プロが教えるわが家の防犯対策術!

自分以外の人間にも、目があって、他人の目からは自分の顔や体や行動が見えていて、自分を見て、心地よく思ったり、不快に思ったり、が多少なりともあり、
また、自分の発する言葉や、物音を他人が聞いて、快や不快な感覚を、他人に与えることがある、
と思って、できるだけ他人に不快な思いをしないで、心地よい気持ちにになってもらえるように、気を付けて常々行動をしています。
が、このような考えをもって行動してる人って、私だけですか?

高校生のときに、よく私の姿や、行動が気持ち悪いと指摘されることが多く、見た目や、言動を意識しするようになりました。結果、人によっては見た目がかっこいいね、とか、いい人だねとかって言われるようになりました。また、20代、大学生・新人会社員の頃は、もう少し、人の気持ちを考えてからものを言ってくれとか、何言ってるのかよくわからない、と指摘されることが、多かったので、気を付けるようになりました。気を付けた結果、自分の話をわかって聞いてもらえるようになりました。

見た目が気持ち悪いとか、何言ってるのかわからない、と言われていた頃は、毎日、一人で悩み苦しむ日々が続きました。また、見た目にしても、音にしても、気を付けるには、それなりに神経とエネルギーを使います。

大人になる過程で、誰しも、このように悩む時期があり、ちゃんとした大人は、誰にも気づかれないところで、見た目も、音も、他人の目や耳に配慮をして行動していらっしゃるものなのですか?
こんなこと頑張ってるの私だけ?と思う出来事も多く、また、エネルギーを消耗して、嫌になることも多いです。

悩んでる頃、親に相談したこともあったのですが、「そんなこと気にしてたら、何もできないでしょう。」と言われ、それ以上は何も助言がありませんでした。しかし、家庭での習慣を、学校、職場で出すと、気持ち悪い・意味不明、となり、結局、一人で悩み、試行錯誤をすることになりました。

みなさん、他人の目や耳を気にして、行動しているものですか?
それとも、私は、特別、神経を使いすぎてるほうなのですか?
ご見を聞かせて頂けませんでしょうか。
(29歳男性、会社員です。)

A 回答 (3件)

それがとても自然ですよ。

大変順調でしょう。

私の方が年上ですが、いまでさえ、

「まだまだである。」

と、年上から教えられます。

努力をしませんと、年相応に内面が育ちませんから。


他がどうであるかと不安に思っているようですが、

私もそう思って不安になった時期があります。


しかし、更に継続し、更に進歩するのが当たり前です。

そうじゃない人が沢山いるのも自然ですし、仕方がないのです。

ただし私は、

進歩し続ける喜びこそ、人の生きている意味だと思っています。

既にご経験をされていると思いますが、

進歩して始めて、

「やってて良かった。気がついてよかった。」

と、前よりも、今の自分が好きになれますよね。

ではやらなかったらどうなったんでしょう?

年を取っても、中身が育っていません。

不安感が強くなり、前よりも今の自分が嫌いになってしまいますよね。

「生きている意味は何ですか?」

と聞きたくなるはずです。


そして自分が嫌いに成るので、

誰かに好きだと言ってもらいたくなるんですよ。

これは、健全じゃありません。



わたしも30歳くらいでしたねえ。

「あれ? 年を取ると若さを失う対価として、落ち着いてきて、大人に成るんじゃないの?

 しかし自分に関してはそんな気がしない。

 年だけ取っている気がする。おかしいぞ。」

と思いましたよ。

「もしかして、大人って、努力しないと成れない?

 『頼りがいのあるオッサン』って、皆、そんな陰の努力をしてるの?

 努力して、あんなもんなの?」

と驚きましたし、

「じゃあ、努力しないとどうなるの?

 あれより、下って想像できない。

 凄い、イタイ生き物に思える。

 放置すると、そうなるってこと?」

とゾッとしました。

ですが、当時は(まだ20世紀)そういう大人はいませんでしたから、

「これって、皆、こっそりと努力しているってこと?

 みんなそんな凄いってこと?

 それとも、考えすぎであって、

 実際は自然と大人に成るの? そっちのほうが正解?」

と確信が持てませんでしたよ。

そういうときは、保険をかけて、努力をする方を選ぶのが妥当でしょう。

もし、そちらが正解であったら人生を台無しにしますよね?

他の人が何と言おうとも、冷たい結論が出るときがあるんです。

これに関しては、リセットが効きません。



いまはある程度年配ですから、答えは出ています。

30歳くらいでそう考えた自分に拍手を送りたいと思っています。



親ですら、そうした通過儀礼を通らないといけないんです。

安易に考えてしまい、通過できていないケースは沢山あると思いますよ。



また国全体をみても、

ほとんどの大人が前任者の仕事を継承しているだけです。

個人として、

「自らの力で、0から作り上げられる真の実力があるのか?」

と考えたら、そうじゃないでしょう。

本当は、前任者が作ったノウハウに助けられているだけであり、

内面は同等に成長していないんじゃないでしょうか?

こういう人も政治を司るわけですから、

国家が間違いを起こすことは沢山あるはずです。


さて、また、ここで大人に成るための通過儀礼が生じます。

「他の人もそうであるから、自分もその程度で良いのか?」

良いわけがありませんよ。

もし、

「人間にはこんな力も眠っていたんだ。

 それが自分に解放されるなんて、子供の頃には思わなかった。

 そうじゃないで死ぬ人も多いはずだから、生きてて良かった。」

と言うのが真実であったら、損をしますよね。


お悩みの部分には古来(かなり前)から答えがあります。

古くからの教えで、聖人と呼ばれる人の振る舞いや成果が伝えられています。

こうした方々の人格や能力は、全ての人に間違いなく眠っていますよ。

そして、けっこうな数の人が人生の中で獲得しています。

人間の脳の構造上、それほど珍しいことじゃないんです。



では、聖人と言うのはなんでしょう?

だいたい分かってきたのは、聖人と言うのは、成人のことのようです。

体の構造から言いますと、

人間のもつ大脳が活動し、ちゃんと統合された健全(=正常)な状態ですね。

他の生き物と違った特質です。


例えば、

成虫、成魚、成鳥、成獣、などと言う言葉がありますよね。

成人と言うのは、それと同じ意味です。

ではどんな特徴があるのか?

ここで、振る舞いや能力に関してイメージすれば、聖人と言うことなんでしょう。

例えば、聖人に近い行動や考えをすると、大人っぽいと感じますよね。

これが目指すべき状態と言う事を、皆が本能的に知っていると言う事でしょう。


そして魚類が、卵から成魚になる率が大変低いのはご存知ですよね?

人間も、脳の中身が成人する率は他の生物と同じくらい低いはずです。

なので、一般に言う普通の大人と言うのは、

普遍的であると言う意味でしかなく、正常であると言う意味にはなりません。

鳥が飛ぶように、人間に備わった機能を獲得した人は、それほどいないはずです。

成魚に成れない魚卵の数だけいても、不思議じゃないと思います。


この考えも、私だけではなく、多くの大人が気がついています。

A・E・ヴァン・ヴォークトと言う海外のSF作家さんがいました。

彼の書いた小説は、そうした内容を色濃く反映していましたよ。

また主人公に関しては、

大脳が本当に活動し始めたときの、人格、思考、行動を表現しています。

ですので、彼も知っており、そうなんでしょう。



さて、成人するのは大脳の構造上可能であると述べました。

実は非常に簡単な論理なんです。


人間の脳には、”慣れる”と言う機能があり、とても強力です。

例えば、動物にとってもっともストレスを感じるものの一つに、

排泄行為がありますよね。

ここでなんと人はトイレに行くんですよ。

動物としては、ほぼ不可能に思える離れ業でしょう。

これも、一日に3回以上いくと思います。

1年で1,000回。30年で3万回以上でしょう。

そうなった後は、トイレにいかず、その場で排泄するほうが苦痛になります。

おかしいでしょ?

生きているだけで、どんどんそうなっていくはずです。

いつからそうなったのか?

トイレに行くようになって10年くらいでしょうか。

つまり、1万回ほど繰り返すと最初の感じ方とは逆になってしまうんですよ。

その過程であっても、最初の数十回よりは楽にこなしているでしょう。


私たちの脳は、

コンピューターと同じようにソフトウェアをダウンロードできるわけです。

お手本さえあれば何にでも成れると言う事が保障されています。

(最初の数十回を乗り切ればいいだけ)

その取り組みが、技術や芸術などのスキルであっても良いし、

体を使うものであっても良いわけです。


勿論、人としてのあり方であっても良いです。

大事なのは、取り組みを一つに決めず、同時並行で継続することでしょう。

そして採用するものは、最良のモノ(そのジャンルでもっとも優れているお手本)を選ぶこと。

(変な癖をつけますと、変更するのに10年掛かります。

 子供に道徳を教える意味がわかりましたでしょうか。)

最初の数十回が苦痛であるだけであり、後は、生きているだけで上達します。

トイレと同じ論法です。


ここで聖人の手本はどこで手に入るか気に成りますよね?


実は大変身近にあります。

私たちの脳の大事な働きとして、体内を制御する機能があります。


例えば、

「とても善良な人が、悪意に満ちた人に傷つけられた。」

とします。

あなたはどう考えますか?

怒りますか? 悪意に満ちた人を罰しますか?

それとも更正を望みますか?

これらを考えると意見が分かれますよね。


しかし、

「あなたの体のとても正常な臓器が、あなたの体の異常な臓器のせいで

 傷ついたとします。

 あなたならどうしますか?」

と質問をしなおすと、誰もが同じ答えを出すでしょう。

「何とかすべてを治すわけにはいかないでしょうか?

 お願いします。不摂生については努力して対処しますから。」

と深刻な思いで述べるんじゃないですか?

「そんな悪い臓器、殺してしまってください。」

と言う人はいませんよね。



そこで一つ助言です。

人から”どう見えるか”を考えるのは良いことですが、最良のお手本ではないとしましょう。

もう一歩進めて考えましょう。

「自分と周囲を自分の体内と捉える。」

自分の体内で起きてほしい事、

仕方なく起きた望ましくない事、

そのときに思うこと。

これを周囲や世界に対して同じように適用する習慣(トイレと同じように一日3回程度)

とするのはいかがでしょうか?

年を重ねれば、自分の考えや主張は聖人に近づくはずです。


人付き合いに関しては、

自分の体内にある細胞が他の細胞と関係し・・・・となった。

とケースを変えて捉えます。

例えば、悩んで自殺しようと言う細胞が自分の体内で多発したらどうします?

困りますよね。

「それも殺人と同じように罪だ。俺の困り具合は同じだ。」

と言いたくなりますよね。

過去の聖人の発言、すべてはそう言う事です。


以上、ご参考になれば。
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誰でも少なからず持ち合わせています。


でも、異常に神経質になるとそれはまさに病的というもので、日常生活もできなくなってしまい、精神科の治療が必要となります。
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指摘されたら気を付ける、気持ち悪いとかは、人の好みだからしょうがないので、気にしないで、気持ちを切り替えていった方がいいのでは。

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