。
それが、正しい「神=究極の実在」であるはずがない。間違いである。
間違ったものを信ずれば、幸せにはなれない。
だから宗教は間違いである。

簡単に言えばこういうことであると理解しました。

であるならば、次のことが言えると思います。

「直観知=ヒラメキ」によって、「神=究極の実在」を覚知してしまうことが「ない」と
言いきれな...続きを読む

Q過剰な自画自賛?

少し前から気になっていたのですが、日本文化を称賛する論調が多すぎると思います。
外国人タレントが文句を言ったりしています。
日本人である私も、食傷気味。

これって、どういう現象なのでしょうか?

Aベストアンサー

昭和6年(1931年)から昭和20年(1945年)にかけてと同じ現象。歴史は繰り返す。
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-2065-3

日本人の気質は奥ゆかしい(はたして本当にそうかはともかく)のに、自画自賛を大声で主張する行為は相容れなくて、行き過ぎると気持ち悪く感じます。


No.2さんの「自信喪失の裏返し」は成る程なと思いました。世界第2位の経済大国との自負も、2010年あたりに国内総生産(GDP)が中国に抜かれて世界3位になってしまいましたからね。日本メーカーの製品の多くも今では海外の工場で作ってますし、中国メーカーの製品も物によってはですがかつての安かろう悪かろうを脱してますし、日本の有名家電メーカーなどが中国や台湾の会社に買収されたりしてますからね。

日本に良い所が色々あるのはテレビで何度も繰り返し言われなくても分かってるし、他国の良い所を賞賛したり、見習ったりする姿勢が低下していかないか心配です。

ドイツの脱・原発の選択に日本も続こうというような風潮も少し前は多少あったのになぁ……

昭和6年(1931年)から昭和20年(1945年)にかけてと同じ現象。歴史は繰り返す。
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-2065-3

日本人の気質は奥ゆかしい(はたして本当にそうかはともかく)のに、自画自賛を大声で主張する行為は相容れなくて、行き過ぎると気持ち悪く感じます。


No.2さんの「自信喪失の裏返し」は成る程なと思いました。世界第2位の経済大国との自負も、2010年あたりに国内総生産(GDP)が中国に抜かれて世界3位になってしまいましたからね。日本メーカーの製品の多くも今では...続きを読む

Q例外のない法則はあるか? これは真理と言い切れるものはあるか?

例外のない法則はない とよく言われますが 本当に例外のない法則はないのでしょうか?

例外のない法則 真理と言い切れるものはあるでしょうか?

もしあれば一つでもいいから教えて頂けないでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

普遍的な宇宙の大法則(摂理)を想像すると、例外というものは存在しないように
思えますが、変化・成長があるということを考えますと、完全ではなく、「例外」
と呼べるものがあるはずだと思います。

またそれは、現在の人間の認識方法によるもので、宇宙の普遍性から見たときに
「正しい」とは全く限らないわけです。
そのあたりを、現代物理学が解明しつつあるように思えます。

もう少し言えば、なぜ変化・成長があるかと言えば、それは個別化された生命に
自由があり、その自由な能動的な創造という行為が変化・成長を産む、と。
その全体から見ればわずかな「歪み」が「例外的存在」となり、それを因として
全体が変化をする、と。

まあ、こんなことを考えて楽しんでいる私です。(^^♪

Qロリコンを殺す事に反対する理由は何ですか?

小児が被害となった性的殺人事件が起こるたびに、ロリコンの検査をして見つけるべきという意見が出ます。しかし、多くの意見が検査のみで、検査後にどうするのか?という話が書かれません。

そして、検査後に殺害することを明記すると反対意見が多くなります。
何故なのでしょうか?

小児性愛というのは、遺伝や幼児期の体験、個人の置かれている状況などで発現する異常行動です。そして、それらを発見する方法は既に脳マッピング、遺伝子検査、幼児期の体験、等で確認されています。だから、検査して発見することは簡単です。

問題は、発見後にどうするか?です。
社会は隔離や治療を求めるでしょうが、治療はホルモン注射や外科手術も含めて効果は薄く、ホルモンバランスを崩すので日常生活が難しくなります。隔離しようにも、犯罪を行なっていない人間を拘束する必要がありますし、暴動を防止するために一定の自由や生活レベルを与える必要があります。
しかし、残念なことに両方とも行なえる人員や資源、予算の余裕は、日本にありません。
まして、変質者の生かすために税金を支払うのを人々は嫌がるでしょう。

そこで、彼らを発見しては収容所で駆除するのが、もっとも現実的だと思われます。

この中のロリコンとは、予備軍も含まれています。
予備軍とは、脳マッピングでロリコンの診断を受けた人間の直系の血縁者(父、母、息子、娘)、幼少時の体験(児童虐待やイジメの被害者)を有する者を意味します。

なぜ、反対する人が多いのでしょうか?

小児が被害となった性的殺人事件が起こるたびに、ロリコンの検査をして見つけるべきという意見が出ます。しかし、多くの意見が検査のみで、検査後にどうするのか?という話が書かれません。

そして、検査後に殺害することを明記すると反対意見が多くなります。
何故なのでしょうか?

小児性愛というのは、遺伝や幼児期の体験、個人の置かれている状況などで発現する異常行動です。そして、それらを発見する方法は既に脳マッピング、遺伝子検査、幼児期の体験、等で確認されています。だから、検査して発見...続きを読む

Aベストアンサー

今回もまた色々と前後しているのでご了承を。

>質問本文を精読することをお勧めします。

意味不明。
あなたは質問本文でもロリコンとその血縁者を駆除しろ殺せと主張しているではないか。
そしてそのままお返ししよう。

立ち返ってみよう。

>(最初の質問文より)それらを発見する方法は既に脳マッピング、遺伝子検査、幼児期の体験、等で確認されています。だから、検査して発見することは簡単です。

以前にも同じような質問をしているようですが、その時もこの検査で簡単に見つけられることに関して懐疑的な意見がありました。
私も不勉強なので聞いたことがない。
ロリコンを簡単に見つける検査があるのなら、信頼の置ける情報ソースを示して欲しい。

>(最初の質問文より)特定の職業から除外しよう、という意見が出ます。

これは確かにあります。
学校の教師のように子供と直に接する機会の多い職業です。

>また、それらの嗜好を有する人間を社会から排除しよう、子供の近くから排除しようと、いう意見も上がります。

子供から遠ざけると言う意見はあっても人間社会から排除しようとする意見はありません。
あなたが都合の良い解釈をしているだけです。


>社会が許せないから、社会が排除を求める存在を最終的な解決法を問うているだけです。性的嗜好に合致する、しないは関係ありません。

これは異な事を。
多くの一般的な人にとってロリコンは気持ち悪いと言う感情はあるだろう。
そして子供に直接接する教師のような職業からロリコンは就けないようにした方が良いという意見もあるだろう。
しかしロリコンそのものを社会から抹殺せよと言う意見は無い。
駆除しろ、殺せと主張しているのは老け専のあなただけだ。
普通の男からすれば老け専も薄気味悪い。
婦女暴行のニュースを見ていると、たまに結構な年齢の女性が被害者だったりする。
幼女と熟女を同列に語るのは確かに難しいが、それでも女性やその家族が受ける心の傷は計り知れない。
となれば、ロリコンだけでなく老け専も駆除の対象にすべきでは無いか。
当然あなたも含まれる。

>憎いから、気に入らないからです。彼らの存在は種の存続を危うくします。ただ、私は否定し、嘲り、侮蔑しますが、それは法律の範囲内でしか行ないません。

これまた御都合主義なことで。
では何故ロリコンだけは法を無視しているのか。

>(最初の質問文より)なぜ、反対する人が多いのでしょうか?

老け専のあなたにはロリコンの葛藤が分からないように、どんなに説明しても絶対に理解できないでしょう。

今回もまた色々と前後しているのでご了承を。

>質問本文を精読することをお勧めします。

意味不明。
あなたは質問本文でもロリコンとその血縁者を駆除しろ殺せと主張しているではないか。
そしてそのままお返ししよう。

立ち返ってみよう。

>(最初の質問文より)それらを発見する方法は既に脳マッピング、遺伝子検査、幼児期の体験、等で確認されています。だから、検査して発見することは簡単です。

以前にも同じような質問をしているようですが、その時もこの検査で簡単に見つけられることに関して懐疑的な...続きを読む

Qダライ・ラマに与えられたノーベル平和賞とは

ダライ・ラマはオウム真理教の宣伝役を努め、東京都に推薦状を書いてオウム真理教が宗教法人になるのを支援したという話は有名である。↓

https://www.youtube.com/watch?v=r0RoErL7JD4

ダライ・ラマは高僧どころか、オウム真理教とグルになった極悪犯罪共犯者にしか思えないのであるが、そんな人間に与えられたノーベル平和賞って価値あると思いますか。

Aベストアンサー

オウムは、チベット仏教を自称していました。
チベットは、日本から遠すぎて事情など分からないから、
自称を信じてしまったのでしょう。
私がブータンに住んでいた時、麻原一行が来て、同じように
「自称チベット仏教高僧」に騙され(ブータンはチベット
仏教が国教だから)、政府の迎賓館で国賓待遇で歓迎しました。

しかし、帰国時に飛行機の搭乗するタラップの前で、送別の
白いスカーフ(カタ)を渡されて、本来ちょっと鑑賞して
返却すべきところ、ハワイのレイよろしく首にかけてしまい、
ブータン人の間で「日本の高僧はチベット仏教のマナーを
知らない」と、大いに日本の評判を落としました。

なぜ知っているかって?
僕はその飛行機の中から、そのセレモニーを見ていたから
です(一時帰国のため)。
白装束の一行が乗って来られた時、僕は「飛行機が落ちても
空中浮揚で助かるな」と冗談を言ったら、一斉ににらまれ
ました(あやうくポア?(^^;))

Q現代では何かを哲学的に論ずることは難しいのでは・・・?

100年前なら神や宗教、人間の心みたいな部分は直観的な哲学に頼るしかなかったから哲学者による研究が第一だったと思いますが、現代では神や宗教という概念すら科学的に発生原理がおおよそ理解されてきてしまっています。


つまり、これを哲学的に論じようとするならば、その科学的側面を具体的に理解したうえで「それは間違ってる可能性がある」として新たな命題を出していく必要がありますが、普通の人がその科学的側面を把握するのは非常に難しい。


結果、科学的側面を無視したうえで論ずるしかなくなってしまってるただの哲学好きが大半で、それは哲学ではなくただの「無知の思い込み」にしかならないと思います。


よって、極めて博識な哲学者でもない限り、現在では哲学から研究するというのは難しいのではないかと思うのです。


もちろんあらゆる学問に哲学的な考え方は必要であることはわかっています。
しかしそれはそれぞれの分野で哲学を用いてるのであって、哲学者が何かを論じているのではないです。


そんな現代でも、「哲学者」と呼べる人はどのぐらい居るのでしょうか?

100年前なら神や宗教、人間の心みたいな部分は直観的な哲学に頼るしかなかったから哲学者による研究が第一だったと思いますが、現代では神や宗教という概念すら科学的に発生原理がおおよそ理解されてきてしまっています。


つまり、これを哲学的に論じようとするならば、その科学的側面を具体的に理解したうえで「それは間違ってる可能性がある」として新たな命題を出していく必要がありますが、普通の人がその科学的側面を把握するのは非常に難しい。


結果、科学的側面を無視したうえで論ずるしかなくな...続きを読む

Aベストアンサー

今の哲学って「へ理屈」との違いは有りますか?
数学・物理学・化学・天文学・地学・論理学・宇宙論・生物学・・・、これ等は哲学から分離・独立した分野です。

それらが独立して抜けて行った今の哲学には何が残っているのでしょうか。

現代原子物理学、数学の一端を担った、ラザフォード、ボーア、リンデマンは哲学科出身です。

数学科、物理学科は無かった。全てが哲学科に属していた。
僅か、百年位前の話です。

Q人間とは 何でしょうか?

そもそも人間とは何でしょうか?

実存とか精神とか 性善説とか性悪説とかありますが

人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

Aベストアンサー

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に発生しただけの生物であって、いずれは死滅する存在じゃないかと。
そんな生物であれば、「人間とは?」などと大上段に考察する必要もなく、多少の知性などはあるものの、本質的にはアメーバーなどと大差は無い生物ってことで良さそうです。

一方、近年の宇宙科学とかでは、「ホンマかいな?」と言う様な発見や研究が多いのですよ。
たとえば、「重力は小さすぎる」なんてのが証明されて、「その力はどこに消えてるのか?」などが研究されるたり、「未知なる『第5の力』がある!」なんてことも言い出しました。
そうなると、高名な学者が「宇宙は少なくとも5次元以上で構成されているが、人間の脳は、まだ3次元までしか感知,認識し得ない」みたいな説を唱えたりもしています。

何か「言いたい放題」みたいな感じなのですが、1つのことが判れば、謎は深まるばかりと言う様相で。
ご質問も、それこそパスカルの時代から存在しつつ、誰も明確に正解を答えられない問いですが。
結局のところ、「人類はまだ、何も判っていない」に等しい状況と言えそうです。

もう一つ、興味深い説があって、宇宙には人類以外の知的生命体がいる存在は、否定されつつあります。
これはちょっと寂しい気もする説ですが、これが事実なら、冒頭の「真理を突き止められる可能性がある、宇宙で唯一の生物」と言うことになります。

また、上でも少し触れましたが、宇宙と脳には各種の関連性が指摘されていて、まあ人類も宇宙の子ですから、関連があって当然ながら、何らか「宇宙の意思」的なものがあって、その様に作られているのかも知れません。

いずれにせよ、人類は未だ「人間とは何か?」に対し、明確な答えを得ておらず。
その答えを得るためには、まだ戦争などの愚かしい行為も繰り返しながら、もっと科学技術などを高める必要性はありそうだし。
戦争などとは無関係に、宇宙や生命科学の真理を探求できる状態になる頃には、完全なる平和なども手に入れねばならないです。

現代に生きる我々に出来ることは、我々の子孫が真理を解き明かすことを願い、我々の時代を少しでも良くする努力をすることではないか?と思います。
また、もし真理に到達すれば、それが「宇宙の意思」そのものと言えそうで。
「人類こそが、宇宙の意思であった」と言えるのかも知れません。
あるいは、人類の産物であるAIなどが、人類の意思を引き継いで、それを実現するのかも知れませんが。
出来れば、私のDNAもちょっとは受け継いだ、人類であって欲しいです。

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に...続きを読む

Qストア派の論理学の現代論理学への影響を教えてください

ストア派の論理学が現代論理学へ影響を与えたと勉強しました。

論理学の分野で、
現在ではアリストテレスの論理学を教えず、

フレーゲなどの論理学を教えるのが普通とのことですが、

現代論理学にストア派論理学が与えた影響を教えてください。

Aベストアンサー

お勉強をなされたと言うことなので、より専門的な方の回答を待たれて居られるのでしょう。あまり回答が寄せられていない様ですので、そのつなぎとして、素人のうろ覚えを、一つ、

「現代論理学」が何を指すかも問題ではありますが、おそらく記号論理学とか数理論理学といった方面が念頭に置かれているのでしょう。そこでアリストテレス対ストア派という対比で見ますと、まずは前者は三段論法というのが主体ですね。もちろん、単純にそうだというわけには行きませんが、おおよその話として。
p⇒q
q⇒r
∴ p⇒r
これが形式的な推論として基本形みたいなものですね。
対して、ストアで基本となるもののひとつは、
p⇒q

∴ q
こっちはあまりに当たり前に見えますが、だからこそ、形式論理として、基本なのですね。命題論理は、このようなストアの基礎的な研究があって、ライプニッツの記号化が、西洋で花開いたということになるそうです。

Q無謬性

人間は本然的に無謬性を求める、と言えると思います。
無謬性という概念は「信仰」につながると思います。

人々はかつては宗教にそれを見ました。「聖書の無謬性」などという言葉もあります。

現在は科学にそれを見ているのではないでしょうか?
わからないことがあるにせよ、科学的に証明されたものは「絶対に正しい」、と。

あるいは、人間は間違えるが、AIは絶対に間違えない、と。
そこから、AIに対する「神格化」の感情が急速に高まっていると思います。

しかし、AIは設定された条件内においては間違いはないと思いますが、その「条件」
の中に誤謬があるいは不完全性がありうると思います。

また、科学が証明したものは、宇宙の中のどの位置にあるのか?つまり、科学そのものの
無謬性は証明できるのか?

無謬性ということについて、あるいは無謬性と信仰について、無謬性と科学について、そ
の他、なんでも結構です、よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

伝統的宗教が歴史の中で
人間にとっての社会を維持するために
直観的に正しいと思われる価値観の正当性の拠り所として
神もしくはそれに類する存在を土台にした無謬性を構築する必要があった。
というのは科学が未熟な時代を経ながら進歩せざるを得なかった
人類にとって避けて通ることができなかった必然の過程だと思います。
現代という時代は
そうやって積み重ねられた歴史の成果としての科学という客観的な拠り所によって
無謬性を検討できる時代にはなっていると理解していいのではないでしょうか。

物質科学の隆盛期にこじれた宗教と科学の関係も
物質科学の先に展開することが可能になった精神科学に照らして
整合性を検討することで新たな展開も期待できると思います。

科学の世界における無謬性においても人間の認識能力の構造的限界というものがあって
その閾値以下の部分においては信仰という拠り所の必要性はなくならない。
そしてその領域の拠り所を求められる局面もなくならない。
今のところそんなふうに考えています。


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