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徳川家康は、桶狭間の戦いで今川義元が討死した後に(松平)元康から家康と名乗り、
「元」の字を捨てていますよね。
徳川秀忠の「秀」は豊臣秀吉から偏諱されたわけですが、元和偃武以降もなぜ名前を変えようと
しなかったのでしょうか?

A 回答 (5件)

徳川は豊臣政権を正当な政権者と認め、その豊臣政権の継承者として出発しています。


家康は秀吉政権の大番頭でしたし、名前を変える理由は特になかったのです。
家康は秀吉を否定したのではなく、信長-秀吉と続く戦乱収束の道程途中であり、秀頼には戦乱収束の力量無しとして自ら立ちました。信長、秀吉の理屈と同じです。
豊臣政権を簒奪したとはツユ思っていなかったでしょう。
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この回答へのお礼

秀忠ではなく、家康の話になっていませんか?

お礼日時:2016/03/09 21:10

文献とかは知らないけどー



将軍が名前変えたら他にも居ただろう偏諱された大名に「わかってるよなオマイラ」ってことになりますよね。自然、結構な数の大名が変名?することに。

大名クラスで大量に変名が発生するのは、流石に混乱するんじゃないでしょうか?

いや大名の諱くらい影響ないとか可哀想なことは言わない方向で。
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この回答へのお礼

大名に偏諱する際は「忠」を付けさせるのですから、
「秀」を付けることはないと思います。

お礼日時:2016/03/09 21:08

織田信長のお父さん信秀の「秀」でもある。


明智光秀の「秀」でもあるし、
良く使われている字ですから、秀吉の「秀」って意識はなかったのでは。
家康には、子供がたくさんいたし、当然、秀忠に代わる将軍候補もいるわけで、改名がマイナスになるリスクを負うのは怖い。
兄貴の結城秀康も、結城の苗字のままでしたね。

信長が桶狭間で討ち取った今川義元の刀をコレクションしていたように、敗者からの戦利品という解釈もあり。
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この回答へのお礼

家康から「敵対する家の名前を残すな」と言われる方が腑に落ちるんですが。
敗者からの戦利品と言う解釈は、出来かねます。
元服するときに秀吉が烏帽子親になっていたことからも分かるように、
秀吉の「秀」と言う意識はあるのではないでしょうか?

結城秀康は、家康に可愛がられることなく、結城家に養子に追い出された
からであって、改名がマイナスになるというのも違う気がします。

お礼日時:2016/03/09 21:05

変える必要を感じなかったからだと思います。


家康の場合は、敵対する今川家が残っていたので今川義元の偏諱だった元を外すことによって敵対を表明したのかもしれませんが。秀忠の場合はすでに相手の家が無くなってましたし。
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この回答へのお礼

秀忠の娘である千姫が夫:豊臣秀頼の命乞いをした際に
助けなかったことからも分かるように豊臣家を滅亡に追い込んだのは
家康ではなく秀忠ではないでしょうか?

そうなると敵対した大将の父(秀吉)の名前を残すのは釈然としませんが。

お礼日時:2016/03/09 20:57

豊臣秀吉にもらった名前を徳川政権で変える例が多いのは、徳川政権に


恭順の意を示すためです。
しかし、秀忠は徳川家の嫡男(長兄は早世し、次兄は結城家の養子)であり、
押しも押されぬ時期将軍です。誰に遠慮をする必要もありません。
家康・秀忠は関ヶ原の合戦で諸侯に助けてもらったということで、大名の改易を
ほとんど行っていませんが、家光は生まれながらの将軍と言うことで多くの大名を
改易しています。
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この回答へのお礼

秀忠の同母弟に松平忠吉がいます。
忠吉は、関ヶ原の戦いで先陣を務めていることもあって、
秀忠が次期将軍と決まっていたわけではありません。

それに長兄(信康)は、21歳で切腹しており、早世ではないと思います。
秀忠が将軍の頃に、福島正則の改易をしているものの異議なく
素直に従っていることから、なんか違う気がします。

お礼日時:2016/03/09 20:48

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