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神学と神論は共にキリスト教に関わるものと考えますが、両者の違いは何ですか。
この2つはキリスト教において確立されたものですか。
神とは何かについて説明するものはどちらですか。
いずれにおいてもそれはイエス・キリストのことですか。
両者の違いは信仰と宗教という観点から説明されるものですか。

A 回答 (7件)

☆☆(回答№4) エホバの証人は そろそろ世界は ハルマゲドンなる


大事件をむかえるとおしえています。
☆ これは 取り下げます。当事者のあいだで 撤回・修正がおこなわれ
た模様です。

▲ (エホバの証人の最近の動きと将来の展望) ~~~~~~~~~~
http://www.jwic.info/history5.htm#3
§ 3 繰り返される教義の変更

§§ 「1914年を見た世代」の預言の変更

1995年11月1日の「ものみの塔」誌はそれまでのマタイ24:34
の「世代」が1914年の「終わりの日」の開始を目撃した世代であると
いう教義を全く変更し、

「イエスの用いた「世代」という表現は、時を計るための定規というより
はむしろ、歴史上のある時期に住み、他と異なる一定の特徴を供えた同時
代の人々をおもに指しています」(17頁)

とした。更に19頁では、

「そのようなわけで、今日イエスの預言の最終的な成就において、「この
世代」とは、キリストの臨在のしるしを見ながらも自分たちの道を改めな
い、地のもろもろの民のことであると考えられます」

と新たな全く異なる定義を発表した。これは、つまりエホバの証人の警告
を聞かない反対者、無関心者一般を指すことになり、このような人は常に
これからも存在し続けることは確実だから、こうすれば「この世代」は恐
らく永遠に過ぎ去ることはないことになるだろう。

ここに最後まで残されていた

  ハルマゲドンの「締め切り日」が撤廃される

ことになった。

この教義の変更は、1995年12月18日号のニューズウィーク誌にも
取り上げられるほどの大きな路線変更であり、エホバの証人の一部に大き
な動揺を与えたが、大部分の証人は他の「新しい光」と呼ばれる教義の変
更と動揺(=同様)、ただ批判することもなく鵜呑みにこれを受けいれた
ようである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 情報が古かったことをお詫びします。
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まづ 護教論は 神学ではありません。

ましてや 哲学として通用する神論ではあ
りません。宗教の足掻きですから。

いまひとつの物語をえがいて 神学にまだ足を寄せていますが できるだけ神論と
しての内容を伝えたいと思います。

    *

1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎて
いるのに 神から――あたかもお告げがあるかのように―― 

  故郷の地を去って 行きなさい。

と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。

2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき 

  《わたしはある》 それが わたしである。
  (エフィエー アシェル エフィエー.)(出エジプト記 3:14 )

という答えを得たと言います。
 

3. 伝えによると ダヰデという人は 

   きょう わたしは おまえを生んだ。(詩編 2:7 )

という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんです
けれどねぇ。
 

4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴
史に発展しました。

   これは主がわたしに油を注いで 
   貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね 
   わたしを遣わして心の傷める者をいやし 
   捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。
                     (イザヤ書 61:1-3 )

5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。

6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 
聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。
   
   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
   る箇所が目に留まった。

     主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。
     主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え 
     捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》
               (つまり イザヤ書 61:1-2 )

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 

     ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
      実現した。

   と話し始めた。
       (ルカ福音 4:17-21)

7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表
現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。

8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題
です。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。




9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。

10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して その
とおりになったことにおいてだと言います。

11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟
子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっ
さいイエスは 自分が神だと言っていた。

12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのよう
な存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると
思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあ
とに続くだろうとうわさして おしまいである。

13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモー
セらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さ
らに 別の人によって実現するのを待つということになります。

14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのま
まそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こし
たというふうに話は成るのかも分かりません。そのときには 神のやることはおれ
たち人間には関係ねえよで おしまいとなります。

15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に――同時にです――
キリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言うというところに その
歴史的な一大事件としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのでは
ないか。とうわさされているのかも分かりません。



16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つという
かたちのキリスト史観として承け継がれたわけです。そしてそのキリストが出たか
らにはこの《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。

17. われらが《存在》の成就である。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜き
で成されるという課題が残った。

18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支
配欲や或る種の権勢欲を満たそうというヤカラがいつづけているということです。



19. 神についてのオシヘは要らないということは 旧約のエレミヤ書に書かれ
ており これを新約のヘブル書が引いて確認しています。

  
   もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、
   第二の契約の余地はなかったでしょう。

   事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

     「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
     エジプトの地から導き出した日に、
     彼らと結んだ契約のようなものではない。
     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

     「それらの日の後、わたしが
     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

     「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
     彼らの心にそれを書きつけよう。
     わたしは彼らの神となり、
     彼らはわたしの民となる。
     彼らはそれぞれ自分の同胞に、
     それぞれ自分の兄弟に、

     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。

     小さな者から大きな者に至るまで
     彼らはすべて、わたしを知るようになり、
     わたしは、彼らの不義を赦し、
     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)

  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてし
  まったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えう
  せます。              ( ヘブル書 8:7-13)
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聖書の話は、単なる物語でもなければ、非合理でもありません。



イエスが旧約聖書で預言されていたメシア(救出者)である事に間違いはありません。
数えきれない程、預言を成就しているからです。

だからといって、神とは位置づけしていません。

メシアである事を話さないように言われたのは、うわさ話に尾ひれが付いて、正確でない情報が広がる事を望まれなかったためであり、
実際にイエスの教えや奇跡を知った人誠実な人には、イエスがメシアであることが判断出来るようにしておられました。

サマリアの女は、旧約聖書の教えを信じていたのでメシアを待っており、イエスが自分がメシアである事をはっきり述べられた最初の人で、
その後、多くのサマリア人がイエスがメシアである事を信じました。

私は道であり、真理であり、命である。私を通してでなければ誰も父のもとに行く事は出来無い。

これも真実です。
初めの人間アダムが神に背いた結果、人類は神の家族にはなれなくなりました。

イエスの真実の教えを実践し、イエスがメシアである事を信じ、イエスを神と人類との仲介者として認めなければ、神との家族としては迎えて貰えず、真の命も得られないので、道、真理、命といえます。

イエスを知れば神を知るようになる、というのは、イエスが天で父である神と過していた時からイエスは神に完全に見倣っており、神と同じ考え方、行動の仕方をしているので、イエスを見た人は父をも見たと言えるのです。

ですから、イエスの行動の仕方や教えをこれから知る人は父を知るようになり、すでに見ているかのようだ、と言う意味で話しておられます。

ピリポつまりフィリポが父を示してください。と言った時も、そのような意味で、イエスと長い間過して父の教えや行動を知っているべきなのに、知らないと言うのは勉強不足、イエスが父を示している事を信じるように、と諭しておられます。

父の方法で行動し、父の教えのみを教えていたので、
イエスの内に父がいると言え、イエスが独自の教えを説いているのではないと言う意味で、私の内におられる父が業を行なっておられる、と言うことができました。

イエスが父のおきての中におり、イエスの内に父のおきてがある事を信じるべきでした。

それでも信じられないなら、イエスが行なった奇跡を信じなさい。
おきてを守って行動した行ないを信じなさい。と言っておられます。

イエスを信じる者がイエスの業を行ない、もっと大きな業を行なうようになる、と言うのは、
イエスが生きておられる間に主に行っておられた業、天の王国が近付いたと言う音信を、旅行しながら述べ伝えておられた業を指しています。

イエスは労を惜しまずに広く述べ伝えておられましたが、一人で行なうのには限界がありました。

多くの弟子が、同じ事を世界中で行なうようになる、と言う事を預言し、また一世紀の弟子達は、自分達が知る限りの世界で述べ伝えて行きました。

そして、その業は、イエスが天の父のもとへいくことで、天から弟子達の働きを助け、より効率よく、広く伝えられるように助ける事ができる、と言う意味で
父のもとへ行くから大きな業を行なうようになると言われました。

私の名によって願う事とは、神とイエスの主な関心事、イエスと父の教えを広め、天の王国が近付いた事を知らせる事に関して、なんでも叶えてあげよう、と言われました。

そして、弟子達が祈り、監禁されていたペテロが奇跡的に自由にされた事などを含め、様々な祈りが聞かれ、その事により、人々は天の父を褒め称え、父は栄光をお受けになりました。


このように、
使徒パウロが述べたように、聖書全体は神の霊感を受けて書かれた物なので、
書かれている事は、良く調べれば一致しており、一貫しています。


不思議な事に、キリスト教を名乗る人程、聖書を理解していなかったり、その正しさに疑問を挟んだりします。

自分に都合の悪い事や、それまで教えられた事と合わないと、自分達ではなく、聖書を書いた人が間違っていると言うのです。

ですから、キリスト教を名乗る人から学べば良いとも言えず、まず、曇りのない、素直な心で聖書に書いてある事を読む事が大切です。

聖書に書いてある事で、矛盾している事は何一つありません。
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参考資料です。

《イエスなる人間は 自分が神だと言った》について
は 次の聖書のくだりを参照してください。

▼ (マタイによる福音 16:20) ~~~~~~~~~~~~
それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さない
ように、と弟子たちに命じられた。
 
  * 16:16に ペトロの言葉として《生ける神の子》があり 
   イエスは それを《わたしの天の父が表わした》と答えている。
    つまり《メシア(マッシーアハ)》は ギリシャ語で《クリ
   ストス(キリスト)》と訳されて使われています。次の引用文
   を参照。

▼ (ヨハネによる福音4:25-26) ~~~~~~~~~~~
〔* サマリアの〕女が言った。

 「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知ってい
 ます。
 その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださ
 います。」

イエスは言われた。
 
 「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~~~~~~~
イエスは言われた。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなけれ
 ば、だれも父のもとに行くことができない。
 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに
 なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

ピリポが

 「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足でき
 ます」

と言うと、イエスは言われた。

 「ピリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていな
 いのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに
 御父をお示しください』と言うのか。
   
 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じな
 いのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているの
 ではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるの
 である。
   
 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言
 うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって
 信じなさい。
   
 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
 また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行く
 からである。
   
 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうし
 て、父は子によって栄光をお受けになる。
   
 わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえて
 あげよう。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ このようなお話は 物語であって 理論として経験合理性にもと
づき認められるものではありません。

もっとも・ただし 非合理という捉え方によって その中身が救出さ
れ得ます。

反合理なことは 論外ですが 非合理は 経験合理性を超えています。

合理性は 相対世界における論理に過ぎないのですから。

そこで この非合理なる世界をめぐって その内容を現実に立った理
論としてととのえるのが 哲学であり神論です。

神学は 現実の合理性いかんをすでにカッコの中に入れて その聖書
じたいの世界として 理論(?)化しようとするいとなみです。

なお宗教のオシヘは 神学を利活用するかどうかを問わず 自分たち
の党派(宗派)の存立・存続をねがい自己正当化のために 考え出し
た倫理規範をふくめた倫理思想のことです。


エホバの証人は そろそろ世界は ハルマゲドンなる大事件をむかえ
るとおしえています、。
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この回答へのお礼

>エホバの証人は そろそろ世界は ハルマゲドンなる大事件をむかえ
るとおしえています、。

あながちデタラメとは限りません。
日本では富士山が近々富士山が大爆発する可能性は大きと言われていますね。
核戦争が起こる可能性だってあるし。

エホバの証人といえば輸血拒否で知られていますが、実はこのことは科学的には正しいことが分かってきているのです。
そもそも人の血を売ったり、買ったりすることは神の教えに反すると言う考えは真理なのです。

お礼日時:2017/04/28 13:49

神学も神論も、元々のイエスが教えた事とはかけ離れています。


純粋なキリスト教の教えと言うより、人間が勝手に都合よく、より難しく考え出した学問です。

聖書を偏見無く、誠実な心で読んでみれば、真理はとてもシンプルで分かりやすいもの、神学校で教える物とは全く違う、誰にでも理解出来る物だという事が分かるはずです。

民衆を操りやすいように難しくして、お金を出さないと分からない状況を作り出し、真実を歪めてお金を取るために生まれた学問です。

神とは何かを知るには、新約、旧約、聖書全巻を読む必要があります。

神とは、宇宙と地球、人類と全ての生命を創りだした、全知全能の霊的、人格的存在です。

イエスはその神によって初めに創られた天使で、人類のために一時的に地上に使わさりれた、神の子です。

イエスは自分が神と言った事はなく、反対者からも、自分を神の子とした、と言って迫害されています。

まず、聖書そのものを読みましょう。
jw.orgのサイトで、聖書の調べ方がガイドされています。

エホバの証人が詳しいですよ。
彼らは聖書そのものを信じ、実践しています。
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この回答へのお礼

人の血を売ったり、買ったりすることは神の教えに反しますよね。

お礼日時:2017/04/28 11:48

神学とは、ガブリエルが、イエスに伝えた神の言葉を学ぶ。


神論は、神(ゴッド)の存在意義を勉強します。実在しないかも考えます。
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ギガジンとギズモード・ジャパンの違いはなんなのだろうか?

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