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日本においてはどの時代の実質の最高権力者も天皇に取って変わろうとはせず、天皇から関白なり将軍なりという位を貰って他を従えてきました。
つまりどの権力者も武力や権力だけでは支配できず天皇の権威による正当性を必要としてきたわけです。
それではその天皇家自体が古代に日本を統一した時その権威はどこから来たのでしょうか?
言い換えたら天皇家を日本最初の天下人として、天皇の権威を背景にした各時代の天下人と天皇家の違いはどこにあるのでしょうか?
また天皇家が古代に帯びた権威というものは、それと同等のものは後世どんな権力者も二度と生み出せなかったのでしょうか?
(古代には天皇とか天皇家という名前はなかったという事は置いておいて)

A 回答 (5件)

日本書紀などの資料をみると、天皇家が日本列島を武力で征服したのはほぼ間違いありません。


ただ、私は「武力だけではなかった」と考えています。

その一番の証拠が出雲の「国譲り」の物語です。

まず、基本として古代というのは日本でも大陸でも「自分たちの民族(豪族や宗教的な集団単位)以外はヒトではない」というのが共通した考えでした。ヒトではないので、征服した後は皆殺しにしてもいいし、奴隷として売っても良かったのです。

しかしこれを続けていると恨みを買ってしまい、一度は武力で統一してもその後必ず争乱が起きてしまいます。世界の殆どの国の戦争(異民族との戦争)は支配民族に対する被支配民族の独立闘争が基本になっているからです。

日本の古代は、縄文時代から生活を営んでいる集団・弥生系・渡来系など様々な民族がいて、彼らの中で有力で統治能力を持った人は豪族と呼ばれていました。

天皇家が「倭国統一」を目指して、多くの国を武力で制圧したのは間違いないところでしょう。
問題は「どうやって恨みを買わないようにしたのか」と言う点です。

私はヒントはローマ(紀元前の多神教だったローマ共和国時代)にある、と考えています。
実は古代のローマは、征服した民族を自分たちの仲間として受け入れていました。戦争をして降伏した民族と話し合い、ローマに参加するならその民族の指導者(王家や長老など)はローマ貴族に列して元老院に参加できるようにし、庶民にはローマ市民権を与え、さらにその保証として「首都ローマの神々の丘」にその民族の神殿を作った、のです。(ただし、ローマに参加しない民族は皆殺しにしていました)

これは民族=宗教集団という時代からすれば画期的なことであったと考えます。
つまり本来なら「お前たちの神は邪道だ」としてヒトとみることがなかったのを「君たちの神もローマの神としてみんなで崇めるよ」ということだったからです。

これにより、ローマの版図が広がっても「征服したローマ人も征服された民族もみなローマ人」と言う保証に納得することができ、ローマは帝政を超えて800年もの長い歴史を有することになるわけです。

日本の天皇もこれと同じことをやったのだろう、と考えています。日本の神道がなぜ「天皇を中心とした神々」になり、なぜ天皇は現人神なのか、を考えるとその結論しかないと思います。

つまり天皇家は武力で服従させた民族、説得で参加させた民族などを問わず「統一倭国は天皇がみんなの神々を一緒にお祈りするから、みんな平等な仲間なんだよ」という説得をしたのだと考えます。その約束は今でも毎年の新嘗祭や日々のお勤めで天皇は果たされているわけです。

古代に限らず、近代化する前の時代にはどの国でも「神が死ななければ民族は生き続ける」と考えられていました。
自分たちの民族がなにかで全滅しても、その神が祀られてお詣りする人がいる限り「民族は生きていて永遠」なのです。
ユダヤ人がいまでもユダヤ人なのは「神が滅びていない=ユダヤ教を信じる人がいる」からです。

天皇はこれをやったのだと思います「倭国を統一して一つの国家にするには、君たちの力が必要だ。君たちがもし死んでも、君たちの神に祈る人たちが残っている限り、君たちの民族は生きているのだ」ということです。

だから日本は統一国家になったのです。
しかし、7世紀までは非常に緩い連合国家だったことが分かっています。つまり天皇家は「首都でみんなの神々に祈りを捧げる神主」であり、貴族になった豪族たちが合議して運営していたのが初期の大和朝廷またはヤマト王権と呼ばれるものです。

これが変わったのは隋が巨大国家になったことです。隋が巨大国家になり朝鮮半島に攻めてきたことを知った大和朝廷は急速に軍事大国化しようとします。この時に天皇が君主になり、大権をもち、豪族たちは貴族になって国家運営を律令制で効率化したのです。これを大化の改新とよぶわけです。

ここから倭国は日本になり、天皇が君主になり現在の日本まで続くわけですが、古代の統一期の約束である「日本の神々を私が祭祀する」ということはずっと続けられていて、それが権威になっていったわけです。

だから鎌倉時代になっても「天皇の命令はみんな聞く」状態だったといえます。源頼朝に「征夷大将軍を任せる」と言う勅許をみんな守ったのです。ただし、古代の豪族から続く西国の有力者たちは「いくら天皇家の出身だからって、歴史のない田舎者の東国武士がなんで日本を動かすのか」という意識があったでしょう。それが後醍醐天皇の建武の新政の原動力になるわけです。

そして建武の新政は後醍醐天皇の流刑で失敗に終わるのですが、鎌倉幕府も求心力を失ってつぶれてしまいます。その後の室町幕府は東国武士と西国の有力者(必ずしも武士だけではない)たちを朝廷の力を借りて調整する役割だったのですが(だから京都の室町に本拠を置いた)、ほとんど調整できずに将軍が職務を放棄してしまいます。

その結果、有力者同士の調整がつかなくなって、応仁の乱から戦国時代が始まるわけです。
そして戦国時代が続いて戦争に疲れてきた人々はこう思うわけです「とりあえず、京都に上って、天皇の勅許をもらった人に従おう。そうすれば戦乱は終わる」

だから秀吉は関白という事実上天皇の代理人になって戦国時代を終りにしようとしたのです。秀吉がキリシタンを弾圧したのは「キリストの神が天皇の権威を損なう」と考えたこと、南蛮貿易での奴隷が天皇の子供(日本国民)を連れ去ってしまうことなどで「天皇の代理として許せない」とかんがえたからでしょう。

その後の徳川家康は「天皇に権力を残しておくと、不満分子が天皇を担ぐかもしれない」として、天皇の権威だけ(つまり祭祀権だけ)にしてしまいます。

それでも天皇が「日本国の神々に祈りを捧げる」というのは、古代からの約束でありそれが権威化していたということでしょう。

同様に戦前の日本の国家神道は、近代国家におけるキリスト教の役割を「天皇の権威」で代替えしようとしたものです。だから「天皇陛下万歳」と特攻してもその意味は「天皇が祭祀をしてくれれば、日本国は永遠であり、自分の家族も生きていける」ということだったわけです。

敗戦時も天皇が御聖断を下し、日本国民は殆ど不満も言わずにそれに従ったのは「天皇は今でも古代の約束を守って、日本の神々に祈り続けている」と考えられたからです。天皇が約束を守っているなら、国民も守る必要があります。だから天皇の指示にしたがって、ピタッと戦争をやめたのです。
(マッカーサーは日本に到着した時、厚木基地から都内まで絶対に旧日本兵に襲われるとおもっていたそうです。そりゃあそうでしょう。沖縄でも硫黄島でもあれほど死にもの狂いで戦った日本兵なのですし、西洋人にとって戦争とはそういうものだったからです。しかし日本兵は一糸乱れぬ隊列を組んでマッカーサーを守ったため、マッカーサーは非常に驚いた、と言われています)


日本にそれ以外の権威者が現れなかったのか、といえば難しかったと思います。
それは権威というものが単に人々を上に立つだけでなく、宗教などの実践が必要だったからです。カソリックの法王もすぐに権威になったわけではなく、カノッサの屈辱など11世紀ぐらいまでは権威が揺れていました。

またチベット仏教のダライラマは今まさに受難を受けている(異民族からの影響を受けて権威が下がっている)わけです。

日本の中で天皇とは違う権威を建てるとすれば、異民族との戦争が必要だっと私は思いますが、それはそれ、日本が根本的に変わってしまうリスクを含んでいるので、危険な賭けになるでしょう。
GHQがその天皇の権威を見抜き「日本統治には天皇が必要」とリスクヘッジしたのは賢明な判断だったと思います。
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天照大神が治めるということになる。


天皇はその大神霊(おほみたま)を受け継ぐ最高権力の代行ですね。

天皇が日本で一番偉いのです。

武士で将軍、貴族でいえば江戸時代までは左大臣か太政大臣かは分からぬが、その時々の時代時代で名称変化。あれはただの最高権力者の代行人に過ぎません。

今は自民党の内閣総理大臣ですね。でも天皇よりは格が下です。

国会で審議して決めた法律を含めてすべての文書一切は天皇が御名御璽を押さないと何の効力もないのです。異を唱えることは無いですがね。

日本は常に天皇という国王が治める王政国家なのです。天皇は神ということで神政国家というべきですかね。これはいつの世も変わらず。永久不滅。
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東電を税金で支えても、つぶさず、原発の事故は企業の利益優先にして


賠償責任をウヤムヤにしているとする見方もあります。
(一時、事故リスクの為原発を辞めたいとの意見を政府主導の国策で
原発だらけにした意味での国の責任もあるので単純ではありませんが)

本当に悪い人間は、一番も責任も避けるのです。影で操つれば、充分です。
貴方は権威とか、とにかく1番はすごいし、理由に興味があるのでしょう。
利用されただけでも、すごいと言うのなら、確かにすごいです。
僕から見たら、どうでも良いと思います。

何処の王朝も、昔の豪族、簡単に言えばケンカの強い奴が俺の一族が
神の末裔で王族だと言い出しただけです。全部のマスコミが令和中継で
敬語で、国家予算で保護するのは、やや行き過ぎかとは思います。
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日本においてはどの時代の実質の最高権力者も天皇に取って変わろうとはせず、


天皇から関白なり将軍なりという位を貰って他を従えてきました。
   ↑
天皇は神と人間を媒介する存在です。
ローマ法王と近似しています。
迷信深い昔の人は、天皇が怖かったのです。

吾妻鏡にもあります。
天皇と対立することになった北条氏が、雷が
なるたびに、たたりじゃないか、と
震え上がった、といいます。




つまりどの権力者も武力や権力だけでは支配できず天皇の権威による
正当性を必要としてきたわけです。
 ↑
西洋の王権神授説と同じです。



それではその天皇家自体が古代に日本を統一した時その権威は
どこから来たのでしょうか?
 ↑
神です。



言い換えたら天皇家を日本最初の天下人として、天皇の権威を背景にした
各時代の天下人と天皇家の違いはどこにあるのでしょうか?
 ↑
ローマ法王が神をバックに権威を持ったのと
同じです。



また天皇家が古代に帯びた権威というものは、
それと同等のものは後世どんな権力者も二度と生み出せなかったのでしょうか?
 ↑
天照大御神ですからね。
無理でしょ。
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以下の記事に詳しい


なぜ日本の天皇は125代も続いてきたのか
https://toyokeizai.net/articles/-/255911

A型が多く、大人しい(悪く言えば日和見主義)国民性が
最高位は潰さず、権威として利用した結果の様です。
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この回答へのお礼

各時代の天下人が天皇を潰さずその権威を利用して来たのは分かりますが、天皇自体が古代の天下人になった時お墨付きを与える存在がいないのに、どこから権威を持ってきたのかが疑問なのです。

お礼日時:2019/05/01 23:36

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