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東日本が名馬の産地で、そこを根城とした勢力が騎馬戦術が得意だったのは、北方民族との交易が盛んだったからでしょうか?騎馬民族がサハリンやカムチャツカ半島経由で馬を北海道や東北に持ち運び、騎馬戦術を伝えたのだと思います。奥州藤原氏もその影響で強大な騎馬軍団を持ち、朝廷を恐れさせ、源義経もその奥州藤原氏から騎馬戦術を会得し、騎馬戦術を持ち得ていない平家を打ち破ったのではないでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    騎馬民族とは、高句麗・鮮卑・東胡・匈奴等で、その他ロシア沿海州の民族を指しています。蝦夷は騎馬戦術が得意だったということから、それ以前の高句麗が満州に存在していた頃に馬が伝わったのではないかと思います。馬は平熱が約38度と体温が高く、暑さに弱く寒さに強いので、サハリンやカムチャツカの寒さは平気なのではないかと思います。ただし、問題は飼料をどう調達するかですが、これは私も検討がつきません。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/24 15:46
  • うーん・・・

    回答していただき、ありがとうございます。
    1)蝦夷は騎馬戦術が得意だった件
    蝦夷は騎射が得意で、彼らの騎射技術や用いていた蕨手刀が、後に武士の騎射技術や日本刀になったという説が近年有力になっています。
    馬の牧場も、東北や関東に集中していたそうです。

    2)義経が源平合戦で用いた騎馬戦術
    日露戦争で活躍し、「近代日本騎兵の父」と称される秋山好古は、義経を「日本で騎兵を最も有効に活用した武将」と称しています。その例が「一の谷の戦い」と「屋島の戦い」です。騎兵が持つ機動力を最大限活用して敵の背後に回り、急襲するというものです。これらの戦術は、鞍馬寺を出て東北に向かった際に、蝦夷の戦術を引き継いだ奥州藤原氏から学んだと言われています。

    私は騎馬隊が大好きで、東日本の騎馬の歴史に憧れています。西日本の出身なので、コンプレックスを感じます。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/24 21:42

A 回答 (4件)

群馬県にある弥生時代の遺跡から、彼らが馬を扱っていたこと、その馬と人が長野県からやってきたことが分かっています。

弥生時代に、馬と人が、文化と共に東に広がっていったと考えられます。
もともと騎馬民族が影響していると思います。ただし、それは日本全土です。
西側ではその後も海洋文化や大陸文化が発展していきます。そのため、騎馬文化が薄れていった。
逆に新しい文化が伝播しづらかった東では、騎馬文化が発展していったのだと思います。
蕨手刀ももともとは日本刀と由来を同じにします。アナトリア高原の製鉄に行き着くからです。
でも蕨手刀からは日本刀はできないと、個人的には思います。コピー品はコピー品でしかないのです。
神話の中でイザナギとイザナミは高天原から来たということになっています。そして草薙の剣のもとになったと思われる天叢雲剣はその名が示すとおり、高天原で作られた鋼の剣だと思われます。
高天原には製鉄技術があり、それをもった人達が日本神話とともにやってきているのです。そして高天原の人達が移り住んだとされる場所で日本刀が産まれているので、そういうことだと思います。
義経の時代以降に、元冠といって、最強の騎馬民族が数万人規模で日本に攻めてきていますが(半分は高句麗の連中でしょうが)、まったく日本に歯が立たなかった様子です。武器や戦術の文明レベルがね、当時にして日本のほうが圧倒的に上でした。
日本で騎馬戦術に優れている人がいるとすれば、それはそれなりに努力したのでしょうね。
そして騎馬戦術にやぶれた人がいるとすれば、ただたんに弱かっただけだと思います。
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#2です。


>彼らの騎射技術や用いていた蕨手刀が、後に武士の騎射技術や日本刀になったという説が近年有力
そうなのですか?そのような痕跡や証拠類があるのですか?浅学なもので、「ああそうですか」と思うだけで、しっくりこないのは私だけですかね。
>「一の谷の戦い」と「屋島の戦い」です。
>騎兵が持つ機動力を最大限活用して敵の背後に回り、急襲するというものです
「一の谷の戦い」とは、例の鵯越のことですか?これって騎馬戦ではないですよね。確かに機動力を生かしたことには違いないですが。
でもこの急襲は、頼朝の命令に反した行動でありましたよね。

「屋島の戦い」は海上の戦いではなかったですか?どのあたりに騎馬が活躍したのでしょう?

当時の馬は、今のサラブレッド系の馬ではなくて、日本古来の固有種ですよね。小柄なポニーくらいの馬。現在の木曽馬なんかが血をつないでいるといわれていますが。
もっと時代が下っても、馬は大きくなっていない。小柄な馬だった。騎馬武者は戦場まで馬で行くが、戦いは馬を下りて戦ったようだと聞いていますが、いかがですか?
小柄な馬なので、それに鎧をつけた騎馬武者は相当な重さであった。馬は疾走すれども、人が走ってついて行けるほどであったともきいています。
そういう状況で、騎馬戦などできるわけが無いと思いますが、どうですか?
前述しましたように、私は専門家でもなんでもなく、聞きかじりの浅学なものですので、わかりやすい説明をお願いしたいと思います。
よろしくご教授ください。
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お話としては面白いですね。


>蝦夷は騎馬戦術が得意だったということから、
本当に得意だったのですか?
そうなら、前九年の役後三年の役の勝敗は逆になっているはずだと思いますが、いかがですか?

>源義経もその奥州藤原氏から騎馬戦術を会得し、騎馬戦術を持ち得ていない平家を打ち破った
源平の戦いで騎馬戦はあったのですか?
平家は海戦を挑んでいたという記憶があるのですが。
この回答への補足あり
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まぁ仮説としては面白いかも知れないが



騎馬民族とは具体的にどこの?いつ頃?
サハリンやカムチャツカでは、冬期が厳しすぎて馬は飼育できないでしょ
それとも、春から秋の数ヶ月間でぐるっと移動したの?
それはちょっと・・・・
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