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開教間も無く、どっとイスラム教はなぜに中東に広まれたのでしょうか?
また、軍もなぜ強かったのでしょうか?
その時、カトリック側はなにもできなかったのでしょうか?

A 回答 (2件)

1:広まった理由は武力と寛容です。


イスラームは教祖であるムハンマド自身が剣を持ち戦っています。ムハンマドが戦ったのは自分の出身であるマッカのクライシュ族です。
ムハンマドは敗戦を経験しながらも戦い続け、ついにマッカを占領します。このとき現在でも有名なカーバ神殿を徹底的に破壊し、マッカの人々は「許されて」イスラームに入信することになりました。この一大都市マッカの占領によってムハンマドとイスラームの威信は大いに上がり、アラブ部族たちがこぞってムハンマドに使節を派遣しました。これによってアラビア半島の大部分が統一されます。

その後、正統カリフ(=ムハンマドの後継者)時代にリッダ戦争(ムハンマドの死による反乱・内乱)を経て、対外戦争を開始。「大征服の時代」となります。
この時代、中東で勢力争いをしていたのはササン朝ペルシアと東ローマ帝国でしたが、戦争により互いに疲弊していました。それでも初期の戦いでは東ローマ軍がイスラーム軍を壊滅させるなどしていましたが、次第に押され始め、ついに東ローマはシリア軍団が壊滅、撤退を余儀なくされ、ペルシア帝国は滅亡することになりました。

さらにイスラーム国家を受け継いだウマイヤ朝により征服は繰り返され、イベリア半島から中央アジアまでの広い範囲を勢力圏とすることになります。
このウマイヤ朝の時代、ムスリム以外の人々は重税を課せられたため、多くの人々がイスラームに入信しました。しかし、イスラームの教義に反するアラブ人至上主義の差別的政策を行っていたウマイヤ朝に対してイスラーム社会では不満が噴出し、最終的には革命を起こされ滅亡します。
次に政権を握ったアッバース朝は平等な権利を保障する政策を取ったため、イスラームは各地で受容され根付いていきます。


2:イスラーム勢力の武力ですが、これは時代によって要因が異なるでしょう。
ムハンマド時代の武力を支えたのは士気の高さです。敵の目的は「既得権益の確保」であり、犠牲を出さないよう出し惜しみをしていたのに対し、イスラーム側は「負ければ神は否定され、苦労して建てた初のイスラーム国家が滅亡し、全てが水泡に帰す」というような排水の陣で戦いに望んでいました。

それ以後の戦いは宗教に起因する士気の高さに加え優秀な指揮官が確保できたこと、時流に乗れたことによると思われます。
マッカ占領によりそれまでライバルだった指揮官が仲間になったほか、威信によって他部族を従え、多くの優秀な指揮官が手に入りました。東ローマ、ペルシアと戦った際には両者とも強大な勢力であったものの長征などにより疲弊、低迷と混乱の時代に片足を突っ込んだような格好で、急速に勢力を広げ乗りに乗っていたイスラームには他にめぼしい敵もなく有利でした。

さらに時代が下ると、イスラーム社会は文明自体が発展していきます。
イスラームが抑えた中東は当時西と東の交差点であり、特にアッバース朝時代には中国などとの交易によって多くの富と文化文明がもたらされました。
またイスラームは教皇などの明確な指導者はなく「共同体の中で人々が考えていく」ことによって運営される方針のため、宗教に関することを初めとして「考えること=学問」が発達しました。
征服と交易により諸文明が融合され、学問が進んだ結果、科学的な分野でも発展を遂げ、イスラーム帝国は世界の先進国として地位を確立します。
これによって地力である国力による優位性を高め、高い武力を有しました。
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一言で言えば中東の砂漠の民にとって


マホメットの教えの方がキリストの教えより
生活する上で便利だったからです

軍は強かったとはどういった意味でしょうか?
別に中世においてはイスラム教だから
強かったとか云うことは有りませんよ
比較されやすい十字軍がアホすぎただけです

キリスト教が何も出来なかったというよりは
イスラム教が他の宗教に寛容で施政者や知識層の
中世当時の最先端の知識と技術を有している
アラブの教えが便利だから自然と広まっただけです

結局、同じ神を信じている訳で祈り方や敬い方の
違いでしか無いわけですから便利な方を信仰しただけです
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