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「分かる」の前に来る格助詞について、「が」か、「を」か聞きたいです。「主語は対象語がわかる」は学校で、勉強したけど、「主語は対象語をわかる」は正しいでしょうか?例えば、「私の書いた手紙があなたはわかりますか」という文は理解できるけど、「私の書いた手紙をあなたはわかりますか」は正しいでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 「私に日本語がわかる」は正しいでしょうか?「に」ではなく、「は」を使うべきでしょう?

    「「分かる」の前に来る格助詞について、「が」の補足画像1
      補足日時:2020/01/28 16:53

A 回答 (14件中1~10件)

正しい。



1.
〇「私の書いた手紙があなたはわかりますか」
⇒「わかる」という動作の対象が「私の書いた手紙」であることを [ 強調的に特定 ] しているニュアンス。

〇「私の書いた手紙をあなたはわかりますか」
⇒⇒「わかる」という動作の対象が「私の書いた手紙」であることを [ 単純に指定 ] しているニュアンス。

「わかる」で文が終止しない場合は、「が わかる」「を わかる」のどちらも正しい場合がほとんど。
〇「私の書いた手紙があなたはわかるはずです」
〇「私の書いた手紙をあなたはわかるはずです」

〇「私の書いた手紙があなたはわかるでしょう」
〇「私の書いた手紙をあなたはわかるでしょう」

〇「私の書いた手紙がわかる人はいない」
〇「私の書いた手紙をわかる人はいない」

などなど。

2.
「わかる」で文が終止する場合は、基本的に「が わかる」を使うのが自然、とお考えになって良いでしょう。
〇「私の書いた手紙があなたはわかる」
△「私の書いた手紙をあなたはわかる」
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①私には、わかる。


②私は、わかる。
③私に、わかる。
日本語を使って生活していた者なら、何らかの違いを感じるははず。
①は「私なら、わかる」と言い換えても似た感じになります。
②は、私なら、と言ったような「なら」と限定する感覚は受けません。
③は、私に、わかる+だろうか、等の表現ならありです。
わかる、動詞といっても物理的な動きではないですね、物理的な動詞の目的(対象)なら、たいていは物ですね、でもこの場合は違うので理解しにくいです。
私にわかる→「わかる」のは私ですね(これが、「わかる」動詞の目的=私)、でもこんな内容、言葉にして逐一表現する必要があるのか?、わかるのは私、でその通りわかるなら表現する必要ありません。
でも「わかる」かどうか自身がなければ、言葉で表現して、疑問として誰かに尋ねる、はありですね。
以上のようなことを理解、または感性といて持ったうえで、文法の説明を聞けば、少なくとも表面的には文法なんて簡単?。
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★「主語は対象語がわかる」



この文は意味不明です。「主語」は機能を表わす語で、動詞「分かる」という動作主ではありません。

★私の書いた手紙をあなたはわかりますか

格助詞「を」は動的な対象認識を表わし、動詞「分かる」の対象を表わし正しい用法です。

★私に日本語が分かる

格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識を表わし、「私」を「分かる」の主体として位置付けていますが、「分かる」の結果どうなるのかが述べられておらず結論のない言い差しの不適切な文です。

★私に日本語がわかるのは学校で勉強したからです。
★私に日本語がわかるわけがありません。

のように結論、結果が続きます。

★私は日本語がわかる。

は、副助詞「は」が「私」という特殊性の認識を表わし、「分かり(ます)」で、意味が完結しているので正しい文です。■
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>「私に日本語がわかる」は正しいでしょうか?「に」ではなく、「は」を使うべきでしょう?



「私には日本語がわかる」と言えばいいのですが、学校では「私は」で教えているなら、それに従っておけばいいでしょう。ここで「に」を使うと混乱するでしょうから。
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>この作家たちは無意識に使ったと思われます


私も、たぶんそうだと思います。
作家、文章による表現が命です、文法なんかに頼らず、日本語の感性で表現しています。
それで、読む人に伝わればOK、です。
無意識に・・・・、文法なんかチマチマほじくる必要がないから・・・、当然無意識という表現したのでしょう。
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「私の書いた手紙があなたはわかりますか」


は自然にわかるというニュアンスがあり、

「私の書いた手紙をあなたはわかりますか」
は努力してわかるというニュアンスが私にはあります。
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#6です。



まず文法があって日本語表現があるわけではなく、日本語表現を分析したものが文法です。
仮に、『「分かる」は例外なく「自動詞」として記載されて』いるのだとしても、

◆でも、あの子は姉さんの立場や気持を、案外わかっているようじゃありませんか〔森本薫・女の一生〕

という日本語表現は間違っている、と言うのですか?
OKATさんが『この作家たちは無意識に使ったと思われます。』とおっしゃったのは、どういう意味なのですかね。
無意識に、つい間違って使った、という意味に聞こえるのですが、この点を明確にしていただけますか?

>「ヲ格」を伴わないのは自然です。

どんな場合でもと断定なさいますか?
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「が」格助詞、主格。


これがの日本語の感性で理解できない以上、文法だけでは多分理解できないでしょう。
漫画でありました「わしが江田島平八郎である」。
①私は鈴木です。
②私が鈴木です。
この二つの違いをどう感じるか。
①は、事実関係を述べているだけ、英語の冠詞をつけるとすれば「a」不定冠詞?。
②は、私こそが鈴木です、または私が、(いま話題の)鈴木です、私が、あの、鈴木です、英語の冠詞をつけるとすれば「the」定冠詞です。
すべてとは言いませんが、英語の定冠詞と格助詞、主格の使われ方にと似ているところがあるように感じます。
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>ネイティブであっても、こうした微妙なニュアンスの差異について考察できずに、「を わかる」はイレギュラーな使いかたである、といった短絡的な主張をする人も、一定数います。


ちょっと聞き捨てできないご発言です。「分かる」は例外なく「自動詞」として記載されており、(他動詞の分類も「日国」にはあるが「ヲ格」が現れるような例ではない)「ヲ格」を伴わないのは自然です。この作家たちは無意識に使ったと思われます。やはりこれは破格の用法です。
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#2です。


少し補足しておきまましょう。

[ 強調的に特定 ] するより [ 単純に指定 ] するほうが自然だと小説家が考える文脈の場合には、下記のように「を わかる」の形を使っています。

◆蛇の生ごろしにあう搭乗員の気持を、誰がわかるのか〔阿川弘之・雲の墓標〕
◆でも、あの子は姉さんの立場や気持を、案外わかっているようじゃありませんか〔森本薫・女の一生〕
◆村上先生、あなたは、この松原をわかってくれないのだ。僕が、あの当時、どのくらい、あなたの肩を持っていたか〔大仏次郎・風船〕
(学研国語辞典より)

ネイティブであっても、こうした微妙なニュアンスの差異について考察できずに、「を わかる」はイレギュラーな使いかたである、といった短絡的な主張をする人も、一定数います。
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