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1600年関ヶ原の戦いで宮本武蔵は本当に戦に参戦したんですか?
もし参戦したのならどのくらいの活躍したのか詳細まで知ってればなによりです。

A 回答 (4件)

「不明」です。



https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
先ずはググりましょう。
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はっきりとは分かっていないようですが、付いていた君主に従って九州にいたのではないかと言われてるようです。

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兵法の指南書『五輪書』の冒頭にある記述「歳つもりて六十」に従えば、寛永20年(1643年)に数え年60歳となり、生年は天正12年(1584年)となる。

と記述。
没年は、正保2年(1645年)享年64歳とされています。(諸説あり)

五輪書に従えば、関ケ原の合戦時、数え年で16歳。
一乗寺下り松での、将軍剣術指南役の吉岡一門との決闘が慶長9年(1604年)
その後、細川家に召し抱えられ、金峰山(熊本市)の霊巌洞で五輪書を推敲したと伝えられている。

この事から、美作出身の新免武蔵(しんめんたけぞう 後の宮本武蔵)が何れかの武将に仕えていたとは考え辛い。
つまり、関ケ原の合戦には参戦していないと考えるのが合理的です。
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はじめまして、



No3さんの内容にほぼ同意なのですが、宮本武蔵が関ヶ原合戦に参加しただろうというのはほぼ定説です。
16歳でしたら元服をしている可能性が高いので、当時でしたら一人前、戦争に参加するのはあたりまえでしょう。

規模のおおきい戦場では多数の軍勢がぶつかりますので、剣豪とはいえ活躍するチャンスはありませんし、実際記録もありません。
島原の乱にも幕府軍の一員として参加していますが、一揆軍の投石により負傷しているぐらいです。
剣豪といえども一対一ならともかく団体戦や乱戦になればたいしたことはないんですね。

以下ウィキから2カ所を引用します

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。

島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。

宮本武蔵(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵
(URLはコピペしてください)
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