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三浦つとむ著 「日本語はどういう言語か」ーc.「<助詞>「が」と「は」の使い分け」(189ページ~)を批判する形で、個別性・普遍性・特殊性についての私見を展開します。

1.
冒頭、三浦は、

(ア-1)(事故に遭った重傷者を目の前にして)人が死ぬ。早く救急車を。
(イ-1)(如来でも死を免れることはできないという意味で)人は死ぬ。いやでも死神は訪れてくる。
という例を挙げ、
※「人が死ぬ。」というのは「人は死ぬ。」に比べて小さなせまい部分を扱った認識で、この個別的で具体的な認識が「人は死ぬ。」という大きなひろい部分を扱った認識に、普遍的で抽象的な認識にふくまれることで、認識が立体的に発展していくわけです。※
と述べている。

彼は、これらの例から、
(ア-1a)=小さなせまい部分=個別性=「が」
(イ-1a)=大きなひろい部分=普遍性=「は」
という分類を提議することになる。
たしかに、
・小さなせまい部分=個別性
・大きなひろい部分=普遍性
という箇所は正しい。
しかし、そもそも、これらが、およそ表現の対象となる、あらゆる実体に存する概念であるのは明白な事実なのだから、それを「が」と「は」の分類(使い分け)に適用することはできない。
これが彼のそもそもの誤りである。
(ア-2)(事故に遭った重傷者を目の前にして)人は死んでない。早く救急車を。
(イー2)(如来でも死を免れることはできないという意味で)人が死ぬのを見るのはいやなものだ。
といった表現を想定すべきであった。
整理すると以下のようになるだろう。

(ア-1)(事故に遭った重傷者を目の前にして)人が死ぬ。早く救急車を。⇒個別性・特記の「が」
(ア-2)(事故に遭った重傷者を目の前にして)人は生きている。早く救急車を。⇒個別性「は」
(イ-1)(如来でも死を免れることはできないという意味で)人は死ぬ。いやでも死神は訪れてくる。⇒普遍性「は」
(イー2)(如来でも死を免れることはできないという意味で)人が死ぬのを見るのはいやなものだ。⇒普遍性・中立叙述の「が」

つまり、三浦の言う【この個別的で具体的な認識】とは、
(ア-1)個別性・特記の「が」
(ア-2)個別性「は」
の双方に適用されるべき概念であることがわかる。
(イ-1)普遍性「は」
(イー2)普遍性・中立叙述の「が」
と続ければスッキリした分類になる。
「個別性」と言いたい場合は、
「ガ」ー(ア-1)
「ハ」ー(ア-2)
の両方があるわけだが、この点で彼は最初からボタンの掛け違いをしていたことになる。

2.
こうした勘違いに気づかないまま、彼はさらに論を進める。
a.
たとえば、
(ウ)象は鼻が長い。
という例を挙げながら、
(エ)鼻は象が長い。
という(自らの勘違いを露呈してしまうような)例は挙げていない。
挙げると、「鼻」は「象」に比して『大きなひろい部分=普遍性』ではないから、
(イー1a)=大きなひろい部分=普遍性=「は」
という定立に反してしまうわけだ。

b.
さらに、
からたちの花[が]咲いたよ
白い白い花[が]咲いたよ
からたちのとげ[は]いたいよ
靑い靑い針のとげだよ
からたち[は]畑の垣根よ
いつもいつもとほる道だよ

という童謡「からたちの花」を挙げ、次のように言います。
※「花が」は花についての個別的な扱い方ですが、「とげは」になると、からたちの認識がさらに大きく広がるだけでなく、花ととげとのちがいを、針の持っている性質や色の特殊性を扱っています。
さらに「からたちは」になると、からたちの認識はヨリ以上に大きく広くなり、四季を通じて「いつもいつも」変ることのない普遍的なありかたを扱っているのです。
そして、ここから、「は」には特殊性を扱う場合と普遍性を扱う場合と二種類の使い方があるという、重要な事実を読みとることができます。※

彼は、『からたちのとげ[は]いたいよ』を『花ととげとのちがい』と解釈したのです。
その場合、「とげ」は本来「小さなせまい部分=個別性」のはずだが、「が」は使われていないから、
(アー1a)=小さなせまい部分=個別性=「が」
には該当しない。
かといって、「とげ」は『大きなひろい部分』ではないから、
(イー1a)=大きなひろい部分=普遍性=「は」
を適用するわけにもいかない。
それで、
※針の持っている性質や色の特殊性を扱っています。※
のように『特殊性』という新たな概念が(説明の手順として)登場することになった。
(なお、ややこしくなるので詳しくは触れないが、この歌詞は『花ととげとのちがい』を言っているわけではなく単に「とげ」について述べているのは自明のこと。つまり「とげ というものは」という意図の普遍性と解釈しても何ら差し支えはない)

c.
ところで、三浦の言う【個別的で具体的な認識】とは、すなわち、この「特殊性」と同義であるのは明らかではないだろうか。
ここで個別性と特殊性が交錯してしまうわけだが、彼はそこに気づいていないように思われる。
先の
(ア-1)個別性・特記の「が」
(ア-2)個別性「は」
(イ-1)普遍性「は」
(イー2)普遍性・中立叙述の「が」
という分類は、
(ア-1)特殊性・特記の「が」
(ア-2)特殊性「は」
(イ-1)普遍性「は」
(イー2)普遍性・中立叙述の「が」
と表記しても構わない。

しかし、三浦は、「は」に関して、
(ア-2)特殊性「は」
(イ-1)普遍性「は」
は残したものの、「が」に関しては、
(ア-1)特殊性・特記の「が」
(イー2)普遍性・中立叙述の「が」
を一緒にして「個別性」としてまとめてしまったことになる。
たしかに、【が】が【〇〇が△△】のように、指定(または特定)の意義を持つ助詞であることを思い起こせば、「個別性として指定(または特定)」する、という捉え方は自然だとは言える。
また、個別的概念の中には常に特殊性・普遍性の双方が含まれるわけだから、まとめること自体に問題は無かったのだが、まとめることによって、その個別性が内包している特殊性・普遍性という解釈が置き去りにされてしまったのだろう。

d.
この個別性が内包している特殊性・普遍性について少し。

(カ)(ボールペンは日本製ですが)万年筆が外国製です。
⇒特殊性(特殊的個別性)
⇒(ア-1)特殊性・特記の「が」

(キ)万年筆が机から落ちた。 / 万年筆が欲しい。
⇒普遍性(普遍的個別性)
⇒(イー2)普遍性・中立叙述の「が」

3.
さて、三浦が気づくべきだった文例についてもうひとつあげておきたい。

 (ク-a)紫式部は源氏物語の作者である。

という同一判断を示す文である。
この場合、三浦の分類によるなら、紫式部は、
(イ-1a)=大きなひろい部分=普遍性=「は」
ということになる。
しかし、「大きなひろい部分(普遍性)」ではないから、特殊性と「消去法的に」断定せざるを得なくなるわけだ。
しかし、どう考えても、これが、

・清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識。

という意味を持たないのもまた明らかだろう。
まさに、無理が通れば(通ってはいないのだが)道理が引っ込む、の典型だろうが、ここに矛盾が発生することに三浦なら気づけたはずだ。
彼は、(からたち・象など)「大きなひろい部分をしめるもの」を普遍性と認識していたように見受けられる。
必然的に、「個別性」と「普遍性」という概念がバッティングするかのような印象を与えたのではないだろうか。
しかし、「普遍性」とは【宇宙・世界の全体にかかわっていること。また、特殊・個物に対して、ある部類に属するすべての事物に共通する性質。】(明鏡国語辞典)である。
つまり、「全体にかかわっている、共通する性質」のことと言えるだろう。
全体そのものではなく【かかわっているもの】だということ。
また、あらゆる実体が普遍・特殊という矛盾を抱えつつ存在している個別性であることは自明のことである。
このように考えることができれば、(普遍性と個別性がバッティングするわけではないから)、
・「普遍性」は「は」の専売特許
・「個別性」は「が」の専売特許
だと言い張る必要もなくなる。

 (ク-a)紫式部は源氏物語の作者である。

は、

・紫式部(という普遍的個別性)について言ってみれば、(彼女は)「源氏物語の作者」である。

という素直な解釈が一般的に可能になるのではないか。
それにしても三浦は、
・紫式部は源氏物語の作者である。(同一判断)
・鯨は哺乳類である。(措定文)
など、A≦Bといった包摂関係について失念していたのではないか、としか思えないのは、わたしの読解力不足であろうか?

以上、かなり独断の混じった見解になっているかもしれませんが、諸賢のご見解をお聞かせくだされば有難く思います。

質問者からの補足コメント

  • 失礼。
    訂正です。

    ×
    『きょう【は】函館』と言う場合も、
    あした【は】釧路
    というシチュエーションを想定した特殊性の「あした」なわけよ。


    『きょう【は】函館』と言う場合も、
    あした【は】釧路
    というシチュエーションを想定した特殊性の「きょう」を主題にしているわけよ。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/08 22:38

A 回答 (28件中1~10件)

三浦つとむもあの世でくしゃみをしているか、呆れかえっていることでしょう。



下らない与太話をしていないで、『認識と言語の理論1~3』を通読しましょう。

最も、『日本語はどういう言語か』自体、全く理解できていませんね。

まだ、一度も通読できていません。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>下らない与太話をしていないで、

どういった点が『下らない与太話』なのか、その根拠を挙げられないようではどここもならんがな。

お礼日時:2019/09/06 21:40

ごめんなさい。

正直最後まで読めませんでした。
書かれるのに凄い時間がかかったでしょうに。

人が死ぬ、早く救急車を。
死にそうだから、早く救急車を。

人は死ぬ。いやでも死神は訪れてくる。
人に限らず生き物は、必ず死にます。

私にわかるのは「が」は格助詞で、「は」は係助詞だけです。

同じ読むなら、私は「雨ニモマケズ」を選びます。
(著作権終了につき転記)

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2019/09/06 21:40

人が死ぬ。

早く救急車を。
人は生きている。早く救急車を。

 どちらも不自然では。
「運転手が死ぬ。早く救急車を。」
「運転手は生きている。早く救急車を。」
 ならかなり自然に感じます。

 以下、当方にはよくわかりません。
 ただ、三浦(やその信者)が原点にしているのがなんなのか不明です。下記の疑問を感じて以来バカバカしくて何も書けません。どう考えればよいのでしょう。信者はなんの説明もしてくれません。
〈それより、個別/特殊/普遍の概念と判断の立体的な構造をきちんと理解して下さい〉って、何を言いたいのか。そんなことを断定的に書けばごまかせるとでも思っているのでしょうか。

===========引用開始
 しかもこれが「分かり易い解説」ですか。
 素朴な疑問なんですが……。
〈A 定有の判断 (Urteil des Daseins)(個別性の判断)〉は3つに分類できるんですよね。
 その分類とは下記なんですよね。
a 肯定判断――バラは赤い。
b 否定判断――バラは青ではない。
c 無限判断――バラは象ではない。

 ゲップが出るほど繰り返されている
〈「が」は、対象の個別性の側面を捉え、「は」は対象の普遍性、特殊性の認識を表わす〉などというのはどこに行ってしまうのでしょう。
 訳のわからない伝言ゲームの結果、どこで何がゆがんだのでしょう。

 さらに言うと、異端の文法においては、「普遍性の認識」「普遍性の表現」のほかに「普遍性の判断」「普遍的概念」もあるんですね。もう何がなんだか。 
===========引用終了
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人が死ぬ。早く救急車を。
人は生きている。早く救急車を。

 どちらも不自然では。
「運転手が死ぬ。早く救急車を。」
「運転手は生きている。早く救急車を。」
 ならかなり自然に感じます。

なるほど。
まあ、しかし、間違いでなければ大目に見てやってください。
適切な例がなかなか浮かばないこともママありまして。

> 以下、当方にはよくわかりません。

わたしとしてもかなり長い時間こねくり回した論理を展開していますので、ややこしい内容になっているとは思っております。
疑問点に関しては、部分的にでも質問していただければ、補足説明させていただきます。

>〈それより、個別/特殊/普遍の概念と判断の立体的な構造をきちんと理解して下さい〉って、何を言いたいのか。

三浦自体が勘違いしている(と個人的にはほぼ確信している)ので、弟子連中が『きちんと』説明できるわけがないのだと思いますよ。
今回は、その勘違いの根拠について問うています。

>そんなことを断定的に書けばごまかせるとでも思っているのでしょうか。

そう思われても仕方のない対応しかしてませんね、現状は。(笑)
最悪なのは、矛盾点を指摘すると、無視と詭弁という伝家の宝刀を惜しげもなく振り回す点ですかね。(笑)

お礼日時:2019/09/06 21:57

No.3 の質問に答えて。



>ただ、三浦(やその信者)が原点にしているのがなんなのか不明です。

唯物弁証法の論理に基づく科学的世界観です。

「自然言語処理研究の考え方」
http://unicorn.ike.tottori-u.ac.jp/ikehara/paper …
 
(従来の研究が形而上学的限界をもつこと、そしてそれを超える認識が言語の過程的構造に目を向けることであることを示し)
 
(1)科学的認識
 科学的認識の原則は、対立相互浸透の原則、量質転化の原則、二重否定の原則の3つの原則にまとめられる(図3)。これらの原則から自然に対する認識として、
   「自然は過程の複合体であり、矛盾の複合体である」
とする科学的世界観が導かれる。原因があって結果があり、その結果は次の原因となると言う原因結果の同時性と万物変化の原則、種々の矛盾が調和され、調和が次の矛盾を生むことにより、矛盾を原動力として発展するとする対立物統一の原則などの存在を通して自然を見る見方である。自然科学では自然のこのような過程的構造の中に存在する法則性を発見し、その法則を通して現象を再現させ、自然をコントロールすることを可能にする。法則発見の意味は人間の経験を超えた現象を予知し、人間に役立つ方法で出現させる事に意味がある。経験に基き説明されたり、再現できる現象を扱うには何ら科学は必要ではない。
 自然言語も同様である。このような科学的認識で自然言語を捉えたものに言語過程説がある。言語は「対象」、「認識」、「表現」の過程的複合体であるとする時枝学説である。これは、言語では対象は話者の認識を通して表現に関係づけられること、また表現への関係づけに対して自然発生的で社会的な規範である言語規範(広義の文法)が媒介することの2点に着目した点に特徴があり、読者はこの規範を手がかりに、表現から話者の認識を見、それを通して対象のあり方を追体験することが可能となるとするものである。/

ということです。

(1)個別性と普遍性
(2)具体性と抽象性

も良く理解して下さい。

分かるかな?■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>分かるかな?

自分でもよく分かってないことを他人に強要するのはパンダでもやらないわよっ!

とリンダが言っております。

お礼日時:2019/09/06 22:04

No.3 の質問に答えて: おまけ



下記も参照下さい。

「言語の過程的構造と自然言語処理 」
http://www.kcn-kyoto.jp/~sat/data/publications/1 …

従来の計算言語学は強化されてきたとはいえ、 自然言語の持つ論理的な一側面しか説明できず、現実の言語には余りにも無力で、 計算言語学からみれば現実の言語は例外の集まりともいえる状態にある。 また、自然言語処理には意味処理、文脈処理、文章生成なと解決すべき困難な課題を抱えている。 現在、自然言語処理の研究は大きな転接点にさしかかっている。 このような時期に、従来の研究の方法、進め方を見直すことは、従来の研究の限界を打破し、 さらに自然言語処理の研究に新しい視点と方法論を打ち立てるためにも重要である。/

ということです。

「従来の研究の限界を打破し」なければならないことが理解できない、不勉強な過去の遺物はおいてきま~す!
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「従来の研究の限界を打破し」なければならないことが理解できない、:

しかし、アンタは打破アリキだからねえ・・黒ヘルの再来じゃあるまいし。(笑)
限界であることを論理的に説明できんのかよ、このボケ!
と(私じゃなく)リンダが言っております。

お礼日時:2019/09/06 22:02

No.3でコメントした者です。


 念仏コメントに埋められないうちに……。

 はじめて「普遍性」と「特殊性」というのを見たとき、「特殊性」は「対比」を少しかえただけ、と思いました。
 ただ、「主題提示」と「普遍性」がかなりズレている気がして。
 当方が考えるに、漠然と主題を提示した段階では「主題提示」、対比概念が出ていた段階で「対比」ではないかと。
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12285486151.html
===========引用開始
①大食い自慢の彼ハ、実際には牛丼を2杯しか食べられなかった。
②僕ハもっと食べられる。
③たぶん4杯ハ食べられる。
④でも、5杯ハ無理だな。
(……実際に食べてみる)
⑤4杯ハ食べられると言いハしたけど、考えが甘かった。
⑥3杯でギブアップだった。

 ①だけなら「主題」と考えるのが素直だろう。①②がセットになったら「対比」でいいだろう。
 ③は「限度・強調」だろう(微妙なことが多いので、この分類にした)。どちらにもとれる。これが④だと「限度」だろうな。
 ⑤の1つ目も「限度」だろう。これがペロリと食べたのなら「強調」になりそう。
 メンドーなのは⑤の2つ目。『日本語練習帳』が「再問題化」と呼んでいるのは、こういう用法らしい(正確にはわからない)。  
===========引用終了

 mixiにログインできるなら、下記をご覧ください。
 それまで読ませられていた念仏コメントよりはずうっとマシで、これなら少しやり取りしてもいいのかな、と考えました。例の調子で拒否されました……。あとはグダグダです。
【「は」と「が」】外伝 初心者にもわかる助詞の「ハ」の使い方
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=8309 …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 当方が考えるに、漠然と主題を提示した段階では「主題提示」、対比概念が出ていた段階で「対比」ではないかと。

どんな場合であっても、A を主題提示することは、それ以外の主題提示をしないことを意味します。
その意味では常に対比の要素はあるのでしょう。
あとは、その対比を強く意識するかしないかの違いと思います。
使い分ける場合、複数について主題提示すれば必然的に対比の意味になりますから、特に対比のときは「は」を使う、と明示する必要はないかと。
また、すでに触れられてもおりましたが、「が」でも対比は可能ですしね。
すでにある文を解釈する場合も、対比の意図を読み取ることは左程難しくないと思うので、特に分類基準とする必要はないかなと考えるわけです。
可能な限りシンプルにしたい。
しかし、補足として提示しておくほうが良いかもしれず、考えてみます。

相変わらず緻密な検証をなさっておられますね。
>①大食い自慢の彼ハ、実際には牛丼を2杯しか食べられなかった。

これは、《「大食い自慢」という特殊な側面から見た彼》という意味で特殊性ですね。
そういった「特殊性の側面からとらえた彼」を主題提示している。

『「私」や「君」や「彼女」ではなく、「彼」という人称の特殊性の認識の表現です。』
といった勘違いする人もいるようなので注意が必要。
こうした勘違いを真に受けていると混乱の原因になります。
なにしろ、
・紫式部は源氏物語の作者です。
は、
「清少納言でもなく小野小町でもなく、紫式部」という特殊性の意味だと公言して憚らない御仁ですから。(笑)

>⑤4杯ハ食べられると言いハしたけど、考えが甘かった。

1.4杯ハ食べられる⇒「4杯(特殊性)という分量について言えば、それは食べられる」
2.と(引用)、
3.言いは⇒「言う(普遍性)という動作について言ってみれば、それはしたけれど」、
4.考えが甘かった。

1の「は」を限度と解釈できるのは数量を主題提示しているからなのでしょう。
限度を分類基準にすると、
・どんなに食べても4杯が精いっぱいです。
などの表現もありますのでね。

お礼日時:2019/09/07 16:07

No.6 について;



>当方が考えるに、漠然と主題を提示した段階では「主題提示」、対比概念が出ていた段階で「対比」ではないかと。

なにをグダグダ念仏コメントを並べているのですか。

語の意義と文の意味の媒介関係が全く理解できていません。

語の意義がそのまま文の意味に変化するというしかないソシュールパラダイム下の発想の欠陥です。

分かりますか?■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>語の意義がそのまま文の意味に変化するというしかないソシュールパラダイム下の発想の欠陥です。

分かりますか?

三浦パラダイムへの批判について、まともな反論もできないくせに、偉そうなこと言ってんじゃね~よ。

とリンダが呆れております。

お礼日時:2019/09/07 15:35

#5 のお礼に答えて



>限界であることを論理的に説明できんのかよ、このボケ!
と(私じゃなく)リンダが言っております。

論理的に説明されているのが理解できんのかよ、このボケ!

と(私じゃなく)リンダがお臍を出しつつ言っております。■
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#1 のお礼に答えて



>どういった点が『下らない与太話』なのか、その根拠を挙げられないようではどここもならんがな。

それが、自覚できないのが最悪です。■
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#9 に応えて



>その根拠を挙げられないようではどここもならんがな。

分からんのが最悪ですが、まあ少し説明しておきましょう。

>およそ表現の対象となる、あらゆる実体に存する概念であるのは明白な事実なのだから

以前紹介したと思いますが、山内志朗『普遍論争―近代の源流としての』(平凡社ライブラリー;2007 )から、最初の部分を引用しておきましょう。

「普遍論争」は中性における最大の論争であって、発端はポルヒュリオスの『イサゴーゲー』(アリストテレス、カテゴリー論入門)の一節にあるとされています。

例えば、まず第一に類と種に関して、それが客観的に存在するのか、それとも単に虚しい観念としてのみあるのか、また存在するとしても、物体であるのか、非物体的なものであるのか、また〔非物体的なものであるならば〕離在可能なものなのか、それとも感覚対象の内に、これらに依存しつつ存在するのか、という問題については回避することにする。
 
 ポルヒュリオスがここで答えを出さなかったから、中世の哲学者は普遍について議論を重ねたといわれることもあります。そして、中性哲学の全体を貫く最も重大な問題は「普遍」の実在性の問題であり、スコラ哲学はそれと共に始り、それと共に終わった、と述べられもします。

 この普遍がどう捉えられるかについては、中世哲学において、様々な見解が出され、激しく議論されたものですが、通説によると大きく分けて三つになるとされています。実在論、概念論、唯名論というようにです。/

これが最終的に解決されたのは、ヘーゲルを通じ、マルクス/エンゲルスによる唯物弁証法の論理によりますが、そこでは抽象の論理が重要です。

点や線や面、絶対精神がポコンと実在すると考えるようではどうしようもありません。

この点は、エンゲルスが『反デューリング論〈上巻〉―オイゲン・デューリング氏の科学の変革 (1974年) (岩波文庫) 』の「第一篇 哲学 第三章 分類・先天主義」でも論じているところです。

こうした経緯を理解することなく、習い覚えた粗雑な単細胞的理解で「あらゆる実体に存する概念」などと論じても中世普遍論争のレベルを超えることはできません。

まずは、この辺の基礎的な理解が必要です。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

論点を外すのが趣味ですか?(笑)
まあ、博識を開陳していただけるのは有難いですし参考にはなりますが、せめて、論点に対して適確なご見解を示すこともお忘れにならないよう、お願いしたいものです。

お礼日時:2019/09/07 17:51

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