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防府天満宮について質問です。菅原道真が大宰府に向かう途中、防府に寄ったのは、防府に国府があったからでしょうか?防府天満宮は菅原道真が亡くなった翌年に道真公を主神として祀ったそうですが、それ以前に神社自体はなかったのでしょうか?菅原道真が防府に立ち寄ったとき、具体的に例えば宿泊施設があったからたちよったとか、他に何か目的があったとか、そういうのが想像出来ません。Wiki読んでもイメージがわきません。
どなたかイメージが膨らむように教えていただけないでしょうか?

A 回答 (2件)

ちょこっとばかりですが調べてみましたが、天満宮以前に神社などがあったという話などは見当たりませんでした。



防府天満宮の裏の山を天拝山または酒垂山と呼びますが、天拝山は天満宮が出来てからの呼び名でしょうし、酒垂山は東大寺再建の1200年ころを起源にもつ呼び名のようです。防府天満宮の江戸時代までの呼び名の酒垂山満福寺も、こちら起源の名前ですね。
ただ、菅原道真自身もこの山に登ったと記録があるらしく、なんらかの信仰などの対象にすでになっていたのかもしれません(単に国府の近くの山だったというだけかも?)。
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この回答へのお礼

お調べいただきありがとうございます!確かに、天満宮の裏手に今も酒垂山というのがあって、石碑があります。ここに登って、なんか話したっていう記述は見たのですが、ただの登山だったとしたら「標高低っ」って思いました。でもその頃にはやっぱりまだ神社らしきものはなくて、亡くなった後に神社を作ったんでしょうね。道真公のご逝去翌年には彼を祀って神神社にしたと思うのですが、まだ天満宮という形ではなく、ただの神社だったのでしょう。だって、死後約100年くらいは都で不吉なことがあって、道真公の呪いだのなんのと言って騒いで、その後雷神と結びつけて、またその後学問の神様になったんですもんね。

お礼日時:2019/12/17 14:58

その国府にいた国司が、道真の知人だったかららしいです。



国司が、多治有友なのか土師信貞なのははっきりしないらしいのですが、多治有友は道真の門下の人物らしく、まぁ昔育てた部下みたいな人ですね、たぶん。土師信貞は親戚のようなもの(菅原一族は土師一族から出たらしい)で、付き合いも長かった人だったのでしょうか。一般的?には土師氏が国司だったと言われているようです。

というより、防府を去る時の言葉がヒントになると思います。ここを去ると(いよいよ海の向こうの)九州なので、京と地続きのこの地に居たい(無実の知らせを待ちたい)、みたいなことを言ってるので・・
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この回答へのお礼

立ち寄り先としては本州最後って事でセンチメンタルになってたのはあるでしょうね。その時既に神社はあったんでしょうか?

お礼日時:2019/12/14 12:19

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