
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
源義仲の最後は、現在の大津市での討ち死にです。
その際巴御前は同行せず、別の場所で捕らえられ、その武将の妻となり、生き永らえます。頼朝の従兄当たる木曽義仲は、木曽で挙兵をして、北陸の平家を追い払い、倶利伽羅峠の合戦で大勝します。あの牛の角に松明を括り付け、平家軍に突入させたこの合戦で敗れた平家は、敗走し京都をも退去し福原に陣をかまえます。そして京都へなだれ込んだ木曽義仲の軍は、近畿地方の飢饉による食糧不足に直面するのです。彼につけられた旭日将軍の名も、飢饉にはまるで歯が立ちません。情報不足と言うしか有りません。
食料調達に苦しんだ挙句、木曽軍は略奪を始め、宮廷や源氏の武将達の信頼を失います。そして悪い事には、西国へ平家を追った主力軍は、水島で大敗北をします。これらの不運により、後白河上皇は、義仲追い出しを計画するのです。そして密かに頼朝を許し、義仲追討を命じます。義経は少数の兵士と共に大津に着陣しますが、義仲軍を攻撃はせず、範頼の主力を待ちます。
八方塞がりの義仲は、後白河法皇軍を蹴散らし、幽閉し、頼朝軍と開戦します。しかし主力を失った悲しさ、瀬田で負け、義経軍の奮戦で宇治川でも負けます。少数の側近と落ち延びようとするのですが、粟津で打ち取られるのです。享年31歳と伝えられています。短期間の京都占領は、明智光秀と対比されますが、気性の荒い彼は木曽の山猿と馬鹿にされたのです。
No.1
- 回答日時:
説明って…(苦笑)
下記で勉強しましょう。
http://manapedia.jp/m/text/1909
でも義仲は好きな武将なのでちょっと回答。
木曾義仲は最期の戦で、家臣の今井四郎兼平とついに二騎だけになり、「日頃は何とも感じなかった鎧が、今日は重く感じる。」と弱音を吐きます。
そんな様子をみた兼平が、義仲に自害を勧めます。義仲は腹心の部下である兼平と伴に討死を望みますが、自分が盾になり殿をお守りするので、不名誉な死ではなく、粟津の松原でふさわしい死を遂げるよう再三促し、義仲もそうしようと決意した直後、敵に見つかり、あえなく義仲は討たれてしまいます。
兼平は「殿が討たれた今、もう何も思い残す事はない。見るがいい。これが東(関東)の武士の死に方よ。」と言って刀を口に突き刺し、馬から落ちて壮絶な自害をします。
因みに木曾義仲は平家物語では田舎の無骨者だと悪者扱いされていますが、この時代の源氏の中では1番のイケメンでした。
最期の戦いにも愛妾である巴御前が付き添って戦っていましたが、「女と一緒には死ねない。」と突き放すような事を言って、その実彼女に逃げて生き延びるように命じたのです。
兼平との美しい師弟愛も泣けます。
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