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昔のヨーロッパでは残虐な方法で殺戮をする魔女狩りというものが流行りましたよね。そこで質問なのですが、アメリカが日本に原爆を落としたことを正しいと言う人がいるように、魔女狩りを正当化するヨーロッパ人はいますか?もしいるのならその数はどれぐらいなのでしょうか?

また、魔女狩りが与えた大航海時代への影響はどんなものがありましたか?海賊や政府とかと関連したものがあれば教えていただきたいです。

A 回答 (3件)

>魔女狩りを正当化するヨーロッパ人はいますか?



変わり者はどこの世界にもいるでしょうが、一般的にその様な人は皆無かと憶測します。
理由は現在のヨーロッパ人の価値観は、その様な魔女狩りをするような野蛮な宗教価値観から脱却して勝利した人たちによって作られたからです。これは、人権思想の誕生にも関わっていきます。原爆投下は、アメリカは戦争に勝った側ですので「勝てば官軍」のごとく自己正当化が可能ですが、魔女狩りを正当化する側は負けているので状況が全く異なります。



具体的には、30年戦争で勝負が決しました。30年戦争は、野蛮な宗教価値観から脱しようとする者と、伝統的な宗教価値観を守ろうとする者との総決算です。最終的に野蛮な宗教価値観から抜け出そうとする勢力が勝利し、現在のヨーロッパ社会が作られました。

このような前近代の野蛮な宗教価値観から脱する事を、近代化と呼びます。
現在のヨーロッパ人は、プロテスタントもカトリックも近代化されているので、魔女狩りを肯定するような価値観を持っている人は皆無と思われます。


勿論、魔女狩りを正当化するような変わり者はどこの世界でもいるでしょう。
当時の価値観では魔女を処刑する事は正義でした。

その宗教価値観から抜け出せないものが、現代のヨーロッパにどれだけいるかは不明です。
地下にあるカルト宗教など、影で信仰している人たちでしょうか。どちらにしろ、かなり少ないかと思います。
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魔女狩りを正当化するからには魔女が実在することを認めることになるわけで…。


近代国家では相当にアレな人と見なされるでしょうね。

魔女というオカルトと原爆という近代兵器を同列に扱うのは流石に無理があるのでは。
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ローマカトリックは、その権力を守るため、都合の悪い聖書の解釈を禁じていました。

これが魔女狩りの原点です。不都合な人々は、男は反逆者女は魔女として処刑され、世の中から除去されたのです。あのジャンヌダルクでさえ、魔女のレッテルから逃れられず、時の権力者は教会と結び、魔女として処刑されたのです。

大航海時代は、ルネサンス後期にその兆しは始まり、新教がイギリスを制し、本格的に展開しました。コロンブスは教会の教えに逆らい、地球が丸い事を信じて、今の西インド諸島に到達しました。コロンブスの核心は、ギリシャの地図の写しを入手したとも言われていますが、本格的に教会に逆らうのは、マルティン・ルターの出現を待たねば成らなかったのです。

教会以外の者が金銀財宝をため込むのは、禁忌とされ挙って教会へ寄付させるのが長年の教会の方針でした。しかしルターは、拡大再生産をすることは、神へ仕える大切な事だと教え、それにより豊かな社会を実現することに繋がり、即ち神に敬虔に仕える道と説きました。この教えで、本格的な民族資本の蓄積が始まったのです。その結果、新教と旧教は血みどろの戦いを広げたのですが、拡大再生産即ち現代資本主義の原点であった新教派が勝利します。

クック艦長は、大航海時代の代表的航海者です。この頃の海賊は、最盛期を通り越し、奴隷商人がその中心でした。海賊の最盛期は、新教と旧教の争いの始まったころで、あのスペインの無敵艦隊がイギリスに押し寄せたころです。手漕ぎと櫂を用いたスペイン艦隊と異なり、奴隷の乗船していないイギリスは、風帆船が主力で劣勢でした。そこで海賊に敵性国の商船海軍を問わず襲う許可証を付与して私掠船として、海軍に繰り込んだのです。この私掠船は、アメリカ独立戦争を通じて、利用されてきたのです。私掠船を加えたイギリスは、その風帆船技術を駆使し、ヒット&アウェーで無敵艦隊を撃破したのです。捉えられれば、反逆者や魔女と同じように即処刑の海賊も、女王陛下のお墨付きがあれば、私掠船として堂々と表舞台で活躍しました。
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北枕で寝ると縁起が悪いという文化は間違いだった?

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Aベストアンサー

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Aベストアンサー

>これは、飢饉程ではないからでしょうか?

回答:程度の問題ではなく、飢饉ではないからです。


>江戸時代の4大飢饉と太平洋戦争中〜戦後の食料難を比べるとどちらが酷いのでしょうか?

どちらも生産量だけでなく流通の問題もあるので評価が困難です。

江戸時代:食料政策は藩レベルの内政の問題。
幕府であっても大名という「封建領主」の主権に無制限の介入はできない。
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幕府も緊急時の備えはしていたが、あくまでも幕府の領内の為。
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(ドッジ・ライン:GHQ経済顧問のジョゼフ・ドッジの立案、勧告により1949年に日本に実施された財政金融引き締め政策)

https://www.youtube.com/watch?v=ZaKDgB1IS0o
《6:25 27億円の裁判費用は日本政府が負担していた。
6:55 (昭和)21年の国家予算の32%は占領軍に払っていますからね。だから昭和21年に日本人はいきなり貧困に陥ったわけですよ》


【国民を飢えから救われた昭和天皇陛下】
https://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/44280253.html
昭和20年12月、宮城からお召しがあり、天皇からお言葉がありました。
「戦争で苦しんだ国民に、さらに餓死者を出すことは堪(た)え難い。皇室の御物(ぎょぶつ)の中には国際的価値のあるものもあると聞く。その目録を作製させたから、米国と話してこれを食糧に替えたい」との叡慮であられました。

>これは、飢饉程ではないからでしょうか?

回答:程度の問題ではなく、飢饉ではないからです。


>江戸時代の4大飢饉と太平洋戦争中〜戦後の食料難を比べるとどちらが酷いのでしょうか?

どちらも生産量だけでなく流通の問題もあるので評価が困難です。

江戸時代:食料政策は藩レベルの内政の問題。
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Aベストアンサー

戦争ではなく、一対一の決闘形式の斬り合い
ですね。

実際の記録をいくつか紹介します。


永遠に続くかと思われていたにらみ合いを
やって、その後双方が突進した、と思ったら
片方が倒れた。

エイヤ、と斬り込んだが、間合いが遠すぎて
届かず。
それどころが、自分の膝に斬りこんでしまった。

さあ、斬り合いだ、と思った瞬間、意識が遠のき、
相手がはるか遠くにいるように感じた。
気がついたら相手が倒れていた。

誰かが侵入したらしい。
刀を持って待ち伏せしていたが、無性に喉が
乾き、雑巾を入れたバケツの水を飲み干した。
相手はそのまま姿を見せず、逃走。

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緊張は極限状態に達します。
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久しぶりにるろうに剣心の実写版を観ましてですね、
「やっぱりアクションは凝っていて、大迫力やなあ」と感心しました。
 ↑
あんなアクロバット剣術など存在しません。
あれは映画用のただの見世物です。

下半身をしっかり大地に踏ん張っていなければ、
作用反作用の法則からいって、人を斬ることなど
不可能です。

戦争ではなく、一対一の決闘形式の斬り合い
ですね。

実際の記録をいくつか紹介します。


永遠に続くかと思われていたにらみ合いを
やって、その後双方が突進した、と思ったら
片方が倒れた。

エイヤ、と斬り込んだが、間合いが遠すぎて
届かず。
それどころが、自分の膝に斬りこんでしまった。

さあ、斬り合いだ、と思った瞬間、意識が遠のき、
相手がはるか遠くにいるように感じた。
気がついたら相手が倒れていた。

誰かが侵入したらしい。
刀を持って待ち伏せしていたが、無性に喉が
乾き、雑巾を入れた...続きを読む

Q薩長同盟について

大河ドラマ「西郷どん」をみていましたが、薩長同盟は倒幕を目指す西郷が坂本龍馬に頼んで長州の桂に面談を取り持ってもらっているストーリーでした。

一方何年か前の大河ドラマ「龍馬伝」では薩長同盟は坂本龍馬が倒幕の構想を考えその結果、薩摩と長州で手を結ばせる様に出ていました。

史実としては実際にはどうなんでしょうか?

最初の下関での面談を西郷がすっぽかしている事から見ても西郷(薩摩)や長州ははじめから乗る期では無く、坂本が半ば強引に薩長同盟を結ばせたように感じるのですが。

そうで無ければ、その後坂本が「寺田屋」で暗殺されかかるはずも無いと思いますし、詳しい方、教えていただけませんでしょうか。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

その辺は闇の中です。
というより、そういう核心を簡単に世間に漏らしてしまう人物に政治はできません。
なので真相に迫る客観的資料は皆無です。

前後の状況から、薩摩藩は第二次長州征伐で幕府に愛想を尽かし、薩英戦争で攘夷を捨てたと思われます。
しかし黒船以来の外国の脅威は変わらず存在し続けています。
ならば厳しい国際情勢の中で日本の独立を守るためには、思想や主義の隔たりは捨てて討幕勢力を大同団結し、革命を起こして新たな日本を作るしかない、
という結論には達していたようです。
ただしその後どちらが主導権を握って長州と仲直りし同盟を結ぶところまでこぎつけたか、それは資料がないため学問上の結論は得られていません。

学者はこういう場合「根拠が不十分なので推定不可能」というしかありません。
しかし作家には想像が許されています。
資料が語ってくれない闇の部分を自分のイマジネーションを生かして補う。
歴史小説はそうして作られます。

なお竜馬自体は勝の指示で動いていた節があり、そうであれば討幕派からすれば当然面白くありません。
当時流行した「天誅」の対象になるのは当然です。
しかしこれも確証がないため想像の範囲を超えません。

その辺は闇の中です。
というより、そういう核心を簡単に世間に漏らしてしまう人物に政治はできません。
なので真相に迫る客観的資料は皆無です。

前後の状況から、薩摩藩は第二次長州征伐で幕府に愛想を尽かし、薩英戦争で攘夷を捨てたと思われます。
しかし黒船以来の外国の脅威は変わらず存在し続けています。
ならば厳しい国際情勢の中で日本の独立を守るためには、思想や主義の隔たりは捨てて討幕勢力を大同団結し、革命を起こして新たな日本を作るしかない、
という結論には達していたようです。
ただしそ...続きを読む

Q平成初期、末期で携帯電話、ゲーム、車、PC等、さまざまな技術の進化がありました。 ですが江戸時代は鎖

平成初期、末期で携帯電話、ゲーム、車、PC等、さまざまな技術の進化がありました。

ですが江戸時代は鎖国の影響もあり、初期と末期ではあまり違いが見られません。農作業道具等、少しは進化していたのだとは思いますが、実際どの程度進化していたのか気になります。現代に例えると、2008年と2018年の10年間の進化くらいらでしょうか?

だとすると、仮に1850年に住んでる人が1650年に行ってもすぐ生活に馴染めるんですかね。

Aベストアンサー

江戸時代初期の、一人当たりGDPは5百ドルぐらいです。

それが末期だと740ドルぐらいになっています。

だから、1,5倍程度の技術進歩があった
のでしょう。




2008年と2018年の10年間の進化くらいらでしょうか?
  ↑
これだと10%にも満たないです。

一人当たりGDPで1,5倍を計算すれば
2018年と1987年程度の違いになります。

Q60代後半〜70代前半の方達に、「昔は貧しかった。スマホやゲームもない。今の若者が羨ましい。」 とよ

60代後半〜70代前半の方達に、「昔は貧しかった。スマホやゲームもない。今の若者が羨ましい。」
とよく言われます。

※「貧しかった」は戦後の混乱期を指します。今年81歳になる祖父に当時の苦しさを頻繁に聞かされてるんで、よく理解してます。

この世代は、スマホがない。ゲームがない。貧しい。と思って暮らしてたわけじゃありませんよね?存在を知らないし。戦前の記憶もないんですから。
戦後混乱期〜昭和30年頃の娯楽を調べてみると、その時代はその時代なりの娯楽を楽しんでおり、今に比べて大勢で仲良く遊ぶことが多く、私からすると羨ましいです。

今の若者達だって、これから技術の発達で50年後くらいには、もっと便利な暮らしが当たり前になって、今の暮らしが不便に感じる時が来ると思います。

だから、今の若者も60代後半〜70代前半の方達もお互い様。一緒だと思うんですが、間違ってるでしょうか?

Aベストアンサー

アラフィフです。親が戦中の生まれなので、質問者様の祖父と同じぐらいです。

私の親も「昔は貧しかった。お前たちはいいな」と言われました。確かにアラフィフとはいえ、いや今のねんだいだからこそ高度成長期からバブルの恩恵を受けた世代であるとはいえます。

また私の祖父(すでに他界しましたが、生きていれば110歳)も私に「昔は貧しかった・・」といいました。祖父は大正デモクラシーの豊かな時代に青春を過ごしているので、戦中生まれの父よりも豊かだったはずなのにです。

そしてアラフィフになって最近周りの人たちが「昔は良かった。今の若者は・・」と言いだし始めました。

個人的にはすごくイヤです。少なくとも私たちの世代はバブルの真っただ中でまだネットも携帯もない(出る直前)でしたが、それでもものすごく豊かだったしバカなこともたくさんやってきた世代だからです。

だから年寄りが「昔は○○だった・・」というのは、適当に相槌をうっていればいいのです。そのかわり自分が年寄りになったときに「昔は○○だった、と言わない」覚悟はもってください。

Q織田信長 謀反の明智光秀は、思いつきで 【やるなら今 敵は本能寺にあり】と たまたまいた 京都ちかく

織田信長
謀反の明智光秀は、思いつきで 【やるなら今 敵は本能寺にあり】と たまたまいた 京都ちかくにいたから??


朝廷に対して敬意が無かったから??

…で 織田信長には 息子がいたかと思うんですが 秀吉は仮の征夷大将軍ですよね?

何故に天下取ってんの??

Aベストアンサー

明智光秀の話は、後世の作り話。
あり得ないです。

秀吉は太閤です。
征夷大将軍は、源氏の子孫で無ければ成れない。
信長の息子たちは、全てぼんくらで、天下人に成る資格は無い。
力がなければ、殿様には成れない、実力社会でした。

Qアジアでは西洋から最も離れた日本で最初に近代化が始まったのはなぜでしょうか?

アジアにおける最初の近代化は、言うまでもなく日本の明治維新です。
でも、西洋から最も離れた位置にある日本において、最初に近代化が始まったのはなぜでしょうか。
普通に考えたら、西洋から比較的近い場所にあるトルコやイランで最初に近代化が始まってもおかしくないと思うのですが。

それとも、日本では江戸時代までに近代化に入れる下地が出来ていて、そのために西洋の文明を迅速に吸収できたということでしょうか。

Aベストアンサー

>それとも、日本では江戸時代までに近代化に入れる下地が出来ていて、そのために西洋の文明を迅速に吸収できたということでしょうか。

その通りです。近代化する下地が日本にあったからです。そして日本以外の「半文明国」にはその下地はありませんでした。


大きな理由は二つあります。

①国民国家としての下地が、もともと日本人に備わっていた。
②近代国家を成し遂げてくれる、偉人に恵まれた。




①の説明

トルコやイランは国民意識の統合に躓きましたが、実は、欧米でも国民国家としての意識統一はかなり時間が掛かっています。イギリスですら300年ほどかけて、イングランド人もスコットランド人もウェールズ人もアイルランド人も「先祖の時代からイギリスで生まれ育ったのだから、我々は同じイギリス人だ」という国としての国民意識の統合に時間をかけて行いました。
この、「私は○○人だ」という今では当たり前の国意識は、近代国家になる上では重要です。

これにはどこの国でも時間が掛かりました。自分のペースで国民国家になれたヨーロッパとは違い、「半文明国」は、列強の外圧によって短時間で国民国家にしなければならないため、当然のごとく多くの国が失敗します。



日本が何故、世界で唯一このように短時間で国民国家を成し遂げたかというと、そもそも「とっくの昔から日本人としての国民意識は統合されていた」からです。

日本人の国民意識の統合が完成されたのはかなり昔で、聖徳太子の時代からです。白村江の戦いに破れ、防衛線を張ったのですが、聖徳太子がもしも、九州の人員だけしか、防衛戦力に動員できなかったら、日本は他の国と同じような状態だったでしょう。しかし、聖徳太子は関東などの日本全国から人員を動員しました。これは現在で言う国民国家の動因と同じです。聖徳太子の優れた才覚によって、「九州の海岸防衛の問題は日本の問題。だから関東人も皆日本人として防衛すべき」という、日本人としての共通の意識を完成させたからこそ、全国から動員することが出来ました。この時に、日本人の国民意識の統合は完成されました。


その後は、天皇と言う存在が日本人の統合の象徴となりました。地方によって言葉が通じなくとも、天皇と言う存在が統合の象徴となり、日本人の国民意識の統合は継続されていきます。

そして、嵯峨天皇以降は、天皇が日本を直接統治するのではなく、適切な者にその統治権を委任すると言う形をとりました。幕府がそれに該当します。鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府など、いろいろな幕府がありますが、これは委任統治です。戦国時代は委任統治権の争いであって、「王」になるための争いではありません。

近代化に絶対必要な要素である国民国家ですが、その下地がそもそも日本では聖徳太子の時代からはぐくまれていたので、明治維新で鮮やかな国民国家による近代国家を誕生させる事ができました。




②の説明。

どんなに近代国家になれる下地があっても、実際に近代国家を成し遂げる者が誕生しなければ達成されません。
日本の場合、その幕末の偉人が誕生した事が幸運でした。


実は、幕末の江戸幕府も、近代国家にしなければ滅びるのは分っていましたし、当時の江戸幕府は「無能」と言うイメージが世間にはありますが、実はかなり優秀でした。他の「半文明国」とは違い、江戸幕府は徳川吉宗の時代から、白人の危険性を理解した上で欧米研究をしていたため、欧米の国際状況、植民地の現状などもかなり正確に現状を理解していました。そして、幕府の官僚たちは、何をすべきか分っていました。

しかし、これまでのシガラミのせいで出来ませんでした。そのシガラミを跳ね除けて近代化を達成した者が、大久保利通です。

はっきり言って、大久保利通がいなかったら明治維新はありえません。勿論、高杉晋作や伊藤博文やそれ以外の多くの偉人の功績も大きいですが、大久保利通がいなければ彼らがあのような行動を起こす事もありません。


しかも、大久保利通は、当時では誰も相手にされない小物でした。


幕府の官僚も、徳川慶喜も、近代化しないといけないことは知っていました。しかし長年のシガラミのせいで出来ませんでした。やらなければならない事はわかっているが、それが出来る人が誰もいませんでした。大久保利通以外は。

日本には、彼のような偉人に恵まれたので、明治維新が誕生し、もともと、国民国家としての日本人と言う民族意識が日本中の人に養われていたので、近代化に成功しました。





①も②も、どちらかが抜けていたら、日本の近代化は失敗していたでしょう。




勿論、「日本人は勤勉だった」「原理主義的な宗教価値観がなく、外国の知識であっても優れていれば素直に取り入れた」「寺子屋なので、学問の素養が広く行き届いていた。そのため識字率は欧米よりも高かったと言う説もある」「昔の日本は農業国と思っている人がいるがそれは誤り。多くは兼用農家。工房が盛んで日本は昔からアジア有数の工業国であった。だからこそ戦国時代では鉄砲を自国生産してその保有量が世界一になったり、明治維新の近代化を成し遂げる事ができた。」なども、近代化の成功の要因かと思います。






>西洋から比較的近い場所にあるトルコやイランで最初に近代化が始まってもおかしくないと思うのですが。

近代化が始まったのは日本よりトルコが先です。そして、近代国家に必要な憲法の運用をトルコがしたら2年で停止する羽目になり、見事に近代国家に失敗しました。

伊藤博文が日本にも憲法(大日本帝国憲法を悪法だと思っている人がいますが、当時では世界各国から絶賛されました)を導入すると欧米人に言ったら、「トルコでも失敗しているのに無理でしょ(彼は日本を馬鹿にしたつもりはない。心配してあげただけです)」と言われたそうです。

そして、憲法を運用したら、見事政権交代。伊藤博文は野党になります。しかしそれでもトルコのように憲法停止はしませんでした。そして正当な選挙によって与党に帰り咲きました。

近代化が始まったのは日本が最初ではありませんが、近代化に成功したのは欧米以外では日本が最初です。

>それとも、日本では江戸時代までに近代化に入れる下地が出来ていて、そのために西洋の文明を迅速に吸収できたということでしょうか。

その通りです。近代化する下地が日本にあったからです。そして日本以外の「半文明国」にはその下地はありませんでした。


大きな理由は二つあります。

①国民国家としての下地が、もともと日本人に備わっていた。
②近代国家を成し遂げてくれる、偉人に恵まれた。




①の説明

トルコやイランは国民意識の統合に躓きましたが、実は、欧米でも国民国家としての意識統一はかな...続きを読む


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