ショボ短歌会

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11442193.html
の続きです。

問題点がNo.30 の回答に集約されているので、これを取り上げます。

>>私も所有(持ち主)という意識は必要だと思います。「に」という助詞にそういう意味がある訳でなく、「私に」「庭に」という形で使われる時、所有の意識が生まれます

これは、因果が逆転した捉え方で、<「私に」「庭に」という形で使われる時、所有の意識が生まれます>というのは、受け手の側の解釈の問題で、話者が何ゆえに格助詞「に」を使用したのかを明らかにするものではなく、単なる結果論に過ぎません。

<「私に」「庭に」の形になって、持ち主だったり、場所だったりするわけです。>も同様で、何故話者が<「私に」「庭に」の形>に表現したのかが明かにされなければ意味を為しません。

これでは、何故「に」が使用され「で」が使用されなかったのかを明らかにすることはできません。実際、こういう誤った教育、指導を受けた人々がどのような誤りを犯すかは、次の論考が問題にしていますが、残念ながら同じ発想に立つため問題解決に至っていないのが現状です。

岡田 美穂,奥田 俊博
<場所を表す名詞に下接する格助詞「に」「で」「を」について-日本語教育の観点に基づく先行研究の整理と課題->
https://kyukyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view …

飽きもせずに、「で」は到達点を表わすなどとピント外れの回答をされているかたもありますが、助詞が客体の認識を表わすものではないことが理解できない根本的な誤りです。

当然、助詞「は」と「が」の相違の解明など望むべくもありません。

このような発想が、言語実体観、言語道具観と言われるもので、対象→認識→表現の過程ではなく、表現→解釈→対象という受け手(聞き手)の側の結果を恣意的に解釈しているに過ぎません。

その結果、

>>「私に」に続くのは「ある」「いる」「できる」「分かる」「言える」(可能動詞)などは、一般に言われる「状態動詞」(それに類似した「状態を表す表現」に限ります。)であり、「動作動詞」ではありません。/

などと事実誤認に導かれます。

★私に行かせて下さい。
★私に呑めというのか。
★私に食べる時間を下さい。

など、<「私に」に続くのは「ある」「いる」「できる」「分かる」「言える」>だけではありません。これらの「に」が場所や所有とは何の関係もないことは自明です。

>>「私は」という、私を主題化したものは何にでつながりますから

「私は」の「は」には特殊性の認識を表わす副助詞と普遍性の認識を表わす係助詞があり、主題化云々という場合は係助詞の場合です。もっとも、主題とは何かの概念規定はなく、単に、「は」は主題、「が」は主語という同義反復、言い替えに過ぎませんが。

係助詞の場合は、

★庭は広い。
★庭は静かだ。

などの一般的な属性が続きます。特殊性の副助詞の場合は、

★玄関は広いが、庭は狭い。
★居間には猫を飼っており、庭には二羽の鶏を飼っている。
★家は立派だが、庭は質素だ。
★居間は三羽のインコ、庭は二羽の鶏が飼われている。

のようになります。

「には」「では」の「は」は特殊性の認識を表わし、主題云々とは関係ありません。

最初の質問で、

5)庭は二羽鶏がいる
5)だとほとんど×ではないかと。

というのは、単に機械的、形式的に「には」の「に」を削除し、「は」が係助詞なのか、副助詞なのかが不分明に使用されているためで、問題提起の発想自体に誤りがあります。

「ある」と「いる」の使い分けについては先に何度も説明した通りです。

このように、最初の質問にある「には」は格助詞「に」+副助詞「は」で、

1)庭には二羽鶏がいる。
2)私には弟がいる。

は全く同じ意義の「には」です。

こうした、言語表現とは何かという本質を理解できない人々が、非科学的、恣意的なSF文法を弄び、辞書の解釈を縦にしたり、横にしたりすれば何かが分かるのではないかと呉越同舟の同床異夢で慰め合っても何の解明、進歩もないことを先ず自覚、反省すべきではないでしょうか。■

質問者からの補足コメント

  • つらい・・・

    言い忘れましたが、

    >>非常に簡単なこの点において、なぜ食い違いが生じるのか

    は、ソシュール言語学の根底にある物自体の認識を不可とする不可知論というカント哲学の発想の呪縛にあります。

    スマホを使用し、原爆、人工衛星が実用化された現代人がこのようなパラダイムに呪縛されているのは奇妙なことですが、それを超える論理へと止揚されなければ、天動説を超えられないのと同じ事態です。

    >>文の解釈に、いったいどのような深刻な差異が生じるとおっしゃるのか?

    表現された結果としての文の解釈ではなく、話者の認識を文に表現しようとする時に、どのような深刻な差異が生じるかは、先に提示した「岡田 美穂,奥田 俊博」による論考が明らかにしています。

    そして、

    ・hakobulu=「に」は、着点を表わす。
    と表現するのが妥当と考えているところ。

    などという理解では、何の役にも立ちません。■

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/01/23 11:52
  • へこむわー

    日本語学習者用の本を見ると、ご丁寧に、格助詞「に」の説明として「到達点」と絵を書き、矢印で示しているものがあります。

    これでは、誤解しろと言っているとしか見えませんね。

    こうした現在の日本語教育文法の限界は、

    白 川 博 之
    「日本語研究から日本語教育研究への越境」
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihongonoke …

    で、

    かつて日本語教育からのニーズを背景に進展した日本語文法の記述的研究も、【今世紀に入る頃から目的を失い閉塞状態が続いている】という指摘がある。しかし、実際には、日本語学習者・教授者に供されうる文法記述にはまだ不足していることがたくさん残っている。/

    と、問題認識されてはいますが、「ソシュールパラダイム」を克服することなしに解決は得られないということです。■

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/01/23 17:57
  • うーん・・・

    なお、ここに述べられた格助詞「に」「を」の粗雑な誤った理解による教育が学習者を混乱させていることが、上記の「岡田 美穂,奥田 俊博」による論考他で指摘されていますので、拳拳服膺願います。■

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/01/24 00:49
  • どう思う?

    >>「場所・範囲を指定する」
    と解釈することによって、どのような問題が発生するのか?
    ということです。
    論点をずらさす簡潔にお答えいただけると有難いですね。

    このような誤った言語実体観の発想が、助詞「は」「が」構文の理解を如何に歪めるかという重大な問題の事例を「カキ料理構文」の解釈について指摘しました。

    「カキ料理構文」に見る「ハ」「ガ」論の混迷
    https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9262 …

    日本語教育における問題点は質問の中にて指摘の通りです。

    これらに対し無視、回避、論点をずらすことなく、お考えを伺えれば幸いです。

    簡潔でないのは、事柄の性質上避けがたいのは已むを得ませんが。■

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/01/25 10:45
  • >>都合の良い例を挙げましたね。

    ま、気持ちはわかりますが。(笑)

    などと逃げ回っているのはどこのどなたでしょうか。

    未だに、「私的には仮命題としての表現だが)と断っている」などという体たらくではどうしようもないのが理解できませんか?

    改心して、早めに牽強付会を脱しましょう。(笑)

    というより、言語とは何かを正しく理解し、論理的、科学的な文法理解を深めましょう。

    その一助として応答しているのですが。■

    No.61の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/02/05 10:01
  • なお、認知言語学の助詞論に対する批判は、

    認知言語学の欠陥を露呈する助詞論
    https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RYI …
    を参照下さい。

    所詮、この程度の代物です。■

    No.62の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/02/05 21:03
  • どう思う?

    なお、
    野田尚史
    <文の構造と機能からみた日本語の主題>
    https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_vie …

    を参照下さい。
    ここに、氏の機能主義的な発想が良く示されており、今日までそのパラダイムは変化していません。
    これは、生成文法、寺村秀夫の発想を引き継ぐものです。

    生成文法批判は、
    http://okrchicagob.moto-chika.com/DME/work/GJBHG …
    を参照下さい。■

    No.65の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/02/06 21:48
  • 【学研国語大辞典】

    のどこが、「言い得て妙」ですか。
    「時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定」とは、

    【助詞はそれ自体が ある事物(場所や所有者)や動作・状態を表す。】

    とし、さらに語が「指定する」という二重の錯誤を示しています。
    <「に=場所」だなんてことは、大辞林をはじめ、誰一人として言っていない>というのであれば、具体的に示してもらいたいものです。
    あなたの曲解を示されてもどうしようもありません。

    >>この~「(星が)またたく」ところの空間的な『位置であると認識していることを示している。

    まあ、この解釈自体は正しいのですが、<「に」は、動作の【着点】を表わします。>などと未だに回答しているようでは、単なる口先だけの云い逃れということです。

    ★「空に星がまたたく」

    の「に」が<動作の【着点】>ですか?(笑)

    まずは、トマス・クーン『科学革命の構造』を読みましょう。■

    No.67の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/02/07 00:45
  • 7.
    >>さあ、答えてもらいましょう。(笑)

    「了解しました。」じゃないのですか?
    ある程度の読解力が必要ですからね。

    >>あなたがおっしゃっていることも間違いだということになりませんか?

    なりません。
    「空間的な位置として【認識し表している】。」⇒これが目に入らぬか!たわけもの!
    助さん:御老公!いや少し、押さえて、押さえて!
    御老公:う~ん。頭に血が昇るわ! ここは茅ヶ崎じゃったか? ハッハッハ!
    チャンチャン! お粗末の一幕!

    <「に」は、動作の【着点】を表わします。>などと未だに回答しているようでは、単なる口先だけの云い逃れということです。

    ★「空に星がまたたく」

    の「に」が<動作の【着点】>ですか?(笑)

    ある程度の読解力が必要ですからね。■

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/02/07 16:58
  • この、近藤泰弘は日本語記述文法を提唱していますが、これがどの程度のものかについては、

    「羊頭狗肉のコンピューター検索事例集」
    https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3O …

    を参照下さい。

    また、格助詞「を」の意義が何かは、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』の200~201pで詳しく論じられています。これを【じっくり】読み、【深く】理解し、比較して下さい。

    目から鱗が落ちると思いますが、さてどうでしょか?■

    No.71の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/02/08 10:10

A 回答 (102件中1~10件)

#100です。



>【場所】を表わしている。≠【認識】を表わしている。
ぐらい中学生でも判るであろう。!
根本的にパラダイムが異なるのじゃ!

ここにアスナロウさんの根本的な間違いが凝縮されているね。
ここを徹底的に解明することで、自らの矛盾に気づける可能性が開けるだろう。
以下、今までのよしみで、及ばずながら、水先案内をしてみよう。
若干の重複はご寛恕願うとして、極めて重要な要素について述べさせてもらうので、安易に聞き流さないようお勧めする。

1.
あなたは、

(ウ)格助詞「に」は【場所である「庭」という】空間的な対象の位置付けの【認識】を表わしている。(アスナロウ)

という見解を述べている。つまり、

(エ)格助詞「に」は場所 [ である「庭」という空間的な対象の位置付けの【認識】]を表わしている。

と言ってるわけだ。
(エ)の [] 内を省略したからといって意味に重大な違いが生じるわけではないから、アスナロウさんも、

(オ)格助詞「に」は場所を表わしている。

という(辞書一般)と大差ない見解を示していることになる。

・赤は情熱という認識を表わしている。

・赤は情熱を表わしている。
がほとんど同じ意味であることと同様だ。
これはわかるよね?
比喩がどうたらとかいう言い訳は無用だ。
あくまで「表わす」という語の意味について理解してもらうための例文だからね。
さしづめ、

【場所】を表わしている。≒【認識】を表わしている。

とでも覚えると良いだろう。
話者は、「庭」が「いる」という動作の対象としての場所であることを認識しているからこそ、それ(=場所である「庭」)を空間的に位置付ける意義を持つ「に」を使って、

「庭には二羽鶏がいる」

と表現するのだよ。
まあ、本来は、

『それ(=場所である「庭」)を空間的に [着点として ] 位置付ける意義を持つ「に」を使って』

と記すのが正しいのだが、今のあなたはまだ理解が追い付いていないようだから [着点として ] という部分は敢えて外してある。
優しいだろ?(笑)
まあ、着点が気に入らなければ、あえて持ち出す必要はない。
それがなくとも、ご自身の矛盾点に気づくことはできるはずだという点が今は重要なのだから。
いずれにせよ、こういった根拠によって、そこにパラダイムの違いなど存在していないということは明白である。
存在していると言い張るのは、あなたの【妄想】です。
以下でさらに詳しく触れてみよう。

2.
さて、では、こうした妄想(【場所】を表わしている。≠【認識】を表わしている。)がどこから生まれてきたのか?
それは、偏に「表わす」、あるいは「示す」「指定する」という語の本質的意味をあなたがご存知ない、という点に収斂していくと思われる。
このことは、すでに、あなたが展開してきた複数の論文批判を読めば明白です。
読解能力の不足と共に何度も指摘してきたので、ここではあえて繰り返さないが、大元は、
【柴谷方良(まさよし)「助詞の意味と機能について―「は」と「が」を中心に―」】の下記箇所(※※)に関してであろう。

※ 「名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。このことについて山田孝雄『日本文法論』は次のように言う。「そのあらわせる観念の上より観察すれば助詞は単独にては何らの観念をもあらはし得ず、他の観念語に付属して其の義を認むるを得るのみ」そして、「その機能によりて観察すれば、助詞は観念語たる体言用言副詞に付属して其の意義を明にし、又それらの間の関係を示すに用いられる。」山田は、助詞の分類(記述)として、意義を中心としたものと、それらが示す関係すわち職能に根拠を求めるものとがあり得るが、上の引用でも明らかなように、「独立しては何の観念をもあらわしえるに関せず、他の品詞につきて関係を示すことによりて始めて意義を認め得らるるものなれば、その意義は関係に依存する」(549頁)ことから、助詞の研究は意義を主眼としたものでなく、職能を中心としたものでなければならないと説く。/※

この論文について、あなたは以下のように批判している。

《ここに指摘されているように、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】というのが日本語の真実です。つまり、助詞「に」や「で」が【ある事物や動作・状態】である【モノの存在場所を表わす】のではないということです。》(アスナロウ)

このような曲解を大元の根拠として、ソシュールパラダイムの呪縛云々(でんでん ではないよ?笑)と宣もうているわけだから、そりゃ、何を言っても通じないわけだ。
いちいち繰り返さないが、私は、論理的に、その矛盾について述べてきた。
しかし、あなたは反論が難しくなると、あらゆる手で論点をすり替えようとする。
あえて、その土俵に乗ってきたわけだが、論点のすり替えに成功したと思っているなら大間違い。
あまり究極まで追い詰める前にご自身で気づいていただきたかったからこその譲歩であったという点は付け加えておこう。
今回は、その本質的論点について述べているわけだから、よく聞いておくように。(笑)

さて、柴谷がここで言っているのは、たとえば

3)庭に二羽鶏がいる。

という文において、「庭」や「美しい」という名詞や形容詞は、【それ自体がある事物や動作・状態を指しているが】、「に」という【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】ということ。
あくまで「庭に」のように他の語とセットになってはじめてその意味を発揮できる、つまり、「に」という語自体が「何らかの事物や動作・状態そのもの」ではない、と言っているにすぎない。
あんたが言うように、
「に≠庭」だ。
と柴谷は言っているわけだ。

しかし、ここであなたは重大な過ちを犯している。
柴谷の本旨は、そのこと(「に≠庭」)ではないという点だ。
彼の本旨は何かと言えば、山田孝雄を引用した、
【助詞は単独にては何らの観念をもあらはし得ず、他の観念語に付属して其の義を認むるを得るのみ」】
という記述から明らかなように、
【(A)他の観念語に付属して其の義を認むるを得るのみ】という後半部なのです。
しかるにあなたは、
【(B)助詞は単独にては何らの観念をもあらはし得ず】という前半部のみに拘って彼の本旨を理解していないため誤謬につながっているわけだ。
山田が言っているのは、

【(B)助詞は単独にては何らの観念をもあらはし得ず】
つまり、「に≠庭」である。
同時に、
【(A)他の観念語に付属して其の義を認むるを得るのみ】
つまり、
・「庭に」の「に」は「庭」が場所であることを表わす。
ということ。
この表現が気に入らなければ、
・「庭に」の「に」は「庭」を空間的な対象として位置付ける【認識】を表わしている。
でもよいだろう。

あなたは読解能力の不足、および「指す」「表わす」の意味を理解しきれていないため、《(A)に関してこのように解釈してしまうと、(B)を否定することになってしまう》
と考えたのだと思う。
だから、つじつまが合わないとは感じながらも「に≠庭」という認識を守るため、必死で抗弁してきたわけだ。
しかし、そうではない。
誰も、「に≠庭」が間違いだとは言っていないのだよ。
【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】からといって、
【助詞は(それ自体ではないところの他の)事物や動作・状態を指さない。】というわけではない、と言っているにすぎない。
これを乗り越えれば、ソシュールパラダイムの呪縛などは妄想であったことが理解できるはずです。

因みに、
※「独立しては何の観念をもあらわしえるに関せず、他の品詞につきて関係を示すことによりて始めて意義を認め得らるるものなれば、その意義は関係に依存する」(549頁)ことから、助詞の研究は意義を主眼としたものでなく、職能を中心としたものでなければならない※
という記述からは、
助詞は、本質としての意義のみに拘らず、あくまで職能(文中の意味)を中心としたものでなければならない、という意図も読み取れる。
辞書語釈は、まさにこの職能の記載と言えるだろうし、また、基本的に意義も提示しているはず。

いずれにせよ、こういったことなので、辞書にいちゃもんをつけなくとも、あなたの主張が否定されるわけでないことがお分かりになったと思う。
早めにアスナロウパラダイムの呪縛から解放されて、新たな地平を切り開いていかれんことを祈念しておるぞ?(笑)
さみしいだろうが、これ以上時間を無駄にはできないので、今回はこの辺で失礼しよう。
お疲れさん。
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この回答へのお礼

>>ここにアスナロウさんの根本的な間違いが凝縮されているね。
~水先案内をしてみよう。

はっはっは!
威勢の良い誤った水先案内に恐れい入ります。

ここに、自己流、無手勝流文法理解が露呈し、ご破算になりました。
今回は、その本質的論点について述べているわけだから、よく聞いておくように。(笑)

>>山田が言っているのは、
【(B)助詞は単独にては何らの観念をもあらはし得ず】
つまり、「に≠庭」である。
同時に、
【(A)他の観念語に付属して其の義を認むるを得るのみ】
つまり、
・「庭に」の「に」は「庭」が場所であることを表わす。
ということ。

この「つまり」以下は誤読です。

残念ながら、山田孝雄の『日本文法学概論』を読んだこともなく、山田の単語分類体系を確認もせず勝手な感覚的な語感で解釈するためこのような誤読が生まれます。

山田のいう単語分類体系は次の通りです。

単語
1.観念語
1‐1 自用語
  1‐1‐1 概念語―(名詞、代名詞、数詞)
  1‐1‐2 陳述語― (動詞、形容詞)

1‐2 多用語(副詞、接続詞、感動詞)

2. 関係語(助詞)//

つまり、山田のいう観念語とは具象的観念を表わす語で、関係語は「一語にて一の思想をあらわすことの絶対的に不可能なるものはかの弖爾乎波の類にして専ら観念語を助けてそれらにつきての関係を示すものなり」と助詞を全く別扱いしています。

<「庭に」の「に」は「庭」が場所であることを表わす。>などという、具象的観念を表わす語などではないために、助詞を関係語として区分しています。

柴谷が『日本文法学概論』を読まずに記述しているなどと考えるのは又くナンセンスです。

つまり、

>>つまり、
・「庭に」の「に」は「庭」が場所であることを表わす。

という解釈は全くの誤読ということです。

なお、山田の機能論的な品詞分類については時枝、三浦が批判しています。
三浦つとむ『認識と言語の理論 第3部』の「一 山田孝雄は西欧模倣に反対する:語の分類について」を参照下さい。

大部の『日本文法学概論』を読めというのは無理筋に決まっているので、まずは『日本語は~』を何とか必死で理解して下さい。

早めにソシュールパラダイムの呪縛から解放されんことを祈念しておるぞよ?(笑)
お疲れさん。

新たな提起をしておいたぞよ!■

お礼日時:2020/02/17 18:34

#95です。


#100からの続き。

2.
アスナロウ⇒
★ 僕【に】本をくれた。
では、僕は場所ではないのは明らかでしょう。この「に」は僕を空間的に位置付ける認識を表わしているということです。
hakobulu⇒
『空間的に位置付ける』のであれば広義での場所である、ということぐらい想像力が働きませんか?
アスナロウ⇒
「場所≠位置付け」です。どう広義に解釈し、どう想像力を働かせても「場所=位置付け」にはなりません。
どういう創造力を駆使されているのでしょうか?

誰が「場所=位置付け」と言っているのですか???
読解力がないのですから、数回は読み直す習慣をつけましょう。

そもそも、「僕」が広義での場所じゃなければ『空間的に位置付ける』ことはできないだろ?
ということ。
もうわかったよね?(笑)

3.
>辞書は語の意義を説明しています。

広辞苑が示している意義は、冒頭の

【時間的・空間的・心理的なある点を指定するのが原義で、多くは動作・作用・存在を表す語に続いて使われる。】

という部分。
あなたが示したのは、個別のシチュエーションに対応した『意味』。
こんなことすらご存知ないまま、あれこれ言ってたわけ?
リンダ信じらんな~い!(笑)
あなたの意義も、どうせ広辞苑や大辞林からのパクリでしょ?
見え見えです。(笑)

4.
hakobulu⇒そうではない、ということを今までずっと述べてきたわけ
アスナロウ⇒誤りだと、具体的な論文も挙げ指摘した通りです。

わかりづらかったですかね。

そうではない(=【<「に」=場所>ということにはならない】)、ということを今までずっと述べてきたわけですが、その内容について触れもせずに『語が示したり指したりはしない』を根拠にして『従って』と続けておられる。

と申し上げた箇所。
つまり、私の述べた内容について具体的箇所を挙げて反論することもせずに、『語が示したり指したりはしない』を根拠にして『従って』と続けている。

ということを申し上げている。

5.
>No.92 のお礼2.へのお詫び等ないのですか。

何について詫びろと???
だから、【具体的箇所を挙げて】と何度も言ってますねん。(笑)
挙げれるかな???(笑)
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この回答へのお礼

2.
>>誰が「場所=位置付け」と言っているのですか???

回答者であるhakobuluサン以外にいないでしょう。

読解力がないのですから、自分の云っていることを数回は読み直す習慣をつけましょう。

>>そもそも、「僕」が広義での場所じゃなければ『空間的に位置付ける』ことはできないだろ?

★ 僕【に】本をくれた。

の本が場所ですか?
実体は時空間に存在するので、時空間に位置付け可能です。
こんな基本的なことも理解できんのか!(奴)

問題点がクリアーになりましたね!
もうわかったよね?(笑)

3.
>>広辞苑が示している意義は、冒頭の~
という部分。
あなたが示したのは、個別のシチュエーションに対応した『意味』。

だから、「ある点を指定する」は誤りだと何度も指摘しているのが理解できぬか。

「言語における対象指示の構造」
https://fukuoka-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_v …

を良く読み、

「言語における指示と主体について」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ellfk/24/0/ …

の誤りを指摘しなさい。

応答は、この回答ができてからで結構 けつの 穴です。
結構毛だらけ猫灰だらけ!

なお模範回答が、三浦つとむ『言語学と記号学』(勁草書房)50p以下にあります。フーコー、ジョルジュ・ムーナン他を批判しています。これを丸写しでも結構です。

>>あなたの意義も、どうせ広辞苑や大辞林からのパクリでしょ?

ハッハッハ!
意味についてに指摘した通りです。一緒にしないで下さい。

4.
>>『語が示したり指したりはしない』を根拠にし

前項の通りです。

5.
この質問も100回を超え異常という声も出ています。(No.99 他参照)

一重に、hakobulu さんの無理解に起因するもので、是非お詫び等ほしいものです。

No.99 のように、素直な直球を投げられれば対応のしがいがありますが、拗ねた、捻くれ者【に】は困りものです!

お礼日時:2020/02/16 19:58

#95です。



まず、PC の調子が悪く長文が書きづらいため、しばらくのあいだ返信が遅れがちである点ご了承ください。

1.
>正しいと理解できているのに、何故<「に」は(着点としての)場所を表わす。>などと寝惚けたことを言われるのかが最大の謎?です。

でしょうね。
そう思ったので#91でかなり詳しく論述しましたが、理解できなかったようです。
詳しいことは再確認していただくとして、少しだけ要点を絞ってみましょう。

まず、あなたは、

「庭には二羽鶏がいる」という文において、

(ウ)格助詞「に」は【場所である「庭」という】空間的な対象の位置付けの【認識】を表わしている。

という見解を述べている。これは、

(エ)格助詞「に」は場所 [ である「庭」という空間的な対象の位置付けの【認識】]を表わしている。

と言っていることになる。
辞書などでは、これを簡略化して、

(オ)格助詞「に」は場所を表わしている。

と表現しているわけ。
[]内を省略したからといって意味に重大な違いが生じるわけじゃない、ということ。

【話者は、「庭」が「いる」という動作の対象としての場所であることを、「に」を使うことによって意図している。】

という点で何ら変わりはないのです。
そこにパラダイムの違いなど存在していない。
少しはわかりやすくなりましたかな?(笑)
腑に落ちなければ、【その箇所を明記したうえで】反論していただくと論点が噛み合いやすいでしょう。

以下欄を替えます。
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この回答へのお礼

いくら言っても分からん人ですね!

>>【話者は、「庭」が「いる」という動作の対象としての場所であることを、「に」を使うことによって意図している。】

「場所であることを」意図しなくとも、

にわ【庭・場】
①広い場所。物事を行う【場所】。神武紀「霊畤を鳥見山の中に立てて」。「いくさの―」「裁きの―」
②邸内または階前の、農事に使う空地。万葉集4「―に立つ麻手刈り干し」
〔広辞苑〕(【】は引用者による強調)

と何度も引用しているのが理解できぬのか!
「に」などと言わなくても庭は場所なのです。

神と崇める大好きな辞書の云っていることが理解できぬのか!

【場所】を表わしている。≠【認識】]を表わしている。

ぐらい中学生でも判るであろう。!

根本的にパラダイムが異なるのじゃ!

少しはわかりやすくなりましたかな?(笑)
【その箇所を明記した】ので、腑に落ちなければ、【その箇所を明記したうえで】反論していただくと論点が噛み合いやすいでしょう。というか、噛み合う訳がなく、誤りを自覚し理解を訂正、修正しパラダイムを超えて下さい。

問題点がクリアーになりましたね!

慌てないのでPCより頭の調子を整えて下さい。■

お礼日時:2020/02/16 18:42

質問者へのお願い。


1.次のサイトをご紹介いただき、読んで見ましたが、学習者が教えられたことをしっかり理解していないため、本来の用法を間違って使っている例が、分析されています。あなたが引用される文章は批判の対象になる用例が多いのですが、下記サイトの文は適切な考え方の文として引用されたものですか。
https://kyukyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view
2.私の回答を取り上げていただくのは、ありがたいと言うべきなのでしょうが、それとは関係なく、100に近い回答文が寄せられています。このサイトは回答が多いことで知られています。しかし、この多さは異常です。いろいろ事情はあるので致しかたの無いことで小が、最初はその回答者への「お礼欄」に書かれていたのが、いつの間にか「補足欄」に変わってしまい、その補足は、No.○への補足と書かれ、それを読むためにあちこち探し回ることになります。これは不便です。本来のお礼に書いてください。
3.実はこれが本来の質問です。あなたは常に、「表現者の認識が表現されたもの」とおっしゃいます。「庭は二羽鶏がいる」は本来、元の質問者、1311tobiさんが考えられた例文です。その表現者に確かめること無く、これは「普遍性」あるいは「特殊性」の認識だと解説されるのが、摩訶不思議に思われるわけです。
 いわば、「私が辞書だ」と主張されているようです。これが私の認識不足でしたら、幸いですが。
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この回答へのお礼

適切なご質問をいただき有難うございます。
下記の通り回答させていただきます。

1.
>>下記サイトの文は適切な考え方の文として引用されたものですか。

ご指摘のURLからは対象文が判然としませんが、
岡田 美穂,奥田 俊博によるものと判断し回答させていただきます。

この論考は誤用の原因を文法理論の誤りではなく、学習者の側に問題転化している点で、現在の文法論の誤りを理解できていない不適切な論考の例として取り上げています。現在の文法論に基づく助詞論では、このような誤用の発生は必然であり、それと同じパラダイムに基づく格助詞「に」の理解を回答者が執拗に展開しようとされるためこの誤りを指摘しているのが現状であることをご理解いだだきたいと思います。
この論文を取り上げたのは、このような現状、事実を共有するためのもです。

2.
当方が回答を急ぐ余り、後から補足することが多く、また、お礼欄は字数も限られ、補足欄も10件と制限があるため、誠に読み辛いレイアウトとなり申し訳ありません。
今後、心を落ち着かせ改善を図らせていただきます。
疑問の点は、新たな質問等を立てていただければ回答させていただきます。

3.
>>その表現者に確かめること無く、これは「普遍性」あるいは「特殊性」の認識だと解説されるのが、摩訶不思議に思われるわけです。

先にもご質問いただいた内容で、このような質問がなされるところにソシュールパラダイムの呪縛を見ることができます。

言語が話者の認識であることはご理解いただけるでしょうか。
文に表現されるのは話者の個別認識で、これが言語規範を媒介として表現されるという立体的媒介的な構造を持っています。

この言語規範としての語は規範としての意義を持っており、助詞「が」「は」の規範としての意義が、「が」は個別性の認識であり、「は」は特殊性の認識、普遍性の認識を表わすということです。

この媒介の構造を認識できないと意義と意味の相違と関連を捉えることができず、意義と意味を同一平面で捉えるしかなく、個別の意味が本人に聞かずにどうして分かるのかと摩訶不思議に思われることになります。

日本語として文が何故通じるのかといえば、この規範としての意義を言語共同体として共有しているからだということです。
補足欄もなくなったため、不明の点は別項を立てていただければ回答致します。■

お礼日時:2020/02/15 22:41

#94です。



>しょせん無駄でしょう。
「言語とは何か?(2)」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=8958
参照。

あなたのご説ですから、所詮無駄とは思いつつ、一応拝見しました。(笑)

※この言語表現の過程的構造を捉える事が出来ないため、単に現象的に実体視、あるいは道具と見做すところに、時枝誠記が批判した言語実体観、言語道具説というソシュール的な誤った言語観が生み出されます。※

ここ見ると、
『話者の主観・認識やシチュエーションが重要ということでしょう。
言語を道具として扱うと誤謬が生じると。』
と私が述べた内容に、さほど矛盾はないようですね。

仮に、
『言語表現の過程的構造を捉える事が出来ない』でいる
あるいは
『単に現象的に実体視、あるいは道具と見做』しているのであれば、『誤った言語観が生み出され』るという主張はご尤もだと思います。
その点についてまったく反論する気はありません。
つまり、その点は最初から大いに同意しているわけだ。

ただ、今論点となっているのは、
本当に、現在の国語界は、
『言語表現の過程的構造を捉える事が出来ない』でいるのだろうか?
『単に現象的に実体視、あるいは道具と見做』しているのだろうか?
ということなのですよ。
アスナロウさんの説明では、その根拠がほとんど示されていないわけです。
問い詰めていくと、

※この言語表現の過程的構造を捉える事が出来ないため、単に現象的に実体視、あるいは道具と見做すところに、時枝誠記が批判した言語実体観、言語道具説というソシュール的な誤った言語観が生み出され※るからなのだ!!!

と青筋を立てて叫ぶところで終わってしまう。

A なのはなぜ?
と問うているのに、
それは A だからに決まってる!!!

と言えば根拠を示したことになると思っている点が、あなたの決定的な誤りなわけです。
もう少し表現を工夫するか、または、他人の説に対しては具体的箇所を示しつつ論理的な反論をできるようになれば、何らかの活路が開ける可能性は無きにしもあらずかと。
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この回答へのお礼

>>一応拝見しました。(笑)

恐れい入ります。

>>『話者の主観・認識やシチュエーションが~
言語を道具として扱うと誤謬が生じると。』
と私が述べた内容に、さほど矛盾はないようですね。

ピンボケの理解、応答です。
何を言っているのか意味不明です。
その程度の理解で、応答されるのがそもそもの誤りです。

問いは、「言語表現と音楽、絵画などの直接感性的な表現との相違と関連です」。

「意味」に対する応答のように的外れで、何を問われているのかが理解できておらず、当方の回答の理解も誤っており、やはり「無駄でしょう!」と言った通りです。
中学、高校の試験問題でも×の回答です。

>>『誤った言語観が生み出され』る

現在の言語観は言語実体観であり、構成主義的言語観だと時枝が指摘しているし、その通りだということです。

>>本当に、現在の国語界は、~しているのだろうか?
ということなのですよ。

前記の通りで、その時枝説がどのように現在理解されているかは、下記を参照下さい。

「言語過程説とは何か?」
https://blog.goo.ne.jp/kawashou66/e/3dda43985fc1 …

時枝・服部論争の再考察(3)言語研究の原点的問題として
https://keiai.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_ …

ソ ス ユ ー ル のlangueと 言 語 過 程 説
https://www.jstage.jst.go.jp/article/gengo1939/1 …

>>他人の説に対しては具体的箇所を示しつつ論理的な反論をできるようになれば

上記の具体的な内容に対し論理的な反論を是非お願いします。

自己の理解力のなさを棚に上げ、100年早い一丁前の批言を弄ばれるので困惑してしまいます。

まずは、『日本語は~』を(読めれば?)読解してください。
宝の持ち腐れにならないように。

一貫して言語実体観を批判しています。■

お礼日時:2020/02/14 20:46

#93です。



>語るに落ちます。

???
「語るに落ちる」
何気なく話しているうちに,うっかり本当のことを言ってしまう。(大辞林)

別に何気なく話しているわけでもないし、うっかりでもないですがね。
『本当のことを言ってしま(った)』のは確かかも。
あなたの無理解をさらけだしてしまった点で「~しまった」ということね。(笑)
ま、好きなように言って構いませんが、下記の点だけ理解しておけば良いでしょう。

※(時枝が)『言語それ自体が意味を持ちあるいは文章が内容を持っているという考え』を否定しているからといって、
『言語が(何らかの)意味を表わし、あるいは文章が(何らかの)内容を表わすという考え』
まで否定しているわけではないのです。
否定してしまえば、そもそも表現という行為を否定することになるのですから、それは当たり前のこと。

あなたは、この両者を取り違えておられるわけです。※
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この回答へのお礼

何と申しましょうか、いやはや・・・。(笑)

論点が明確になり、論理のレベル、理解力の相違が明かです。

質問は、「まず、意味とは何で、どこから生まれ、何に対応しているかを回答して下さい。」

です。 hakobuluさん回答。

言語表現が指し示す事柄または事物。(広辞苑)

さらに、質問、

>だから、意味とは何かが分かっていないと言っているのです。
『日本語~』の42~43pを眼光紙背に徹し良く読んで下さい。

hakobuluさん回答。

再読してアスナロウさんの勘違いがよくわかりました。眼光紙背に徹するまでもないこと。(笑)
ここで時枝が否定しているのは
『言語それ自体が意味を持ちあるいは文章が内容を持っているという考え』
です。
そのように明記してある。/

これが、回答になると考えられるレベルが語るに落ちるということです。
当方が、期待した回答。

音声や文字には、その背後に存在した対象から認識への複雑な過程的構造が関係づけられているわけで、このようにして音声や文字の種類にむすびつき固定された客観的な関係を、言語の「意味」とよんでいるのです。~
(『日本語は~』44p)

わざわざ、ゴシック体で強調されています。これが、「意味」とはという問いへの回答でしょう。頁まで指定したのに、何を寝惚けたのかと呆れ果てました。眼光は皆無です。

詳しくは、

<三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2)>
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-135. …

参照。これが理解できていない以上頓珍漢な応答をされるのは論理的な必然ということです。

まず、肯定するにしても否定するにしてもしっかり『日本語は~』を読解してからにして下さい。

>>あなたは、この両者を取り違えておられるわけです。

寝惚けた応答は無用です。■

お礼日時:2020/02/14 18:48

#92です。



1.
>なぜなら、

【着点】とは、「ある事物(場所や所有者」であり、
【助詞はそれ自体が ある事物(場所や所有者)や動作・状態を表すのではない。】

ということで。先ず、この誤りを理解しないと堂々巡りになってしまいます。

そもそもですが、
【助詞はそれ自体が ある事物(場所や所有者)や動作・状態を表すのではない。】
は、誰が言った言葉ですか?
今さらですが、教えてください。

2.
hakobulu⇒そもそもが、「着点」という客体が意義だなどと言ったことはないはずです。
アスナロウ⇒あっはっは!
卓袱台返しがお得意なので念には念をいれさせていただきます。(笑)
>>No.62
なぜなら格助詞「に」は、「(物ではなく)動作の着点」を表わすからです。
No.58
・庭に二羽鶏がいる。
⇒「に」は(着点としての)場所を表わす。
「いる」という状態がどこで発生しているのかと探っていくなら、それは庭という場所である。
こういった無意識的認識が、話者をして格助詞「に」の使用に至らしめるわけ。/
⇒これが目に入らぬか!たわけもの!》
これは、どこのどなたが記された内容ですか。
馬鹿らしくて相手にできません。

そうそう、批判するときは、このようにその箇所を提示した上で具体的に論じないとね。
うむ、少しは進歩したようですな。(笑)
ただ、残念ながら読解力、論理構成力が決定的に欠けているようで、まったく的外れの批判になってしまっています。

(#62)
【なぜなら格助詞「に」は、「(物ではなく)動作の着点」を表わすからです。】
a .花子が先輩に携帯電話を借りた.
という文の解説でしたね。
ここは、
・格助詞「に」は、「(物ではなく先輩という)動作の着点」を表わすからです。
という意味。
「着点」という客体(先輩)が「に」の意義だなどとは言っていない。

(#58)
【「に」は(着点としての)場所を表わす。】
・庭に二羽鶏がいる。
この文においては、
・「に」は(庭が)(着点としての)場所であることを表わす。
という意味。
「着点」という客体(庭=場所)が「に」の意義だなどとは言っていない。

おわかりかな?(笑)
そんな的外れなケチをつけている暇があったら、

「いる」という状態がどこで発生しているのかと探っていくなら、それは庭という場所である。
こういった無意識的認識が、話者をして格助詞「に」の使用に至らしめるわけ。

という素晴らしい解説をじっくりと読み直してみることですな。(笑)
う~む。
我ながら、本質をついた素晴らしい表現ですな。
こうした本質に触れることができるとは、あなたは実に幸運な方です。(笑)
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この回答へのお礼

問題点がクリアーになり理解の誤り、論理の綻びが愈々明確になってきましたね。

1.誰が言った言葉ですか?
今さらですが、教えてください。

これまで何回も指摘していますが、本当に「今さらです」ですね。
こちらの指摘が理解できずに、自分の思い込みだけを語るためこうなります。
再掲

 「名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。このことについて山田孝雄『日本文法論』は次のように言う。「そのあらわせる観念の上より観察すれば助詞は単独にては何らの観念をもあらはし得ず、他の観念語に付属して其の義を認むるを得るのみ」そして、「その機能によりて観察すれば、助詞は観念語たる体言用言副詞に付属して其の意義を明にし、又それらの間の関係を示すに用いられる。」山田は、助詞の分類(記述)として、意義を中心としたものと、それらが示す関係すわち職能に根拠を求めるものとがあり得るが、上の引用でも明らかなように、「独立しては何の観念をもあらわしえるに関せず、他の品詞につきて関係を示すことによりて始めて意義を認め得らるるものなれば、その意義は関係に依存する」(549頁)ことから、助詞の研究は意義を主眼としたものでなく、職能を中心としたものでなければならないと説く。/
〔柴谷方良(まさよし)「助詞の意味と機能について―「は」と「が」を中心に―」:『文法と意味の間―国広哲弥教授還暦退官記念論文集』([くろしを出版,1990.6.1)〕
(【】の強調は引用者)

柴谷 方良(しばたに・まさよし)
1944年上海生まれ。カリフォルニア大学(バークレイ)卒,同大学院修了。Ph.D. 南カリフォルニア大学助教授,準教授,神戸大学教授を経て,現在,ライス大学(アメリカ)言語学部教授・学部長。著書 The Languages of Japan(1990年,Cambridge University Press)ほか。/

2.
あっはっは!
まだ、言い逃れをするのですか。
では、何だと言っているのですか?
残念ながら読解力、論理構成力が決定的に欠けているようで、まったく的外れの回答になってしまっています。
中学生にも見抜かれるような詭弁を滔々とばらまいているにすぎないのに!
おわかりかな?(笑)■

お礼日時:2020/02/14 18:20

#91です。



1.
hakobulu⇒(ウ)格助詞「に」は【場所である「庭」という】空間的な対象の位置付けの【認識】を表わしている。
と言っていることになる。
アスナロウ⇒おっしゃる通りです。
>>「庭」を場所であると認識するからこそ成立する命題。
ここで、誤っています。
格助詞「に」の意義を論じているのであり、命題=文を問題にしているのではありません。

何と申しましょうか、いやはや・・・。(笑)
『おっしゃるとおり』とおっしゃるが、
自分に都合の良いところだけ切り取らず、【文脈】を把握した上で考えるようにしないと他人の言っていることは理解できませんよ?
小学校辺りでも教えることだと思うが。

【(ウ)格助詞「に」は【場所である「庭」という】空間的な対象の位置付けの【認識】を表わしている。】
あなたが『おっしゃるとおり』と宣うところのこの内容は以下の文脈(※~※)で出てきた記述ですよね?

※あなたは、

(ア)格助詞「に」は時間的・空間的な対象の位置付けの【認識】を表わしている。

これが「に」の意義だとおっしゃる。(私はそれが間違っているとは一言も言ってませんので勘違いしないように)
また、

「庭には二羽鶏がいる」という文において、

(イ)《場所である「庭」の空間的な位置付けの認識を表わしているということです。》

ともおっしゃっている。(#85お礼欄)
ということは、

「庭には二羽鶏がいる」という文において、

(ウ)格助詞「に」は【場所である「庭」という】空間的な対象の位置付けの【認識】を表わしている。※

私はこのように論理展開した上で

(ウ)格助詞「に」は【場所である「庭」という】空間的な対象の位置付けの【認識】を表わしている。

と言ったわけ。
『「庭には二羽鶏がいる」という文において、』という字が見えますか???

2.
>★ 僕【に】本をくれた。

では、僕は場所ではないのは明らかでしょう。この「に」は僕を空間的に位置付ける認識を表わしているということです。

『空間的に位置付ける』のであれば広義での場所である、ということぐらい想像力が働きませんか?
短絡思考すぎますな。(笑)

3.
>ただ、この(意味に関する)命題は、

意味ではなく、意義を論じていると言っていますが、直ぐに意味に引き込まれていますね。
もう少し、用語は厳密に使用しましょう。

呆れ果てます。
(ウ)格助詞「に」は 《【場所である「庭」という】空間的な対象》の位置付けの【認識】を表わしている。
というあなたの主張に基づいて述べている箇所。
『場所である「庭」』が意義なのですか???
意味でしょ?

4.
>この点は、先にも指摘したように、語が示したり指したりはしないということを指摘しました。
従って、<「に」=場所>ということにしかならず、誤りということです。正しい日本語の理解ではそうなります。よって、
>>格助詞「に」は場所を表わす。
は矛盾があり誤りということになります。

『語が示したり指したりはしない』
これが最大の根拠となっているのはわかっています。
そうではない、ということを今までずっと述べてきたわけですが、その内容について触れもせずに『語が示したり指したりはしない』を根拠にして『従って』と続けておられる。
あなたが論理構成力というものにまったく欠けていることが、ここにも如実に現れています。

5.
>論理展開が難しいと感じたら数回読み直してから応答なさるのが賢明です。

大笑い。(笑)(笑)(笑)
中学生にも見抜かれるような詭弁を滔々とばらまいているにすぎないのに、難しいことを言ってるおつもりなのですか?(笑)(笑)(笑)
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この回答へのお礼

何と申しましょうか、いやはや・・・。(笑)

1.
>これが「に」の意義だとおっしゃる。(私はそれが間違っているとは一言も言ってませんので勘違いしないように)

正しいと理解できているのに、何故<「に」は(着点としての)場所を表わす。>などと寝惚けたことを言われるのかが最大の謎?です。

要は、この意味が正しく理解できていないということです。

自分に都合の良いところだけ切り取らず、【文脈】を把握した上で考えるようにしないと他人の言っていることは理解できませんよ?
小学校辺りでも教えることだと思うが。

>>(ウ)格助詞「に」は【場所である「庭」という】空間的な対象の位置付けの【認識】を表わしている。

これは、はい、おっしゃる通りです。
と言っていますが?

辞書を神と崇めるhakobuluさんが「庭」の語釈を理解できませか?
何と申しましょうか、いやはや・・・。(笑)

2.
>>『空間的に位置付ける』~広義での場所である、ということぐらい想像力が働きませんか?

「場所≠位置付け」です。どう広義に解釈し、どう想像力を働かせても「場所=位置付け」にはなりません。
どういう創造力を駆使されているのでしょうか?
これが理解できないのが、根本的な、限界、誤りです。
短絡思考すぎますな。(笑)

3.
>>『場所である「庭」』~
意味でしょ?

にわ【庭・場】
①広い場所。物事を行う【場所】。神武紀「霊畤を鳥見山の中に立てて」。「いくさの―」「裁きの―」
②邸内または階前の、農事に使う空地。万葉集4「―に立つ麻手刈り干し」
③草木を植え築山・泉池などを設けて、観賞・逍遥などをする所。庭園。万葉集17「楽しき―に梅柳折りかざしてば」。「―の手入れ」
【広辞苑】

辞書は語の意義を説明しています。『日本語は~』の辞書の説明を眼光紙背に徹するまで読み込んで下さい。

先の、意味の読解力では、眼光の光が出ていませんね。(笑)

>>そうではない、ということを今までずっと述べてきたわけ

誤りだと、具体的な論文も挙げ指摘した通りです。
あなたが論理的理解力というものにまったく欠けていることが、ここにも如実に現れています。

5.
No.92 のお礼2.へのお詫び等ないのですか。
中学生にも見抜かれるような詭弁を滔々とばらまいているにすぎないのに、それが全く理解できていませんね。■

お礼日時:2020/02/14 17:46

#90です。



>言語表現と音楽、絵画などの直接感性的な表現との相違と関連が説明できますか。

以前に説明させていただきましたが、理解されていますか?

おそらく。(笑)
話者の主観・認識やシチュエーションが重要ということでしょう。
言語を道具として扱うと誤謬が生じると。
せめてどの箇所で説明したのかぐらい示してほしいものですな。(笑)
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この回答へのお礼

しょせん無駄でしょう。

「言語とは何か?(2)」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=8958 …

参照。■

お礼日時:2020/02/13 17:22

#88です。


#92からの続き。

4.
>>・意味とは何⇒言語表現が指し示す事柄または事物。(広辞苑)

これだから阿保かということです。「指す」「示す」は誤りだと先に事例も挙げて指摘したのが理解できませんか。

説得力がまったく無いので仕方ありませんね。(笑)
論理的にも感覚的にも広辞苑の語釈が正しいと思う次第。

>だから、意味とは何かが分かっていないと言っているのです。
『日本語~』の42~43pを眼光紙背に徹し良く読んで下さい。

なるほど。
再読してアスナロウさんの勘違いがよくわかりました。眼光紙背に徹するまでもないこと。(笑)
ここで時枝が否定しているのは
『言語それ自体が意味を持ちあるいは文章が内容を持っているという考え』
です。
そのように明記してある。
以前も指摘したように、あなたは「自体」という語を使う場合の話者心理についての考察が欠けておられますな。つまり、

『言語それ自体が意味を持ちあるいは文章が内容を持っているという考え』を否定しているからといって、
『言語が(何らかの)意味を表わし、あるいは文章が(何らかの)内容を表わすという考え』
まで否定しているわけではないのです。
否定してしまえば、そもそも表現という行為を否定することになるのですから、それは当たり前のこと。

あなたは、この両者を取り違えておられるわけです。
ひとつ勉強しましたね。(笑)

[ 言語表現が指し示す事柄または事物。(広辞苑)]

という語釈に何ら問題はありません。
ご自身でも、
《格助詞「に」は時間的・空間的な対象の位置付けの認識を表わしている》
とおっしゃっているわけですから、そこは理解できますよね?
因みに、「に=場所」などとは誰も言ってませんから、その点、勘違いの上塗りを為さいませんように。

5.
>無意識から意味が生まれる訳がないでしょう。

今は「に」という語の意味についての話。
庭にいる二羽の鶏を見ながら、よし、この場面を描写するために「時間的・空間的な対象の位置付けの【認識】を表わす」という意義を敷衍して場所を表わすという意味の「に」を使うぞ~!

と意識しつつ、

庭には二羽鶏がいる。

と表現するわけじゃない、ということ。
そのぐらい分かれよ。(笑)

>「だろうし」などという曖昧な説明ではなく、「意味とは何か」を明確にしなさい!

・意味とは何⇒言語表現が指し示す事柄または事物。(広辞苑)

と明確に答えているが???
その意味について、意義と最初から同立していた意味もあるだろうし、後から敷衍されて生じた意味もあるだろう。
と述べたまで。
何が不満かな?(笑)
自分と同じ意見じゃないからといって八つ当たりするのはご勘弁。(笑)
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この回答へのお礼

語るに落ちます。■

お礼日時:2020/02/13 17:17
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