タイトルどおりですが、信仰という要素が極めて大きな関連性を持つと考えますので、「信仰」の意味を曲解している可能性は無いか?という切り口から入らせていただきます。
1.【本来の信仰とは?】
まず、わかりやすい定義(語釈)をネット辞書から拾って提示してみます。
[ 信仰 ]
1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「―が厚い」「守護神として―する」
2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への―」「ブランド―」
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/114011/meaning/m1 …
[ 信仰(しんこう)/信ずる(しんずる)/信心(しんじん)/帰依(きえ)/狂信(きょうしん) ]
[共通する意味]
神仏を信頼して尊び、その教えに心から従うこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/9804/meaning/m …
「信じる・信頼する」という意志的動詞に着目していただきたいのですが、信仰とは、少なくともそのきっかけにおいては、「自我による思考」によって選択されたものだと判断するのが妥当と思われます。
2.【信仰の現状は?】
しかし、この点を失念して神におんぶに抱っこ状態になってしまうため、誤った信仰(盲信)に転落してしまうのではないでしょうか。
ある人にとっての信仰とは、論理的手段によっては解決不可能と判断された(漠然としたものも含む)不安や怖れなどを解消するための、最終的な手段になっていると思います。
そうだとするなら、論理の入る余地が無いという意味で、信仰は自我による思考の放棄だと(論理的に)言わざるを得ません。
「自我による思考の放棄」とは、同時的に、または結果的に「あるものへの盲信」へとつながるはずです。
念のため確認しておきますと、信仰が「自我による思考の放棄」の結果と仮定した場合、それが「盲信」であることに議論の余地はありません。(何も信じない、というのは「自我による思考の放棄」には含まれない)
3.【つまるところ・・】
自我の放棄による信仰状態を脱し、自らの信仰は自我によって選択されたものであることを確認することが必要ではないか、と思うわけです。
ところで「盲信」とは、
【わけもわからず、ただひたすらに信じること。】という意味です。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/218564/meaning/m1 …
このように再確認してみれば、これは信仰者に限らず人間の常態であると言っても良さそうです。実際、信仰の有無にかかわらず人は何かを「盲信」というほどに深く信じ込んで生きているようにも見えます。
ただ、その選択が自らの意志(自我)によって為されたものである、という認識を持っているか否かが重要ではないかと思うわけです。
4.【では、我々は何を為すべきか?】
信仰というものが、自我によってその選択が為されるとするなら、そこには(形態はどうあれ)根拠が必須になります。
この根拠として、宇宙の摂理(法則よりも適切でしょうから、このように表現します)という絶対性を挙げてよいのではないかと考えます。
「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当でしょう。
ただし、摂理(法則)とは、天体運行に関する科学的な仕組みや、宇宙の構造などを指すわけではない。(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。
そして、この摂理を背景に、人間という種を俯瞰してみるという作業が重要ではないかと思います。
なぜかというと、摂理が絶対であるなら、そのようなものとしてしか人間は存在していないはずだからです。
そのような視点で、人間という種としての自己を観察してみた場合、次のような発想が自然に生まれると思うのですが、いかがでしょうか。
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
これを「哲学」と呼べるかどうかはわかりませんが、個人的には、これで、かなりの問題(いずれ触れることもあると思います)が解決しやすく、あるいは納得しやすくなるのではないか、という気がしています。
-------------------------------------------------------------------------
諸賢の厳しい検証に敢えてさらすことによって、さらに充実させることができればと考える次第。
若干、過去質問と重複した部分もあるでしょう。ですので、必要であれば重複したご見解であっても、さらにおっしゃってみてください。
論旨が曖昧な点もあるかもしれませんが、その辺りご斟酌の上、ご回答いただけるとありがたく思います。
A 回答 (99件中61~70件)
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No.39
- 回答日時:
さいころさんも はっきり言ってあげればよいのに。
いづれにしても問題の解決は 人間の思考によっておこなう。
(思考放棄をつうじて解決しようという思考なのですから。
理性を一たん棄てる場合(エポケー)もあるという理性です)。
でも それだけだと 人間のただの恣意性に落ち入ってしまう。
だから ここで神という迂回路を用いた。
マネー・ロンダリングみたいなもので 神という観念の銀行に一たん預
けておいたならばもう恣意性は消えるのだと。
《神は観念である》という大前提に立つならば その思考や想像は 人
間にとって何でもござれのお茶の子さいさいです。
★ 【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
☆ もともと恣意的な想像ですが お墨付きを得たのだというイデア・
ロンダリング(これもやはり恣意的なはかりごと)がはたらいています。
言っていることは 人間はみなヒトなる種に属している。という内容だ
けですよ。
ご回答ありがとうございます。
>だから ここで神という迂回路を用いた。
マネー・ロンダリングみたいなもので 神という観念の銀行に一たん預
けておいたならばもう恣意性は消えるのだと。
:
全く曲解してますよ。
どの記述から、そう思われたのですか?
もしかすると#35の、
☆規定で済むというお考えなのですね?
★の「済む」意図が不明ですので確認の意味で申し上げると、恣意性を期待できる神が不要だと言っているわけではありません。
それさえご理解いただいているなら、おっしゃるとおりです。
:
という応答からそう考えたんですかね。
やはり、
★「済む」意図が不明ですので
:
と注釈しておいて良かったですなあ。
つまり、
★恣意性を期待できる神が不要だと言っているわけではありません。
:
と言っているのに、
☆ここで神という迂回路を用いた
:
と断定している。
おかしいでしょ?
「 恣意性を期待できる神」とタイトルの命題とが関係ないことは、あれだけ説明したのですから、いい加減理解してくださいよ。
まあ、勘違いは誰にでもあるので許容はしますが、他の人を巻き込むのだけは勘弁してもらえませんかね?
No.37
- 回答日時:
かなり、信仰対象に対する回答が頻発されているようですが、質問内容を一度整理された方が良いと思います。
質問文を拝読した限りは、以下のように思われます。
1.【本来の信仰とは?】に対しては、「自我による選択がきっかけとなる」と言うのが、御意見と言う事かと思います。
これは、逆に質問文としては、「自我による選択がきっかけになる」信仰のみが対象という意味ですよね。
2.【信仰の現状は?】に対しては、「自我による選択がきっかけになる」信仰なのに、それを忘却すると「盲信」に至ると推定すると言う事ですね。
「盲信」≡「誤った信仰」とされていますが、この点の検証としては、それが「思考の放棄」を意味する事のみで良いでしょうか?(論理的解決不能→思考の放棄、は単純に答えが無い状態を意味します)
信仰自体が、論理的解決不能な事に答えを与える行為ならば、この事で「誤った信仰」としたら、信仰すべてが誤った信仰にならないですか?
答えが無いなら、思考不能であり、選択以外の方法はありません。(要はさいころをふるのと同じで、偶然に結果を委ねるだけです)
信仰→盲信→誤った信仰が結論づけられますから、この段階ですべての信仰は誤りであると論理的に結合されます。
これが真か偽かが問題点なのでしょうか?(それとも、これこそが真と言う事でしょうか?)
3.【つまるところ・・】は、上記の結論の表明でしょうか?
信仰とは無関係に、論敵解決不能な事に対しては、自我による選択によるべきとの意見のようですが、それであれば、信仰は不要と言う結論のようにも見えます。
言っていることは、「盲信」をするなと言う事で、その場合の信仰とはどのようなものなのでしょうか?(信仰が自我の選択に作用する事は何ですか?)
4.【では、我々は何を為すべきか?】は、新しい信仰もしくは宗教の提案と言う事で良いですか?
「神」の定義は、個々人の自由ですから、「宇宙の摂理」でも良いですが、「摂理」自体が絶対的な存在に基づく表現です。(むしろ、絶対的な存在を排除したいのなら、原理もしくは法則の方が良いと思います)
これは、何か絶対的な存在を仮定していると言う事で良いのでしょうか?(単純に言えば、これはアブラハムの宗教が唯一絶対の存在としてる|神|でも良くなってしまいます)
多分、「神」が絶対的であっても、選択は行わないと言う事を選択されていると思いますが、表現が曖昧なので、それが十分に理解されていません。
「神」に何かしらの権威を与えようとしたら、「神」が人間に作用できなければ、その権威を持てないのでは無いでしょうか?
単純に言えば、「宇宙の摂理」は偶然だと言ってしまえば、何も選択しないので、それで良くなってしまいます。
つまり、「神」に権威が要らないと言う事です。
1~3の内容で、自我による選択の余地を残す信仰であれば、そこに「神」はいてもいなくても同じでは無いですか?
個人の倫理観だけで十分です。
「宇宙の摂理」がわからないのに、それを行動規範にするのは難しいと思います。
自明で無い「宇宙の摂理」を、自我にとって自明に変える仕組みとして、信仰があるとしたら、それはどのような形態になるのでしょうか?
また、「自我」が絶対性を持ちうるとしたら、「選択」が自我による事でしょう。(自明で無い事を、選択と言う手続きで処理するだけです)
あくまで、個人が納得する方法がそれしか無いと言う意味しか無いです。
次に、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】の意味です。
これは、正直、何故自然にそういう発想になるのかの論理構造がわかりません。
これが、人間は全て「平等」であると言う事を意味しているのか、「人間の環境は偶然の産物であり、誰がどのようになるかは理由は無いと言う事」なのかを明確にしておいた方が良いと思います。
そうでなければ、それは単なるナイーブな感傷になってしまいます。
一般的な宗教の信者は、信仰の元にそのような考えになっています。(宗教の信者は全て平等な場合が多いでしょう)
ですから、新たにそれを持ち出す理由がわかりません。
宗教的対立を問題にしているのでしょうが、その発想を元にしたら、全ての宗教を統一する事も許されてしまいます。(人間の個別性が必要なければ、宗教は一つでかまわない事になります)
つまり、宗教的対立は免れない事になってしまいます。
むしろ、徹底した個人主義を認めた方がまだましですよ。(個人主義であれば、他者に干渉する事は無いでしょう)
要は、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】は、両刃の刃です。
それで解決できる事もあれば、逆に問題を起こす事もあるんです。
その言葉をうまく使える人は、自我にきちんとした倫理観をもっている必要があるでしょう。
ただ、倫理観も解釈によりますから、それ自体が哲学的問題ですけどね。
ご回答ありがとうございます。
>(論理的解決不能な事に答えを与える行為)ならば、
:
という逆接前提で論を展開しておられますが、
>論理的解決不能な事に答えを与える
:
ことができる、と期待すること自体に疑問を投げかけたい、ということです。
>「盲信」をするなと言う事で、その場合の信仰とはどのようなものなのでしょうか?(信仰が自我の選択に作用する事は何ですか?)
:
信仰には功罪があり、盲信は「罪(ざい)」の要素と捉えていますが、それは必要悪だとするか、他の解決策があるはずだと模索するかの違いでしょう。
後者の立場で考えています。
しかし、信仰=盲信 を覆せるだけの論理は私的には未だ得られていません。
>4.【では、我々は何を為すべきか?】は、新しい信仰もしくは宗教の提案と言う事で良いですか?
:
そのように受け取っていただいてよろしいと思います。
>これは、何か絶対的な存在を仮定していると言う事で良いのでしょうか?(単純に言えば、これはアブラハムの宗教が唯一絶対の存在としてる|神|でも良くなってしまいます)
:
よくわかります。
ただ、実体を連想させる「存在」ではなく、「摂理」あるいは「絶対性」といった観念的事象を指しています。
そもそも、
>唯一絶対の存在としてる|神|
:
であるのに、その解釈は異なるという矛盾に、対立する宗教者各々が気づくべきではないでしょうか。
>多分、「神」が絶対的であっても、選択は行わないと言う事を選択されていると思います
:
全くそのとおりです。
>「神」に何かしらの権威を与えようとしたら、「神」が人間に作用できなければ、その権威を持てないのでは無いでしょうか?
:
権威を与えるのは、「論理的解決不能な事に答えを与える」ためだと思います。
神にこのような力を求めること自体が誤りの根源だという考えです。
>「宇宙の摂理」は偶然だと言ってしまえば、何も選択しないので、それで良くなってしまいます。
>自明で無い「宇宙の摂理」を、自我にとって自明に変える仕組みとして、信仰があるとしたら、それはどのような形態になるのでしょうか?
:
我々の存在自体が偶然なのですから、それを正視することが重要ではないか、と思います。
「宇宙の摂理」に思いをいたすことだけで、行動に対して無意識的な影響を与え得るだろう、ということです。
補足欄へ続く
No.36
- 回答日時:
>おそらくですが、これは「(狭義の)怖れ」のような印象ですね。
お示しした「(広義の)怖れ」にざっくりと説明を加えるなら、たとえば、我々はどこから来てどこへ行くのか などといった疑問が芽生えることは、誰しも経験したことはあるように思うのですが、これも、ある種の怖れと言えるでしょう。こうしたことに答えを求める人は多いように思うのですが、その(かなり大きな)受け皿のひとつとして宗教なり信仰なりがあるように思います。確かにそうおっしゃられてみると、私の盲点だったわけですが、そういうものも「怖れ」に含まれるでしょう。畏怖、畏敬。英語だとreverenceに該当するのかもしれません。うーん。そういう意味での信仰ですか。
しかしそうだとすれば極めて理知的な怖れであって、どうして思考放棄したくなるのかが、改めて分からなくなってしまいました。地獄があると脅迫されて、訳が分からなくなって思考を放棄するという理屈は分かります。どういう心理状態なのでしょうか。
>極めて幸せな環境でお育ちになったのでしょうね。
いえ、むしろ不幸な環境だったので、教会が温かく見えたのかもしれません。結構大変でしたよ(笑)。冗談はさておき、畏敬の念は誰しも持つものですから、環境は関係ない話になるのかもしれませんね。この点についてはある程度、納得がいきました。
ご回答ありがとうございます。
> しかしそうだとすれば極めて理知的な怖れであって、どうして思考放棄したくなるのかが、改めて分からなくなってしまいました。
:
思考放棄せずに解決しようとする場合もあれば、思考放棄しなければ解決できないと判断する場合もある、ということではないかと思います。
No.35
- 回答日時:
そうしますと:
★(№34お礼欄)
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」⇒恣意性期待できない
☆ という想定としての〔だと思います〕規定で済むというお考えなのですね?
つまり
そのように想定される神については
恣意性が期待できない
ゆえに
そこから命題が導かれたとしても その導いたことや命題の内容が人間の恣意性であると
は言えない。
こういう論理と全体の説明だということでしょうか。
これは もうただの確認です。わづらわせますが。
ご回答ありがとうございます。
> 《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」⇒恣意性期待できない
☆ という想定としての〔だと思います〕規定で済むというお考えなのですね?
つまり
そのように想定される神については
恣意性が期待できない
ゆえに
そこから命題が導かれたとしても その導いたことや命題の内容が人間の恣意性であると
は言えない。
:
この際ですので「大体」という注釈無しとするために、少し説明を補足させていただきます。
まず、
>規定で済むというお考えなのですね?
:
の「済む」意図が不明ですので確認の意味で申し上げると、恣意性を期待できる神が不要だと言っているわけではありません。
それさえご理解いただいているなら、おっしゃるとおりです。
また、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
についても念のため、さらに確認しておきたいのですが、
「人智を超えた存在としての神」を想定するのは構わない(というのもおかしな表現ですが)が、《宇宙の摂理》の象徴であることを失念しない状況でそれは為されるべきだ、ということ。
この状態で認識される神が、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
です。
《宇宙の摂理》の象徴であることを失念した状況で想定されたのが、
「人智を超えた存在としての神」
であり、前者に恣意性は(無意志としての摂理なのだから)存在せず、後者には存在する(また、そのような神として人々は認識する⇒なのでダメ)という流れです。
まあ、たしかにややこしい表現ではありますね。
端的に表現するなら、神とは単なる象徴にすぎない(べきだ)、といった認識が重要ではないか、ということになると思います。
>そこから命題が導かれたとしても その導いたことや命題の内容が人間の恣意性であると
は言えない。
:
私の受け取り方に誤解が無ければですが、そのように解釈していただいて良いと思います。
No.34
- 回答日時:
☆☆(回答№29) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
★(№28お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
ただ、そのことから、
>したがって
:
という順接を用いて、
> 【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
:
という命題を論じようとするのはお門違いと言えます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ さて 次が理由です。:
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なぜならこの命題は、質問文の4で当初よりお示ししているように、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
を想定してこそ得られるものだからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この末尾のご説明は 表現を変えますか どうですか?
つまり 《想定してこそ得られる》というのは むろん:
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
という命題です。
№32お礼欄で説明を整理しなおされたあと この得られ方が違っ
て来ますか? 違うのでしたら その点についても 整理し直して
いただくのがよろしいかと考えるのですが?
つまりはっきり言って このままだと:
☆☆ 恣意性を期待している。またはすでに恣意性をあやつっている。
☆ と批判されるのは 当然であると考えるのですが どうでしょう?
ご回答ありがとうございます。
申し訳ないのですが、頭が悪いせい(だと思いますが)で、おっしゃっていることが
全く
理解できません。
「この得られ方」とは、『つまり 《想定してこそ得られる》というのは むろん:
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
という命題です。』という内容を指しているのですよね?
それで良ければ、
>№32お礼欄で説明を整理しなおしたこと
:
と
>この得られ方
:
が違っているとおっしゃっていることになると思います。そこで、
どの部分が、どのように違っているのか、お手数ですが具体的に示してもらえませんか?
今回の質問は、この一点ですので、わかりやすい言葉で論点をずらさずにお答えいただければ助かります。
以下は補足的に触れます。
>つまりはっきり言って このままだと:
☆☆ 恣意性を期待している。またはすでに恣意性をあやつっている。
☆ と批判されるのは 当然であると考えるのですが どうでしょう?
:
これもまた意味が不明です。
№32お礼欄を再掲する形になりますが、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
と
「人智を超えた存在としての神」
を対比的に扱っていることは、再確認していただけたんですよね?
さらに、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」⇒恣意性期待できない
「人智を超えた存在としての神」⇒恣意性期待できる
という点はご理解いただけたでしょうか。
念のため申し添えますと、同意していただけましたか、という意味ではありませんよ。
No.32
- 回答日時:
☆☆(回答№29) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
すなわち:
★ (前記第二の引用箇所)~~~~~~~~~~~~~~~~~
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
を想定してこそ得られるものだからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち このお示しの神によるからこそ《人間の恣意性を期待する》ことが出
来る。というわけになるようですね。
この象徴としての神を仲介としてのように 【彼は我であったかもしれず、我が彼で
あったかもしれない】という命題がみちびける。ということですよね?
これって 恣意性を期待している。またはすでに恣意性をあやつっている。のではな
いのですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この問いに答えておられないと受け取ったのですが ひょっとして答えていると
いうお心でしょか?
ご回答ありがとうございます。
>☆ この問いに答えておられないと受け取ったのですが ひょっとして答えていると
いうお心でしょか?
:
そうです。
ただ、たしかに直截的な答えとしての文にはなっていないかもしれません。
改めて以下に整理してみましょう。
まず、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない」は、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
を想定してこそ得られる命題である。
すでに何回か提示していることでもあるが、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
と
「人智を超えた存在としての神」
を対比的に扱っていることを再確認していただきたい。また、
「人智を超えた存在としての神」
に恣意性を期待することはあっても、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
に恣意性を期待することはない。
ということも述べてきたつもりである。
「何回か提示している」具体例をいくつか示すなら、
★・概念としての神⇒恣意性を期待できない
・概念でない神(実態としての神)⇒恣意性を期待できる
(#21お礼欄)
★神を宇宙の摂理と認識する人が、恣意性を期待するはずが無いじゃありませんか。
しかし、恣意性を期待する人は、意図的な能力を神に期待するわけですよ。
人格神とでも言いますかね。そういった存在として神を認識する。
(#13補足欄)
など。
こうした表現でご理解いただけなかったのは、おそらくこちらの責任なのでしょう。改めて確認しておきますと、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」⇒恣意性期待できない
「人智を超えた存在としての神」⇒恣意性期待できる
ということです。
よって、
>☆このお示しの神によるからこそ《人間の恣意性を期待する》ことが出
来る。
:
ことはなく、
>☆この象徴としての神を仲介としてのように 【彼は我であったかもしれず、我が彼で
あったかもしれない】という命題がみちびける。ということ
:
ことでもない。つまり、
>☆恣意性を期待している。またはすでに恣意性をあやつっている。
:
ことにもならない。
まあ、私の用語の使い方に一貫性がないことが誤解の要因である点は認めておきます。
No.31
- 回答日時:
お礼、ありがとうございました。
恐怖と信仰の結びつきですか。もしかしたらですが、次のような本が御参考になるかもしれませんね。ジャン・ドリュモー『恐怖心の歴史』や、ジャック・ル・ゴッフによる『煉獄の誕生』など。しかし私に解説を求められても、これは手に余ります。分厚く、簡単にレジュメできないのです。大枠では、中世のカトリックが地獄に堕ちるという恐怖心で民衆の心理を操っていたというお話だったと思います。それにしても恐怖心を煽ることだったら、地獄絵なんか、良い例かも知れませんね。
ハコブルさんにとって宗教とは、恐怖を煽って、人の虚しさを教えている存在なんでしょうね。でもそれは宗教の一面であって、全部ではないと私は思うんですけれどもね。多面的な問題のどこを重要視するかは、やはりその論じる当人の経験が根本にあるんですよね。原光景が何か。聞いてみたいですね。私にとっては教会の温かい雰囲気だったから、恐怖と言われても、それはそれとして括弧にくくりたくなるわけでした。
ご回答ありがとうございます。
>中世のカトリックが地獄に堕ちるという恐怖心で民衆の心理を操っていたというお話だったと思います。
:
おそらくですが、これは「(狭義の)怖れ」のような印象ですね。
お示しした「(広義の)怖れ」にざっくりと説明を加えるなら、たとえば、我々はどこから来てどこへ行くのか などといった疑問が芽生えることは、誰しも経験したことはあるように思うのですが、これも、ある種の怖れと言えるでしょう。
こうしたことに答えを求める人は多いように思うのですが、その(かなり大きな)受け皿のひとつとして宗教なり信仰なりがあるように思います。
>多面的な問題のどこを重要視するかは、やはりその論じる当人の経験が根本にあるんですよね。
:
おっしゃるとおりでしょうね。
そのような「多面性」こそ検討課題となるべきではないか、という気がします。
>私にとっては教会の温かい雰囲気だったから、恐怖と言われても、それはそれとして括弧にくくりたくなるわけでした。
:
極めて幸せな環境でお育ちになったのでしょうね。
私の場合は、ごくありふれた一般人にすぎず、可もなく不可もなくといったありふれた日常の繰り返しでしょうね。
宗教や信仰などとも無縁でしたし、何かお話できるようなことは特にありません。
ただ、おそらく、宗教の最終的な目標は「救済」じゃないかと考えているのですが、これは勘違いでしょうか。
逆に言うと、救済を必要としない人にとって、宗教なり信仰なりが果たして必要(必須)なものなのだろうか、といった疑問は感じますね。
No.30
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
前回の回答では、申し上げたいことがたくさんあり、バタバタと
駆け足になったしまったようです。
私は、信仰の弊害は、信者の側からすれば「盲信」「思考放棄」が
原因であるということに異論はありませんが、宗教の教義、あるい
は解釈の中に、それを誘発させるものがありうると思います。
宗教の教義は、それぞれ違います。キリスト教と仏教とでは大きな
違いが存在します。
それをここで議論することは、難しいのですが、極めて重要な問題
であるはずです。
ハコブルさんの文章を拝見しますと、「何故、宗教なんかを信じる
のだ?」というニュアンスが感じられますが、私の思い過ごしでし
ょうか?
いずれにしましても、絶対的な「摂理」というものを信じ、同じも
のが人間の中に存在するという、人間尊厳の哲学が重要であるとい
うことでよろしいのでしょうか?
そういうことであれば、その点につきましては賛成です。
ただ、そういう哲学を一般的にするために、どのような方法論を考
えておられるのか、気になったのです。
ご回答ありがとうございます。
>「何故、宗教なんかを信じる
のだ?」というニュアンスが感じられますが、私の思い過ごしでし
ょうか?
:
ニュアンスとしては、そう受け止められるかもしれません。
ただ、宗教というもの、または信仰、あるいは祈りといったものを一律に否定しているわけではないんですよね。
>いずれにしましても、絶対的な「摂理」というものを信じ、同じも
のが人間の中に存在するという、人間尊厳の哲学が重要であるとい
うことでよろしいのでしょうか?
:
極めてヒューマニスティックな解釈をいただき有り難いですが、もう少し単純です。
絶対的な摂理が存在するのは自明のことなのだから、人間も、その一端に組み込まれたものとしてしか存在し得ないのも自明のことである。
しかも、その絶対的な摂理に(人間という種に対する積極的な何らかの)意志があるわけでないのも自明のことなのだから、人間の「組み込まれ方」に恣意性があるわけでないこともまた自明の事である。
であれば、
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
と考えるのが論理的思考であり、その思考自体が真理である以上、人間に関して世に生起する様々な問題を解決するための最終的な根拠となるのではないだろうか、といった問いかけと受け止めていただければと思います。
補足欄へ続きます。
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#13お礼欄の続き。
>(こ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(け) 【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが
妥当でしょう。】
☆ という定義の場合 《〈その神に人間が恣意性を期待する〉から間違いが起こる》こ
とはあるのですか。ないのですか?
:
ほんと、人の言うこと全然聞いてませんね。
いいですか?
そもそも過去の遣り取りにおいて、恣意性を期待する神に対抗する形で宇宙の摂理としての神を持ち出してきたことは、十分に了解済みのはずですよね?
神を宇宙の摂理と認識する人が、恣意性を期待するはずが無いじゃありませんか。
しかし、恣意性を期待する人は、意図的な能力を神に期待するわけですよ。
人格神とでも言いますかね。そういった存在として神を認識する。
そこに誤りが生じる、と言っているわけ。
こんなこと今さら言わないと通じないんですか?
#15お礼欄のつづき
念のため修正しておきましょう。
×
要するに「象徴」なのだから「概念」に決まってるでしょ、
○
要するに感覚的形象としての「象徴」なのだから、どちらも「概念」に決まってるでしょ、
#30お礼欄からの続きです。
>ただ、そういう哲学を一般的にするために、どのような方法論を考
えておられるのか、気になったのです。
:
先を見通したご指摘ですね。
いくつかの箇所でも触れていますが、個人的に考える上で、いずれ、そうした方向に敷衍していくつもりです。
また、そのことのほうがむしろ本題と言っても良いと考えています。
その前提としてみなさんのご見解を参考にさせていただきたい、というのが質問の背景にある趣旨でもあります。
かなり多岐にわたるはずですが、たとえば、こちらのカテでも色々な方がおられます。
中には品位に欠ける発言を平気でされる方も数は少ないながらもいます。
その場合、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という考え方をすることで、そうした相手に対しても静かに見守っていくのが良いだろうという結論が自然に導かれることでしょう。
次の補足欄へ。
(上補足欄からの続き)
ただ、そのように考える根拠が、単なる善として、あるいは単なる神の教えとしてであっては普遍性に、おそらく欠けるような気がするわけです。
端的に申し上げるとイスラムでもキリストでも良いと思います。
ただ、それらの神は、あくまで 《宇宙の摂理》の象徴 としてしか存在していないのだ、ということを頭の片隅に入れて信仰するなら、宗教はもっと違う局面に入るのではないか、といったことを思います。
アッラーやキリストは真理として納得するのは(思考放棄しない限り)難しいのではないでしょうか。しかし、《宇宙の摂理》が存在するのは自明の真理と言えるでしょうし、それに基づいて象徴として存在する神なら真理として納得できるはずです。
今、思ったのですが、アッラーやキリストは真理そのものではなく、真理の語り部と捉えると良いのかもしれません。
語り口は異なれ、元となる真理はひとつ、ということです。
>★ (前記第二の引用箇所)~~~~~~~~~~~~~~
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
を想定してこそ得られるものだからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち このお示しの神によるからこそ《人間の恣意性を期待する》ことが出
来る。というわけになるようですね。
:
まず、端的にお答えすると全く逆です。
私の表現不足だったのだと思いますが、
《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」
と
「人智を超えた存在としての神」
を対比的に扱っている点を再確認の上、論じていただく必要があります。
少し切り口を変えて表現してみると、
アッラーは、
「人智を超えたものの象徴」としての神
なのか、
アッラーそのものが人智を超えた存在としての神
なのか。
こうした違いと捉えていただくとわかりやすくなるかもしれません。
(タイトル命題は)
>何故自然にそういう発想になるのかの論理構造がわかりません。
:
4と重複する形になりますが、若干補足を加えつつ述べます。
まず、(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということが大前提です。
そうした絶対的摂理の結果として我々は存在しているのであり、しかも、その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である。よって、
【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
と言わざるを得ないことは自明なことと言える。
そのようなものとしてしか人間は存在していないはずであり、そうした真理を認識することが、自ずと自らの(魂の)救済とならないはずがない。
大体、こういった論理展開です。
神が言うから平等なのだ、とは、思考放棄でない点で大きく異なっていると思うわけです。
次の補足欄へ
上欄の続きです。
>宗教的対立を問題にしているのでしょうが、その発想を元にしたら、全ての宗教を統一する事も許されてしまいます。(人間の個別性が必要なければ、宗教は一つでかまわない事になります)
:
それが理想ではないかと思います。
アブラハムの宗教も「唯一神」なのですから、本来、それを目指していたのではないか、という気がします。
従来の「宗教」の概念は、変わらざるを得ないでしょうね。
どう変わるべきかまでは、とても考えが及んではいませんが。
何かヒントをください。
ただ、おっしゃるように、
>人間の個別性
:
あるいは自我が絡んでくるので厄介です。
そもそも、問題の本質は、まさに、この点にあります。
いろいろ教えていただきながら、いずれ、この点についても論議の対象とできるようになればと考えている次第。
今は、総論的な観点からとりあえずの概要を把握したいという段階です。
お答えいただきありがとうございました。
納得がいったり、わかりやすかったりしたのは、ご自分のお考えに沿って解釈なさったからなのでしょうね。
>他律的に、周囲が意味を類推する他ないです。
:
わたしの至らぬ点として、極力改善を目指してみたいと思います。
貴重なご意見でした。
腑に落ちない点は、さらに補足質問していただければ助かります。
見解の相違(「同意」なら、なお好ましいですが)の地点まで辿りつければ良いが、と思っています。
>自我には何通りかあって、「人類としての この我」というものがあるとおっしゃる。
:
これは、その通りです。
>私はこれを「死を超えた視点」だと理解している次第です。
:
そこまで深くは考えていませんでしたが、参考にさせていただきます。
>これはポンとそういって、分かるようなものではないのです。
:
おっしゃるとおりかもしれませんね。
>・ われのあやまちは かれのあやまちであったかも知れない。
:
極めて興味深い視点ですが、私の意図は全く逆で、
・ かれのあやまちは われのあやまちであったかも知れない。
です。
人が何かを語るとき、何の意図で語るのか、ということが極めて重要であることを改めて思い知らされます。
ハイデガーの犯した誤謬に学ぶべきでしょう。
何を語りたいのか、という点は曖昧なまま質疑を続けてきたわけですが、最後に思わぬ発見があったということのようです。