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日本大正村のある岐阜県恵那市明智町には光秀のお母さんのお墓があります。
http://nihon-taishomura.or.jp/mitsuhide

が、何故ここにあるのでしょうか?
恵那市に何故あるのかというだけでなく、お城からも離れてお寺でもなく結構謎な位置です。
また、
>於牧の方を偲び、里人の民が建立したとされています。
とありますが、当時の武将…ではなく貴人の女性のお墓がこうして建てられるのは珍しいですよね。
亡くなられる時の逸話以外に何かないとそうはならないと思うのですが、どうでしょうか。

実際、磔された後はどこに葬られたのでしょうか?

A 回答 (2件)

そもそも、この石塔の建立が1743年でかなり時代が後なので


織田や武田も時代ではなかったのではないか、と考えられませんか?

将軍徳川吉宗によって制定された「公事方御定書」の翌年、1743年
に建立された石塔には、当時の世評をはばかって「南無阿弥陀如来」
とだけ刻まれ、とあります。

定かに墓所かどうか?
また、江戸時代から今に至るまで必ずしもここにあったのかどうかも
不明ではないでしょうか。

貴人とはいえ、罪人に変わりはなく、憚りがあったわけなので城内
もどこかのお寺の寺域もダメだったと思いませんか?

話はそれますが光秀自体、諸説ありな人物です。
http://10.fan-site.net/~greathelp/Sengoku/Column …

大変な窮地に母君を人質に、そして磔で、手厚く葬られるとは
考えにくい、あくまで後世の供養塔としての墓所。

例えば、あの家康だって墓とされている場所は一か所ではないのですから、
磔にされた罪人で女性の墓となると定かにここであるとも言いきれないのでは?
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この回答へのお礼

ぶっちゃけちゃうと、本当にお母さんのお墓として作ったのかすら疑ってます。

そもそも出典が不明です。
なので本当に1743年に造られたかどうかも怪しく、地元なので恵那市の郷土資料も読み、問い合わせもしましたが(恵那市図書館は郷土系にそれなりに力も入れてます)出典が全く不明なのです…。

町興しで光秀が生まれた土地として信憑性の薄い…もといほぼ否定しかできない話を頑張ってる街なので、そういう意味でもどうかなという疑惑も含んでいます。

お礼日時:2018/10/27 05:30

https://rekishiru.site/archives/484
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …

はりつけにされた罪人の遺体って必ずしも
家族に返されなかったことも考えられるので
ゆかりのある人が供養という意味でそこに
祠かお墓を建て、それが後世に残ったという
事ではないか、と個人的には考えます。
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この回答へのお礼

そう、それであるならばそのゆかりのある人というのは誰か、また何故あの地にお墓を建てたのか…という疑問が出るのです。

街道沿いですが、当時はまだ遠山氏の土地です。
同じ明智性であっても遠山系はまた別の氏族です。
信長や武田がぶつかり合ってた土地でもありますし、おいそれと光秀の母親を供養しようという場所でもありません…。

お礼日時:2018/10/26 20:45

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