タイトルどおりですが、信仰という要素が極めて大きな関連性を持つと考えますので、「信仰」の意味を曲解している可能性は無いか?という切り口から入らせていただきます。
1.【本来の信仰とは?】
まず、わかりやすい定義(語釈)をネット辞書から拾って提示してみます。
[ 信仰 ]
1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「―が厚い」「守護神として―する」
2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への―」「ブランド―」
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/114011/meaning/m1 …
[ 信仰(しんこう)/信ずる(しんずる)/信心(しんじん)/帰依(きえ)/狂信(きょうしん) ]
[共通する意味]
神仏を信頼して尊び、その教えに心から従うこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/9804/meaning/m …
「信じる・信頼する」という意志的動詞に着目していただきたいのですが、信仰とは、少なくともそのきっかけにおいては、「自我による思考」によって選択されたものだと判断するのが妥当と思われます。
2.【信仰の現状は?】
しかし、この点を失念して神におんぶに抱っこ状態になってしまうため、誤った信仰(盲信)に転落してしまうのではないでしょうか。
ある人にとっての信仰とは、論理的手段によっては解決不可能と判断された(漠然としたものも含む)不安や怖れなどを解消するための、最終的な手段になっていると思います。
そうだとするなら、論理の入る余地が無いという意味で、信仰は自我による思考の放棄だと(論理的に)言わざるを得ません。
「自我による思考の放棄」とは、同時的に、または結果的に「あるものへの盲信」へとつながるはずです。
念のため確認しておきますと、信仰が「自我による思考の放棄」の結果と仮定した場合、それが「盲信」であることに議論の余地はありません。(何も信じない、というのは「自我による思考の放棄」には含まれない)
3.【つまるところ・・】
自我の放棄による信仰状態を脱し、自らの信仰は自我によって選択されたものであることを確認することが必要ではないか、と思うわけです。
ところで「盲信」とは、
【わけもわからず、ただひたすらに信じること。】という意味です。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/218564/meaning/m1 …
このように再確認してみれば、これは信仰者に限らず人間の常態であると言っても良さそうです。実際、信仰の有無にかかわらず人は何かを「盲信」というほどに深く信じ込んで生きているようにも見えます。
ただ、その選択が自らの意志(自我)によって為されたものである、という認識を持っているか否かが重要ではないかと思うわけです。
4.【では、我々は何を為すべきか?】
信仰というものが、自我によってその選択が為されるとするなら、そこには(形態はどうあれ)根拠が必須になります。
この根拠として、宇宙の摂理(法則よりも適切でしょうから、このように表現します)という絶対性を挙げてよいのではないかと考えます。
「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当でしょう。
ただし、摂理(法則)とは、天体運行に関する科学的な仕組みや、宇宙の構造などを指すわけではない。(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。
そして、この摂理を背景に、人間という種を俯瞰してみるという作業が重要ではないかと思います。
なぜかというと、摂理が絶対であるなら、そのようなものとしてしか人間は存在していないはずだからです。
そのような視点で、人間という種としての自己を観察してみた場合、次のような発想が自然に生まれると思うのですが、いかがでしょうか。
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
これを「哲学」と呼べるかどうかはわかりませんが、個人的には、これで、かなりの問題(いずれ触れることもあると思います)が解決しやすく、あるいは納得しやすくなるのではないか、という気がしています。
-------------------------------------------------------------------------
諸賢の厳しい検証に敢えてさらすことによって、さらに充実させることができればと考える次第。
若干、過去質問と重複した部分もあるでしょう。ですので、必要であれば重複したご見解であっても、さらにおっしゃってみてください。
論旨が曖昧な点もあるかもしれませんが、その辺りご斟酌の上、ご回答いただけるとありがたく思います。
A 回答 (99件中91~99件)
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No.9
- 回答日時:
hakobuluのところに投稿はしたくないのですが、
要するに梵我一如なんですが
質問者さんがインド思想に嵌っているとは思いませんでした。
これの欠陥は、合一するものが前提として善であると
考えられていることです。
いまさらシャーマニズムで悪霊が憑依したなどと
一体いつの時代の話だという話でもないですが、
梵我一如のもっと現実的なものは
リヴァイアサンです。国家です。
レビヤタンは怪物ですが、国家がそうであるかどうかは
おまかせします。
ナショナリズムに批判的なポストモダンとかでは
差異のほうが主流です。
他者論とか。
他者論を仏教徒が考察しようとすると
すぐに相互関係の縁起の話をして他者論を批判しようとするので
なかなか仏教徒はポストモダンになりにくいようです。
これから難民とか移民が増えれば
他者論とか、うるさくなるかもしれません。
もしくは
郷に入れば郷に従え
などとナショナリズムとかが活発になるかもしれません。
ご回答ありがとうございます。
>hakobuluのところに投稿はしたくないのですが、
:
\(-_-;)/
そうでしたか。-_-;
まあ、わたしの不徳の致すところなんでしょうね。
>要するに梵我一如なんですが
:
そんな畏れ多いものとは知りませんでしたが、ウィキによれば【梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、】のようで、若干、ニュアンスが異なるようにも思います。
>これの欠陥は、合一するものが前提として善であると
考えられていることです。
:
おっしゃる意図を正しく理解しているかは不明ですが、この点が実は最重要でして、それを4で記述したつもりです。
具体的には、
(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。
そして、この摂理を背景に、人間という種を俯瞰してみるという作業が重要ではないかと思います。
なぜかというと、摂理が絶対であるなら、そのようなものとしてしか人間は存在していないはずだからです。
という箇所。
肝の部分と言っても良いと思います。
>梵我一如のもっと現実的なものは
リヴァイアサンです。国家です。
:
国家主権への絶対的服従ということですか。
国家-国民
神ー人間
は対照可能ですね。
会社ー社員
親ー子
などにも敷衍させることができそうです。
>他者論とか。
:
大変、興味深い用語を教えていただきました。
ざっと検索したところでは、レヴィナスの他者論が、面白そうに見えますが、サルトル、フッサールなども論じているようですね。
お勧めがございましたら教えてくれませんか。
No.8
- 回答日時:
>「彼は我であったかもしれず、我は彼であったかもしれない」
まさしくその通りだと思います。
そしてそれを‘宇宙の摂理‘的なスタンスの取り方から説明できる
というのも同感です。
つまり、自然科学から‘不確定性と決定論と精神性と偶然性‘を絡めて
なんとなくですが説明できてしまいそうな気がします。
そしてそれはその先への展開の土台にもなりうるかもしれませんね。
ご回答ありがとうございます。
> つまり、自然科学から‘不確定性と決定論と精神性と偶然性‘を絡めて
なんとなくですが説明できてしまいそうな気がします。
:
この意味は咀嚼していただかないと分かりませんが、とりあえず、
>その先への展開の土台にもなりうるかも
:
ということのようですので一安心です。
No.7
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
回答としては、あえて信仰や信仰対象にこだわる必要は無いのではないかと言う事を記載しただけです。
ヒューマニズムにしても、哲学者は絶対を条件に考えてはいません。
何故なら、人間そのものを扱えば、そこに絶対性を求める必要は無いからです。
だから、かえって問題は単純になるわけです。
信仰の中に、理性が入らない領域があるとしたら、信仰を哲学で語る事は適当ではありません。
逆に言えば、信仰を理性的に行えと言うならば、そのように信仰者に問いかける事しか出来ないでしょう。
また、信仰対象に別の絶対をあてがっても、何が違うのかと反論されるだけでしょう。
理性を超えた信仰者に対しては、哲学は無力なのではないでしょうか?
質問が、あくまでも信仰と信仰対象にこだわるのならば、それは新しい宗教を生み出そうとしているだけで、哲学とは言えないような感じがします。
少なくとも、盲信(無条件に信じる事)により救済されるという宗教はいくらでもあるわけですから、結果的にその宗教を批判しているだけになってしまいます。
盲信が悪いわけでは無いんです。
盲信により、行った行動が問題なわけです。
社会行動として、問題のある行動があれば、それは社会が処罰するでしょう。
国際的にも、反社会行動を無力化するには、反社会行動が無意味な行動となるようにするしか方法は無いと言う方向に向かっています。
何故ならば、反社会的行動がおきるのは、信仰によるものでは無く、社会的立場によって誘発されているからです。
実際問題、実行者が盲信者とも限らないわけですよ。(盲信者でなくても、状況によっては、反社会的行動を起こしうると言う事です)
人間が平等であって欲しいとか、世界が平和であった方が良いとか考えるのに、絶対という概念が必要でしょうか?
それが、ヒューマニズムなのではないですか?
ご回答ありがとうございます。
>信仰の中に、理性が入らない領域があるとしたら、信仰を哲学で語る事は適当ではありません。
:
たしかに、理性的な信仰という形態は難しいのでしょう。
しかし、そこに何とか活路を開けないだろうか、と思います。
「中に」の意味も微妙な点かもしれません。
>また、信仰対象に別の絶対をあてがっても、何が違うのかと反論されるだけでしょう。
:
全く同感です。
わたしも、「改宗」させるのは難しいと思います。
なので実は、主にこれから、そうした場面に遭遇するであろう人びとを念頭においている次第です。
つまるところ、ある意味での教育問題とも関連してくるように思います。
>盲信が悪いわけでは無いんです。
盲信により、行った行動が問題なわけです。
社会行動として、問題のある行動があれば、それは社会が処罰するでしょう。
:
lupan344さんの論理立てからいくと、そうなるでしょうね。
この記述に沿った形で応ずるとすれば、「盲信」であることを納得してさえいれば、つまり、そうした性質のものだという理解が頭の片隅にでもあれば、かなり違ってくるようにも思うのです。
>何故ならば、反社会的行動がおきるのは、信仰によるものでは無く、社会的立場によって誘発されているからです。
:
いずれ、そうした方面に話が広がっていくことは、むしろ期待しているところですが、論点が拡散しないように、あえて質問文では深く触れていません。
ただ、一言申し上げるなら、
>社会的立場
:
まさに、そこにも、ある意味での盲信が存在しているはずだ、というのが私の捉え方です。
>人間が平等であって欲しいとか、世界が平和であった方が良いとか考えるのに、絶対という概念が必要でしょうか?
それが、ヒューマニズムなのではないですか?
:
[ ヒューマニズム ]
「 人間性を称揚し、さまざまな束縛や抑圧による非人間的状態から人間の解放を目ざす思想。 」ですが、「人間の解放」とは言っても、「彼」という人間と「我」という人間が存在します。
これを「我」の立場で同列に(近い状態で)扱うためには、何らかの根拠が必要だとは思われませんかね。
No.6
- 回答日時:
よくこれだけ論理立てて、しかも
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
という結論に至ったものだと感心しました。
私には出来ない芸当です。
この結論は、我が身に置き換えて、人の心情を汲みとることだと理解しました。そうであるなら仰るように、実に多くの問題が解決することでしょう。
唯一、4.の冒頭、
>信仰というものが、自我によってその選択が為されるとするなら、そこには(形態はどうあれ)根拠が必須になります。<
という箇所が、解釈できませんでした。自我によって選択された信仰という行いを為すのに、何故根拠が必須であるといえるのでしょうか。これは、この根拠とは、信仰の動機のこととは違うのでしょうか?それとも、信仰するに至るその背景のようなものでしょうか?
よろしければここらへんの補足説明をいただけないでしょうか。
ご回答ありがとうございます。
>この結論は、我が身に置き換えて、人の心情を汲みとることだと理解しました。
:
おっしゃるとおりです。
ただ、なぜそうすることが正しいのか、という点まで踏み込んで根拠をお示ししたつもりでした。
>『信仰というものが、自我によってその選択が為されるとするなら、そこには(形態はどうあれ)根拠が必須になります。』
:
この文は、次のような意味です。
信仰というものが、自我によってその選択が為されるとするなら、 [ 自我とは自らの意志を伴なうものであるのだから 、] そこには(形態はどうあれ) [ その意志を決定づけたはずの ] 根拠が必須になります。
No.5
- 回答日時:
№3です。
★ (№3お礼欄) ~~~~~~~~~
(あ)・信仰の対象として尊崇・畏怖 (いふ) されるもの。
(い)・人知を超越した絶対的能力をもち、人間に禍福や賞罰を与える存在。
(う)・キリスト教やイスラム教では、宇宙・万物の創造主であり、唯一にして絶対的存在。
という3つに分かれています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (あ)なら 人間も信仰の対象になる・つまり神でありうると言っていますよね。
(い)は 《恣意性を期待する》対象としての神であると受け取れます。変わりありません。
(う)は ただの観念による説明であるに過ぎません。それぞれの宗教が《唯一》と言って
いたら どうなりますか。こんな勝手なことを言って通るものなら その神に恣意性を期待
することも 通ってしまいます。
よって みっつの定義のいづれについても 神に恣意性を期待してよいことになりましょう。
よろしいのですか?
ご回答ありがとうございます。
★ (№3お礼欄) ~~~~~~~~~
(あ)・信仰の対象として尊崇・畏怖 (いふ) されるもの。
(い)・人知を超越した絶対的能力をもち、人間に禍福や賞罰を与える存在。
(う)・キリスト教やイスラム教では、宇宙・万物の創造主であり、唯一にして絶対的存在。
という3つに分かれています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (あ)なら 人間も信仰の対象になる・つまり神でありうると言っていますよね。
:
意味を限定しすぎていますね。
つまり、「もの」という語の意味を正しく解釈していません。
「もの=人間」と限定なさる方は珍しいと思います。
いずれにせよ、神に恣意性を期待する人と期待しない人、両方がいるという前提であることは、お分かりでしょう。
「もの」の語釈に拘らず、その線で進めてください。
瑣末な点を突っつくのに神経を使わず、本題についてご回答くだされたく。
No.3
- 回答日時:
№1です。
神とは:
▼ 人間に禍福や賞罰を与える存在
☆ だとすれば その神に《恣意性を期待する》ことは きわめてふつうのことに
なってしまいます。
よろしいのですか?
ご回答ありがとうございます。
よくご覧になるとお分かりになりますが、
・信仰の対象として尊崇・畏怖 (いふ) されるもの。
・人知を超越した絶対的能力をもち、人間に禍福や賞罰を与える存在。
・キリスト教やイスラム教では、宇宙・万物の創造主であり、唯一にして絶対的存在。
という3つに分かれています。
辞書は、人びとの解釈を元に作られていますので、こうしたいくつかの意味で「神」という言葉は使われていますよ、ということを示しているのでしょう。
No.2
- 回答日時:
まず、盲信≠誤った信仰では無いですよ。
どのような信仰でも、信仰に至ったと言う事は、無条件に信仰対象を受け入れて信じているはずです。
質問文でも、信仰=盲信としています。(これは間違っていません)
では、誤った信仰とは、誰が判断するんでしょうか?
信仰対象に関しては、誤った信仰とは直接の関係は無いでしょう。
信仰対象が何であろうと、信仰者にとって、それが信ずるにたるものであれば、何でもかまわないと思います。
判断基準としては、信仰者の行動でしか判断出来ないはずです。
そうなると、それは社会的判断や、ヒューマニズムの問題に帰結してしまいます。
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】は、まさにヒューマニズムの問題では無いですか?
むしろ、信仰とは切り離して論ずるのが妥当でしょう。
その問題に信仰対象を持ち出す必要があるんでしょうか?
信仰対象は、信仰者にとっては、絶対ですが、それを別に絶対のものがあると説明する事に意味があるとは思えません。
そのような事で、信仰がゆらぐとしたら、元々信仰はしていなかった事にならないですか?
そのような説明は、異教徒を自分の宗教に取り込む為の言いかえに使われた手法と何ら変わらないと思います。
本来は、言い換えられるのならば、改宗なんか必要無いわけですよ。
それぞれの宗教で言い換えられない部分があるから、存在しているはずです。
ならば、それを問題にしたら、宗教論になってしまいます。(これを理性的に結論づける事は不可能でしょう)
ヒューマニズムの問題ならば、それに集中した方が、難しい信仰対象や信仰を相手にしなくてすむと思いますよ。
ご回答ありがとうございます。
>盲信≠誤った信仰では無いですよ。
>質問文でも、信仰=盲信としています。
:
ご指摘いただきありがとうございます。
そのように見えたなら表現不足だったのでしょう。
「盲信」とは、
【わけもわからず、ただひたすらに信じること。】
と述べている部分を採用していただければと思います。
冒頭述べましたように、「信仰」の意味を曲解している可能性は無いか?という切り口から入っているため、そのように受け止められてしまったのかもしれません。
ざっくり申し上げると、
盲信しない信仰が本来の信仰ではないだろうか、と推論です。
>信仰対象が何であろうと、信仰者にとって、それが信ずるにたるものであれば、何でもかまわないと思います。
:
おっしゃるとおりと思います。
ただ、功罪はあるはずです。
この「罪」の部分について考えてみたいのです。
>【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】は、まさにヒューマニズムの問題では無いですか?
:
これもおっしゃるとおりです。
ただ、人間は納得しないことは、基本的に、あるいは自主的にはやらないはずです。
超自我性に訴えるだけのヒューマニズムはもろいと思います。
自我、つまり論理的に納得できるための基盤としての哲学が必要ではないか、というのが一連の質問を思い立ったきっかけでもあります。
>信仰対象は、信仰者にとっては、絶対ですが、それを別に絶対のものがあると説明する事に意味があるとは思えません。
そのような事で、信仰がゆらぐとしたら、元々信仰はしていなかった事にならないですか?
:
たとえばですが、理屈としてはイワシの頭を神だと信じる人も想定できます。
信仰が絶対であるということを前提にすれば話は進みません。
特に、今回は、信仰の意味そのものをも問うているわけですから。
>ならば、それを問題にしたら、宗教論になってしまいます。
:
ごもっともです。
ですので、別の切り口から入らせていただいた次第です。
>ヒューマニズムの問題ならば、それに集中した方が、難しい信仰対象や信仰を相手にしなくてすむと思いますよ。
:
おそらくですが、真理に根ざしたものでないと、本当の意味でのヒューマニズムは成立しないような気がします。
それを何とか探ってみたいものです。
No.1
- 回答日時:
ネット辞書は 信用できません。
(印象のみ述べるにいまはとどめますが)。神仏とありますが 《神》としましょう。そうすると:
神とは 何でしょう?
という問いがなお答えられていません。定義から始めないことには:
★ 3.・・・自らの信仰は自我によって選択されたものである
☆ というときの《信仰》もその対象がはっきりしないままになっています。
どうでしょう?
ご回答ありがとうございます。
> 神とは 何でしょう?
:
同じ辞書で定義していますけどね。
1.信仰の対象として尊崇・畏怖 (いふ) されるもの。人知を超越した絶対的能力をもち、人間に禍福や賞罰を与える存在。キリスト教やイスラム教では、宇宙・万物の創造主であり、唯一にして絶対的存在。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/44664/meaning/m1u …
ということなのでしょう。
私としては、個々人によって種種の答えがあると思っていて、それで構わないですよ。
スタート時点としては、別に問題ないでしょう。
>★ 3.・・・自らの信仰は自我によって選択されたものである
☆ というときの《信仰》もその対象がはっきりしないままになっています。
:
上でお示ししたところの「神」でしょうね。
建設的にいきませんか?
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#13お礼欄の続き。
>(こ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(け) 【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが
妥当でしょう。】
☆ という定義の場合 《〈その神に人間が恣意性を期待する〉から間違いが起こる》こ
とはあるのですか。ないのですか?
:
ほんと、人の言うこと全然聞いてませんね。
いいですか?
そもそも過去の遣り取りにおいて、恣意性を期待する神に対抗する形で宇宙の摂理としての神を持ち出してきたことは、十分に了解済みのはずですよね?
神を宇宙の摂理と認識する人が、恣意性を期待するはずが無いじゃありませんか。
しかし、恣意性を期待する人は、意図的な能力を神に期待するわけですよ。
人格神とでも言いますかね。そういった存在として神を認識する。
そこに誤りが生じる、と言っているわけ。
こんなこと今さら言わないと通じないんですか?
#15お礼欄のつづき
念のため修正しておきましょう。
×
要するに「象徴」なのだから「概念」に決まってるでしょ、
○
要するに感覚的形象としての「象徴」なのだから、どちらも「概念」に決まってるでしょ、
#30お礼欄からの続きです。
>ただ、そういう哲学を一般的にするために、どのような方法論を考
えておられるのか、気になったのです。
:
先を見通したご指摘ですね。
いくつかの箇所でも触れていますが、個人的に考える上で、いずれ、そうした方向に敷衍していくつもりです。
また、そのことのほうがむしろ本題と言っても良いと考えています。
その前提としてみなさんのご見解を参考にさせていただきたい、というのが質問の背景にある趣旨でもあります。
かなり多岐にわたるはずですが、たとえば、こちらのカテでも色々な方がおられます。
中には品位に欠ける発言を平気でされる方も数は少ないながらもいます。
その場合、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という考え方をすることで、そうした相手に対しても静かに見守っていくのが良いだろうという結論が自然に導かれることでしょう。
次の補足欄へ。
(上補足欄からの続き)
ただ、そのように考える根拠が、単なる善として、あるいは単なる神の教えとしてであっては普遍性に、おそらく欠けるような気がするわけです。
端的に申し上げるとイスラムでもキリストでも良いと思います。
ただ、それらの神は、あくまで 《宇宙の摂理》の象徴 としてしか存在していないのだ、ということを頭の片隅に入れて信仰するなら、宗教はもっと違う局面に入るのではないか、といったことを思います。
アッラーやキリストは真理として納得するのは(思考放棄しない限り)難しいのではないでしょうか。しかし、《宇宙の摂理》が存在するのは自明の真理と言えるでしょうし、それに基づいて象徴として存在する神なら真理として納得できるはずです。
今、思ったのですが、アッラーやキリストは真理そのものではなく、真理の語り部と捉えると良いのかもしれません。
語り口は異なれ、元となる真理はひとつ、ということです。
>★ (前記第二の引用箇所)~~~~~~~~~~~~~~
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
を想定してこそ得られるものだからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち このお示しの神によるからこそ《人間の恣意性を期待する》ことが出
来る。というわけになるようですね。
:
まず、端的にお答えすると全く逆です。
私の表現不足だったのだと思いますが、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
と
「人智を超えた存在としての神」
を対比的に扱っている点を再確認の上、論じていただく必要があります。
少し切り口を変えて表現してみると、
アッラーは、
「人智を超えたものの象徴」としての神
なのか、
アッラーそのものが人智を超えた存在としての神
なのか。
こうした違いと捉えていただくとわかりやすくなるかもしれません。
(タイトル命題は)
>何故自然にそういう発想になるのかの論理構造がわかりません。
:
4と重複する形になりますが、若干補足を加えつつ述べます。
まず、(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということが大前提です。
そうした絶対的摂理の結果として我々は存在しているのであり、しかも、その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である。よって、
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
と言わざるを得ないことは自明なことと言える。
そのようなものとしてしか人間は存在していないはずであり、そうした真理を認識することが、自ずと自らの(魂の)救済とならないはずがない。
大体、こういった論理展開です。
神が言うから平等なのだ、とは、思考放棄でない点で大きく異なっていると思うわけです。
次の補足欄へ
上欄の続きです。
>宗教的対立を問題にしているのでしょうが、その発想を元にしたら、全ての宗教を統一する事も許されてしまいます。(人間の個別性が必要なければ、宗教は一つでかまわない事になります)
:
それが理想ではないかと思います。
アブラハムの宗教も「唯一神」なのですから、本来、それを目指していたのではないか、という気がします。
従来の「宗教」の概念は、変わらざるを得ないでしょうね。
どう変わるべきかまでは、とても考えが及んではいませんが。
何かヒントをください。
ただ、おっしゃるように、
>人間の個別性
:
あるいは自我が絡んでくるので厄介です。
そもそも、問題の本質は、まさに、この点にあります。
いろいろ教えていただきながら、いずれ、この点についても論議の対象とできるようになればと考えている次第。
今は、総論的な観点からとりあえずの概要を把握したいという段階です。
お答えいただきありがとうございました。
納得がいったり、わかりやすかったりしたのは、ご自分のお考えに沿って解釈なさったからなのでしょうね。
>他律的に、周囲が意味を類推する他ないです。
:
わたしの至らぬ点として、極力改善を目指してみたいと思います。
貴重なご意見でした。
腑に落ちない点は、さらに補足質問していただければ助かります。
見解の相違(「同意」なら、なお好ましいですが)の地点まで辿りつければ良いが、と思っています。
>自我には何通りかあって、「人類としての この我」というものがあるとおっしゃる。
:
これは、その通りです。
>私はこれを「死を超えた視点」だと理解している次第です。
:
そこまで深くは考えていませんでしたが、参考にさせていただきます。
>これはポンとそういって、分かるようなものではないのです。
:
おっしゃるとおりかもしれませんね。
>・ われのあやまちは かれのあやまちであったかも知れない。
:
極めて興味深い視点ですが、私の意図は全く逆で、
・ かれのあやまちは われのあやまちであったかも知れない。
です。
人が何かを語るとき、何の意図で語るのか、ということが極めて重要であることを改めて思い知らされます。
ハイデガーの犯した誤謬に学ぶべきでしょう。
何を語りたいのか、という点は曖昧なまま質疑を続けてきたわけですが、最後に思わぬ発見があったということのようです。