No.1
- 回答日時:
不確定性原理において、物事を本質的に確定しようとすると、無限不確定に
発散するものを、階層現象(超弦(量子)<クォーク<素粒子<原子<分子<
細胞<個体(認識体))を表面的に(いい加減に)捉える事で有限な存在性を
可能にしている。
その、自我仮説(時間的流れ=記憶=過去=超光速)と空間仮説(空間的広がり
=予測=未来=光速下)の相補分化において、仮想的非光速性に基づく時空
への無の射影(4次元ミンコフスキー空間におけるライトコーン)として
量子が得られる時、それは「何かあるんじゃないの?」という疑問として
生じた時空を、「本当は何もないんだけどね」と無へと還元するものが
物理だと言える。
No.2
- 回答日時:
端的に言うと
バランスさせる力
じゃないですかね。
>神の所為にする
:
か否かは個人の趣味の問題でしょう。
まあ、意志を持つと考えてしまうところに誤謬が発生するわけですが、それは持ち出す場ではなさそうなので。
いずれにせよ、神と名づけなくても、そうした摂理(バランス)が働いていることに違いはない。
ご回答をありがとうございます。
自己組織化があります われわれのからだに。
からだの調子よいハタラキが崩されると 元に戻すハタラキ。とすれば
★ バランスさせる力
☆ になります。つまりこの自己組織化は 摂理ですか?
そのハタラキがどのように及ぶかーーつまりどうバランスさせるかーーは 人知に分かる部
分もあり 人知の及ばないところもある。
この場合の人知の及ばないというのは つぎの三つに分けられます。:
(Yunknown) いまは未知であって いづれ認識されるであろうと推察される場合
(Y agnostic) 不可知として 永遠に認識し得ないと証明し得た部分
(X incomprehensibilis incomprehensibilitas) いくら人知が発達しても 認識しうるか
し得ないかが 分からないとすでにこの今想定しておくナゾ:非知
さて 《摂理》は どの場合を言っていますか?
非知としての《人知の及ばないチカラ》の場合にはまさに《神の所為にする》ことになり得
るのですが これについて:
★ ~~~~~~~~~~~~~~
>神の所為にする
:
か否かは個人の趣味の問題でしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ と見なしただけで処理することも出来ないのです。
非知なるナゾについては それを《認識しうる》場合を排除していないからです。
だから おれは ユダヤ人が民族聖絶のようなひどい目に遭ったのは イエスを無実の罪で
磔にしたからだという摂理のハタラキを主張すると言う人間が現われても 頭から排除する
ことは出来ないのです。
ただし その《摂理についての経験事象としての見解》は その人間の主観内にとどまりま
す。ほかの人間の主観と同じだとしたら それはその内容が《非知なるナゾ》ではなくなり
《未知について突きとめた経験知》だということになります。
《個人の趣味》扱いは できません。
★ 意志を持つと考えてしまうところに誤謬が発生するわけです
☆ いま上の事例は 《非知なるナゾつまり神》が《意志を持つと考えてしまう》かどうか
とは 関係ありません。
《摂理》を《バランスさせる力》と捉え そのハタラキがユダヤ人の上におよんだという主
観がーー非知の場合には――あり得るということです。《意志を持つ持たない》とは関係な
くです。
No.5
- 回答日時:
#2です。
>からだの調子よいハタラキが崩されると 元に戻すハタラキ。とすれば
★ バランスさせる力
☆ になります。つまりこの自己組織化は 摂理ですか?
:
そう言えるでしょう。人間も自然の一部だという認識を共有できるならばですが。
単純に「 自然界を支配している法則」と捉えています。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/124847/meaning/m1 …
>
(Yunknown) いまは未知であって いづれ認識されるであろうと推察される場合
(Y agnostic) 不可知として 永遠に認識し得ないと証明し得た部分
(X incomprehensibilis incomprehensibilitas) いくら人知が発達しても 認識しうるか し得ないかが 分からないとすでにこの今想定しておくナゾ:非知
:
この分類に意味があるとは思われません。
以下に理由を列挙します。
まず、次のように言い換え可能ですよね?
そう考えて述べていきます。(むろん、違うならご指摘願います)
(Yunknown) いまは未知であって いづれ認識し得るであろう と推察される部分。
(Y agnostic) いまは未知であって 不可知として 永遠に認識し得ない と推察される部分
(X incomprehensibilis incomprehensibilitas) いくら人知が発達しても 認識しうるか し得ないかが 分からない と(すでにこの今)推察される部分:非知
-------------------------------------
要点を絞ってみましょう。
(Yunknown)未知: いづれ認識し得るであろう と推察される部分。
(Y agnostic)不可知: 永遠に認識し得ない と推察される部分。
(X incomprehensibilis incomprehensibilitas)非知: 認識し得るか し得ないかが 分からない と推察される部分。
-------------------------------------
このように単純化すると分かりやすくなると思うのですが、非知を非経験事象としている点に誤謬があるような気がします。
つまり、
☆非知: 認識し得るか し得ないかが 分からない
とは、
★ 未知か 不可知かが 分からない
と同義ですよね。
未知や不可知は経験事象とされているようですが、そうしますと非知の定義は、単に、
★どちらの経験事象かわからない
と言っているにすぎないことになりませんかね。
どちらの経験事象かわからないからといって、それは非経験事象では無いですよね。
もう一点。
未知であっても不可知であっても、いまは未知である という点では同じです。
・いづれ認識し得るであろう
・永遠に認識し得ない
という違いがあるとしても、それはあくまで、そのように「推察される」というにすぎない。
つまり、今この時点での認識において、これが未知でこれが不可知である、という分類はできないはずです。
それを分ける意図が、難しくてよくわかりません。
>さて 《摂理》は どの場合を言っていますか?
:
端的に言ってしまうと 不可知 でしょうかね。
・(人智の及ばぬ)《摂理》
と解釈しているからです。
永遠の未知 と言っても良いでしょう。
「自然界を支配している法則」という意味で使っているのは先述のとおりです。既知の部分もあると思われるかもしれませんが、それはあくまで人間の主観。たとえばニュートリノに質量が見つかったりとコロコロ変わるわけですし。
そういった個別の法則の総合として摂理があるわけではない、ということです。
どんな法則かは分からないからこそ「人智に及ばぬ」であり、人智に及ばぬとしても結果的にバランスさせているのですから、やはり「自然界を支配している法則」と言って良いのだと思います。
個別の法則として未知が既知になったりすることはあり得ているわけですが、何が(たとえば宇宙を)バランスさせているのか、については、永遠に不可知でしょう。神と一対一で対面するのでない限り。
おそらく、
不可知としても、未来的に知り得る可能性だってあるのだから、
・分かるか分からないかが分からない
と表現するのが妥当ではないか。
のように反論されるのかもしれません。
しかし、
・分かるか分からないかが分からない
そのことも含めて 不可知 と言えるように思うわけです。
ご回答をありがとうございます。
★ (Y agnostic) いまは未知であって 不可知として 永遠に認識し得ない
と推察される部分
☆ 狭義の未知とかぶりますから 適切な定義ではない。いまも不可知なのです。
非知について 《部分》という表現はふさわしくありません。《部分か全体か》
も知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾゆえです。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
★ 未知か 不可知かが 分からない
と同義ですよね。
~~~~~~~~~~~~~
☆ ここでの誤解は 《未知か それとも 不可知か いづれかであるが いづ
れであるかは分からない》というふうに二者択一として解していることです。
★ どちらの経験事象かわからない / と言っているにすぎないことになりません
かね。
☆ という表現に明らかです。
不可知は 知り得ないと証明されているのです。
摂理とは:
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
端的に言ってしまうと 不可知 でしょうかね。
・(人智の及ばぬ)《摂理》
と解釈しているからです。
永遠の未知 と言っても良いでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ では 《自己組織化》としての言わばバランサーとしての摂理はどうなりま
すか?
★ 単純に「 自然界を支配している法則」と捉えています。
☆ というその法則は すでに既知となっているものがありますが どうなりま
すか?
★ 既知の部分もあると思われるかもしれませんが、それはあくまで人間の主観。
☆ ぢゃあ これこれだと一たん既知となったものが マチガイであったと知り
得るとしても 《人智の及ばぬ摂理》だとするわけですね?
《法則》というのも 一たん知り得たと認識するが あとで変わり得るゆえ 人
智が及ばぬと見るのですね?
★ どんな法則かは分からないからこそ「人智に及ばぬ」であり、人智に及ばぬ
としても結果的にバランスさせているのですから、やはり「自然界を支配してい
る法則」と言って良いのだと思います。
☆ 《バランスさせている》という認識は得られるが 《どんな法則かは分から
ない》のですか? なぜ《法則》が《自然界を支配している》と分かるのですか?
あとで 間違っていたとなりませんか?
No.6
- 回答日時:
#5です。
☆非知: 認識し得るか し得ないかが 分からない
とは、
★ 未知か 不可知かが 分からない
と同義ですよね。
☆ ここでの誤解は 《未知か それとも 不可知か いづれかであるが いづれであるかは分からない》というふうに二者択一として解していることです。
☆不可知は 知り得ないと証明されているのです。
:
よくわかりませんでした。
どこが誤解なんでしょうか。
☆非知: 認識し得るか し得ないかが 分からない
とは、
★ 未知か 知り得ないかが 分からない
という意味になるんじゃないですかねえ。
>★ 単純に「 自然界を支配している法則」と捉えています。
☆ というその法則は すでに既知となっているものがありますが どうなりますか?
:
未知であるか既知であるかは関係ない、ということです。
すべて包括しての法則であり摂理です。
>★ 既知の部分もあると思われるかもしれませんが、それはあくまで人間の主観。
☆ ぢゃあ これこれだと一たん既知となったものが マチガイであったと知り得るとしても 《人智の及ばぬ摂理》だとするわけですね?
:
個別の法則(と判断されるもの)については、たとえばニュートリノのように、法則に対する【認識が】変化します。
つまり、「法則」と人間が口にする以上、あくまで「法則と思われるもの」という意味でしかあり得ないでしょう。
ただ、
>《法則》というのも 一たん知り得たと認識するが あとで変わり得るゆえ 人智が及ばぬと見るのですね?
:
という意味とは若干、異なると言わせていただいたほうがよいと思います。
おそらく永遠に変わらない(個別の)法則も多くあるでしょう。
しかし、そうした個別の法則のことを指すわけではありません、摂理は。
というのが私の解釈。
変わるものもあり、変わらないものもあるでしょうが、変わるのは別に摂理の責任じゃない。
変わること自体が摂理であるし、それ以前に、単に人間の判断が誤っていただけで、つまり何も変わってないのに変わったと認識されてしまうものだってあるでしょう。
いずれにせよ、そういう人間の主観はどうでも良い。
それらすべて含めて バランスさせている力 を摂理と呼んでよいのではないか、ということです。
>☆ 《バランスさせている》という認識は得られるが 《どんな法則かは分からない》のですか?
:
そのとおりです。
>なぜ《法則》が《自然界を支配している》と分かるのですか?
:
バランスさせている力 が働いていないなら、自然界は存在し得ないと考えるのが論理的だ、と私は思うからです。
>あとで 間違っていたとなりませんか?
:
おそらくですが大丈夫だと思います。
ご回答をありがとうございます。
☆☆ 非知: 認識し得るか し得ないかが 分からない
☆ 《知り得るとも知り得ないとも いづれかにも決められない》です。
未知は その時点で《知り得ていない》ことが明らか。
不可知は 《知り得ないという証明が成されたと認められている定理など》です。
★ 未知であるか既知であるかは関係ない、ということです。 / すべて包括して
の法則であり摂理です。
☆ 《既知》であっても 《人智は及んでいない》のですか?
そして 《包括的な法則であり摂理である》ということは どうしてそう知り得
たのですか?
つまり個別の法則は 科学が認識につとめます。推測によるとしても 未知のも
のとして扱って探究しつつこれを知り得たなら 人智が及んだと〔一たん〕なり
ます。
それら個別の法則を《包括する》とは どういうことですか? しかも包括した
ものが どうしてやはり法則なり摂理なりである分かるのですか?
★ おそらく永遠に変わらない(個別の)法則も多くあるでしょう。
☆ どうして分かるのですか?
★ しかし、そうした個別の法則のことを指すわけではありません、摂理は。
☆ 《包括する》のは 《個別の法則》をではないのですか? 《自己組織化》
は 個別の法則であり個別の摂理であると認めたのではないのですか?
★ ~~~~~~~~~
変わるものもあり、変わらないものもあるでしょうが、変わるのは別に摂理の
責任じゃない。
変わること自体が摂理である[・・・]。
それらすべて含めて バランスさせている力 を摂理と呼んでよいのではない
か、ということです。
~~~~~~~~~~~
☆ 自己組織化については バランスさせているチカラだと知り得ました。け
れども それらを包括するものがあるかどうかは 分からないのではないので
すか?
包括するものがあるとして それつまり摂理が どうしてバランスさせるチカ
ラだと分かるのですか?
★ ~~~~~~~~
>なぜ《法則》が《自然界を支配している》と分かるのですか?
:
バランスさせている力 が働いていないなら、自然界は存在し得ないと考える
のが論理的だ、と私は思うからです。
>あとで 間違っていたとなりませんか?
:
おそらくですが大丈夫だと思います。
~~~~~~~~~
☆ これで理論ですか?
No.8
- 回答日時:
自然の摂理、と言うのは主観の外(そと)に有り、でいいと思います。
神の仕業の事を摂理と言うと、その神がどんな神なのか、またどんな仕業なのかで結論が違ってくると思います。
天罰とは神が人間やその社会を罰すると言う事だから、神から見て間違いが有ると結論したのでしょう。
神の心を正しく受け止める事が出来れば、、、、、
ご回答をありがとうございます。
★ 自然の摂理、と言うのは主観の外(そと)に有り、でいいと思います。
☆ だとしても それを認識したという認識内容は 主観の内にあるはずです。
それに はこぶる氏の見解では 自己組織化は 自己のからだのバランスを採
っているハタラキであって 摂理であるとのことでした。
つまり この自己組織化という――個別のですが――摂理は とうぜん主観の
内にあります。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
天罰とは神が人間やその社会を罰すると言う事だから、神から見て間違いが有
ると結論したのでしょう。
神の心を正しく受け止める事が出来れば、、、、、
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ん? よく分からなかったのですが この《天罰》は 或る独りのひとの
主観の内では それとして成り立つとしても ほかの人の主観において同じ見
解が成り立つかどうかは 分からない。とわたしは言っています。
つまり わたしの考えでは この天罰という見方は 或る種の摂理であるとは
言えるのだと思います。
ただし はこ氏は 個別の法則は取り上げないで あくまで包括的に法則ない
し摂理と言うのだと言っています。
まだはっきりしていないと受け取っています。
★ 神の心を正しく受け止める事が出来れば
☆ こんなことは無理です。しかも さきほどの天罰の例のように 或る主観
の内におけるかぎりでは 《神の心のただしい受け留め方》が成り立っている
ということは 否定し去ることはできないようになっています。共同化も普及
も無理ですが。
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