いちばん失敗した人決定戦

タイトルどおりですが、信仰という要素が極めて大きな関連性を持つと考えますので、「信仰」の意味を曲解している可能性は無いか?という切り口から入らせていただきます。
1.【本来の信仰とは?】
まず、わかりやすい定義(語釈)をネット辞書から拾って提示してみます。
[ 信仰 ]
 1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「―が厚い」「守護神として―する」
 2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への―」「ブランド―」
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/114011/meaning/m1 …
[ 信仰(しんこう)/信ずる(しんずる)/信心(しんじん)/帰依(きえ)/狂信(きょうしん) ]
[共通する意味]
神仏を信頼して尊び、その教えに心から従うこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/9804/meaning/m …
「信じる・信頼する」という意志的動詞に着目していただきたいのですが、信仰とは、少なくともそのきっかけにおいては、「自我による思考」によって選択されたものだと判断するのが妥当と思われます。

2.【信仰の現状は?】
しかし、この点を失念して神におんぶに抱っこ状態になってしまうため、誤った信仰(盲信)に転落してしまうのではないでしょうか。
ある人にとっての信仰とは、論理的手段によっては解決不可能と判断された(漠然としたものも含む)不安や怖れなどを解消するための、最終的な手段になっていると思います。
そうだとするなら、論理の入る余地が無いという意味で、信仰は自我による思考の放棄だと(論理的に)言わざるを得ません。
「自我による思考の放棄」とは、同時的に、または結果的に「あるものへの盲信」へとつながるはずです。
念のため確認しておきますと、信仰が「自我による思考の放棄」の結果と仮定した場合、それが「盲信」であることに議論の余地はありません。(何も信じない、というのは「自我による思考の放棄」には含まれない)

3.【つまるところ・・】
自我の放棄による信仰状態を脱し、自らの信仰は自我によって選択されたものであることを確認することが必要ではないか、と思うわけです。
ところで「盲信」とは、
【わけもわからず、ただひたすらに信じること。】という意味です。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/218564/meaning/m1 …
このように再確認してみれば、これは信仰者に限らず人間の常態であると言っても良さそうです。実際、信仰の有無にかかわらず人は何かを「盲信」というほどに深く信じ込んで生きているようにも見えます。
ただ、その選択が自らの意志(自我)によって為されたものである、という認識を持っているか否かが重要ではないかと思うわけです。

4.【では、我々は何を為すべきか?】
信仰というものが、自我によってその選択が為されるとするなら、そこには(形態はどうあれ)根拠が必須になります。
この根拠として、宇宙の摂理(法則よりも適切でしょうから、このように表現します)という絶対性を挙げてよいのではないかと考えます。
「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当でしょう。
ただし、摂理(法則)とは、天体運行に関する科学的な仕組みや、宇宙の構造などを指すわけではない。(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。
そして、この摂理を背景に、人間という種を俯瞰してみるという作業が重要ではないかと思います。
なぜかというと、摂理が絶対であるなら、そのようなものとしてしか人間は存在していないはずだからです。
そのような視点で、人間という種としての自己を観察してみた場合、次のような発想が自然に生まれると思うのですが、いかがでしょうか。

【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】

これを「哲学」と呼べるかどうかはわかりませんが、個人的には、これで、かなりの問題(いずれ触れることもあると思います)が解決しやすく、あるいは納得しやすくなるのではないか、という気がしています。
-------------------------------------------------------------------------
諸賢の厳しい検証に敢えてさらすことによって、さらに充実させることができればと考える次第。
若干、過去質問と重複した部分もあるでしょう。ですので、必要であれば重複したご見解であっても、さらにおっしゃってみてください。
論旨が曖昧な点もあるかもしれませんが、その辺りご斟酌の上、ご回答いただけるとありがたく思います。

質問者からの補足コメント

  • #13お礼欄の続き。

    >(こ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     (け) 【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが
    妥当でしょう。】

    ☆ という定義の場合 《〈その神に人間が恣意性を期待する〉から間違いが起こる》こ
    とはあるのですか。ないのですか? 

    ほんと、人の言うこと全然聞いてませんね。
    いいですか?
    そもそも過去の遣り取りにおいて、恣意性を期待する神に対抗する形で宇宙の摂理としての神を持ち出してきたことは、十分に了解済みのはずですよね?
    神を宇宙の摂理と認識する人が、恣意性を期待するはずが無いじゃありませんか。
    しかし、恣意性を期待する人は、意図的な能力を神に期待するわけですよ。
    人格神とでも言いますかね。そういった存在として神を認識する。
    そこに誤りが生じる、と言っているわけ。
    こんなこと今さら言わないと通じないんですか?

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/12 23:04
  • #15お礼欄のつづき

    念のため修正しておきましょう。
    ×
    要するに「象徴」なのだから「概念」に決まってるでしょ、

    要するに感覚的形象としての「象徴」なのだから、どちらも「概念」に決まってるでしょ、

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/13 01:18
  • #30お礼欄からの続きです。

    >ただ、そういう哲学を一般的にするために、どのような方法論を考
    えておられるのか、気になったのです。

    先を見通したご指摘ですね。
    いくつかの箇所でも触れていますが、個人的に考える上で、いずれ、そうした方向に敷衍していくつもりです。
    また、そのことのほうがむしろ本題と言っても良いと考えています。
    その前提としてみなさんのご見解を参考にさせていただきたい、というのが質問の背景にある趣旨でもあります。
    かなり多岐にわたるはずですが、たとえば、こちらのカテでも色々な方がおられます。
    中には品位に欠ける発言を平気でされる方も数は少ないながらもいます。
    その場合、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という考え方をすることで、そうした相手に対しても静かに見守っていくのが良いだろうという結論が自然に導かれることでしょう。
    次の補足欄へ。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 16:34
  • (上補足欄からの続き)
    ただ、そのように考える根拠が、単なる善として、あるいは単なる神の教えとしてであっては普遍性に、おそらく欠けるような気がするわけです。
    端的に申し上げるとイスラムでもキリストでも良いと思います。
    ただ、それらの神は、あくまで 《宇宙の摂理》の象徴 としてしか存在していないのだ、ということを頭の片隅に入れて信仰するなら、宗教はもっと違う局面に入るのではないか、といったことを思います。
    アッラーやキリストは真理として納得するのは(思考放棄しない限り)難しいのではないでしょうか。しかし、《宇宙の摂理》が存在するのは自明の真理と言えるでしょうし、それに基づいて象徴として存在する神なら真理として納得できるはずです。
    今、思ったのですが、アッラーやキリストは真理そのものではなく、真理の語り部と捉えると良いのかもしれません。
    語り口は異なれ、元となる真理はひとつ、ということです。

      補足日時:2016/01/15 16:43
  • >★ (前記第二の引用箇所)~~~~~~~~~~~~~~
     《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」

    を想定してこそ得られるものだからです。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ☆ すなわち このお示しの神によるからこそ《人間の恣意性を期待する》ことが出
    来る。というわけになるようですね。

    まず、端的にお答えすると全く逆です。
    私の表現不足だったのだと思いますが、
    《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」

    「人智を超えた存在としての神」
    を対比的に扱っている点を再確認の上、論じていただく必要があります。
    少し切り口を変えて表現してみると、
    アッラーは、
    「人智を超えたものの象徴」としての神
    なのか、
    アッラーそのものが人智を超えた存在としての神
    なのか。
    こうした違いと捉えていただくとわかりやすくなるかもしれません。

    No.29の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 18:11
  • (タイトル命題は)
    >何故自然にそういう発想になるのかの論理構造がわかりません。

    4と重複する形になりますが、若干補足を加えつつ述べます。
    まず、(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということが大前提です。
    そうした絶対的摂理の結果として我々は存在しているのであり、しかも、その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である。よって、
    【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
    と言わざるを得ないことは自明なことと言える。
    そのようなものとしてしか人間は存在していないはずであり、そうした真理を認識することが、自ずと自らの(魂の)救済とならないはずがない。
    大体、こういった論理展開です。
    神が言うから平等なのだ、とは、思考放棄でない点で大きく異なっていると思うわけです。
    次の補足欄へ

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/16 22:52
  • 上欄の続きです。

    >宗教的対立を問題にしているのでしょうが、その発想を元にしたら、全ての宗教を統一する事も許されてしまいます。(人間の個別性が必要なければ、宗教は一つでかまわない事になります)

    それが理想ではないかと思います。
    アブラハムの宗教も「唯一神」なのですから、本来、それを目指していたのではないか、という気がします。
    従来の「宗教」の概念は、変わらざるを得ないでしょうね。
    どう変わるべきかまでは、とても考えが及んではいませんが。
    何かヒントをください。
    ただ、おっしゃるように、
    >人間の個別性

    あるいは自我が絡んでくるので厄介です。
    そもそも、問題の本質は、まさに、この点にあります。
    いろいろ教えていただきながら、いずれ、この点についても論議の対象とできるようになればと考えている次第。
    今は、総論的な観点からとりあえずの概要を把握したいという段階です。

      補足日時:2016/01/16 23:02
  • お答えいただきありがとうございました。
    納得がいったり、わかりやすかったりしたのは、ご自分のお考えに沿って解釈なさったからなのでしょうね。
    >他律的に、周囲が意味を類推する他ないです。

    わたしの至らぬ点として、極力改善を目指してみたいと思います。
    貴重なご意見でした。

    腑に落ちない点は、さらに補足質問していただければ助かります。
    見解の相違(「同意」なら、なお好ましいですが)の地点まで辿りつければ良いが、と思っています。

    No.47の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/18 17:35
  • >自我には何通りかあって、「人類としての この我」というものがあるとおっしゃる。

    これは、その通りです。

    >私はこれを「死を超えた視点」だと理解している次第です。

    そこまで深くは考えていませんでしたが、参考にさせていただきます。

    >これはポンとそういって、分かるようなものではないのです。

    おっしゃるとおりかもしれませんね。

    No.59の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/21 00:01
  • >・ われのあやまちは かれのあやまちであったかも知れない。

    極めて興味深い視点ですが、私の意図は全く逆で、
    ・ かれのあやまちは われのあやまちであったかも知れない。
    です。
    人が何かを語るとき、何の意図で語るのか、ということが極めて重要であることを改めて思い知らされます。
    ハイデガーの犯した誤謬に学ぶべきでしょう。
    何を語りたいのか、という点は曖昧なまま質疑を続けてきたわけですが、最後に思わぬ発見があったということのようです。

    No.60の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/21 17:37

A 回答 (99件中51~60件)

ハコブルさん、ありがとうございます。

私は新しい考え方に触れていると感じております。

>>たしかに、人間は自我的存在です。ただ、他に超自我的な部分も持っています。これらは、本能と共に神よりアプリオリに授けられている属性です。この神は恣意性を持たないのですから、我が我として存在している必然性は皆無であると捉えるのが自然(真理)ではないでしょうか。
つまり、我々は自我的存在として「我は我だ」と言うことはできても、そのように言う「我」は我の意思によって存在しているわけではありません。表現を変えると、我が我であるのは偶然の結果にすぎない。

 結論を先に申しますと、分からないです。どの地点が分からないのか。超自我が神よりアプリオリに授けられているという前提です。超自我という言葉にこだわれば、フロイトと言うことになりそうですが、フロイト的な自我の区分でいう超自我は神的次元と関係ない話です。Egoの一つ上というだけの意味で、Superegoなのでした。またここからは類推を始めますが、超自我に似たものとしてはカント的な悟性(悟性、理性、感性の三区分の頂上)が思い当たります。悟性は神的次元に通じることが示唆されていますが、やはり議論は現世のことを基盤にしており、神より与えられたとは規定しておりません。さらにスコラ哲学まで遡りますと、ヌースなる今日では忘却されたものがあって、これは神より与えられ、神(この場合はイデアの意)を感じる力と定義して良さそうです。

 しかしヌースの存在は今日では何ら自明のことではなく、前提的に、あなたもそうでしょう?という形で提起できるものではありません。私は信じておりませんし、神からアプリオリに与えられたとも考えておりません。ただの規範的判断力で、同じことはコンピュータープログラムもできるでしょう。ハコブルさんのおっしゃる超自我とは何のことなのですか? 事典を確認しましたが、一般語の規定ではないと感じています。背景をお教えいただけませんか。あるいは再度、定義し直してもらえませんか。前提で躓いておりますので、先のロジックは検討できないというのが率直なお話なのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>フロイト的な自我の区分でいう超自我は神的次元と関係ない話です。

唐突でしたでしょうか。
ただ、超自我が神的次元であるか否かを問題にしたわけではないのです。
ここは、単に
>肉体として個体が違う以上、自分と他人が違う

が意味するところの自我的存在だけでは(人間は)説明しきれないのではないか、ということを言いたい場面だと受け止めてください。
名称如何を問わず、そうした人としての属性が、(宇宙の摂理の比喩的な表現である)神から付与されたものである、という点だけ確認していただければと思います。
超自我は有体に申しますと、本能や自我に対して抑圧的に働く心理的要素ですが、今は、その意味について、あまり拘らる必要はないようです。
教えていただいた「ヌース」を少し検索してみましたが、ここから派生した語がカントの「物自体」と同義のようで、興味深く思いました。

お礼日時:2016/01/18 21:16

★★(№35お礼欄:全。

ただし行改めと節区分をほどこした) ~~~~~~
 > 《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
   ⇒恣意性期待できない
 ☆ という想定としての〔だと思います〕規定で済むというお考えなのですね?

 つまり 
 そのように想定される神については
 恣意性が期待できない
 ゆえに
 そこから命題が導かれたとしても その導いたことや命題の内容が人間の恣意性で
 あるとは言えない。


この際ですので「大体」という注釈無しとするために、少し説明を補足させていただ
きます。

( a )
まず、
 >規定で済むというお考えなのですね?

の「済む」意図が不明ですので確認の意味で申し上げると、恣意性を期待できる神が
不要だと言っているわけではありません。
それさえご理解いただいているなら、おっしゃるとおりです。

( b )
また、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
についても念のため、さらに確認しておきたいのですが、
「人智を超えた存在としての神」を想定するのは構わない(というのもおかしな表現
ですが)が、《宇宙の摂理》の象徴であることを失念しない状況でそれは為されるべ
きだ、ということ。

( c )
この状態で認識される神が、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
です。
《宇宙の摂理》の象徴であることを失念した状況で想定されたのが、
「人智を超えた存在としての神」
であり、前者に恣意性は(無意志としての摂理なのだから)存在せず、後者には存在
する(また、そのような神として人々は認識する⇒なのでダメ)という流れです。
まあ、たしかにややこしい表現ではありますね。
端的に表現するなら、神とは単なる象徴にすぎない(べきだ)、といった認識が重要
ではないか、ということになると思います。

( d )
 >そこから命題が導かれたとしても その導いたことや命題の内容が人間の恣意性
 であるとは言えない。

私の受け取り方に誤解が無ければですが、そのように解釈していただいて良いと思い
ます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ おもに( d )の部分で なお食い違い――わたしのほうの《誤解》――があった
かと思われます。

最新のご議論は 次です。:
★(№44お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 >3. ゆえに そこから命題が導かれた場合 その導いたことや命題の内容が
   人間の恣意性であるとは言えない。

( d-1 )
論理的整合性を全く備えていない文です。

( d-2 ) 恣意性を持っていない神を想定することによって導かれた命題内容と、
( d-3 ) それが人間の恣意性であると言えるか言えないかは、
( d-4 ) 何の関係もないですよね?
あるなら、お聞きしたいものですが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ もうひとつ次のご議論を参照します。端折らないほうがよいと思い 長いです:
★★(№25お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >《神とわれとの関係》は 人それぞれに違いがある。思考や判断としての精神の
  軌跡がそれぞれ違って来ている。

おっしゃるとおりです。
そのために(という表現もへんですが)イスラム教があり、キリスト教やヒンドゥ教
があるのでしょう。
であるからして、そのことから、
 >したがって

という順接を用いて、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】

という命題を論じようとするのはお門違いと言えます。

( d-5 )
なぜならこの命題は、質問文の4で当初よりお示ししているように、

 ( d-0 =核心命題)
  《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
 を想定してこそ得られるものだからです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ( d )というわたしの解釈は

 ( d-0 =核心命題)

にもとづきみちびいています。でも どこかに誤解や読み取りの到らなさがあったか
と思われます。
と正直にお伝えるするしかいまはないのですが さらに反省しつつ考えてまいりたい
と思います。

もしさらに詳しい説明ができる してやろうとお思いになったなら そのおこたえを
俟ちたいとも思います。よろしくどうぞ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>でも どこかに誤解や読み取りの到らなさがあったか
と思われます。

いや、それは私のほうにも言えることだと思います。
なぜ、そう考えるかと言うと、たぶん、次のような点に疑問を感じているからのようです。

( d )
 >そこから命題が導かれたとしても その導いたことや命題の内容が人間の恣意性
 であるとは言えない。

代名詞に挿入、あるいは注釈する形で書き直せば、次のような文(意味)になるはずですが、それで良いのですよね。

《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」⇒恣意性期待できないという記述
から、
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という
命題が導かれたとしても その導いたことや
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という
命題の内容が人間の恣意性である とは言えない。

ここの、
>【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という
命題の内容が人間の恣意性である 

というフレーズが、どういったことを意味しているのか、ちょっと疑問に感じます。
私としては、
神に恣意性がない、という前提に立てば、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という命題が導かれるはずだ、と申し上げているわけですが、その反論として、このようにおっしゃる意図がよくわかりません。
それが、
( d-2)~( d-4 )の記述となったとお考えください。
ご説明があれば助かります。

お礼日時:2016/01/18 18:46

ハコブルさん、ありがとうございます。

一応、繰り返しますが、分からないです。どこからがわからないか。

1分かった箇所
 「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当でしょう。
ただし、摂理(法則)とは、天体運行に関する科学的な仕組みや、宇宙の構造などを指すわけではない。(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。
そして、この摂理を背景に、人間という種を俯瞰してみるという作業が重要ではないかと思います。
なぜかというと、摂理が絶対であるなら、そのようなものとしてしか人間は存在していないはずだからです。

2分からない箇所
 そのような視点で、人間という種としての自己を観察してみた場合、次のような発想が自然に生まれると思うのですが、いかがでしょうか。

 全く私には自然発生しないです。「そのような視点」は一応持ったのだと思っていますが(♯43の当てずっぽうが当たったらしいので)、何がどうして、隣人と自分との区別が消失するのでしょう。つまり自他の区別がつかなくなると言うことですが、自他の区別は「神」と関係あるのでしょうか。肉体として個体が違う以上、自分と他人が違うのは、全く当たり前のことではないかと思うのですが……。「神」は関係ないのでは?

>「そうですか。わかりました。見解の相違のようですね」と申し上げるのが妥当だと判断するわけです。

 いや、ここは食い下がらせてください。率直に言うと、これは見解の相違というものではありません。ハコブルさんが明晰に書かれていないので、意味が分からないだけのことで、見解の相違にさえ、まだ達していないのです。ご経験が違うのか。論理の筋道が違うのか。前提条件が違うのか。私が理解しているのは、上の1と2の間で「そのような視点で」から極めて論述が粗暴に省略されており、相手の類推に期待して、意味不明な帰結が導き出されているということです。もちろん、ハコブルさんが私に理解させる義務を負っているわけではないので、「こいつはわからん」ということならそれで仕方ありませんが、可能なら論述してみせていただけないでしょうか。

>どの箇所から、そのように解釈されたのですか?

 イワシの頭が神かもしれないし、神でないかもしれないという話と接点があるのだなとブラジュロンヌさんのご投稿を読んで得心したのでした。♯44はそれなりに納得しました。ブラジュロンヌさんの言っていることは分かりやすいです。しかしお考えと齟齬があったらしいので、また認識を元に戻しました。しかしハコブルさんの記述では、たぶん誰であろうと、真意を理解することは難しいかもしれません。当てずっぽうに「これですか?」と石を投げてみて、当たったところで判断しているか、経験が最初から似ていたのでしょう。質問文それ自体から自律的に意味を把握できないです。他律的に、周囲が意味を類推する他ないです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

質問文冒頭に申し上げていますように、
>「信仰」の意味を曲解している可能性は無いか?という切り口

から入っているわけですが、この意図は、「神」に恣意性はない、ということを前提にしたかったからで、その点では、大筋で合意をいただけたと解釈して良いのでしょう。
この前提で、
  4.【では、我々は何を為すべきか?】
という仮説を述べる素地が成立しており、ここが最大の趣旨でもあるわけです。
そして、その趣旨のほとんど対して
>分かった箇所

として受け止めて(ご理解)いただけたのは、有り難いことだと思っております。
ただ、問いかけの形をとっている最後の一文に対して、
> 全く私には自然発生しないです。

と明確におっしゃっていただきました。
本質を外さず(=論点をぶれさせず)受け止めていただいたお陰で、論議すべき焦点が浮き彫りになりました。
>明晰に書かれていないので、意味が分からないだけのことで、見解の相違にさえ、まだ達していないのです。

というのも論理的なご指摘であり、一点の瑕疵も見当たらぬ構文です。
わたしとしても、
>意味が分からない

という状態で見解の相違と申し上げるつもりが毛頭ないことは、#43でもすでに申し上げているとおり。
さて、若干、前置きが長くなったきらいもありますが、今回の論点を改めて取り上げると、次の1点に絞られるでしょうから、それについて述べてみます。

>肉体として個体が違う以上、自分と他人が違うのは、全く当たり前のことではないかと思うのですが……。「神」は関係ないのでは?

たしかに、人間は自我的存在です。
ただ、他に超自我的な部分も持っています。
これらは、本能と共に神よりアプリオリに授けられている属性です。
この神は恣意性を持たないのですから、

我が我として存在している必然性は皆無である

と捉えるのが自然(真理)ではないでしょうか。
つまり、我々は自我的存在として「我は我だ」と言うことはできても、そのように言う「我」は我の意思によって存在しているわけではありません。
表現を変えると、我が我であるのは偶然の結果にすぎない。
よって、
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
と言わざるを得ない。
およそ、こういった論理展開です。
補足欄へ。

お礼日時:2016/01/18 17:30

《隣人》ですよ。



でも もうしつこくなるので 保留とします。謝謝。
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ブラジュロンヌさん、今しがた意味が分かりました。

「彼」とは神のことだったのですね。そのまま隣人だと受け取っていました。分からなかったです。ハコブルさんにも、すみません。また考えてみます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「彼」とは神のことだったのですね。

どの箇所から、そのように解釈されたのですか?
参考までに教えていただけませんか?
仮に、当質問の命題に述べている彼なら隣人のことですが。

お礼日時:2016/01/17 23:59

№35で 次のような《理論構成》だと確認できました。



 1. 《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
     ⇒恣意性期待できない
 
 2. この想定ないし規定から出発する。
 
 3. ゆえに そこから命題が導かれた場合 その導いたことや命題の内容が
  人間の恣意性であるとは言えない。

 4. よって 【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
  なる命題は 真である。


☆ 《次元》の問題もありますが これだけで――つまりは この命題は しか
るべき神を想定してこそ得られたものなので 真であると言っているという確認
だけで―― 議論はもうおしまいです。

身も蓋も無いのですが きびしさは必要です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

2つほど気になる点がありますね。
まず、
1. 《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
     ⇒恣意性期待できない

「人間は神が恣意性を持っていることを期待できない」という意味ですが、これはオッケー?
ノーなら一から質問文を読み直してください。
イエスなら、次へ。
>3. ゆえに そこから命題が導かれた場合 その導いたことや命題の内容が
  人間の恣意性であるとは言えない。

論理的整合性を全く備えていない文です。
恣意性を持っていない神を想定することによって導かれた命題内容と、それが人間の恣意性であると言えるか言えないかは、何の関係もないですよね?
あるなら、お聞きしたいものですが。
そうした論理的整合性を全く備えていない内容を根拠に
>議論はもうおしまいです。

と言いたいなら、無理にとは申しませんが、
>きびしさは必要です

って、勘弁してください。
正月も終わったんで、お笑いは食傷気味。

お礼日時:2016/01/17 23:36

>しかし、とても理知的に解明するのは無理だ~!のように、思考することを放棄することによって、その怖れから闇雲に逃れるために信仰という手段を採用する、といった場合もあるだろう



 このお言葉からインスピレーションを受けて当てずっぽうで書きますが、例えばこういうことでしょうか。
 ・地動説について。天が動いているのか、違うといているのか。
  →天が動いている。なぜなら地球は特権的な存在だと神が考えているからだ。
 ・進化論について。人間は猿の進化した存在なのか。
  →人間は最初から人間である。神が作った特権的な存在である。
 
 いずれも後で間違っていると立証されましたが、当時の神学者たちは神を口実にまともに考えようともしませんでした。もしこういうことなら、例があると分かりやすかったですね。しかしだからと言って、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という認識までは距離があるように思うのです。私は歴史的に考えて、そういう事例をぱっと思いつきません。もし社会主義の起源と信仰について造詣が深い人がいれば、何かしら思い当たることがあるのかもしれませんが……。

 その他について。 

>しかし、読み返してみれば何か嫌らしいというか、素直さの欠片もない表現ですね。

 誤解をしていて申し訳ないです。しかしエレガントな突き放し方は大切でしょう。人間は別々の存在である以上、理解し合えない地点が必ずやって参るわけですが、その度に戦争していたら滅んでしまいます。

>上の命題が ほかに意味を持つとすれば 文学・心理学あるいはSFやアニメであるとはっきり表現するのが 哲学の徒であると思います。

 私はまだ命題の意味が分かっていないんですね。ブラジュロンヌさんは、哲学=真理の探究ではない次元のお話であり、感性の次元のお話=そういうことを言うと面白いかもねという程度の次元のお話、と区分していらっしゃるのでしょうか。確かに先の「そういう場合もあるだろうが、そうでない場合もある」というハコブルさんの言葉尻だけ捉えれば、これは真理の探究を目的とした命題ではないんだな、と理解することになるでしょう。しかし私の誤解のようですから、何もまだ断定することはできず、ニュートラルな判断です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>このお言葉からインスピレーションを受けて当てずっぽうで書きますが、例えばこういうことでしょうか。

概ねそういうご理解で結構です。
要するに、わからんことは、最後の最後にわからないことは、神の思し召しである 的な言で片付けることが可能であるような仕組みになっているでしょう?といった意味です。

>しかしだからと言って、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という認識までは距離があるように思うのです。

このようにおっしゃっていただいてこそ会話が噛み合いますよね。
これに関しては肝の部分なので、4の一部をコピペする形になりますが再掲させていただきます。

「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当でしょう。
ただし、摂理(法則)とは、天体運行に関する科学的な仕組みや、宇宙の構造などを指すわけではない。(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。
そして、この摂理を背景に、人間という種を俯瞰してみるという作業が重要ではないかと思います。
なぜかというと、摂理が絶対であるなら、そのようなものとしてしか人間は存在していないはずだからです。
そのような視点で、人間という種としての自己を観察してみた場合、次のような発想が自然に生まれると思うのですが、いかがでしょうか。

質問の趣旨はここに凝縮されているといっても差し支えありません。
ただ、ある程度の遣り取りもし、また、今、このように再確認もしていただき、その上で
>~という認識までは距離があるように思うのです。

ということであれば、
>いかがでしょうか

という問いかけの形をとっていることでもあり、
「そうですか。わかりました。見解の相違のようですね」と申し上げるのが妥当だと判断するわけです。
このように、
>理解し合えない地点が必ずやって参るわけ

ことは常に念頭においております。
ただ、こちらの言っている意味を捻じ曲げて勝手に論を進めようとする方も、たまにいらっしゃいますので、そういう方に対しては、「同意を求めているわけでも押し付けているわけでもないので、こちらの言おうとしていることぐらいは正確に把握した上で反論してください」という気持ちを伝えているところ。

お礼日時:2016/01/17 23:53

いやいやいや。



★ 【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
☆ この命題が言っていることは 《人間はみなヒトなる種に属している》と
いう内容だけですよ。――ということは この質問ではあきらかです。

それだけでは あまりにも愛想が無いので 神とは何か・信仰とはどうなのか・
併せて宗教という鬼っ子についての確認を 上の命題の問題に先立って問うた
のでした。

上の命題が ほかに意味を持つとすれば 文学・心理学あるいはSFやアニメ
であるとはっきり表現するのが 哲学の徒であると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>★ 【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
☆ この命題が言っていることは 《人間はみなヒトなる種に属している》と
いう内容だけですよ。――ということは この質問ではあきらかです。

質問の趣旨をご自身が理解できていない、というだけですよ。
3.【つまるところ・・】

4.【では、我々は何を為すべきか?】
の項目を良く読み直してみてください。(素直に)
つまりですね、
>★ 【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
☆ この命題が言っていることは 《人間はみなヒトなる種に属している》と
いう内容

であるのは確かだが、

それはなぜなのか?

という点が重要なのですよ。
そして、それは、
☆(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。
そして、この摂理を背景に、人間という種を俯瞰してみるという作業が重要ではないかと思います。
なぜかというと、摂理が絶対であるなら、そのようなものとしてしか人間は存在していないはずだからです。

と言っているわけ。
つまり、こうした根拠に基づいているのだから、
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
と自然に考えることができるのではないか?
という問いかけであることは明白でしょう。
>文学・心理学あるいはSFやアニメ

にしないために、こうした論拠を挙げているのに、その点の記述を無視して
>いやいやいや。

って、それは、こっちのセリフ。
しかし、そこまで本質を逸らして論議したがるには何か理由があるんですかね?
それとも何か、性格?

お礼日時:2016/01/17 23:11

>>思考放棄せずに解決しようとする場合もあれば、思考放棄しなければ解決できないと判断する場合もある、


>中々次を続けることが難しい(♯38)

 はっきり言え、とご用命があって、どうしようかと思いました。簡単に言えば、そういう場合もあるけれども、そうではない場合もあるかもしれない、どっちでもいいじゃん、と言うことであれば、私も「どっちでもいいなら、いいか」としか答えられないということです。ブラジュロンヌさんの得意のお言葉に従えば、「哲学ではない」ということになるのかもしれません。しかし誰もが教義の哲学に取り組まないでもよい訳です。関心の持ち方が違うらしいから、まあそれはそれで見守ろうということでした。

 何となく、ブラジュロンヌさんが別の質問で示されている「美への憧れ論」は、ハコブルさんの畏敬の観念を説明しているように思ったのですが、どうでしょうか。つまり畏敬の念を感じた後、自我を抜け出るわけですが、ここには思考放棄とよく似た現象が起きているのかもしれません。しかし自我を抜け出る、エポケー、思考放棄は微視的に考えると別々に切り分けるべきことかもしれません。故に同じと言ったら怒られてしまうことでしょう。何かしら似ているように思われる、という漠然とした印象です。お二人は用語では別々のことをお話しになっていても、同じ現象を議論しているのかもしれない、と思われました。問題はどれが精密な表現か、でしょう。

 私の場合、よく分からないのです。そういう自我を捨てるような経験をしたことがないので。ある意味、傲慢極まりない生き方を、ずっとしているのでしょうね。美について、理論的にそういう人もいるだろうなと推測はしますが、私はよく分かっておりません。話は前に戻りますが、全く経験がない相手にゼロから説明するのは容易なことではなく、この意味ではハコブルさんのお言葉は、ある意味「分からない人には分からないかもね」ということであって、エレガントな突き放し方なのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
少しだけフィードバックしてみますか。

> しかしそうだとすれば極めて理知的な怖れであって、どうして思考放棄したくなるのかが、改めて分からなくなってしまいました。

「理知的な怖れ」なのだから、理知と言う以上、その怖れ自体、思考によって生じるもののはずであり、それは思考放棄ではないだろう。
といった意味に受け取った次第。
それで、
『思考によって生じた「理知的な怖れ」に関して、引き続き理知的に解明しようとするならば「理知的な怖れ」であり続けるだろうし、そういう場合もあるだろう。しかし、とても理知的に解明するのは無理だ~!のように、思考することを放棄することによって、その怖れから闇雲に逃れるために信仰という手段を採用する、といった場合もあるだろう』
といった意味で、
>思考放棄せずに解決しようとする場合もあれば、思考放棄しなければ解決できないと判断する場合もある、ということではないかと思います。

と申しあげたつもりです。
しかし、読み返してみれば何か嫌らしいというか、素直さの欠片もない表現ですね。
誰かから良くない影響を受けた可能性もあるかもしれません。
いずれにせよ、
>エレガント

は無縁の修飾語ですし、
>突き放し

たつもりでもありませんです。

お礼日時:2016/01/17 21:34

№39.


そうですね。見落としていてすみません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

明日は、ほぼ確実に大雪でしょう。

お礼日時:2016/01/17 19:11
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