三浦つとむ著 「日本語はどういう言語か」ーc.「<助詞>「が」と「は」の使い分け」(189ページ~)を批判する形で、個別性・普遍性・特殊性についての私見を展開します。
1.
冒頭、三浦は、
(ア-1)(事故に遭った重傷者を目の前にして)人が死ぬ。早く救急車を。
(イ-1)(如来でも死を免れることはできないという意味で)人は死ぬ。いやでも死神は訪れてくる。
という例を挙げ、
※「人が死ぬ。」というのは「人は死ぬ。」に比べて小さなせまい部分を扱った認識で、この個別的で具体的な認識が「人は死ぬ。」という大きなひろい部分を扱った認識に、普遍的で抽象的な認識にふくまれることで、認識が立体的に発展していくわけです。※
と述べている。
彼は、これらの例から、
(ア-1a)=小さなせまい部分=個別性=「が」
(イ-1a)=大きなひろい部分=普遍性=「は」
という分類を提議することになる。
たしかに、
・小さなせまい部分=個別性
・大きなひろい部分=普遍性
という箇所は正しい。
しかし、そもそも、これらが、およそ表現の対象となる、あらゆる実体に存する概念であるのは明白な事実なのだから、それを「が」と「は」の分類(使い分け)に適用することはできない。
これが彼のそもそもの誤りである。
(ア-2)(事故に遭った重傷者を目の前にして)人は死んでない。早く救急車を。
(イー2)(如来でも死を免れることはできないという意味で)人が死ぬのを見るのはいやなものだ。
といった表現を想定すべきであった。
整理すると以下のようになるだろう。
(ア-1)(事故に遭った重傷者を目の前にして)人が死ぬ。早く救急車を。⇒個別性・特記の「が」
(ア-2)(事故に遭った重傷者を目の前にして)人は生きている。早く救急車を。⇒個別性「は」
(イ-1)(如来でも死を免れることはできないという意味で)人は死ぬ。いやでも死神は訪れてくる。⇒普遍性「は」
(イー2)(如来でも死を免れることはできないという意味で)人が死ぬのを見るのはいやなものだ。⇒普遍性・中立叙述の「が」
つまり、三浦の言う【この個別的で具体的な認識】とは、
(ア-1)個別性・特記の「が」
(ア-2)個別性「は」
の双方に適用されるべき概念であることがわかる。
(イ-1)普遍性「は」
(イー2)普遍性・中立叙述の「が」
と続ければスッキリした分類になる。
「個別性」と言いたい場合は、
「ガ」ー(ア-1)
「ハ」ー(ア-2)
の両方があるわけだが、この点で彼は最初からボタンの掛け違いをしていたことになる。
2.
こうした勘違いに気づかないまま、彼はさらに論を進める。
a.
たとえば、
(ウ)象は鼻が長い。
という例を挙げながら、
(エ)鼻は象が長い。
という(自らの勘違いを露呈してしまうような)例は挙げていない。
挙げると、「鼻」は「象」に比して『大きなひろい部分=普遍性』ではないから、
(イー1a)=大きなひろい部分=普遍性=「は」
という定立に反してしまうわけだ。
b.
さらに、
からたちの花[が]咲いたよ
白い白い花[が]咲いたよ
からたちのとげ[は]いたいよ
靑い靑い針のとげだよ
からたち[は]畑の垣根よ
いつもいつもとほる道だよ
という童謡「からたちの花」を挙げ、次のように言います。
※「花が」は花についての個別的な扱い方ですが、「とげは」になると、からたちの認識がさらに大きく広がるだけでなく、花ととげとのちがいを、針の持っている性質や色の特殊性を扱っています。
さらに「からたちは」になると、からたちの認識はヨリ以上に大きく広くなり、四季を通じて「いつもいつも」変ることのない普遍的なありかたを扱っているのです。
そして、ここから、「は」には特殊性を扱う場合と普遍性を扱う場合と二種類の使い方があるという、重要な事実を読みとることができます。※
彼は、『からたちのとげ[は]いたいよ』を『花ととげとのちがい』と解釈したのです。
その場合、「とげ」は本来「小さなせまい部分=個別性」のはずだが、「が」は使われていないから、
(アー1a)=小さなせまい部分=個別性=「が」
には該当しない。
かといって、「とげ」は『大きなひろい部分』ではないから、
(イー1a)=大きなひろい部分=普遍性=「は」
を適用するわけにもいかない。
それで、
※針の持っている性質や色の特殊性を扱っています。※
のように『特殊性』という新たな概念が(説明の手順として)登場することになった。
(なお、ややこしくなるので詳しくは触れないが、この歌詞は『花ととげとのちがい』を言っているわけではなく単に「とげ」について述べているのは自明のこと。つまり「とげ というものは」という意図の普遍性と解釈しても何ら差し支えはない)
c.
ところで、三浦の言う【個別的で具体的な認識】とは、すなわち、この「特殊性」と同義であるのは明らかではないだろうか。
ここで個別性と特殊性が交錯してしまうわけだが、彼はそこに気づいていないように思われる。
先の
(ア-1)個別性・特記の「が」
(ア-2)個別性「は」
(イ-1)普遍性「は」
(イー2)普遍性・中立叙述の「が」
という分類は、
(ア-1)特殊性・特記の「が」
(ア-2)特殊性「は」
(イ-1)普遍性「は」
(イー2)普遍性・中立叙述の「が」
と表記しても構わない。
しかし、三浦は、「は」に関して、
(ア-2)特殊性「は」
(イ-1)普遍性「は」
は残したものの、「が」に関しては、
(ア-1)特殊性・特記の「が」
(イー2)普遍性・中立叙述の「が」
を一緒にして「個別性」としてまとめてしまったことになる。
たしかに、【が】が【〇〇が△△】のように、指定(または特定)の意義を持つ助詞であることを思い起こせば、「個別性として指定(または特定)」する、という捉え方は自然だとは言える。
また、個別的概念の中には常に特殊性・普遍性の双方が含まれるわけだから、まとめること自体に問題は無かったのだが、まとめることによって、その個別性が内包している特殊性・普遍性という解釈が置き去りにされてしまったのだろう。
d.
この個別性が内包している特殊性・普遍性について少し。
(カ)(ボールペンは日本製ですが)万年筆が外国製です。
⇒特殊性(特殊的個別性)
⇒(ア-1)特殊性・特記の「が」
(キ)万年筆が机から落ちた。 / 万年筆が欲しい。
⇒普遍性(普遍的個別性)
⇒(イー2)普遍性・中立叙述の「が」
3.
さて、三浦が気づくべきだった文例についてもうひとつあげておきたい。
(ク-a)紫式部は源氏物語の作者である。
という同一判断を示す文である。
この場合、三浦の分類によるなら、紫式部は、
(イ-1a)=大きなひろい部分=普遍性=「は」
ということになる。
しかし、「大きなひろい部分(普遍性)」ではないから、特殊性と「消去法的に」断定せざるを得なくなるわけだ。
しかし、どう考えても、これが、
・清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識。
という意味を持たないのもまた明らかだろう。
まさに、無理が通れば(通ってはいないのだが)道理が引っ込む、の典型だろうが、ここに矛盾が発生することに三浦なら気づけたはずだ。
彼は、(からたち・象など)「大きなひろい部分をしめるもの」を普遍性と認識していたように見受けられる。
必然的に、「個別性」と「普遍性」という概念がバッティングするかのような印象を与えたのではないだろうか。
しかし、「普遍性」とは【宇宙・世界の全体にかかわっていること。また、特殊・個物に対して、ある部類に属するすべての事物に共通する性質。】(明鏡国語辞典)である。
つまり、「全体にかかわっている、共通する性質」のことと言えるだろう。
全体そのものではなく【かかわっているもの】だということ。
また、あらゆる実体が普遍・特殊という矛盾を抱えつつ存在している個別性であることは自明のことである。
このように考えることができれば、(普遍性と個別性がバッティングするわけではないから)、
・「普遍性」は「は」の専売特許
・「個別性」は「が」の専売特許
だと言い張る必要もなくなる。
(ク-a)紫式部は源氏物語の作者である。
は、
・紫式部(という普遍的個別性)について言ってみれば、(彼女は)「源氏物語の作者」である。
という素直な解釈が一般的に可能になるのではないか。
それにしても三浦は、
・紫式部は源氏物語の作者である。(同一判断)
・鯨は哺乳類である。(措定文)
など、A≦Bといった包摂関係について失念していたのではないか、としか思えないのは、わたしの読解力不足であろうか?
以上、かなり独断の混じった見解になっているかもしれませんが、諸賢のご見解をお聞かせくだされば有難く思います。
A 回答 (28件中1~10件)
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No.28
- 回答日時:
No.27 の応答に答えて
1.
>・象は鼻は長いが尻尾は短い。 という文を否定できるのですか?
:
『主題をバーゲンセールしてどうするの?』という問いにお答えしたものですが、意味が通じませんでしたかね?
全く通じません。
単に思い付きを述べただけで、主題と文の否定がどんな関係があるのか不明です。
2.
・小さなせまい部分=個別性
・大きなひろい部分=普遍性
と、《部分》を《個別性や普遍性》などと呼んではいない。これが、同じと思える発想自体が誤りである。
この誤読、誤認を基に以下、論が展開されている。
>これらが、およそ表現の対象となる、あらゆる実体に存する概念である
表現の対象は実体だけではなく、個別/普遍/特殊は「あらゆる実体に存する概念」ではない。
個別/普遍/特殊は個々の事物のもつ性格である。概念は個々の事物の持っている共通した側面すなわち普遍性の反映として成立する。
この立体的な構造を理解することなく、個別/普遍/特殊を「あらゆる実体に存する概念」とするのは、実体と部分、概念をごた混ぜにした非論理的な混乱でしかない。
この混乱が、そもそもの誤りである。
それを「が」と「は」の分類(使い分け)に適用することはできないのは当然で、三浦はそんな粗雑な論理を展開しているのではない。
そもそも、
概念は個々の事物の持っている共通した側面すなわち普遍性の反映として成立する。すでに述べて来たように、個々の事物はそれぞれ他の事物と異っていてその意味で特殊性を持っていると同時に、他の事物と共通した側面すなわち普遍性をもそなえているので、この普遍性を抽象してとりあげることができる。/
実体と「個々の事物」は異なる概念であり、用語自体全く誤っているというより、その意義が理解されておらず、感覚的な使用をしているに過ぎず、それを支える論理もまた曖昧というに尽きる。■
事物と概念の関係が全く理解されておらず、さらに語と文の関係も理解されていないため、頓珍漢な議論がなされているに過ぎません。■
ご回答ありがとうございます。
>単に思い付きを述べただけで、主題と文の否定がどんな関係があるのか不明です。
:
・象は鼻は長いが尻尾は短い。
ここに「は」は多数使われているが、『主題のバーゲンセール』じゃないですよね?
と申し上げている。
>
・小さなせまい部分=個別性
・大きなひろい部分=普遍性
と、《部分》を《個別性や普遍性》などと呼んではいない。これが、同じと思える発想自体が誤りである。
:
そうですか。
三浦が「日本語はどういう言語か」で書いている下記の箇所。
※「人が死ぬ。」というのは「人は死ぬ。」に比べて小さなせまい部分を扱った認識で、この個別的で具体的な認識が「人は死ぬ。」という大きなひろい部分を扱った認識に、普遍的で抽象的な認識にふくまれることで、認識が立体的に発展していくわけです。※
この箇所では、
・「人が死ぬ。」=小さなせまい部分を扱った認識=個別的で具体的な認識
・「人は死ぬ。」=大きなひろい部分を扱った認識=普遍的で抽象的な認識
と三浦は言っていると思うのですが、それは間違っている、とおっしゃるのですか?
色々おっしゃるのは構いませんが、まず、イエスノーで答えてからにしてもらえますか?
簡単な質問ですよね?
何か言いたければ、その後にしてください。
No.27
- 回答日時:
>・象は鼻は長いが尻尾は短い。
という文を否定できるのですか?
「文を否定できる」とは何を言っているのですか。
そもそも雑な、読み、理解しか出来ずに、批判など烏滸がましいことを先ず理解すべきです。
その実態を指摘しておきます。
聞いたばかりの用語の意味や関連を理解することなく、雑な思い込みに結びつけて提示してもしょうがありません。
>彼は、これらの例から、
(ア-1a)=小さなせまい部分=個別性=「が」
(イ-1a)=大きなひろい部分=普遍性=「は」
という分類を提議することになる。
たしかに、
・小さなせまい部分=個別性
・大きなひろい部分=普遍性
という箇所は正しい。
三浦は、そんな粗雑な分類など提議していません。
>※「人が死ぬ。」というのは「人は死ぬ。」に比べて小さなせまい部分を扱った認識で、この個別的で具体的な認識が「人は死ぬ。」という大きなひろい部分を扱った認識に、普遍的で抽象的な認識にふくまれることで、認識が立体的に発展していくわけです。※
と述べている。
と引用しているように、
「人が死ぬ。」というのは「人は死ぬ。」に比べて《小さなせまい部分を扱った認識》で、この《個別的で具体的な認識》
「人は死ぬ。」という大きなひろい部分を扱った認識に、《普遍的で抽象的な認識》にふくまれることで、《認識が立体的に発展していく》
のであって、
・小さなせまい部分=個別性
・大きなひろい部分=普遍性
と、《部分》を《個別性や普遍性》などと呼んではいない。この誤認、誤解に基づき、全ての論理、批判が展開され、ピント外れな、頓珍漢な質問が執拗に繰り返されていることをまず、自覚、反省すべきである。■
ご回答ありがとうございます。
1.
>・象は鼻は長いが尻尾は短い。
という文を否定できるのですか?
⇒「文を否定できる」とは何を言っているのですか。
:
『主題をバーゲンセールしてどうするの?』
という問いにお答えしたものですが、意味が通じませんでしたかね?
2.
>「人が死ぬ。」というのは「人は死ぬ。」に比べて《小さなせまい部分を扱った認識》で、この《個別的で具体的な認識》が「人は死ぬ。」という大きなひろい部分を扱った認識に、《普遍的で抽象的な認識》にふくまれることで、《認識が立体的に発展していく》
のであって、
・小さなせまい部分=個別性
・大きなひろい部分=普遍性
と、《部分》を《個別性や普遍性》などと呼んではいない。
:
へえ~?
・「人が死ぬ。」=小さなせまい部分を扱った認識=個別的で具体的な認識
・「人は死ぬ。」=大きなひろい部分を扱った認識=普遍的で抽象的な認識
と言っていると思うのですが、違うのですか?
No.26
- 回答日時:
>どこがトートロジーなんですか?
具体的に示してください。
それくらい、自分で考えなさい。
甘ったれるじゃないよ。
>バーゲンセールがいけないのですか?
主題をバーゲンセールしてどうするの?
変に感じない感性が恐いですU~↑
■
ご回答ありがとうございます。
>どこがトートロジーなんですか?
具体的に示してください。
⇒それくらい、自分で考えなさい。
甘ったれるじゃないよ。
:
つまり、どこがトートロジーなのか根拠を示すことができない、ということですね。
根拠なしに批判するのは、無智な人間のやることですよ?
事実でないことを根拠に論を展開するという不毛を招来することになりますのでね。
>主題をバーゲンセールしてどうするの?
:
何に対しての主題なのか、という基本について考えないとダメですね。
小学生でもわかる基本中の基本です。
・象は鼻は長いが尻尾は短い。
という文を否定できるのですか?
No.24
- 回答日時:
>こういう簡単な構成ですよ。
何が不思議なのかな???テンコ盛りでは、何が主題か判りませ~ん!
そもそも、主題って何なの????
今【は】山中 今【は】浜
今【は】鉄橋渡るぞと
思う間も無く トンネルの
闇を通って広野原(ひろのはら)
文部省唱歌『汽車』
『汽車』は主題じゃないの?
■
ご回答ありがとうございます。
>そもそも、主題って何なの????
:
「中心となる題目・問題。」では?
そんなこともわからないの?
>今【は】山中 今【は】浜
今【は】鉄橋渡るぞと
思う間も無く トンネルの
闇を通って広野原(ひろのはら)
文部省唱歌『汽車』
『汽車』は主題じゃないの?
:
文部省唱歌『汽車』は、『汽車』を主題とした歌ですよ。
それがどうかしましたか?
No.23
- 回答日時:
>『主題のテンコ盛り』をしてはダメなのですか?
主題とは何ですか?
テンコ盛りの主題では、何が主題なの~?
中学生も頭をひねってしまいますU~!
■
ご回答ありがとうございます。
>テンコ盛りの主題では、何が主題なの~?
:
・流れ流れて さすらう旅【は】⇒「さすらう旅」について言ってみれば、と主題提示して、以下の歌詞全体につなげている。
・きょう【は】函館⇒「きょう」について言ってみれば、函館(へとさすらう)
・あした【は】釧路⇒「あした」について言ってみれば、釧路(へとさすらう)
こういう簡単な構成ですよ。
何が不思議なのかな???
No.22
- 回答日時:
><「は」が示せるのは主題提示という意義だけ。
>だよね。当然です。
そう。
>あした【は】釧路
というシチュエーションを想定した【特殊性】の「きょう」を主題にしているわけよ。
【特殊性】はな~に。
後に、主題と着ければ何でもありで、主題のテンコ盛りですね。
ハッハッハ!
■
ご回答ありがとうございます。
流れ流れて さすらう旅【は】
きょう【は】函館 あした【は】釧路
希望も恋も 忘れた俺の
肩につめたい 夜の雨
>あした【は】釧路
というシチュエーションを想定した【特殊性】の「きょう」を主題にしているわけよ。
⇒【特殊性】はな~に。
後に、主題と着ければ何でもありで、主題のテンコ盛りですね。
:
それがどうかしましたか?
『主題のテンコ盛り』をしてはダメなのですか?
No.21
- 回答日時:
ご回答ありがとうございます。
No.20
>脳みそ腐っとるん?
脳味噌あるん?
シチュエーション:特に小説・劇・映画などで、登場人物のおかれている境遇。よ!
>『旅』を主題提示している。
主題ってな~に。いっぱいあるね。
>普通の旅じゃないという意味で、特殊性の側面を認識しているところの『旅』を主題提示している。
なんでもござれで、一言、最後に<主題提示している。>と言えばいいのですか。
便利で重宝しますね。
>最初から対比の意図があるから、
語の意義と意味の関係がわかっとるんか?
>シチュエーションを想定した特殊性の「あした」なわけよ。
ん!
これも主題?
まあ、演歌解説にはもってこいだね!
もう一曲いこうか!
今【は】山中 今【は】浜
今【は】鉄橋渡るぞと
思う間も無く トンネルの
闇を通って広野原(ひろのはら)
文部省唱歌『汽車』
『汽車』は主題じゃないの?
ついでに、
鳥が 飛ぶ 時に【は】空気が動く。
鳥【は】飛ぶときに【は】羽を こんな風にする。
<「は」が示せるのは主題提示という意義だけ。>だよね。
ご回答ありがとうございます。
1.
>なんでもござれで、一言、最後に<主題提示している。>と言えばいいのですか。
便利で重宝しますね。
:
当たり前ですよ。
それが「は」の意義なのだから。
何をいまさらおっしゃっているのか、しっかりしてください。
実際は『なんでもござる』のに、『なんにもなき』としか認識できないご自分の不明を反省しましょう。
2.
>語の意義と意味の関係がわかっとるんか?
:
ご自分に問うべき課題ですな。(笑)
今回のことで、それが実証されました。
3.
>『汽車』は主題じゃないの?
:
それは歌の主題です。
汽車の動きによって生じる種々の事象を「は」によって主題として取り上げ歌詞にしているわけ。
ご理解いただけましたでしょうか?
ちょっと考えれば簡単なこと。
4.
>鳥が 飛ぶ 時に【は】空気が動く。
鳥【は】飛ぶときに【は】羽を こんな風にする。
<「は」が示せるのは主題提示という意義だけ。>だよね。
:
当然です。
a.鳥が 飛ぶ 時に【は】空気が動く。
《[鳥が 飛ぶ 時] という時点に着目した状況》を主題提示しているわけ。
・《[鳥が 飛ぶ 時] という時点に着目した状況》について言ってみれば、空気が動く。
b.鳥【は】飛ぶときに【は】羽を こんな風にする。
まず骨子を押さえましょう。
鳥【は】(飛ぶときに【は】)羽を こんな風にする。
という構造になっている。
・鳥について言ってみれば、(飛ぶというときについて言ってみれば、)羽をこんな風にする。
どこが不思議なのか?
こんなことがわからんようじゃ、基礎がなっとらんね。
No.20
- 回答日時:
早速の応答をありがとうございます。
>特殊性の側面を認識しているところの『旅』。
あれれ?
<「は」が示せるのは主題提示という意義だけ。>ですよね。
主題はどこへ行きましたか?
>『きょう【は】函館』がシチュエーション。
大好きな辞書を見ましょう。
シチュエーション【situation】
① 状態。事態。状況。局面。場合。場面。
② 境遇。また、特に小説・劇・映画などで、登場人物のおかれている境遇。
「きょう」が主題で、『きょう【は】函館』がシチュエーション?
語の意義と、文の意味がごたまぜですね。
きちんと用語を理解し、区分して使用しましょう。
あいかわらず、チャランポランな日本語、用語ですね。
文法とは何か、語の意義とは何か、理解できていますか?
少し、文法書を読み用語を学びましょう。
色々、読まねばならない本がいっぱいですね。
丁度、読書の秋です。
物言えば唇寒し秋の風
芭蕉
■
ご回答ありがとうございます。
>・旅【は】⇒『流れ流れて さすらう』がシチュエーション。⇒普通の旅じゃないという意味で、特殊性の側面を認識しているところの『旅』。
⇒あれれ?
<「は」が示せるのは主題提示という意義だけ。>ですよね。
主題はどこへ行きましたか?
:
脳みそ腐っとるん?
・旅【は】⇒『流れ流れて さすらう』がシチュエーション。⇒普通の旅じゃないという意味で、特殊性の側面を認識しているところの『旅』を主題提示している。
>・あした【は】⇒『きょう【は】函館』がシチュエーション。⇒『きょう【は】函館』に対比させるという意味で、特殊性の側面を認識しているところの『あした』。
⇒「きょう」が主題で、『きょう【は】函館』がシチュエーション?
:
「あした」が主題で、『きょう【は】函館』がシチュエーション。
『きょう【は】函館』に対比させたい状況であることが、設定されているだろ?
最初から対比の意図があるから、
『きょう【は】函館』と言う場合も、
あした【は】釧路
というシチュエーションを想定した特殊性の「あした」なわけよ。
こんな簡単なことが理解できんようじゃ、三浦先生の弟子は務まらんよ?
暑き日を海にいれたり最上川
No.19
- 回答日時:
#17 のお礼に応えて
>シチュエーション無しに認識ができるとは初耳ですね。
「は」が示せるのは主題提示という意義だけ。
それによって語ろうとしているのが内包か外延かはシチュエーション次第で左右される。
流れ流れて さすらう旅【は】
きょう【は】函館 あした【は】釧路
希望も恋も 忘れた俺の
肩につめたい 夜の雨
シチュエーション無しに認識ができませんか。
主題がいっぱいですね。
はっはっは!
内包か外延かはシチュエーション次第で左右されてどうなるの?
■
ご回答ありがとうございます。
>
流れ流れて さすらう旅【は】
きょう【は】函館 あした【は】釧路
希望も恋も 忘れた俺の
肩につめたい 夜の雨
シチュエーション無しに認識ができませんか。
:
シチュエーション大有りですがな。
・旅【は】⇒『流れ流れて さすらう』がシチュエーション。⇒普通の旅じゃないという意味で、特殊性の側面を認識しているところの『旅』。
・あした【は】⇒『きょう【は】函館』がシチュエーション。⇒『きょう【は】函館』に対比させるという意味で、特殊性の側面を認識しているところの『あした』。
つまり、どちらも外延のひとつ。
・旅はいいなア。
の場合は、「いいなア」がシチュエーション。
旅というものは、という意味であり内包としての普遍性の側面を認識している表現。
「旅は」だけじゃ何もわからない。
冠二郎なんて知らない、とリンダが言ってます。
ま、しかし彼の歌の中ではマシなほうですな。
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失礼。
訂正です。
×
『きょう【は】函館』と言う場合も、
あした【は】釧路
というシチュエーションを想定した特殊性の「あした」なわけよ。
〇
『きょう【は】函館』と言う場合も、
あした【は】釧路
というシチュエーションを想定した特殊性の「きょう」を主題にしているわけよ。