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他国の歴史を見ると、戦争に負けて奴隷にされたとか、奴隷商人による奴隷貿易が盛んだったという話がよく出てきます。

一方で、日本で奴隷が差し出されたという記録は邪馬台国の時代くらいです。
あとは戦国時代のゴタゴタに乗じてポルトガル人が日本人を奴隷にして連れ去ったという記録がありますが、それに激怒した豊臣秀吉がキリスト教を禁教にして以降、日本人が奴隷になったという記録が(信憑性が低いものを除いて)ありません。

このように他国と比べ、日本人が奴隷になることがほとんどなかった理由は何でしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 領民は財産という考え方、結構じゃないですか。今の時代も、国民は国の財産です。
    少なくとも、領民を奴隷として売って私腹を肥やすよりは何万倍もマシです。

    >労役のためや、女性ならば「性奴隷」として連れ去られ、子供を産まされた上に殺害されてしまう
    →こんなこと、日本の歴史でありましたっけ?
    全くなかったとは言いませんが、大規模に行われた例を私は知りません。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 10:46

A 回答 (2件)

締めきっていないようですので、もうひとつのほうに書かなかったことを書きます。



日本の農民の位置づけなのですが、農民は平安時代から「国の主役」という位置づけでした。もちろん天皇や公家などの貴族がいたのですが、彼らは元々は「各地のリーダーが中央に集められて官僚になった」というものでしたから、地元に残る人々との血縁関係もありました。

諸外国での「奴隷制」を考えるときに非常に重要なのは「血縁関係がまったくないから、非人間的に扱える」ということがあります。現代の人種差別も原則的に「血がまじりあっていないし、宗教も価値観も違うから、同じ人間とは思わない」という根幹的な価値観があります。
 それでもDNA解析などから「すべての人類は一人の母に行きつくので、すべての人類が親類」という意識が広がり始めていて、だから差別はよくない、ということになってきているわけですが、まだまだ古い価値観も大いに残っているわけです。

日本人は異民族戦争をしていません。少なくとも大和朝廷が日本を統一した後は、異民族ではなくなっているわけです。この時代の融和は「各豪族の神々はそれぞれ立派で敬うに値するから、天皇が代表して神々に祈ろう。だから、みんな認め合って、仲良くしよう」ということです。

聖徳太子のいう「和の精神」の裏付けには「すべての地域の神々を同等に扱う」ということがあり、それが今日まで続いている日本国のあり方ですし、武士であっても天皇を滅ぼさなかった一番の理由になります。もし信長などが、天皇を廃止したら「オラッちの神よりも、お前のクニの神のほうが上ってことか!!」ともっと戦国時代は長引いたでしょう。
 どれほど内戦があっても、誰がリーダーになっても「その地域の神(=文化や歴史)には敬意を払う」から各地域の人々は安心して暮らすことができたのです。

この安心感というか、神々に裏打ちされた「平等」感が、日本で大陸型の奴隷制が発展しなかった大きな要因になっています。

また、日本の主役は常に農民だったというのは、税制からも見て取れます。
日本史ばかりみていると不思議に思わないのですが、世界史の常識からすれば「城を明け渡す」というのはありえないことです。
 世界のというかユーラシア大陸の城は都市でもあり、支配者である王とその国の国民(本来は臣民)が住んで居たからです。城を明け渡す、ということは別の支配者がそこに住むということであり、当然、その支配者の臣民たちもそこに住み着くことになります。

日本のように、城は明け渡して、新しい領主がくるけど、農民は殺されもせず、追い出されることもなく、そのまま住んで農業で生活できる、というのは世界史の常識からすればありえない、ことになります。

なぜ、日本では領主が交代しても農民の生活は保障されていたかというと、これが墾田永年私財法に基づいていたからです。そもそも武士自体が、開墾した自分の土地を保障してもらうために平安貴族と戦い、鎌倉幕府という自治をかちとったわけですから、武士たちがこの根拠法をないがしろにするわけがない、ということです。

したがって、日本の領主は「租税権・行政権・警察権」などはあったものの、土地所有は「農民」にあったわけです。

これも大陸型の奴隷とは異なる姿を作り上げます。つまり戦争があって勝っても「租税権などをもらえる」だけで、農民から土地を収奪することはできなかった、ということです。

大陸型の奴隷は「自分の住む国が負けて、支配者も殺され、土地も奪われる」ことがスタートになります。
つまり「生きていくすべを失う」ということで、農業の生産性が低い時代は殺さないと、奪った土地の収穫を無駄飯食いにとられることになっていたので、皆殺しがおきたわけです。

実は(誤解を招くかもしれませんが)、皆殺しの時代にくらべて「奴隷制」は古代では「よほど人道的」である、と考えられていました。なにせ、奴隷なら戦争に駆り出されて死ぬことはありません。所有者も死なれたら大損なので、少なくとも死なない程度には食事も与えるし、仕事もセーブしたからです。
 供給過剰な時期は、粗末に扱われることもあったでしょうが、自国が負けてその戦争で戦死する、ということはなかったのです。そのため、当時の奴隷は現代の底辺の労働者とほぼ同じ境遇である、という見解を述べる学者もいます。

日本では、先ほど書いたように「墾田」すれば自分の土地です。どこかに逃げて、墾田に成功し、そこの為政者にきちんと年貢を納めれば「本百姓」になれるのです。
 人力しかない時代はとても大変なことですが、このような気風も大陸型の奴隷制度をとる必要性を薄くしたといえます。
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これは陰に隠れた理由も結構あるらしく…。



一番の理由は(戦国時代に限っての話ですけど)
「領民は、資産だから」
…という意識が強かったことです。

秀吉が激怒したとされるのは、正義感からじゃないんです。
「自分のものをどうして取られるか!」ということに過ぎない。
当時の農民層のことを言えば、彼らは「大名・豪族たちを食わす」ための存在であり、戦争が始まれば進んで兵役に出て、その代わりとして報奨を得ていたわけです。
「百姓は生かさず殺さず」という話もありましたけど…その程度の認識なんですね。

だから奴隷として連れ去るなんて言うのはもう「泥棒」に他ならないわけです。
もちろん、そんな行為に出たならば、必死で守ろうとしますよね。
領民側からすれば、自分たちは武力を持っていないわけだから、他国(今なら他県ですね)から兵が入ってきて、自分らの食い扶持や家族を「持っていかれないため」に、武装集団に頼るのは自然なことです。

そういった「閉じた空間」だから、奴隷として国外に連れ出すことには、あまりメリットがなかったというのもあると思います。
しかし、国内だけで見てみれば、他国に侵略され、労役のためや、女性ならば「性奴隷」として連れ去られ、子供を産まされた上に殺害されてしまうわけだから…とてもじゃないですけど胸が張れるような歴史じゃないですよね。
この回答への補足あり
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