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倭寇を征伐しに対馬に来たのですが,
結局これは朝鮮対倭寇の戦だったのですか。

それとも倭寇ではない対馬の兵士や民にも
被害があったのですか。

ウィキを読んだのですが,詳しすぎてかえってわかりにくいです。
シンプルに教えていただけますか。

A 回答 (1件)

対馬に上陸した李氏朝鮮軍は対馬守護・宗貞盛に書を送ったが、返答はなかった。


すると島内の捜索を開始。その過程で船を焼き払い、
1939戸の家を焼き、114人を殺め(あやめ)、
田んぼの穀物を刈っていった。

このとき、対馬を守る武士の数は600人程度であり、
李氏朝鮮軍のわずか30分の1にすぎない。

どう考えても多勢に無勢であり、勝てるはずのない戦いであった。

しかし、李氏朝鮮軍は思わぬ苦戦を強いられる。
6月29日、3軍を構成して進攻していったが、そのうちの2軍は
宗資茂率いる対馬勢に阻まれた。

対馬勢はまともに挑んでは勝てないと判断して、
李氏朝鮮軍を内陸部に引き込んで急襲しようと考えたのだ。

この作戦が、見事にはまった。
対馬勢の放つ矢は面白いように命中し、また地の利をいかして散々に
奇襲攻撃を行ない、李氏朝鮮軍に大打撃を与える。

日本側の史料によれば李氏朝鮮軍は2,500もの損害を出したという。
戦力差を考えれば、考えられない戦果である(糠岳〈奴加岳〉の戦い)。

これを受けて、李氏朝鮮軍は一時撤退。
こうして膠着(こうちゃく)状態に陥ると、宗貞盛は
「7月に入ると暴風が吹くため、大軍が長期間留まるのはよくない」
との文書を送り、修好と撤退を呼びかけた。

簡単に攻め落とせないとわかった李氏朝鮮軍もこれを容れる。
結果、7月3日に対馬から朝鮮へ撤収することになった。

https://rekishi-ch.jp/column/article.php?column_ …
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この回答へのお礼

わかりやすい回答をありがとうございました。

やはりそうだったのですね。
倭寇と戦うためで,元々は宗氏と戦うつもりではなかったけれど,
区別できないし,争いになったと。

で,「もうやめようよ」という宗氏の申し出に応じ,
その後は良いお付き合いをしたのですね。

お礼日時:2019/12/18 14:45

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