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もしかしたら学生時代に習ったのかも知れませんが、
全然覚えてないので質問しました。

Q1:織田信長とか豊臣秀吉とか徳永家康とかは、今でいうところの内閣総理大臣?天皇?それ以外?

Q2:何年かに鎌倉時代になったとかいうけど、
今でいう九州や北海道の人へはどうやって伝えたのでしょうか?
もちろん、走るなどの手段しかないと思いますが、日数がかかってしまいますよね?

A 回答 (5件)

織田信長ですが、学者により意見はかなり異なります。


織田信長は、源氏の血筋でしたので征夷大将軍に就く事は簡単でした。
天皇から、「征夷大将軍に就くよう。」
この天皇の命令を信長は拒否してしまいます。
官位(肩書き)などに興味は無かったようです。

※織田信長は、実力のみで周囲を押さえつけると言う単なる軍事政権です。
もし、征夷大将軍に就いていたら本能寺は無かったかもしれません。

豊臣秀吉ですが、百姓の子では官位所ではありません。そこで、藤原氏の養子になり関白に就任します。その後、豊臣に改名します。
(藤原、橘、平、源の姓以外は関白に就けなかった為です。)

※豊臣秀吉は天皇代行です。
豊臣政権も奉行を置くなど徳川政権に似ています。

徳川家康は征夷大将軍の官位を天皇から授かります。
更に天皇から政(まつりごと)を行うよう命令されます。(政治を任される)

徳川家康は、現在で言う内閣に当たります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

歴史って、ちょっと適当なんですね。
皆さんの投稿を見て、そう感じました。

ちょっとは、勉強になりました。

お礼日時:2004/08/21 02:01

Q1について


3人とも当てはまるものは微妙に違います。
織田信長は本人が既存の立場を望まなかったこともあり、
現在に当てはまるような立場はないです。
実力で日本の実権を握ってしまった人、という感じ。
とはいえ、実際には日本全体を掌握する前に亡くなってしまったのですが。

豊臣秀吉は関白という立場で、天皇が政治的実権を握っていたころの臣下のトップ。
(今はこの制度、廃止されてしまっていますが・・・)

徳川家康は征夷大将軍だから本来の職務的には現在の防衛庁長官みたいなものか?
でも、仕組み的には現在の内閣に一番近いかな。

なお、3人の時代にも天皇は別格として存在していました。

Q2について
歴史的には便宜的に源頼朝が征夷大将軍になった日を鎌倉時代のはじめとしています。
「今日から鎌倉時代になりました」と全国一斉にお触れが出たわけではありません。
ちなみに、当時の北海道は蝦夷地と呼ばれ、日本とは別とみなされていました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

皆さん、いろいろと詳しく書いてくれて嬉しいのですが、
歴史の成績が5段階中2だった自分としては、
真面目に読むのも苦しくて・・・^^;
ついつい、面白い方、簡単な方へ理解してしまいます。

お礼日時:2004/08/21 01:53

こんにちは。


今の総理大臣を、昔、政権を取っていた天皇として当てはめてみると、

織田信長は、朝廷の官位を拒否したので、自分で名乗った「上総介」だけ見れば、県知事レベルでしょう。

豊臣秀吉は、朝廷の役職を受け・・・というより、強要し、関白になりましたね。
関白は、天皇代行ですので、副総理でしょうか。

徳川家康は、これも朝廷に強要して、征夷大将軍をもらいました。
この役職は、昔、蝦夷(当時の東北、北海道に住む人達)を征伐する為に臨時に置かれた役職で、蝦夷地域派遣軍総指揮官といった所ですので、自衛隊××地方方面部総監とでもなりましょうか。

それから、通信手段はおっしゃるように、人や馬が走る事しかないですので、時差は当然生じます。
なので、情報戦は極めて重要でした。

豊臣秀吉の毛利攻めからの大返しは有名ですが、毛利側の信長の死を伝える伝令が、間違えて秀吉の陣に駆け込んだ為、毛利軍(当時、高松城、清水宗治)に伝わらず、講和を成功させて直ちに引返し、山崎の合戦で明智光秀を討っています。

また、忠臣蔵、大石内蔵助が浅野匠頭の切腹を知ったのは、3日後の事だったようですが、それでも夜を日に次いで使者は大急ぎで帰っての話です。
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この回答へのお礼

徳川家康は自衛隊の総監ですか。。。^^;

とどめは織田信長の県知事レベル・・・

なんかすごいんだかすごくないんだかわからなくなっちゃいました^^;

子供が習うようになったら、一緒に勉強してみようかと思います。
今になって考えると、歴史も面白かったのかなぁ?

お礼日時:2004/08/21 01:50

はじめまして。

 豊臣秀吉や徳川家康は三権(立法、司法、行政)を事実上握っていたので、今の象徴的な天皇制下におかれた国王みたいなポジションだと思います。 織田信長もそれになりかけたけど暗殺されちゃいましたね。

江戸時代末期は飛脚制度が発達して遠路も飛脚で情報を伝えた様ですが、それまでは人伝え、急ぐ時は早馬や早かごで情報伝達をしたのでしょう。
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この回答へのお礼

佐川急便の飛脚もこの時代から来てるんでしたよね?
「へぇ~」でやってたような・・・

お礼日時:2004/08/21 01:48

Q2について



 例えば中学では1192年から鎌倉時代になった、と憶えさせられましたが、それは後の学者が1192年の源頼朝征夷大将軍就任を鎌倉時代の始まりと見なし、その説を生徒に教えるべき定説として採用しただけです。当時の人がそこから鎌倉時代だ、と自覚したわけではまったくありません。

 ちなみに、何年から鎌倉時代になったと見なすべきかは、学問的にいろいろ説があり、1185年からとすべきとする説も有力です。時代区分というものが後の学者の判断によるものだということが、これでもお分かりでしょう。

 当然、当時の日本列島全域が一度に時代の変化を感じたなどということはあり得ません。また鎌倉時代を例にとると、支配者という首のすげ替えが行われただけであって、被支配層にとって、日常生活はほとんど変化しておらず、平安時代と鎌倉時代との境目を意識したことはなかったでしょう。

 他の時代もおしなべて知るべし、です。
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この回答へのお礼

1185年からという説もあるのですか!
今の時代みたいに、今日から平成!!て感じではないんですね?

#子供には、1192作ろう鎌倉幕府じゃなくて、
1185作ろう鎌倉幕府なんて覚えさせようかな・・・w

お礼日時:2004/08/21 01:47

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