認識論というものの存在を知ったのは実は数か月前のことで、その概要を
知って尋常でない興味を持ち勉強を少しづつやっていた矢先に、認識形式
とかカントのコペルニクス的転回等の質問がありました。
そして、私なりに順を追って理解したいと思い、質問をさせていただきま
した。
1.合理論と経験論の欠陥について。
2.1に対するカントの哲学の優位性について。
3.ニコライ・ハルトマンの認識形而上学の概要を教えて下さい。
4.主観と客観が一致するという仏教の依正不二について概要を教えて下さい。
5.認識とは何ぞや?
どれか一つでも結構ですし、学問の枠に収まらない持論でも結構です。
よろしくお願いいたします。
No.2
- 回答日時:
5.認識とは何か
クォーラの方で、"哲学概念はほとんどの人に誤解されている"と言う記述を読みました。多分そうだろうなと思いました。
当然私もこのほとんどの人の内に入っている可能性が高いので、ここでは哲学概念を説明するのではなく、哲学概念の説明を聞いて受けた印象を元に話してみます。
==========================
認識した対象達によって、一つの世界が構築されています。そして、その対象達を造成しているのが認識形式であり、人は認識形式を変える事によって、言わば住む世界を変えることが出来る、と言う事でしょう。
これは例えば簡単に言うと、人が子どもから大人になると、世界が変わります。子供の時には見えなかったことが見えるようになり、聞こえなかった事が聞こえるようになります。もちろん、素の視力や聴力は子ども時代の方が優れていたかも知れませんが。子どもから大人になる過程で認識形式とそれを起動している主体が変わったので、子ども時代と同じ地球、同じ国、同じ地域にに住んでいても、住む世界は変わったのです。
また、何か勉学に打ち込んで、知学に研鑽を積むと、見えなかったものが見えて来ます。同じ言葉でも、現象でも、鋭敏な意味や深い価値を持って見えたり聞こえたりするようになる。これは認識形式が高度に構造化したり洗練されたりしたからだと考えられます。
古い時代には、情報は物自体から与えられるものでありました。時代が下るにつれ、実は認識対象にこちらから情報を与えている事が知られるようになったのでは無いか?
例えば地学の知識を僅かに身につけた人が、ある石ころを見てそれを石炭だと認識する。次にまた別の石ころを見て、"これは知らない石だ"と認識する。そして、これはもしかしたら何かの鉱石かも知れないと思う。
もし、石ころを石ころとしか見れない人ならばそれ以上のことは何も無い。しかし、鉱石の存在を一つでも知っている人ならば、そのただの石ころに、何かの石である可能性を与えることができる。何かである可能性を見出すことが出来る。この、知識や経験の差異が生み出した認識経路?認識形式?の違いによって、ただの石ころはただの石ころで終わらず鉄鉱石で在ったりすることができる。
さらに進むと、この世に只の〇〇などは無いのではないか?と問えるようになり、この世はあるがままにあるのではないのだと言う認識に至る。ここに世界は新たに開拓されたのであり、世界のレイヤーが一つ増えたのであり、太陽系が発見されたが如く、人間の視野は1レベル向上したのだと言える。コペルニクス的転回のすごいところは、地球が中心ではなく太陽が中心である事によって世界が広がった事にあります。
認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う事によって、人間の自由は一段飛躍したのです。世界を新たに一つ発見したのと同じです。しかもこの発見は、色で例えるなら新しい色味の発見ではなく新しい原色の発見だと言えるでしょう。なぜなら、認識形式の多様性は即ち世界の多様性であり、それは一つの原色が他の原色と混ざり合う事で無数の色彩を生む事に似ています。
住む世界が変わると生き方が変わる、しかも人間の側から変えることが出来る。そしてその証拠に、現代、人間は明らかに住む世界を変えている。カントのメタ的な観察眼によって導かれた説が、実際に起こっていることを説明するのに適合している事実から、それを哲学史に残る一大業績であると言うのに無理はないだろうと思いました。
自分的にも、穴を埋めるためにも一つ例を挙げます。
りんごの置物があるとします。ある人がそれを本物のリンゴだと思ってかじったら、歯が欠けた。もし、人があるがままを認識していたら、この様な事態は避けられたはずです。しかし、認識形式の造成した認識対象を見ているので、誤ってかじってしまった。
更に進んで、この作り物のリンゴが、硬さも味も匂いも本物のようである、栄養だけが無い偽物だったとしたら、これをかじった人の歯も欠けず、これが偽物だと気がつくのはもっと遅くなる。
もっと進んで、更に栄養もある作り物のリンゴだとしたら、この偽物のリンゴと本物のリンゴと見分けるのは難しくなる。この時、本物のリンゴってそもそも何なのか?と問えば、人がそれをリンゴと認識したものが、それであるという事になる。
つまり、はじめの硬いリンゴの置物も、かじりさえしなければそれを本物のリンゴとして認識していた人にとっては、本物のリンゴだっただろう。そして、それで問題無いのである。例えがリンゴの場合は。
しかし、もし、この世の全てが作り物の偽物だとしたらどうだろう。五感と意識の全てにおいて、それがあたかも存在するかのような感覚を与えるだけのものだとしたら。この時、感覚だけの代物と、確かに存在するものを判別する能力が人間には無い。
そしてそれでも問題無いのである。例えが存在であるなら。
では、この"在るとする感覚"とは一体なんであるのか。もしこれを人間の側でどうにかすることができたなら、コペルニクス的転回がもう一度起こる。映画マトリックスのような世界になる。
物を在らしめる力は存在するのか?それは手に入るのか?という話にもなる。
この世は"作られた世界"なのか、それとも"在った世界"なのか。
作られた世界であるとするのが、妥当な気はする。
盛りだくさんの内容で、一度に対応できそうにありません。
哲学概念はほとんどの人に誤解されている、と私も思います。宗教もしかり。
それは、その結論において論理的に証明のしようのない分野であるので、どうしても
独我論的になってしまうということなのでしょう。
結局は、人間の幸せに「役に立つ」か否かという点において吟味してゆく以外にない
のだろうと思います。
哲学・宗教(信仰)は人間と切っても切り離せない存在であると思います。一人の人間の
思考を遡ってゆけば、最後は何かを信じているということになるはずだと思うからです。
時空の概念をはじめとした先天的認識形式と、学ぶことによる後天的なものとが織りな
されてその人独自のものが作られてゆく…
簡単に言えばカントはそういうことを言っているのでしょうが、認識形式ってなにかと
考えてみると、その人の思考の骨格…つまり哲学…それはおそらく論理的証明のできな
いものですから…要はその人が信じているもの…そこにつながってくると思います。
信仰の話にもってゆきたくてしょうがないというわけではないのですが(笑)。
例えば仏教の「一念」とカントの「物自体」とハルさんの「存在性」とキサラギさんの
「言葉」は、私にとって強い共通点を感じています。
つまり、森羅万象の奥に何らかの法則・摂理の存在を信じている、ということで、また
これはほとんどの人が持っているものではないかと考えています。
これは、経験上そういえるというもので、子供から青年期に至るまではなんとなく信じ
ていて大人になると次第に忘れられてゆく、先天的な認識形式なのではないかと。
No.4
- 回答日時:
簡単な説明では無理かと思います
認識とは、生命を司る五陰の過程の一つです
生命を構成する五つの要素。。物質的側面の色[しき]陰と、精神的側面の受[じゅ]陰・想[そう]陰・行[ぎょう]陰・識[しき]陰をいう。陰・蘊は集まり、構成要素の意です。
①色陰とは、肉体などの色形に現れている物質的・現象的側面をいう。②受陰とは、六つの知覚器官である六根[ろっこん](眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)がそれぞれの対象となる色(色・形)・声(音声)・香・味・触(寒暖・柔軟などの物質の触覚)に触れて生じる感覚をいう。③想陰とは、受け入れた知覚をまとめあげ、事物の像(イメージ)を心に想い浮かべる作用をいう。④行陰とは、想陰でできた像を整え完成させる作用であり、またそれとともに生じる種々の心の作用をいう。⑤識陰とは、受・想・行に基づきながら、ものごとを認識し他のものと識別し判断する心の作用をいう。また受・想・行の作用を起こす根本となる心の中心的な働きとされ、心王とされる。これに対して受・想・行は、それにしたがう心所・心数とされる。この識はさらに深く探究され、種々に区別されます。
九識論に更に詳しくあります
依正不二論も、大変深く、基礎知識がないと分からないとおもいますが
正報とは生を営む主体である衆生をいい、依報とは衆生が生を営むための依り所となる環境・国土をいう。依報・正報の「報」とは、「報い」の意。善悪さまざまな行為(業)という因によって、苦楽を生み出す影響力が生命に果として刻まれ、それがやがてきっかけを得て現実に報いとなって現れる。過去の行為の果報を現在に受けている主体であるので、衆生を正報という。それぞれの主体が生を営む環境・国土は、それぞれの衆生がその報いを受けるためのよりどころであるので、環境・国土を依報という。環境・国土によって衆生の生命が形成され、また衆生の働きによって環境・国土の様相も変化し、この両者の関係は不可分であると言う事です。
仏教の生命論は深く
生命活動を 立体的 流動的にとらえた十界互具論
生命の機能 本体 可能性 を説いた十如是論
個性化の原理を説いた 五陰世間
深層を解明した 九識論 があります
十界論
http://rokusann.sakura.ne.jp/access.html
大乗仏教の哲学は、初級者である私にとっても、その深さを感じて余りあるもの
で、そう簡単には理解できるものではないと腹をくくっているつもりです。
さて、五陰とは「生命を構成する五つの要素」ということですが、これは五陰仮
和合ということですね?この五つの集まりが、更に集まっているという。
色は物質つまり肉体ですから、一往分かります。
心・精神が心王(本体)としての「識」と、その働きである「受」「想」「行」の
四つで構成されている、と。
逆に言えば心と言うものは、この四つしかない、と言えるということですね?も
っと色々持っているように思えますが。
また、この四つしかないということが、とても分かりやすい考え方にも思えます。
そして「識」は更に九つに分類できるということですね?
西洋哲学でいう「認識」とは、この「識」の働きの内であるという風に理解できま
す。
No.5
- 回答日時:
1.YOU TUBEで見たのですが 合理論は合理の初めにあるべき真実・真理が人間には分からない。
人間は必ず死ぬ ソクラテスは人間だ ソクラテスは必ず死ぬ と言う合理論の
初めの仮定が真理かどうか 厳密に言うと分からない。我思う故に我在り も批判が多いそうです。
経験論は 幾ら経験を積んでも、何時か未来にその論を破る事実が出た時に その論は偽だとなる様です。
2以降は勉強中で この質問の答えを楽しみにしています。
まあ、私も勉強を始めたばかりなのですが、カントの認識論とは、経験論のように
対象物そのものを認識するというのではなく、時間と空間という先天的直観形式に
よって対象を把握し、量、質、関係、様相などの十二の思考形式によって概念を形
成し、それを認識する、と。
このことが、「対象が認識に従う」という表現になったのだと思います。経験論は
逆ですね。
しかし、カントを理解するには、私などはまだまだ思索が足りなすぎるのでしょう。
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
1.合理論の欠点→合理性を保証する存在が必要になる。
(もしくは、合理性を確証する原理が必要になる)経験論の欠点→経験のみで、全ての現象が把握できる理由がわからない。(経験を現象として、無条件に承認する必要がある。
2.カントの優位性
現象の把握は、感性と悟性によりなされ、それはアプリオリに与えられていると判断。(合理性と現象(経験)は、無条件に保証される)
現象(経験)により、純粋理性が、その合理的判断を行う事が可能になる。
つまり、合理論と経験論の欠点を解消できる。
ただし、純粋理性だけでは、判断不可能な問題は残る。
3.ニコライ・ハルトマンの認識形而上学
ニコライ・ハルトマンは、認識を、心理学的、論理学的、存在論的、認識論的の4種類に分類し、それを階層的に分析しています。 認識に関して、知覚レベルまで含めるとすれば、カント的な受動的感性が要求する「物自体」の存在の知覚による情動が、その実在性の根拠となると考えています。 また、最終的な認識論において、存在論は、分離不可能なので、形而上学として、認識論を考えるしかないと判断します。
つまり、カントが「純粋理性批判」において、純粋理性では判断不可能と考えた、形而上の問題を解決しなければ、認識論は成り立たないと言う事になります。
4.これは、他の回答者の回答のとおり、主観と客観の問題では無いと思います。(仏教的な縁起の問題でしょう)
5.認識とは、ある対象に対する、合理的な解釈が結果となる、過程と言えます。 カントにおいては、現象の純粋理性による解釈と、実践理性による解釈があります。
どちらにしろ、我々が、現象をどのように解釈するかと言う問題になります。(形而上学的問題と考えれば、現象を与える、人間の認識の外の存在への解釈も含む事になります)
多少、誤解されている人もいるかもしれませんが、哲学者のほとんどは、人間が把握する「現象」は、ほとんどの人で同じと考えています。(カントが、悟性と理性を分けたのは、その為です)
後は、現象の理解が、人によって変わると言う事です。
良くないたとえですが、ある映画を、複数の人が見た場合、現象(あらすじ)は、同じでも、現象の関連性の解釈は異なる場合があります。
また、その映画の製作者が意図した理解を観客が得ない場合も多いでしょう。(これは、観客に与える現象が適切で無かったり、曖昧である場合によくあります)
この場合は、はたして、「真理」や「真実」とは、何でしょうか?
製作者の意図でしょうか?、それとも観客が受けた印象でしょうか?
どちらでも、変わらない「真実」とは、映像だけとしか言えないでしょう。
つまり、我々にとっては、「現象」のみしか「真実」と言えないと言う事です。(その裏に隠された意図があったとしても、わかりません)
物理学者が、物理的法則が、宇宙全般で一般的に成り立つと考える根拠は、宇宙が均一であり、特別な局所性は無いと言う概念に基づいています。(宗教の場合は、地球や、太陽、人間、その他の惑星などを特別な存在と考える場合があります)
これも、一つの観念にしか過ぎませんが、実験や観測により、成り立つ範囲を検証しようとします。(これが、科学と言う事です)
もう少し勉強しないとピンとこないようですね。
>現象の把握は、感性と悟性によりなされ、それはアプリオリに与えられていると判断
すると、何故
>合理性と現象(経験)は、無条件に保証される
のか?このあたりの論理がよくわからないです。
(こういうことが知りたいと思っていたことの一つなのですが)
ニコライ・ハルトマンについては、論文を見つけたのですが、とても私の手に負えるも
のではありませんでした。
ご回答も難しいですが、なるほどと思うところもありました。
このあたりのことを理解するには、当然それなりの訓練が必要ですね。
依正不二については、いただいた回答にあるように、正報と依報は因果関係と言えるの
ですが、「不二」ということは「不可分」というよりも「合一」という風に理解してい
ます。
妙楽が「十不二論」を立てているということです。この「不二」という原理こそ生命と
いうもの理解する大きな鍵の一つではないかと踏んでいます。
このことは№4の方に返信すべき内容でした。
仏教を哲学的に理解したいというのが私の一つの目標なのですが、この調子だと随分時
間がかかりそうですね。
>哲学者のほとんどは、人間が把握する「現象」は、ほとんどの人で同じと考えています
なるほど。
>我々にとっては、「現象」のみしか「真実」と言えないと言う事です
客観性がなければならないということですね。
No.9
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
感性と悟性がアプリオリ(経験によらず与えられているもの)ならば、それは経験によらず共通に与えられている能力となります。
したがって、その共通性により、合理性が確保される事になると考えられると言う事です。(共通性として、客観的と考えられると言う事です)
例としては、以下のとおりとなります。
〇として悟性に与えられる知覚→感性(空間と時間性の付与)→悟性(〇として識別)
カントは、ここまでの過程は、人間がアプリオリに持つ能力と考えました。
多少の差はあっても、〇は〇として、ほとんどの人が識別できると言う事です。
次に、理性が経験などの学習により、〇→丸に言語化します。(英語の場合は、〇→Circleとなる事になります)
上記の例は、物体の言語によるラベル化ですが、理性は、悟性が捉えたもの以外も考えられます。
概念だけの存在も、理性は考える事ができるので、ある現象の認識は、物体の空間的、時間的位置、概念などで、複合的に行われる事になります。
簡単な例としては、「太陽が東からのぼって、西に沈む」と言う、悟性が捉える現象を考えます。(太陽と書いていますが、この段階では、太陽は、言語化はされず、太陽としてカテゴライズされていると考えてください)
認識1→太陽が、地面の上の天空を運動していて、それは東から西である。
認識2→地球が自転しているので、見かけ上、太陽が東から西へ運動しているように感じる。
この認識の違いは、経験から得られる理性により起きています。
この二つの認識は、それぞれの認識を持つ人にとって、それぞれ客観的な事実となります。
カントは、アプリオリな能力で得られた結果は、客観的と考えられる根拠となると判断しました。(一般の人は、このような理由を考えなくても、自分が見たものは、幻覚でなければ、客観的な事実と判断します)
カントは、「純粋理性批判」において、客観的と見なす根拠は、どこにあるかを、分析しました。
重要なのは、客観的とは何かと言う事です。(真の「客観」は、単独の人間では得られないし、検証も不能な事に注意してください)
したがって、カントは、「純粋理性批判」において、「真実」とか、「真理」とかは問題にしていません。(そのような分からない事は、検証できないので、意味が無いからです)
検証の結果、純粋理性だけでは、客観性が判断出来ない問題が存在する事を示唆しました。(つまり、純粋理性だけでは、実用的(実践的)な判断は不可能な場合があると言う事です)
ここにおいて、「客観的」とは、ある現象が、客観的な事実として、認識できる根拠が明らかに出来る事です。(「真実」とか「真理」は、誰も検証できないので、無意味です)
カントが用いている「感性」と言う言葉は、一般的な感性をかなり限定している事に注意してください。(これを、感情的な感覚を含む感性として、解釈すると、間違った理解になってしまいます)
例えが悪いですが、視覚に関して言えば、視覚の歪みや解像度は、人間の肉体的な条件で制約されます。
一応、一般的な視力を持っている場合は、〇を丸として認識できるはずです。
この視覚の情報を、〇として悟性に与える能力が、カントの言う「感性」と考えてください。
人間は、視界の3次元認識において、垂直方向の距離感覚と水平方向の距離感覚に違いがありますが、これは、人間の感性の違いと考えても構わないでしょう。
もちろん、他の生物は、人間とは違う感性を持っていると考えた方が普通です。(馬の視覚は、直接わかりませんが、目の物理的配置から、人間の空間認識とは違うのは確かでしょう)
少なくとも、カントの場合は、「感性」や「悟性」は、人間では、ほぼ共通と考えています。(個人差はありますが、〇を△と見るほどの違いは無いでしょう)
あくまで、現象の「感性」による「直観」(これは、悟性に与える情報が変化せずに与えられると言う意味の直観です)までは、アプリオリに与えられているし、その空間・時間展開もアプリオリに与えられていると、カントは考えています。
悟性までの、現象把握は、これでかまいませんが、理性の現象解釈に関しても、カントは経験によらない、アプリオリな判断が可能なものがあると考えました。
それを、経験によらず判断可能な、純粋数学的概念などとして、例示したわけです。(これは、形式科学としての数学としては、アプリオリとは言えないものも含んでいます)
現代では、数学は、形式科学として成立しているので、「真理」などとは、無関係となりましたが、一定の形式の中では、成立できると言う限定性では、アプリオリと考える事は可能です。(人間の空間認識が、ユークリッド空間に限られるのであれば、ユークリッドの原論で公理とされている事は、アプリオリと見なせる)
カントの「純粋理性批判」において、重要なのは、何がアプリオリと見なせるかと言う事です。
アプリオリは、「客観性」の根拠となるだけで、「客観」とか「真理」などとは、無関係な事に注意してください。(カントにおいては、それを把握できるのは、「叡智」もしくは「英知」だけですから、人間の認識を超越しています)
カントの「純粋理性批判」で、「客観」や「真理」がわかると考えるのは、間違いです。(それが、与えるのは、人間の「認識」において、「客観性」を与える「根拠」は、何が考えられるかと言う、ケーススタディです)
なんだかんだで、お礼の返信が遅くなってしまいました。
勉強になります。
今は変にひねって考えたりせずに、カントという哲学者がどう考えたのかということを
キチンと理解したいと思います。
この機会にカントの哲学というものを勉強しながら、哲学という学問そのものを知って
ゆきたいと思います。
No.10
- 回答日時:
補足ですが、回答で記載した「現象」は、物理的(空間・時間的)な「現象」のみと考えてください。
基本的には、感情などを交えた心的現象は含んでいないと言う事です。(こう限定しないと、個人差が大きくなって、共通の現象把握能力としての、「感性」・「悟性」がアプリオリに与えられたものとして見なせなくなります)
物理的現象を人間が共通の「現象」として把握可能であれば、それを生み出す「感性」・「悟性」は、共通の現象把握として、アプリオリな能力と見なす事が可能となります。
物理的現象の、理性による「認識」は、経験による学習により異なる事になります。(これが、「対象は、認識にしたがう」と言う事です)
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