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織田信長が死なず,徳川家が江戸幕府をつくらなかった場合,
日本は鎖国をしなかったと思います。

1600年代には,大航海時代に突入したヨーロッパは,東南アジアをはじめとして,世界を植民地化していたわけですが,
鎖国をせず,海外と貿易活動を積極的におこなっていたとしたら,
日本は,どうなっていたでしょうか。

貿易大国となって,東南アジアあたりを海外植民地とするような大国となっていたでしょうか。

A 回答 (7件)

>貿易大国となって,東南アジアあたりを海外植民地とするような大国となっていたでしょうか。



可能性は大いにあったと思います。

まず信長の時代には日本人も相当に東南アジアに進出していた、という事実があります。タイの日本人街が最大で、その他にもベトナムのホイアン、マレー半島のパタニ王国、カンボジアのプノンペン、フィリピンのマニラなどに日本人街が存在しました。

これらの日本人街の構成員は商人・娼婦そして傭兵でした。日本の武士が傭兵として雇われており、なかなかに強かったと記録されています。

織田信長が本能寺の変で死なず、秀吉程度に長寿であったとしたら、間違いなく日本を出て明を攻めていたと思います。理由は簡単で「大陸を御さない限り日本の安全は守れない」からです。実はもう一つ日本を守る方法があって、それは海外貿易を諦めて鎖国すること、でありました。家康はこれを選びましたが、信長は貿易と対外戦争を選んだと思います。

もし、明というか大陸の国家と戦争になれば、日本の軍隊はそれなりに優位に戦争を進めたでしょう。問題は「どこでやめるのか」です。貿易を睨んで現実的な判断をするとすれば、朝鮮と明国に日本の出先機関を作り(鎌倉時代の六波羅短大みたいなやつね)上海などにも出先機関をおいて貿易を活発に行ったであろうと思います。
もちろん、これを足掛かりに南蛮貿易も行ったことでしょう。

では、キリスト教の伝播はどうなったかというと、どこかで宣教師追放が行われたと思います。なぜそう思うか、というと宣教師が奴隷貿易を行っていたからです。
 西洋の奴隷と日本の奴隷(人買い)は意味が違っていて、西洋では「主人の持ち物=犬猫と同じ」だったのですが、当時から日本の人買は「借金の返済のための拘束」であって、西洋的な奴隷ではありませんでした。

実はこの行き違いは最初からあって、宣教師たちが日本で奴隷を買い求めた時に、日本の口入れ屋が提示した金額は当時の南蛮諸国の1/3だったと言われます。そのため宣教師たちは争って買い入れたのですが、宣教師たちは終身奴隷、日本人は年季が明ければ解放される、とズレが生じていました。1/3なのは借金分の金額だったから安かったのです。
この違いが分かるにつれ、宣教師による奴隷購入は日本人に嫌われるようになり、秀吉が宣教師を追放したのはそういう問題もあった、と言われています。

 またキリスト教はのちに島原の乱を起こしたように、明らかに日本の宗教観とは異質であり、日本に忠誠を誓わず法王に忠誠を誓うことから、いずれにしても信長がキリスト教を放置したとは思えません。したがって、大陸に対して一定の影響力を保持した時点で、南蛮貿易もコントロールするようになったと思います。

西洋国はこの時代より植民地支配を強めていき、西洋列強として東アジアに襲い掛かるわけですが、この時点ではまだ東南アジアに足掛かりを築いただけであり、フィリピンを除いた東アジアはまだそれほど支配されていたわけではありませんでした。

もしここに、日本からの出兵または日本人街などによる日本への情報があれば、信長やその跡継ぎは躊躇なく介入したと思います。いわば、400年ほど早く上海事変の状態に近い状態に入るわけで、当時の兵力からすれば日本もそこそこ戦えたであろうし、明ともアジア人同士の同盟が組めた可能性もあります。ベトナムやタイなどにはすでに影響力を及ぼしていたようですので、日本武士による義勇軍出兵などもあったかもしれません。

この後はサイコロがどちらに転がるのか、信長の継嗣が何代まで続くのか、など複雑な要素がたくさんありますが、少なくともアジアの目覚めが早くなり、日本や明などは西洋列強に対する対抗勢力になり得ていたと思います。

日本が海外植民地をもったかどうか、という点でいえば「ほぼ間違いなく持たなかった」であろうと思います。それは任那日本府の失敗からどれほど海外植民地をコントロールすることが難しいか学んでいたであろうからです。
せいぜい沖縄が早めに統合され、もしかしたら台湾は日本の領土になっている可能性があるぐらいで、これらの地域を押さえて基地化し同時に東南アジアへの貿易を行っていれば、西洋は攻めることが難しくなるといえます。

ペリーなどは来ても「どうぞ、どうぞ、薪でも水でも買ってください」となるだけで、貿易のための条約などは16世紀中に整えられたでしょう。

そうなれば、日本や中国などはアジアの列強として、17世紀には大国化していたと思います。
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まず、承知しておいて下さい。


歴史に「たら」はない。「歴史の必然」という言葉は正しい。
あなたの間違いは、織田信長が開国派だった、と言う認識。
進んだ海外の文物を取り入れ、日本国内での覇権を確率できるからキリスト教を受け入れたのであって、それ以上ではありません。
自らを「神」と言わせた信長が、並立する神(キリスト)の存在を許す筈がない。
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無いと思いますね。

木造船で攻める程の戦力の人口がいません。島国に余裕は、無いでしょう。大陸だから出来る事ですね。馬鹿でなと出来ません。貿易目的なら、仲が悪いと商談が成立しません。レアアースの商談に見る結果になるのです。
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造船技術、航海技術が後進的だったためヨーロッパ諸国と植民地獲得競争は不可能だったし、追いつくころにはおいしい植民地候補地は残っていなかっただろうと思います。


また、日本に着上陸し、国内の軍勢を制圧するだけの輸送力がヨーロッパ諸国になかったでしょうし、海上封鎖も当時の日本には大して効果がなかったと考えます。
その前提で浅学の身ながら以下の通り推論。

・独立を保ちつつ、徳川政権に比べ海外交易は盛んであっただろうが、ヨーロッパ諸国のアジアでの動向に直ちに影響はなかった
・織田政権の路線を踏襲したとされている、豊臣政権に近い中央集権体制を、織田家の世襲により確立し、徳川家康が幕府を開くことはなかった
・文禄・慶長の役のような対外戦争はなかったかもしれない
・キリスト教を禁教しなかったかもしれない
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この時期以降では、


ケニア・タイを除いてアジア・アフリカの殆ど全ての国がヨーロッパ列強に侵略されています。
だからたぶん侵略されてますね。



ヨーロッパ人はいきなり侵略したりせず「貿易」をするのです。
これも「自分に有利な貿易」であり、トラブルが起こるとそれをネタに戦争を吹っかけて勝って植民化するんです。取引相手としては最悪です。
何でそんなにひどいことができるの、という点ですがキリスト教徒の彼らはそうじゃない異民族を下に見てました。中華思想みたいなもんですね。
日本がもし織田信長の時代になってたらですが、まず信長のカリスマが続かないので跡目争いが起こります(実際山崎の戦い以後でも起こってますし)。
徳川の時代のように平和にはいかなかったでしょう。
日本はマラッカ海峡のように中継地にもなりづらいですから植民地としてのメリットは少ない。
なので明治維新の前後のように、ちょいちょいチョッカイ出されながらも何とかやってけたんじゃないかと思います。
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大国となって他国を支配するには、国内に強い産業があって、近代的な軍事力も持たねばなりません。



また、政治体制も、織田家の世襲でいくのか、明治維新のように天皇を頂点においた合議制の国家にするのか、いずれにせよ近代的な国家になるまでに一揉めあったでしょう。

それが成功すれば、おっしゃる通りアジアでの覇権国家となっていたかもしれませんね。失敗すれば、もっと長い鎖国が続いたかもしれません。「たら」「れば」の話なので、それ以上は何とも言えません。
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1612年には、仙台藩が当時の外航船を見よう見まねで作って、航海術知識はなかったので、外国人船長でも太平洋横断にも成功しているので、外航船も作り、航海術も学び、北太平洋に接する各地は、日本の影響力地域に。

しかし、植民地にはしないで、各地を尊敬し、平和共存になっていたと。
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