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タイトルどおりですが、信仰という要素が極めて大きな関連性を持つと考えますので、「信仰」の意味を曲解している可能性は無いか?という切り口から入らせていただきます。
1.【本来の信仰とは?】
まず、わかりやすい定義(語釈)をネット辞書から拾って提示してみます。
[ 信仰 ]
 1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「―が厚い」「守護神として―する」
 2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への―」「ブランド―」
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/114011/meaning/m1 …
[ 信仰(しんこう)/信ずる(しんずる)/信心(しんじん)/帰依(きえ)/狂信(きょうしん) ]
[共通する意味]
神仏を信頼して尊び、その教えに心から従うこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/9804/meaning/m …
「信じる・信頼する」という意志的動詞に着目していただきたいのですが、信仰とは、少なくともそのきっかけにおいては、「自我による思考」によって選択されたものだと判断するのが妥当と思われます。

2.【信仰の現状は?】
しかし、この点を失念して神におんぶに抱っこ状態になってしまうため、誤った信仰(盲信)に転落してしまうのではないでしょうか。
ある人にとっての信仰とは、論理的手段によっては解決不可能と判断された(漠然としたものも含む)不安や怖れなどを解消するための、最終的な手段になっていると思います。
そうだとするなら、論理の入る余地が無いという意味で、信仰は自我による思考の放棄だと(論理的に)言わざるを得ません。
「自我による思考の放棄」とは、同時的に、または結果的に「あるものへの盲信」へとつながるはずです。
念のため確認しておきますと、信仰が「自我による思考の放棄」の結果と仮定した場合、それが「盲信」であることに議論の余地はありません。(何も信じない、というのは「自我による思考の放棄」には含まれない)

3.【つまるところ・・】
自我の放棄による信仰状態を脱し、自らの信仰は自我によって選択されたものであることを確認することが必要ではないか、と思うわけです。
ところで「盲信」とは、
【わけもわからず、ただひたすらに信じること。】という意味です。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/218564/meaning/m1 …
このように再確認してみれば、これは信仰者に限らず人間の常態であると言っても良さそうです。実際、信仰の有無にかかわらず人は何かを「盲信」というほどに深く信じ込んで生きているようにも見えます。
ただ、その選択が自らの意志(自我)によって為されたものである、という認識を持っているか否かが重要ではないかと思うわけです。

4.【では、我々は何を為すべきか?】
信仰というものが、自我によってその選択が為されるとするなら、そこには(形態はどうあれ)根拠が必須になります。
この根拠として、宇宙の摂理(法則よりも適切でしょうから、このように表現します)という絶対性を挙げてよいのではないかと考えます。
「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当でしょう。
ただし、摂理(法則)とは、天体運行に関する科学的な仕組みや、宇宙の構造などを指すわけではない。(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。
そして、この摂理を背景に、人間という種を俯瞰してみるという作業が重要ではないかと思います。
なぜかというと、摂理が絶対であるなら、そのようなものとしてしか人間は存在していないはずだからです。
そのような視点で、人間という種としての自己を観察してみた場合、次のような発想が自然に生まれると思うのですが、いかがでしょうか。

【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】

これを「哲学」と呼べるかどうかはわかりませんが、個人的には、これで、かなりの問題(いずれ触れることもあると思います)が解決しやすく、あるいは納得しやすくなるのではないか、という気がしています。
-------------------------------------------------------------------------
諸賢の厳しい検証に敢えてさらすことによって、さらに充実させることができればと考える次第。
若干、過去質問と重複した部分もあるでしょう。ですので、必要であれば重複したご見解であっても、さらにおっしゃってみてください。
論旨が曖昧な点もあるかもしれませんが、その辺りご斟酌の上、ご回答いただけるとありがたく思います。

質問者からの補足コメント

  • #13お礼欄の続き。

    >(こ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     (け) 【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが
    妥当でしょう。】

    ☆ という定義の場合 《〈その神に人間が恣意性を期待する〉から間違いが起こる》こ
    とはあるのですか。ないのですか? 

    ほんと、人の言うこと全然聞いてませんね。
    いいですか?
    そもそも過去の遣り取りにおいて、恣意性を期待する神に対抗する形で宇宙の摂理としての神を持ち出してきたことは、十分に了解済みのはずですよね?
    神を宇宙の摂理と認識する人が、恣意性を期待するはずが無いじゃありませんか。
    しかし、恣意性を期待する人は、意図的な能力を神に期待するわけですよ。
    人格神とでも言いますかね。そういった存在として神を認識する。
    そこに誤りが生じる、と言っているわけ。
    こんなこと今さら言わないと通じないんですか?

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/12 23:04
  • #15お礼欄のつづき

    念のため修正しておきましょう。
    ×
    要するに「象徴」なのだから「概念」に決まってるでしょ、

    要するに感覚的形象としての「象徴」なのだから、どちらも「概念」に決まってるでしょ、

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/13 01:18
  • #30お礼欄からの続きです。

    >ただ、そういう哲学を一般的にするために、どのような方法論を考
    えておられるのか、気になったのです。

    先を見通したご指摘ですね。
    いくつかの箇所でも触れていますが、個人的に考える上で、いずれ、そうした方向に敷衍していくつもりです。
    また、そのことのほうがむしろ本題と言っても良いと考えています。
    その前提としてみなさんのご見解を参考にさせていただきたい、というのが質問の背景にある趣旨でもあります。
    かなり多岐にわたるはずですが、たとえば、こちらのカテでも色々な方がおられます。
    中には品位に欠ける発言を平気でされる方も数は少ないながらもいます。
    その場合、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という考え方をすることで、そうした相手に対しても静かに見守っていくのが良いだろうという結論が自然に導かれることでしょう。
    次の補足欄へ。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 16:34
  • (上補足欄からの続き)
    ただ、そのように考える根拠が、単なる善として、あるいは単なる神の教えとしてであっては普遍性に、おそらく欠けるような気がするわけです。
    端的に申し上げるとイスラムでもキリストでも良いと思います。
    ただ、それらの神は、あくまで 《宇宙の摂理》の象徴 としてしか存在していないのだ、ということを頭の片隅に入れて信仰するなら、宗教はもっと違う局面に入るのではないか、といったことを思います。
    アッラーやキリストは真理として納得するのは(思考放棄しない限り)難しいのではないでしょうか。しかし、《宇宙の摂理》が存在するのは自明の真理と言えるでしょうし、それに基づいて象徴として存在する神なら真理として納得できるはずです。
    今、思ったのですが、アッラーやキリストは真理そのものではなく、真理の語り部と捉えると良いのかもしれません。
    語り口は異なれ、元となる真理はひとつ、ということです。

      補足日時:2016/01/15 16:43
  • >★ (前記第二の引用箇所)~~~~~~~~~~~~~~
     《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」

    を想定してこそ得られるものだからです。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ☆ すなわち このお示しの神によるからこそ《人間の恣意性を期待する》ことが出
    来る。というわけになるようですね。

    まず、端的にお答えすると全く逆です。
    私の表現不足だったのだと思いますが、
    《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」

    「人智を超えた存在としての神」
    を対比的に扱っている点を再確認の上、論じていただく必要があります。
    少し切り口を変えて表現してみると、
    アッラーは、
    「人智を超えたものの象徴」としての神
    なのか、
    アッラーそのものが人智を超えた存在としての神
    なのか。
    こうした違いと捉えていただくとわかりやすくなるかもしれません。

    No.29の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 18:11
  • (タイトル命題は)
    >何故自然にそういう発想になるのかの論理構造がわかりません。

    4と重複する形になりますが、若干補足を加えつつ述べます。
    まず、(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということが大前提です。
    そうした絶対的摂理の結果として我々は存在しているのであり、しかも、その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である。よって、
    【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
    と言わざるを得ないことは自明なことと言える。
    そのようなものとしてしか人間は存在していないはずであり、そうした真理を認識することが、自ずと自らの(魂の)救済とならないはずがない。
    大体、こういった論理展開です。
    神が言うから平等なのだ、とは、思考放棄でない点で大きく異なっていると思うわけです。
    次の補足欄へ

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/16 22:52
  • 上欄の続きです。

    >宗教的対立を問題にしているのでしょうが、その発想を元にしたら、全ての宗教を統一する事も許されてしまいます。(人間の個別性が必要なければ、宗教は一つでかまわない事になります)

    それが理想ではないかと思います。
    アブラハムの宗教も「唯一神」なのですから、本来、それを目指していたのではないか、という気がします。
    従来の「宗教」の概念は、変わらざるを得ないでしょうね。
    どう変わるべきかまでは、とても考えが及んではいませんが。
    何かヒントをください。
    ただ、おっしゃるように、
    >人間の個別性

    あるいは自我が絡んでくるので厄介です。
    そもそも、問題の本質は、まさに、この点にあります。
    いろいろ教えていただきながら、いずれ、この点についても論議の対象とできるようになればと考えている次第。
    今は、総論的な観点からとりあえずの概要を把握したいという段階です。

      補足日時:2016/01/16 23:02
  • お答えいただきありがとうございました。
    納得がいったり、わかりやすかったりしたのは、ご自分のお考えに沿って解釈なさったからなのでしょうね。
    >他律的に、周囲が意味を類推する他ないです。

    わたしの至らぬ点として、極力改善を目指してみたいと思います。
    貴重なご意見でした。

    腑に落ちない点は、さらに補足質問していただければ助かります。
    見解の相違(「同意」なら、なお好ましいですが)の地点まで辿りつければ良いが、と思っています。

    No.47の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/18 17:35
  • >自我には何通りかあって、「人類としての この我」というものがあるとおっしゃる。

    これは、その通りです。

    >私はこれを「死を超えた視点」だと理解している次第です。

    そこまで深くは考えていませんでしたが、参考にさせていただきます。

    >これはポンとそういって、分かるようなものではないのです。

    おっしゃるとおりかもしれませんね。

    No.59の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/21 00:01
  • >・ われのあやまちは かれのあやまちであったかも知れない。

    極めて興味深い視点ですが、私の意図は全く逆で、
    ・ かれのあやまちは われのあやまちであったかも知れない。
    です。
    人が何かを語るとき、何の意図で語るのか、ということが極めて重要であることを改めて思い知らされます。
    ハイデガーの犯した誤謬に学ぶべきでしょう。
    何を語りたいのか、という点は曖昧なまま質疑を続けてきたわけですが、最後に思わぬ発見があったということのようです。

    No.60の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/21 17:37

A 回答 (99件中81~90件)

この理路整然とした質問文を読んで、ハコブルさんが深い信仰観を


持っておられることが分かりました。
前回のご質問の回答で、若干感情が先走ってしまったことをお詫び
いたします。


さて、私は信仰というものを次のように理解しています。

人間は自分の寿命とか運命といったものを知ることはできませんし
宇宙の根本とも言うべき「摂理」というものが分かりません。
つまり、人間は、生まれてはきたが、いつどうなるか分からないし、
自分は根本的にどういう存在なのか分からずに生きてゆかざるを得
ないことが、宿命づけられているにもかかわらず、自らの欲望を自
由に無限に充足させようとする存在だと思うのです。

そういう人間の特質から、宗教も哲学も生まれたのではないでしょ
うか?
そして、人間は宇宙の根本が、分からないものであることを本能的に
理解しているから、何かを信じて、それを自分の根本に据えようとす
るのだと思います。
その作業がなければ、人間は真に自律的に生きてゆくことはできな
いと考えます。

例えば、親の愛情に問題があった場合とか、人に流されがちな人は
活力ある生き方ができていないように見えるのは、信じるものが、
定まっていないのだと私は考えます。

つまり、信仰は人間にとって不可欠のものであり、哲学はそれを理
由づけるものである、ということが結論になります。

そして、よりよく生きようとする人は、より深い真理を求め、より
思考を深めてゆこうとします。
もちろん、信仰の対象は、この世で「宗教」と呼ばれているものに
限りません。


問題は、人々が自分が何かを信じているということ、そして、何を
信じているのかということの自覚が薄いということだと思います。

「盲信」「思考放棄」につきましては、要するに「他律的」に陥る
ということに尽きるかと思います。
宗教の信仰においては、「おすがり信仰」という言葉が思い浮かび
ます。
信心をすれば、金持ちになる、健康になる、いいことがある、とい
った信仰観です。
宗教の教義にももちろん依りますが、信仰の態度にも大きな原因が
あると思いますし、正反対の宗教も存在すると私は思っていて、世
間では、「そんなものはないだろう」というのが通説であろうと思
います。これが、偏見であると言いたいわけです。

「彼は我であったかもしれず、我がかれであったかもしれない」
は、非常に高い理念だと思います。その割には、大変わかりやすい
表現ですね。とてもいいと思います。

ここに至るためには、対話、交流という方法論に尽きると思います
が、それを、進め、まとめてゆく力が必要なのは、道理といえるで
しょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

基本的に、おっしゃるとおりと思います。
>宇宙の根本が、分からないものであることを本能的に理解している

ことが、
>何かを信じて、それを自分の根本に据えようとする

ことの要因でなのですから、それであれば、この「何か」が、たとえば、アッラーであったりキリストであったりのように異なったとしても、それは大した問題ではないのだ、と捉えることができるはずなのです。
しかし、現時点での信仰の大半は、信仰するという行為に至る因と果を逆転させてしまっているように見えます。

>例えば、親の愛情に問題があった場合とか、人に流されがちな人は
活力ある生き方ができていないように見えるのは、信じるものが、
定まっていないのだと私は考えます。

おっしゃりたいことは非常によくわかります。
ただ、わたしとしては、
>信じるものが、定まっていない

から何かを信じる、というのは、盲信に陥る危険性があるように思うわけです。
盲信=信仰とおっしゃる方もおられて、それもそれで一理あるのですが、しかし、たとえその場合であっても信仰(盲信)という道を選択したのは他ならぬ自分自身である、という点だけは押さえておく必要があると思うのです。
それ無しに闇雲に何か(神)を受け入れてしまうことから、種々の弊害が発生するような気がします。
しかし、この辺りの兼ね合いは難しいところだと思います。だからこそ論理的な根拠が必要になると思うわけです。

>問題は、人々が自分が何かを信じているということ、そして、何を
信じているのかということの自覚が薄いということだと思います。

ひとつのキーフレーズじゃないでしょうか。

>ここに至るためには、対話、交流という方法論に尽きると思います
が、それを、進め、まとめてゆく力が必要なのは、道理といえるで
しょう。

おそらくですが、この「道理」はいろいろあるのかもしれません。
「根拠」と言い換えることもできるように思いますが、私は4で、それを示してみたつもりです。
しかし、切り口は(論理的でさえあれば)多様であって構わないと考えています。

お礼日時:2016/01/13 23:02

重要です。



★ (け’) 《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
☆ が《概念》であるということは その概念ないし観念においてその神に人間は
恣意性を期待することができる。――とはならないのですか?


★(№16お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
『象徴としての』と、わざわざ言っているのは、たとえば、「アッラー=人智を超
えた存在としての神そのもの」ではない、と言っているに等しいのであって、つま
り、この点が肝なわけです。
自爆テロリストらの認識は、あくまで「アッラー=人智を超えた存在としての神そ
のもの」でしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《象徴としての》であっても・なくても 《概念であること》に変わりはない
とお考えにならないのですか?

そこがキモだとこちらは言い続けているわけですから その点では 見解の相違で
合意するわけにまだ行かないのです。問い求めの余地が残っています。

この点を放置することは 閲覧者の方々にも 無念をのこすとおそれられます。
どうでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>★ (け’) 《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
☆ が《概念》であるということは その概念ないし観念においてその神に人間は
恣意性を期待することができる。――とはならないのですか?

・象徴としての「人智を超えた存在としての神」⇒期待できない
・「人智を超えた存在としての神」⇒期待できる
となる場合が多いのではないか、というのが230回ほど申し上げてきたことです。

>☆ 《象徴としての》であっても・なくても 《概念であること》に変わりはない
とお考えにならないのですか?

上の内容と同じことですが、象徴でないなら概念ではなく実態と認識していることになると思っています。

お礼日時:2016/01/13 19:28

★(№15お礼欄) 「《人智を超えたもの》=宇宙の摂理」は実態としては見る


ことができませんので《概念》と捉えたわけです。
★(その補足欄) 要するに感覚的形象としての「象徴」なのだから、どちらも
「概念」に決まってるでしょ、

☆ このふたつの判断についてのマチガイは:

 《感覚的形象》は 人間が知覚し概念認識するものごとのものであり 一般に
 《実態》である。

にあります。こういった指摘をおこたることは わたしがあなたを劣った者と見な
すことになるゆえ なおもしつこく投稿しました。(補足欄を見忘れました)。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>《感覚的形象》は 人間が知覚し概念認識するものごとのものであり 一般に
 《実態》である。

奇しくも#16お礼欄ですでに反論を先取りした形になりました。
とはいえ、いずれにせよ、《実態》であるのか《概念》であるのかは、表現の問題にすぎません。
神に恣意性を期待するか否か、という点が本質的な論点であることは明白でしょう。

お礼日時:2016/01/13 18:23

★(№15お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~


 >☆ 《人智を超えたもの》が どうして《概念》〔のみ〕であるのでしょう?

まあ、これは見解の相違ということになるのかもしれません。
・《人智を超えたもの》=宇宙の摂理
・宇宙の摂理の象徴⇒神
こういった構図。
「《人智を超えたもの》=宇宙の摂理」は実態としては見ることができませんので
《概念》と捉えたわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ その《ご見解》については 次のようにわたしからは百回ほどお伝えてしてい
ることをしるしてこのスレッドは去ることがかしこいことでしょう。

(さ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ (け’) 《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
☆ が《概念》であることは その《概念としての神》であることが次のようなネ
ット辞書の定義と同じであるということ これです。

(あ)・信仰の対象として尊崇・畏怖 (いふ) されるもの。
(い)・人知を超越した絶対的能力をもち、人間に禍福や賞罰を与える存在。
(う)・キリスト教やイスラム教では、宇宙・万物の創造主であり、唯一にして絶
対的存在。〔*《唯一》という定義が ほかの《唯一神》と相容れないことについ
て説明がないので その神はただの概念だとなる〕

あるいはつまり言いかえるなら:
(し) 自爆テロリストらのいだく神も 同じく概念である。なぜなら / そして
その神には 人間が《恣意性を期待する》ことができる。かれらも あなたの神に
ついての(け)のような定義ぐらいは いやというほど持っている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>(し) 自爆テロリストらのいだく神も 同じく概念である。なぜなら / そして
その神には 人間が《恣意性を期待する》ことができる。かれらも あなたの神に
ついての(け)のような定義ぐらいは いやというほど持っている。

おそらくですが、根本的なところで理解が異なるようです。
『象徴としての』と、わざわざ言っているのは、たとえば、「アッラー=人智を超えた存在としての神そのもの」ではない、と言っているに等しいのであって、つまり、この点が肝なわけです。
自爆テロリストらの認識は、あくまで「アッラー=人智を超えた存在としての神そのもの」でしょう。

>〔*《唯一》という定義が ほかの《唯一神》と相容れないことについ
て説明がないので その神はただの概念だとなる〕

《唯一神》であっても「神」と名づける以上、概念にすぎない、とわたしは思っていますので、こうした説明は無意味ですね。
《唯一神》という実態が存在するかのような表現はいかがなものですかね。
まあ、ここまでくると見解の相違としておくのが無難なようです。

お礼日時:2016/01/13 18:14

★(№14お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~


 >つまり 《摂理》とは 《概念》であると〔間接的にですが ほぼ直截に〕おっしゃ
 っていますよ。

「人智を超えた存在としての神」の象徴としての《宇宙の摂理》であることは、5千回ぐ
らい言ってますよね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いいえ。
《宇宙の摂理についての象徴が 神である》と言っています。すなわち次です。:

★★(№11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私の捉え方という意味なら、
(け) 【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥
当でしょう。】
という記述で、十分、おわかりいただけると思うのですがね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
しかも「神」とは《概念》にすぎない、とも5百回程度は言っています。
そもそも、「人智を超えている」のですから《実態》として指し示す対象であるわけはな
いでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《人智を超えたもの》が どうして《概念》〔のみ〕であるのでしょう?


お礼欄の表現や口調から こたえるのがよいと判断しました。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「人智を超えた存在としての神」の象徴としての《宇宙の摂理》であることは、5千回ぐ
らい言ってますよね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いいえ。

そうですね。
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」であることは、5千回ぐ
らい言ってますよね。
のように前後を入れ替えて表現するのが正しかったです。
まあ、しかし、これは、
☆つまり 《摂理》とは 《概念》であると〔間接的にですが ほぼ直截に〕おっしゃ
っていますよ。

に対するコメントなんであって、要するに「象徴」なのだから「概念」に決まってるでしょ、という意図は伝わったんだから、それでいいでしょう。
>すなわち次です。

と大上段に振りかぶるほどの問題なんですかね?
肝心な点はぼかすくせに、ほんとどうでも良いことには、しつこめですなあ。

>☆ 《人智を超えたもの》が どうして《概念》〔のみ〕であるのでしょう?

まあ、これは見解の相違ということになるのかもしれません。
・《人智を超えたもの》=宇宙の摂理
・宇宙の摂理の象徴⇒神
こういった構図。
「《人智を超えたもの》=宇宙の摂理」は実態としては見ることができませんので《概念》と捉えたわけです。

お礼日時:2016/01/13 01:07

何も応えないと失踪といったかたちになるかとおそれなければなりませんでした。



★(№13お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >★あなたの・神の定義は何かと問うた

とおっしゃいますが、
【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当で
しょう。】
と最初から述べているわけです

★(その補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
そもそも過去の遣り取りにおいて、恣意性を期待する神に対抗する形で宇宙の摂理と
しての神を持ち出してきたことは、十分に了解済みのはずですよね?
神を宇宙の摂理と認識する人が、恣意性を期待するはずが無いじゃありませんか。
しかし、恣意性を期待する人は、意図的な能力を神に期待するわけですよ。
人格神とでも言いますかね。そういった存在として神を認識する。
そこに誤りが生じる、と言っているわけ。
こんなこと今さら言わないと通じないんですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 規約における議論のご法度はそれとしまして 質問者からは すでに一万回のべ
ていることを訊かれていると言われていますので 補足要求ではありません。自由に
あつかっておいてください。

つまり 《摂理》とは 《概念》であると〔間接的にですが ほぼ直截に〕おっしゃ
っていますよ。
哲学としての科学的な表現を心がけるようになさるとよいと思ってのひと言です。
おつかれさまでした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆ 規約における議論のご法度はそれとしまして 質問者からは すでに一万回のべ
ていることを訊かれていると言われていますので 補足要求ではありません。自由に
あつかっておいてください。

人に質問しておいて、答えたらこうした返事ですか。
毎度のこととはいえ、いやはや・・・・・恐れ入ります。
それは、こちらが勘違いしていた、とか、こういう点でまだ矛盾があるだろうとか返すのがマナーじゃないんですかね?
それは見解の相違だね、でも良いでしょう。
自分が要求しておきながら、その回答に対してだんまりを表明するのは、いかがなものでしょうか。
まだ、
>失踪といったかたち

にするほうが潔い。
詭弁を弄して、最後まで自己正当化を図ろうとしていますよ。

>つまり 《摂理》とは 《概念》であると〔間接的にですが ほぼ直截に〕おっしゃ
っていますよ。

「人智を超えた存在としての神」の象徴としての《宇宙の摂理》であることは、5千回ぐらい言ってますよね。
しかも「神」とは《概念》にすぎない、とも5百回程度は言っています。
そもそも、「人智を超えている」のですから《実態》として指し示す対象であるわけはないでしょう。
最後まで本当に不思議です。
論点をずらすばかりで何も答えなくなった、ということがすべてを語っているのでしょうね。

お礼日時:2016/01/13 00:12

たぶん今回が最後の投稿になると思います。



★(№11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私の捉え方という意味なら、
(け) 【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当
でしょう。】
という記述で、十分、おわかりいただけると思うのですがね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ですから では何故 辞書の用意した(あ)(い)(う)の定義をわたしに示したので
すか? わたしは あなたの・神の定義は何かと問うたのです。

ですから いづれにしましてもこの(け)の定義によると:
☆☆(回答№11) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(き) 要するに あなたの定義する神は:

 《人智のおよばないチカラ》でありつつ 
 《その神に人間が恣意性を期待する》ことができる

 ということになりますか? 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ という問いがやはり問われなければならないわけです。《神》を《概念》とのみ規定し
たままだからです。

むろん 次のように一部答えておられます。:
★(№11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~

「開いた口が塞がらない」とは、こういう場合に使うんですね、おそらく。
今まで、何を聞いてきたんですかね?
人の書いた内容を読んでるんですか?
《その神に人間が恣意性を期待する》から間違いが起こる、と一万回ぐらいは言っている
はずですが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ですから これを踏まえて先ほどの(き)の問いは それはそのままにしておいて合
わせて (け)の定義をめぐって次のように言い直して問います。:

(こ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (け) 【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが
妥当でしょう。】

☆ という定義の場合 《〈その神に人間が恣意性を期待する〉から間違いが起こる》こ
とはあるのですか。ないのですか? 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これです。おそらく 神の定義をめぐるこちらからの最終の補足要求としての問いに
なるかと考えます。
細かく問いましたが これでおしまいとしてもらってかまいません。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆ ですから では何故 辞書の用意した(あ)(い)(う)の定義をわたしに示したので
すか? わたしは あなたの・神の定義は何かと問うたのです。

またまた不思議なことをおっしゃいますねえ。
1で、わたしは、
☆まず、わかりやすい定義(語釈)をネット辞書から拾って提示

しました。その中には、『2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への―」「ブランド―」』という語釈も含まれていますよね?
そうしたことから見ても、ここでは「神」云々は持ち出す必要がないことぐらいお分かりになるでしょう。
☆「信じる・信頼する」という意志的動詞に着目していただきたいのですが、信仰とは、少なくともそのきっかけにおいては、「自我による思考」によって選択されたものだと判断するのが妥当と思われます。

と結論づけていることから見ても、(この結論を導くために神は必須ではないわけですから)文脈として、そのことがわからないはずはないと思いますが、それに対して、
★ネット辞書は 信用できません。(印象のみ述べるにいまはとどめますが)。
神仏とありますが 《神》としましょう。そうすると:
 神とは 何でしょう?
という問いがなお答えられていません。定義から始めないことには

と論点を(信仰から神へ)ずらしたのはどなたなんですか?
それでも、「信仰」の辞書語釈は【1 神仏などを信じてあがめること】となっているが、この神とは何だと、この辞書は規定しているのか?
という問いなら、そりゃあいろいろな捉え方があるでしょう、と申し上げたまでですよ。
>★あなたの・神の定義は何かと問うた

とおっしゃいますが、
【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当でしょう。】と最初から述べているわけですし、この意味がお分かりにならなかったということなんですかね。
まさかそれは無いでしょう。
以下補足欄。

お礼日時:2016/01/12 22:49

補足説明ありがとうございます。


不明だった箇所、理解出来ました^_^
ただ、質問に答えるには私ではちょいと力が及ばないなと思いました。少しお時間いただいて、言えることがあれば挑戦してみようと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
ご丁寧なご返事をいただき痛み入ります。

お礼日時:2016/01/12 22:12

★(№5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ★ (№3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
(あ)・信仰の対象として尊崇・畏怖 (いふ) されるもの。
(い)・人知を超越した絶対的能力をもち、人間に禍福や賞罰を与える存在。
(う)・キリスト教やイスラム教では、宇宙・万物の創造主であり、唯一にして絶対的
存在。
という3つに分かれています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (あ)なら 人間も信仰の対象になる・つまり神でありうると言っていますよね。

意味を限定しすぎていますね。
つまり、「もの」という語の意味を正しく解釈していません。
「もの=人間」と限定なさる方は珍しいと思います。
いずれにせよ、神に恣意性を期待する人と期待しない人、両方がいるという前提である
ことは、お分かりでしょう。
「もの」の語釈に拘らず、その線で進めてください。
瑣末な点を突っつくのに神経を使わず、本題についてご回答くだされたく。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(え) ★ 神に恣意性を期待する人と期待しない人、両方がいるという前提である
☆ ならば その場合の神は 人間が恣意性を期待する対象になっているということで
す。
限定的・部分的にしろ そういう神であっても よろしいのですかと尋ねています。

(お) ほかのふたつ:(い)(う)の場合は 見て見ない振りですか?

(か) このことがどうして
★ 瑣末な点を突っつくのに神経を使わず、本題についてご回答くだされたく。
☆ となるのですか?


★★ (【Q:自爆テロ を哲学してみてくれませんか】№15お礼欄) ~~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9147813.html?pg=1&i …

 >★(№10〔№11のマチガイではありません〕お礼欄) ~~~~~
 神に恣意性を期待する(恣意性を信じる)
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 神は観念であるという思想です。

 神は 人智が及ばないと言いつつ その神に《恣意性を期待する》と言っている。
 すなわち 《期待》という人知がおよぶであろうという含みが表現されている。

え~っと、おっしゃっている意図が不明(意味はわかりますが)です。
#10では、『その神に恣意性を期待する(恣意性を信じる)ところから、誤った方
向に舵が切られるのではないか』と言っているはずですが。
《恣意性を期待する》ならば、
 >《期待》という人知がおよぶであろうという含みが表現されている。

だから、『誤った方向に舵が切られるのではないか』と言ったつもりですが、ご理解
いただけたでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆(き) 要するに あなたの定義する神は:

 《人智のおよばないチカラ》でありつつ 
 《その神に人間が恣意性を期待する》ことができる

ということになりますか? 

(く) おそらくこれ以上気を長くしてつきあうことは 忍耐心をほめられるよりも
自明のことばかりを何度も繰り返すなんてのは 相手ではなく おまえ(=ぶらじゅ
ろんぬ)のほうが 気がおかしいと言われかねないでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>(え) ★ 神に恣意性を期待する人と期待しない人、両方がいるという前提である
☆ ならば その場合の神は 人間が恣意性を期待する対象になっているということで
す。
限定的・部分的にしろ そういう神であっても よろしいのですかと尋ねています

どうも、質問の趣旨が伝わっていないようですね。
「そういう神」だと考えている人もいるのは事実ですから、そういう考え方も含めて論じています。
むろん、私がそうは思っていないことは、十分に表明しているはずです。
何について、
>よろしいのですかと尋ねて

いるのか理解に苦しみますね。

>(お) ほかのふたつ:(い)(う)の場合は 見て見ない振りですか?

何をおっしゃりたいのかほんと分かりません。
世の人びとがそう考えている内容が辞書の語釈となることは、すでに述べたはずです。
神に対しては、そうした認識がある、と辞書が述べていることをお示ししたわけで、また、それはそのとおりじゃないですかね?
何に関して、
>見て見ない振り

と言いたいのか、さっぱりです。
私の捉え方という意味なら、
【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当でしょう。】
という記述で、十分、おわかりいただけると思うのですがね。

>☆(き) 要するに あなたの定義する神は:

 《人智のおよばないチカラ》でありつつ 
 《その神に人間が恣意性を期待する》ことができる

ということになりますか? 

「開いた口が塞がらない」とは、こういう場合に使うんですね、おそらく。
今まで、何を聞いてきたんですかね?
人の書いた内容を読んでるんですか?
《その神に人間が恣意性を期待する》から間違いが起こる、と一万回ぐらいは言っているはずですが。

お礼日時:2016/01/12 20:35

(1)、(2)、(3)はお前の言ういわしの頭も信心からを述べているだけである。


信仰の度合いは人によって違う。間違った信仰を浅く、あるいはそれより進んで深く。
正しい信仰を浅く、あるいはそれより進んで深く。
(4)において人智の及ばぬ摂理とやらを人がどうして認められるのだ。言ってみろ、カス。
認められたらそれこそいわしの頭でないか。
人間という種を俯瞰するとそのようなものとしてしか人間、とはどういう意味だ、カス。
そのようなものとしてしか人間、とはなんだ。
彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない、とはどういう意味だ、カス。
反地球の楽しいパラレルワールドに入って喜んでいるのか。本人が楽しいのならば仕方あるまい。
もしもそうならば、かわいそうにと思う人も結構いるということだ。

お前の、こんな説ではどうしようもないぞ。
また、末法の世という言葉を知らないのか。
正しさは、個々において発見して守れ、だ。人は失敗する。自分の穴(けつ)は自分でふけ、だ。
人は失敗する。自分の穴(けつ)は自分でふけ、だ。
(1)、(2)、(3)はお前の言ういわしの頭も信心からを述べているだけである。
信仰の度合いは人によって違う。間違った信仰を浅く、あるいはそれより進んで深く。
正しい信仰を浅く、あるいはそれより進んで深く。
(4)において人智の及ばぬ摂理とやらを人がどうして認められるのだ。言ってみろ、カス。
認められたらそれこそいわしの頭でないか。
人間という種を俯瞰するとそのようなものとしてしか人間、とはどういう意味だ、カス。
そのようなものとしてしか人間、とはなんだ。
彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない、とはどういう意味だ、カス。
反地球の楽しいパラレルワールドに入って喜んでいるのか。本人が楽しいのならば仕方あるまい。
もしもそうならば、かわいそうにと思う人も結構いるということだ。

お前の、こんな説ではどうしようもないぞ。
また、末法の世という言葉を知らないのか。
正しさは、個々において発見して守れ、だ。人は失敗する。自分の穴(けつ)は自分でふけ、だ。
人は失敗する。自分の穴(けつ)は自分でふけ、だ。
個々が大事だからといってむきになってきちがいになってはいかん。
時代にとらわれない普通が大事なのだ。
ゆえに、君子危うきに近寄らずとあるのだ。危険はたくさんある。明白な危険に誰が赴くのだ。
孫子の兵法でも死地に入ってはならん、と説かれている。
馬鹿はそれを勇と喜ぶ。
最澄の天台小止観にあるぞ。体験的な修行をしても理(ことわり)を知らないものを愚、
理論だけで体験的な修行を大事にしない者を狂、だと。
述べただけである。まさか、比叡山やチベット、マレーシア、ネパールに行けと捉えるわけではあるまいな。

お前の宗教、信仰、どちらかは知らないがうんざりしたぞ。
空海が中国に渡航したときにやはり嵐にあったのである。船も衣服もぼろぼろで漂流地の人は怪しんだのだが、
とにかく言い分を書けと筆と紙を渡したのである。空海は書をしたため、それを見た長(おさ)はびっくりしてこう思ったのである。
これほどの書を書けるものは只者ではない、と。急いで、郡司に届けるとびっくりし、中央宮廷に届けるとびっくりしたのである。
この者たちをおろそかに扱ってはならん、丁重に中央に連れて参れ、と。
「書は人なり」「心正しければ筆正し」と昔から言われている。お前もまず、ボールペン字から始めたら。

有神論者も無心論者も、馬鹿が多い。うんざりするのである。
あと、日本人は北から南まで、西から東まで金である、と。日本人の異常は同一であると明言しよう。
たくさん金を使えることを誉れとする者がいる。知者は賢く金を使うことを心がける。


小学校では、料理に使われる、殺人に使われる包丁は善か悪かと、授業される。使い手によって異なると。
お前たちは、21世紀の住人であって、世界に恥じない高等教育を受けている。
うんざりする。


くそに教えるつもりは無いが梵我一如とは自然と一体、という意味である。
向きになってはならない。分かるものではないからである。
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この回答へのお礼

お大事に。

お礼日時:2016/01/12 20:45

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