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1.信仰とは己の心の持ちようであるならば、その理想を目標とした自己の信ずる信念を持てばいいとおもうのですが、既存の思想に浴するのは何故なのでしょうか?

2.信仰とは世界三大宗教?新興宗教?そういうものにとらわれず、信ずるものがあるならば、それは組織に属することなく自己完結する世界だと思うですが。

そして即物的になりますが自己の思うことを真に信じることは、時間的、金銭的また、目標としても己の精神性を満足させるものではないのでしょうか?

3.既存の宗教を選択し続けるのは、信仰以外に、それまでに築いてきた人間関係の維持の為に続けている人はいないのでしょうか?(そしてそれは信仰とはまったく無関係にも関わらず、信仰者とされてはいないでしょうか?

A 回答 (7件)

1.信仰とは己の心の持ちようであるならば、その理想を目標とした自己の信ずる信念を持てばいいとおもうのですが、既存の思想に浴するのは何故なのでしょうか?



⇒ [信仰とは己の心の持ちようではない]と考える方が、現実の理解が容易だと思います。

❸.権益のために信仰者であるとする人は別にそれで構わないと思います。
この質問の意図は信仰心とは無関係なのに、別の目的で参加している人物までも信仰者と計上するのか?信仰なのに、そういったしがらみを組み込んでまで宗教は存続したいのか?それに対して、特に利益を享受しない人たちは疑問は起きないのか?という質問でした。

⇒ 広辞苑には、信仰について次の説明があります。
信じ尊ぶこと。宗教活動の意識的側面をいい、神聖なものに対する畏怖心からよりは、親和の情から生じると考えられ、儀礼と相俟って宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有する。
この説明を承服しない人もいるでしょうが、この説明は、《信仰は、宗教の体系の構成要素の一つであること、信仰は、集団性および共通性を有するものであること》をポイントにしています。
通常の用語法の範囲では、統合失調のような障害で個人的に何かを強く信じていても、その状態を信仰とは言わないし、犯罪などの審判の場で証人が個人的記憶を強く事実だと証言してもそれを信仰とは言わないし、実験結果で確実だったと小保方さんのように個人的に主張してもそれを信仰だということもないです。 しかし、集団性を持つと、特定民族や特定文化、血統の尊貴を強く信じていると信仰ともいうことがあります。 信仰というには、個人の心の持ちようというだけでは不十分で、集団性や共通性は不可欠な要素だと思います。

東京堂出版の類語辞典には、次の類語が挙げられています。
しんこう〔信仰〕信心・崇敬・崇信・信教・信ずる  (句)信をなす (仏)帰依
通常の用語法の範囲では、宗教性が信仰にとって不可欠とは言えないように思いますが、尊貴は重要な要素と思います。 親子や配偶者、恋人、親密な仲間、同士などには、親和の情はあると思いますが、それを信仰とは普通はいいません。信心、崇信、信じるというのも、対等的な相互性はあまり重視されておらず、一方的な帰依に近いことが、ある際だった対象に、集団的、共通に見られる(観察されうる)ことが、信仰という言葉を適用するには大事なポイントだと思います。 男女間や師弟間で、盲目的といってかまわないほどの崇拝依存尊貴の情があっても、宗教の体系の構成要素とは言いがたいものは、やはり、日常用語では、信仰ではないのでしょう。

その理想を目標とした自己の信ずる信念を持てばいいとおもうのですが、

⇒ どのような理想を持とうが、いかに強い信念を持っていようとも、宗教とはみなしがたいのであれば、信仰とは日常用語ではいわないはずです。
角川国語事典には、次のような説明があります。
しゆう・きょう【宗教】名神仏または超越的絶対者を信仰して、安心・幸福を得ようとすることまた、そのためにする行事
広辞苑にも、意識的側面や儀礼とありましたが、心の中のありようだけではなく、具体的な儀礼とか身体活動やポーズ、定まった口述、オーム、妙言、香りや炎、明暗の環境などの何かが、信仰には不可欠なものだとされていると思います。

2.信仰とは世界三大宗教?新興宗教?そういうものにとらわれず、信ずるものがあるならば、それは組織に属することなく自己完結する世界だと思うですが。

⇒ 五郎丸選手に限らず、自分流のその時点では完結した儀礼様式と強い念じる行為の組み合わせを実行する人は、そこそこいます。 しかし、それを日常用語では信仰とはいわないと思います。 剣道の試合前の対戦相手との挨拶とか、食事前の定まったポーズなどは、ある範囲では共通化された儀礼になっているし、そのときに念じるようなことも基本は多くの行為者で類似の範囲になると思います。 しかし、それを日常用語では信仰とはいわないと思います。 病気や怪我をしている人の回復や苦痛の平癒を願うときにとるスタイルというのは、手を握ったり、やさしく手を添えたり、まあ十種くらいのものにほぼ区分できる程度で、時代を超え、文化を越え、ほぼ共通するのだろうと想像しますが、こうした場面でのスタイルをもって、信仰とか宗教の一種であるとは、認識しないと思います。
《信仰は宗教の一構成要素》であって、宗教には関係が一切ない信仰というのは、考えないでいいと思います。 なお、無教会系の信仰とか、聖書主義の宗教とか、「組織」があるというのが難しいです。
また、アミニズムとか、豊漁豊作や安全祈願、交通安全祈願、子孫繁栄のようなもの、塞の神、海の神、戦(勝利)の神、田の神、河の神、祭りの神に祈るのも、組織の構成状態を明確にできるようなものではないし、教義とかはたぶんないです。 だからといっても、「信ずるものがあるならば、それは組織に属することなく自己完結する世界」ではなく、その参加者には共通に幾度となく繰り返されるものでもあって、しかも、特に自己完結もしない、そのときその場限りの様式を伴う共感というものでしょう。 創唱宗教だけでなく、いいようがないいわゆる自然宗教のような組織も教義もない様式に重点のある宗教(様式の共有と感覚以外には、完結性などなにもない宗教)は多いです。

そして即物的になりますが自己の思うことを真に信じることは、時間的、金銭的また、目標としても己の精神性を満足させるものではないのでしょうか?

⇒ 「自己の思うことを真に信じることは己の精神性を満足させるものに通じる」と思います。「自己の思うことを真に信じることは、己の精神性を満足させるものに通じない」というのでは、話にならないというか、「自己の思うことを真に信じることは、己の精神性を満足させるものに通じない」という主張をするには、用語を非常に特殊に定義しないと無理でしょうし、いいたいことの内容が他人にはわからないと思います

3.既存の宗教を選択し続けるのは、信仰以外に、それまでに築いてきた人間関係の維持の為に続けている人はいないのでしょうか?(そしてそれは信仰とはまったく無関係にも関わらず、信仰者とされてはいないでしょうか?

⇒ 自分で創唱してもいいですし、既存の宗教の様式や価値観の優先を変えても、尊像や妙言を変更してもいいでしょう。追随者が出現しないと、それは世迷い事とか狂ったとか不信心、背信者とされるだけに終わると思います。 宗教とか信仰と呼ばれるには、集団性や共通性の獲得に成功することが不可欠の要素だと思います。 
なお、宗教も文化の一つです。 信奉者もいれば、なんとなく習慣化している者、ポーズとして従っているだけの者など、様々な人がいます。 同じ人物でも、状況次第で、様々に変化することがあるのは、ごく常識です。 地位とか資産の保持、収入や名声の維持のため、あるいは家族や周囲から非難されることを避けるために、既存の宗教の中での役割を勤めるという人は少なくないです。 坊主、神父、牧師、教師でも、そういう人は少なくないでしょう。 自分で創唱してあるいは分派として宗派を作った人でも、あるときには、それまでに築いてきた社会関係・人間関係への配慮、財産の保全のため、あるいは裏切り者扱いを受ける危険の回避のため、それまで築いてきたものを重視し、それをもっとも大事にするということはあるでしょう。 そのように(いろいろなアンカーを重視すること)は、アイデンティティの獲得保全には欠くことができません。 周囲や他人、その宗教に関係ある人も、その宗教とは異なる立場にある人も、ある個人がそれまで築いてきた社会関係や自分が述べてきた言説、やってきた宗教スタイルを重要なアンカーとして維持し続けていることが、その個人を信仰者とみなす場合の重要なポイントであることは間違いないと思います。
本人Aがそのときの気分や信念、思考のままに、次々と言説やスタイルを変更し、過去のことや他人がAを理解していることを切り破るような行動に及べば、周囲や他人、その宗教に関係ある人たちは、Aを信仰者とは思わなくなるでしょう。
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この回答へのお礼

お返事が遅くなり大変申し訳ありません。

非常に興味深い回答ありがとうございます。
感覚的に少し、私の思う部分と違うなぁという部分
(宗教は文化ではあると思います、そして質問内容とは主旨が変わってしまうのですが、信仰は宗教の構成要素であるのか?それは必要条件であるのか?そもそも信仰は宗教という枠に組み込まれるものなのか、そのあたりについて個人的な疑問はあります)

ここまで丁寧にお答えいただけるだけで十分満足いたしました。
これ以上の回答はいただけないと思います。

本当にありがとうございました。

お礼日時:2017/08/23 00:29

何度も失礼します。


なぜ特定の宗教宗派に属するのか の答えですが。

少なくとも特定の宗教を「信じている人」を信仰者としています。
ならば
「信じている」 からです。
貴方が「自己の信念を信じる」のと同じになりますが
ダメなのでしょうか。
他から教えてもらたっら信念(これがたまたま宗教?) と 自分で思いついた信念 の違いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「信じている」からとの明確な答え、大変ありがたく思います。

なお、私自身は「己の信念を信じる」というようなものは持っていないです…
個人的には既存であれ、自分の思想であれ、信仰しているというのは、少なくとも表層的にはそういう思いはないです。

ただ、信仰とは個人的なものであり、その信念は社会的活動とは常識や違法性等なければ己の心の内で完結するものではないかと、どういう思想をもっていようが、それは反社会的なものでなければ犯罪でもないし、まして国体を損なうものではないとおもっています。

そしてそれは体系化(批判的な言い方になるかもしれません)されたものではなく、たとえ稚拙であろうが、己の納得できる信仰を持つのではないかと、そう思い質問した次第です。

明確にお答えいただきありがとうございました。

お礼日時:2017/08/15 19:51

信仰とは己の心の持ちよう とか 精神性を満足させる とか


違います
宗教のイロハがわかってないのに 決め付けるなよ
認識せずして語るなよ  お勉強して下さい

仏教 キリスト http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage31.htm

組織の目的も知らず よう言うわ

組織 http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage27.htm


口が悪いので あしからず
疑問をいだくのは 当然だと思います

組織に属することなく自己完結・・・できません
簡単な学問ならできますが
精神 理性 生き方 慈悲 博愛 悟り は無理です 

座禅とか荒行とかで自己完結 悟った等 まやかしです
師匠の存在なくして 高度な学問でも技術でも 最高峰には到達できません
宗教に限った事ではありません
例外を言えば きりがないが 事 思想 宗教 に関しては
例外はありません

エセ宗教は論外として
世界三大宗教の教えは正しいのです
儒教や西洋哲学を含め
どれ程 文化の発展 人間精神の発展に貢献した事か
歴史を見れば分かります 芸術 文学 その元は宗教です
悪を止め 善を教える 生き甲斐を教え 死の恐怖を取り除く
詳しくはカット

皆 聖職者が悪いのです
宗教を利用し 商売道具にし 権力と結託 
その教え 精神は正しくとも それを伝える伝道者が坊主が
自分の都合の良い解釈で 信者をだますからです
十字軍に象徴 日本の
詳しくはカット

世界三大宗教は
〇原始的宗教の呪術的迷信を打破しようとした
〇既成宗教の祭祀体系を否定した、これは バラモンとパリサイ人を盲人に譬え
 その否定の仕方まで同じです
〇民族的に偏狭な観念を克服した、仏教は四姓平等を説き、
  イエスもユダの民族主義を乗り越えました
詳しくはカット

私が言いたいのは 宗教は正しく 絶対必要ですが
聖職者を監視しなくてはなりません
しかし難しい  何故なら皆 宗教に無知だからだ
坊主や教祖にまかせっきりだからだ
ヒマラヤを知らず 多摩川の土手の話しかしない
ハイブリットカーを知らず 子供の三輪車の話しかしない
無知な坊主の エセ宗教の 占い等の得意技

質問の答えから ずれたかな 終わり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご指摘の通り。宗教のイロハは全く分かりません。

また3大宗教やその他の宗教の「正しさ」も気にしておりません。
そして、宗教の貢献や歴史、聖職者の行いがどうとは一切問題にしていません。

なぜそれ(既存の宗教)を選択するのか?なぜ自分にとって最も合うと思うのかそこが知りたいのです。

正しいから、貢献したから、歴史があるからと言われてもいまいち理解できないです。

信仰する人がなぜその宗教を選択したのか。そこを教えてください。

お礼日時:2017/08/15 16:18

キリスト教徒です。

もともと、実家は曹洞宗でしたが、子供ができたときに、夫の家族の属する宗派に改宗しました。これは、私は、貴方と同じお墓に入る、という意思をはっきりと示したものです。

私は、宗教というのは、自分、個人の死に向き合うものだと思っています。いつか必ずやってくる死。その準備をもう、三十年、着々と進めてきました。よく、死んでゆく準備をするのは、良く生きるのと、私の場合、同義語です。生活から無駄なものを省き、真に愛するものに囲まれて、自分を向上させ、堕落の芽を摘んでゆくには、私には、宗教が必要です。

精神修養として、宗教画を描いていますが、先生はイタリアで修業をした画僧であり、深い知識と洞察力に満ちています。老若男女の生徒たちから、学ぶことも多いです。自分一人で、孤高に信仰を続けても、それは、独善的になりがちです。独りよがりを避けるためには、師を決め、ひたむきに、かつ、つつましく、一日、一日を生きてゆくのが、私には、向いています。

申し遅れましたが、米国在住です。

以上、ご参考まで。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

すみません、何をお伝えしたいのかわからないです。
宗教のすばらしさをお聞きたいわけでもなく、また、既存の宗教を批判しているわけでもないです…

お礼日時:2017/08/15 16:11

ご希望の回答が出てこないのは、質問中の


信仰者とは、どのレベルなのかをはっきりしていない為ではないでしょうか。

①仕事が終わったら、宗教活動に入り、朝晩毎日お経をあげているようなレベルの方の話でしょうか?
②私レベルの人間も信仰者に含むのであれば
>信仰者はなぜ特定の既存を宗教に依るのか。
いいえ、信仰者(仮に私)は、自分の都合にあった宗教を使い分けます。
理由
憲法で宗教の自由が認められているのだから、信じる信じないは自由で宜しい。
日本人のほとんどが、②のレベルだと思います。
①レベルの人は、お寺の御住職ぐらいしか私も知りません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
少なくとも特定の宗教を「信じている人」を信仰者としています。

文化的、または人間関係等でかかわっている人は対象外になります。

お礼日時:2017/08/15 16:10

1も2も同じで


特定の宗教宗派にとらわれることなく、その理想を目標とした自己の信ずる信念を貫いた方が良い人生がおくれる。
という事でしょうか。
その通りです。現在の日本の仏教で、個人の信念まで命令し指示することはないと思いますが。
新興宗教などではわかりません。
ただ、その信念が、どうも怪しい場合、お坊さん、家族、友人などがアドバイスしてくれると思います。
それは、参考にすべきでしょう。
自分が信じる物と宗教の教えの間には、まだまだ色々な考え、思想、哲学などがあると思います。


3 既存の宗教を選択し続ける方が稀な社会です。
  せいぜい、田舎の家で仏壇もあれば神棚もある。結構式は神社で葬式はお寺でみないな程度で
  同じ檀家にいるけど、そのお寺のお坊さんで良い程度でしょう。
  檀家から無茶苦茶嫌われるお坊さんの話は聞いたことがありません。
お経の後に、世間話に加えて説法されますが、その切り口が面白いので聞き入る事は多かったです。
先の質問のついでですが、そのお坊さんから、ちょっとした手の内も聞かせていただきました。
子供がいたら、嘘ついたら閻魔様に舌を抜かれて地獄へ落ちるぞ と聞かせる一方で
おじいちゃん、おばあさんの前では、今更じたばたしても、死ぬのだから仲良く過ごして
天国に行こうよ。
との事です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私は特定の宗教を信仰していない(少なくとも個人的な思いとしては、ですが)のですが、
信仰者はなぜ特定の既存を宗教に依るのか。その1点はどうにもわかりません。

宗教とは何か、ということも曖昧なイメージしかないのですが、「死」に対する対処的なイメージを持っています。死とは個人的なものであると考えます(残った人が悲しむとかはその人の事であって死そのものはどうあっても個人的なものだと思います)

もともともっている先入観が悪いのかもしれませんが、なぜ個人的な「死」に対するものにたいして既存の、悪い言い方すればテンプレートな宗教に属するのか。よくわかりません。。。

お礼日時:2017/08/14 21:50

>>1.信仰とは己の心の持ちようであるならば、その理想を目標とした自己の信ずる信念を持てばいいとおもうのですが、既存の思想に浴するのは何故なのでしょうか?



宗教の「信仰」と自己の信ずる「信念」とは違いますよ。
また、自分の信じる信念を自分だけで組み立てられる人はごくごく少数でしょう。
既存、あるいは、誰かの提唱する思想を選んで、それを信じる人が大多数のはずです。

>>2.信仰とは世界三大宗教?新興宗教?そういうものにとらわれず、信ずるものがあるならば、それは組織に属することなく自己完結する世界だと思うですが。

組織に属することなく、一人でがんばるのには限界がありますからね。
また、一人で頑張って、間違った方向にいっちゃう可能性も大。
もちろん、三大宗教とか新興宗教にとらわれず、無神論を信仰する方も日本には多いと思います。

>>3.既存の宗教を選択し続けるのは、信仰以外に、それまでに築いてきた人間関係の維持の為に続けている人はいないのでしょうか?(そしてそれは信仰とはまったく無関係にも関わらず、信仰者とされてはいないでしょうか?

そんな人も当然いるでしょう。
信仰無いけど、信者となっておくことで、この世的に生きやすい、経済的・権力的に有利になるってことは、よくある話でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.信仰と信念の違いについては、この質問に関しては理解ができないです。

2.これは例えばおいしいケーキを食べたいときに自分で作るよりお店で買った方が早くておいしいということでしょうか?しかし、自らの行動規範すら制限されるような人生における大事にとって「限界や間違った方向」に囚われずに己の持つ信仰を邁進したほうが良くはないでしょうか?
(自分で作った最高においしいケーキはもしかしたら他人にとってはとっても不味いかもしれません)
もちろん、邁進の前提として法律違反をいないということは絶対条件になりますが(これは信仰と日本国で日本の庇護下で生活したいという気持ちとのバランスになるかもしれませんが)

3.権益のために信仰者であるとする人は別にそれで構わないと思います。
この質問の意図は信仰心とは無関係なのに、別の目的で参加している人物までも信仰者と計上するのか?信仰なのに、そういったしがらみを組み込んでまで宗教は存続したいのか?それに対して、特に利益を享受しない人たちは疑問は起きないのか?という質問でした。

お礼日時:2017/08/14 13:39

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