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野矢茂樹先生の話を聞いて、哲学というものは哲学者たちの
大変に深い思索の元に成り立っているものだということを改
めて感じました。

哲学をかじり始めて実質まだ少ししかたっていない初級者の
私にとって、一つ一つ確実に納得して勉強してゆくことが、
哲学者たちの苦闘の末の結論(間違っていたとしても)の真意
に触れることのできる道であると思っています。

さて、「価値」ということを考え始めているのですが、これを
辞書で引いてみますと、

『(哲)評価主体と対象との間に生ずる、吸引するか、もしくは反撥
するところの情的関係性または関係力のこと。』

とありました。
分かったような、分からないような文章です、私にとって。

1.哲学的な「価値」とは要するにどういうことですか?

2.また、辞書には『あらゆる個人、社会を通じて常に承認されるべき
絶対性を持った性質、真善美など。』とあります。
この、真善美が何故普遍性を持った価値とされているのでしょうか?

3.この三つの中の「真」というものは認識の問題に思えます。これを
価値とすると、なんだか分からなくなります。どう考えたらよいので
しょうか?

※真善美についての質問が立っていますが、背伸びして回答すること
は、やめることにしました。

「価値について」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • bragelloneさん、こちらが返信する前に、どんどん送信するのを
    遠慮していただけますか?
    大量の文章に対応するのが大変で、論点がどんどん増えて、収集
    つかなくなることが、以前もありましたでしょう?

      補足日時:2019/04/28 02:43
  • お礼の順番が多少前後します、ご了承のほど。

      補足日時:2019/04/29 11:46
  • 質問文に添付された写真は何だと思われた方もおられたと思いますが、
    これは、百数十年前に来日した外国人が撮った写真です。

    瞽女(盲目の女芸人)と言われた人です。

    私はこの写真が美しいと思いました。感動に近いですね。彼女の唄を
    聴いてみたいと思いました。

    「価値について」の補足画像3
      補足日時:2019/04/29 13:09
  • うーん・・・

    №2.8さん、お礼が遅くなっているのは、一つは、相手の都合も考えましょうよ、
    ということを言いたかったことと、出かけていたということ、なのでありまして、
    どうか、お気を悪くなされませんように。

      補足日時:2019/05/01 17:41

A 回答 (16件中1~10件)

no12のお礼へ。


ありがとうございます。

ちなみに「わるい」は存在していない、と直感でそう思います。
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☆☆ >1. 〔《価値》とは〕最広義の定義としては 主観にとって気になる


すべてのものごとです

★(№2お礼欄) 「情的関係性」ということですね。

☆ 哲学の対話としては 《論理的に気になる》場合もあります――と もろ
に嫌われる応答をするものと思います。


★ 2. プラトンはそう考えたということですね。その流れで、そうなってい
るということですね?
☆ 《イデア》を表に出さないアリストテレスの場合もそれは たとえば《第
一原因》というふうに言いかえているだけだとも見られます。

しかし 概念の内容が違っているではないか? ――そのとおりだと思います
が 《絶対性》の問題としては 変わりないとも見られます。


★ 3. 何を仰っているかわかりません。
☆ そうですか。

★ 例えば、「この赤い物体はリンゴである」ーこれは真理ですよね?
☆ 事実認識としての真です。

経験事象について――ということは 身の感性か心の理性かで認識しうるとい
う規定(前提)のもとにということですが―― それぞれの主観が認識したそ
の内容が おおむね事象(事実)と合っていたということ これをここで《真》
と呼んでいます。

重ねて述べるならば 任意のひとりの人間の或る主観が 《「この赤い物体は
リンゴである」》と認識しているとき その内容がほかの人間によっても ま
ちがいなさそうだと見て共有されうる場合 その或るひとつの主観真実は 人
びとによって共同化がなされます。

コモンセンス・常識というものになります。





げんみつに表現するとき 認識のあり方について 次のように見ることに成る
と思います。

(あ) 経験事象についての認識・・・・・・主観真実とその共同化

(い) 超経験についての認識(?)・・・・認識しうるかどうか人間の知性
               ではおぼつかないので 仮りに《真理》とい
               う言葉をあてる。


☆ そして 《絶対》という言葉が 定義にもとづく本来の用法とは別に 移
ろいゆかざるを得ない経験事象にも派生的に使われることがあります。間違い
の可能性のある場合でも おのれの確信の強さを示すために 《絶対 間違い
ない!》と使うような場合です。

それと同じように 《真理》も 超経験(=絶対性)とは別に 相対的な確か
さや正しさのことをも――つまり 共同主観をも―― 《真理》という言葉で
表わすことが ひんぱんにあります。


★ 「この赤い物体はリンゴである」ーこれは真理ですよね?
☆ そのとおりです。たしかな主観真実です。




★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(う) 私(評価する主体)とリンゴとの間に生ずる、情的関係性または関係力、
が価値ですから、

(え) 「リンゴが赤くて可愛らしい」というのは「美」であり、私にとって
価値になると言うのは納得できます。

(お) また、「食べれば美味しくて、栄養がある」というのも私にとって価
値です。

(か) しかし、「これはリンゴである」という真理は、認識の問題であり、
価値ではないではないか ということの疑問です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 事実認識としての主観真実を《基礎》として それを鑑賞したり それを
食用にしようかと思ったりします。基礎が(基礎も) 大事ではないでしょう
か。

つまり確かに ものごとを知ろうとするとき やはりふたつの段階があります。
先ほどの《(あ) 経験事象についての認識》の際に 段階を踏みます。

主観としての好き嫌いや良し悪しの判断をなるべく抑えて そのものが何であ
るか〔だけ〕を知る場合が 第一段階でしょう。

もうお分かりだと思いますが そのあと第二段階として 自分の主観としての
好みや思想――つまり価値観――に沿ってその事実認識をまとめ上げる。



従いまして 《価値であるかないか》は ものの見方によっていると言えます。



主観の片寄りを減らし良し悪しの判定をひとまづ禁欲して 事実認識だけをお
こなう段階の《真》は まさしく価値判断を抜きにしているからには 《価値
ではない》と言えます。

そして その《価値自由な認識〔としての主観真実〕》は ほかの事実認識に
も実際には基礎となりますし 禁欲していた好みを発揮し思想を展開するとき
にも 基礎となって行きます。

――そういう意味では 《没価値な認識》も 価値を潜在的に持っていて利活
用され得ます

大きく全体として捉えるなら 価値をともなう世界観の中に 価値中立の認識
もおさまっています。《基礎》が重要であるならば――たしかに重要でありま
すから―― ちょっと飛躍して言うとすれば:

▲ 真理は きみたちを自由にする。

☆ と言われます。そこで ムッシュー(または マダム)真理という存在の
おとぎ話が出て来ます。

ミス真理のコンテストなら たのしいかも知れません。
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見出だすこと



かな?
( ̄ー ̄)ニャリ
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この回答へのお礼

>見出だすこと

ユラリ…

お礼日時:2019/05/01 18:16

明日のジョー すきよ

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この回答へのお礼

おう。

お礼日時:2019/05/01 18:13

価値とは「よい」。



私の回答に足りないもの。
あなたへの回答に求められる要件。
あなたへの回答を避けるべき人。

決定的なポイントに私は合格しているでしょうか?
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この回答へのお礼

ブロックされたら、失格と言えるでしょうね。

私も二三度、失格扱いをされたことがあります。

>価値とは「よい」

反価値は「わるい」ですね?

お礼日時:2019/05/01 18:13

難しいことはわかりませんが、面白そうなので勉強させてもらうつもりでお邪魔いたします。


ど素人ですので、基本的に個人的感覚や解釈に終始することになると思いますので、お含みおきください。

>1.哲学的な「価値」とは要するにどういうことですか?

『(哲)評価主体と対象との間に生ずる、吸引するか、もしくは反撥
するところの情的関係性または関係力のこと。』
ということから考えると、どんなものにも価値はある、ということになりそうな気がします。
その人が価値があると想いさえすれば、それが価値足り得ると。

>2.また、辞書には『あらゆる個人、社会を通じて常に承認されるべき
絶対性を持った性質、真善美など。』とあります。
この、真善美が何故普遍性を持った価値とされているのでしょうか?

よく耳にするカントの純粋悟性概念(カテゴリー)は、真善美を含めた認識というものが、一定の規範にもとづいて行われているはずだと考えたものなのだと思います。
因果性・必然性・可能性・実在性などについて、悟性が妥当に発揮されるならば(同じ人間である以上、)ある対象に関しては基本的に同一の評価が為されるはずだ、ということなのかもしれません。
その意味で「普遍性を持った価値」なのかな、と。
悟性が発揮される基準がカテゴリーなのでしょう。

>3.この三つの中の「真」というものは認識の問題に思えます。これを
価値とすると、なんだか分からなくなります。どう考えたらよいので
しょうか?

大辞泉の語釈のようですが、ご参考までに大辞林では以下のように。

※善きもの・望ましいものとして認め、その実現を期待するもの。内在的なもの・手段的なものなどにわかれるが、特に、真・善・美など、普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値をいう。※

【認め、その実現を期待する(もの)】なので、おっしゃるように『認識の問題』なのでしょう。
「真」を辞書で引くと、
・うそや偽りでないこと。にせものでないこと。本当。真実。ほんもの。
・道理として正しいこと。
・まじめなこと。真剣なこと。また、そのさま。
・論理学で、ある命題が事実と一致すること。
のような語釈になっています。
先のカテゴリーにも関連してくるでしょうが、こうした概念は、誰であっても【善きもの・望ましいものとして認め、その実現を期待するもの】として認識するように思われます。
なので、【普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値】を持つ、と注釈されてもいるのでしょう。


客観的に承認可能な主観というものはある、ということかなと考えてみました。
割り込みされて嬉しい人はいないでしょうし、小さい子が殴られているのを見て楽しく感じる人はいないはずです。
一方、9.11はムスリムにとっては真だったのだと思います。
彼らにとっては「道理として正しいこと」であったが米国にとっては違った。
「真」が【普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値】を持つとは言っても、それをどのように現実世界に適用させるのか、ということは、また別の問題だということになるのですかね。
カントはカテゴリーの妥当性について演繹的に説明しているようですが、それはそれとして、このように考えてくると、どうも検証することの重要性を感じます。
それが、本当に【普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値】と言えるのかどうか。
カントは、そんなものを求めること自体が誤りだと言っているようですが、この点について限りない検証を繰り返すことで、帰納的に「普遍的な真善美」に近づいていくしかないのかもしれない。
Mokuzo100nen さんあたりが、もう一歩踏み込んで解説してくれると有難いですけどね。
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野矢さんは、とても良い哲学者と思います。



哲学学者が跋扈する日本国哲学村の中で、彼は少数のphilosopherかも知れません。

哲学の問いの中心からは偏心していると思いますが、「言語学の教室」中公新書を読むと、野矢さんが哲学学者ではなく、1philosopherとして言語に関してphilosophierenしているところが分かります。

真善美に関してはカントを読まずに語れないのも事実ですが、それ以外の問題に関しても積極的に哲学する方だと思います。
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この回答へのお礼

Mokuzoさんも、よく勉強しておられるようですね。

確かに、「哲学学」をやっている人は多く、純粋に「哲学している」人は少ない
のかも知れません。

私は断然、「哲学すること」に興味があります。

お礼日時:2019/04/29 13:33

哲学においても人間にとっての価値は生存して未来の存在を実現する事です。



簡単に言うと存在する事が価値です。

真善美は存在を盛り立てる為に在ります。存在が充実して確かなものに成るのです。

真 真実・真理はエネルギーや性質ををコントロールして存在する為に必要な知識です。
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この回答へのお礼

『(哲)評価主体と対象との間に生ずる、吸引するか、もしくは反撥
するところの情的関係性または関係力のこと。』

とありますように、従来、西洋哲学では、評価主体と対象の「関係性」
において価値が生ずる、と考えているようです。

その考え方から見れば、存在自体が価値である、とするのは「的外れ」
に思えます。

しかし、私は単に的外れだとは考えたくありません。

西洋の哲学者たちが考えた「価値」とは、また「存在」とは一体何か?
まだまだ見えていないからです。

つまり、存在自体が価値であるとすることの、何が間違いなのかが分か
らないということです。

お礼日時:2019/04/29 13:24

№2です。

じつは 部分観に終わってしまう議論だったのですが。・・・


プラトンのイデア説は たとえばデカルトが引き継ぎ 神の観念として
存在論および/または認識論に摂り込みました。


これを P. ガッサンディが批判します。

▲ 唯物論者ガッサンディによるデカルト批判と生得観念の全面的否定
https://information-station.xyz/7005.html

デカルトの神の存在証明においては、無限性や完全性といった観念や、
そうした観念の源泉である神の観念は、あらゆる感覚や経験を超越して、
それらに先立って先天的に人間の知性の内に存在する生得観念であると
主張されることになりますが、

それに対して、

デカルトの批判者であるガッサンディは、知性の内にあるすべてのもの
は、先に感覚の内にあったものであって、

すべての観念は、感覚を通して得られた様々な具体的な経験に対して、
複合・分割・拡大・縮小・比較といった様々な作用が加えられることに
よって後天的に形成されていくものに過ぎないと主張することになるの
です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ 神の観念 これが人間の自然本性にやどる(つまり 《生得観念》)
という見方と そして いやいやすべてのものごとは 世界との接触に
おける感覚をとおしての知覚またその認識であるという見方 これら両
説が対立しました。


カントは これらをニで割ってその真ん中の見方を採りました。


▲ カントの認識論におけるア・プリオリな形式と生得観念との関係
https://information-station.xyz/7050.html

カントの場合は、〔そうした〕あらゆる認識や観念を形成するための条
件となる知性の働き自体は、もはや、何らかの具体的なイメージや内容
を持った観念ではあり得ず、それは、それ自体はいかなる内容も持たず
に、空虚な形式としてのみ存在すると考え、

具体的には、感性における直観としての時間と空間という二つの形式や、
悟性(知性)における量・質・関係・様相といった認識のカテゴリー形
式がそうした人間の認識におけるア・プリオリな形式として捉えられて
いくことになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 神なる観念〔とそれに連なる知性の像〕は放棄し ただし感性なる
現象べったりとなることを避け 感性や身体に先立つ( アプリオリな )
《認識のカテゴリ形式》を推し出したようです。


これについてわたしはワケが分からないので 個人的な見方としてはそ
の後 ヘーゲルが 《世界精神(霊としての神)と人間の自然本性との
一体》 あるいはつまり 《〈無限と有限との一体性〉なる人間存在 》
の像を推し出したのだと捉えます。




これは類型として 《梵我一如》ないし《仏仏一如》の説だと考えます。

《真善美》は 霊我(アートマン)または仏性(ブッダター)なる霊性
と そして その仮象としての経験的・具体的な――真偽・善悪・美醜
に分かれる実際の――事象との二層の構造において捉えられます。

《価値》は マイナスのそれをも含めるならば これらの現象のすべて
のものごとを言うことになると思います。
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この手の質問は、


理解するとは何かを理解出来ている事が前提。
、というのは釈迦に説法でしょうか?
「価値について」の回答画像7
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この回答へのお礼

理解すること、あるいは認識すること、とは何か?

以前考えたことがあります。考えるたびに深まっているとは思いますが、
私はあらゆる概念が「無限」の広がりを持っているのではないかと考えて
います。

「絶対」「完璧」という概念は、私は「北極星」のようなものだと思って
います。
仮に、「北極星」の視点から見たら、すべての人が未熟、ということにな
るでしょうから、少々先を行くものが偉いということもないですし、また
自分が偉いというのは慢心ですね。

ただ、人に対しては「敬意」を持った方が、幸せになれると思っています。

お礼日時:2019/04/29 12:51

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