A 回答 (6件)
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No.2
- 回答日時:
家康は、(実態は別にして建前上は)信長の家臣ではなく同盟者だったからフリーハンドだった
という意味なのかな・・・・
『混乱する後継者争いに徳川家康が有利に動いた』
この意味がよく分からんね
家康自身が動いた?
それとも家康に有利になるように何かが働いた?
日本語の「て・に・を・は」が一つ違うだけで、文意が変わるから、ちゃんと文章見直して欲しい
No.4
- 回答日時:
織田家の嫡流ながらまだ幼い信長の孫「三法師」を織田家の正当な跡取りだとして祭り上げ、その後見役として実質的な織田家の権力者となったのが羽柴秀吉(豊臣秀吉)です。
この織田家乗っ取りに対して、信長の次男「織田信雄」は織田家の権力を取り戻したいと思い、徳川家康に助勢を依頼
羽柴陣営と信雄・家康連合は「小牧長久手の戦い」で激突することになります
この戦いでは、秀吉軍が軍の一部を分割して別動隊を編成、奇襲を仕掛けようとしましたが
事前にこれを察知した家康は先手を打って、奇襲される前に別動隊を奇襲し大勝利をおさめます。
この奇襲は全兵力が激突したわけではないので、局所的な戦いではありましたが、
天下人秀吉の大軍が圧勝するであろうという前評判をくつがえし、局地戦に勝利を収めた家康は
「とてつもない戦い上手だ」 ということが全国に知れ渡るきっかけになりました
小牧長久手はこのあと、秀吉と信雄が講和したためこの家康の勝利だけが印象に残る結果となったのです
後年、関ケ原の戦いが勃発しますが、この小牧長久手の印象から
全国の諸大名は石田三成より家康のほうが頼りになるぞ
ということで、家康に味方する者が多くでました(長いものには巻かれようとするのが世の常です)
結果家康は関ヶ原で勝利を収めることにつながります。
そして、関ケ原の勝利で名実ともに武家の筆頭に躍り出た家康は征夷大将軍へと任命されることになり
豊臣家から天下人の座を奪い取ることにつながります
ということで、信雄をうまく使って秀吉に戦いを挑み、家康の強さを全国に示した、この辺りが家康の秘策?と言えるのかもしれない。
No.5
- 回答日時:
ないよ。
秀吉の動きが速すぎて、田舎にいた家康は対応できなかった。
家康はより現実的で切実な甲州と信州の鎮撫を優先しており、京に手を出す余裕も意義もなかった。
もしこの判断を間違えていたら、小牧合戦で秀吉に一瞬に粉砕されていたし、そもそも信勝をして「家康を同盟に引き入れよう」と思わせなかっただろう。
家康は秀吉と北条の二大勢力の板挟みになり、圧殺されていたはずである。
この時の甲信併呑が「有利に動いた」と言えばいえる。
しかしそれは結果論に過ぎない。
先ほど述べた通り信長の死後の権力争いは「混乱」と言うほどのこともなく秀吉によって速やかに収められた。
つまり西方はこの巨大勢力が既成事実となった。
東方には北条氏がでんと居座っている。
もしこのまま駿遠三の三カ国の領主にとどまっていれば、この東西勢力は甲信を切り取り次第にし、さらに巨大勢力となって家康を全方向から圧迫しただろう。
それは家康にとっては武田の圧迫の再現である。
もしこれをやられたら領内の国衆は次々と両勢力に鞍替えし、家康の勢力は縮小の一途をたどる。
家康としては武田の悪夢を繰り返さないため、甲信は自分の勢力下にしておく必要があった。
それだけの準備をして、ようやく家康は小牧合戦を「引き分け」に持ち込んだ。
この合戦で後家康領内は疲弊し、増税に踏み切らざるを得なかったし、民心の安定のため、かつて追い出した一向宗系の寺を呼び戻したりもした。
家康にはもはや再戦の余裕はなく、もし秀吉が再度攻めてきたらもう防ぎきれなかった。
現に秀吉は再度征伐するつもりであり、その準備に着手していた。
それを思いとどまった理由はよくわからないが、この時期京に起こった大地震がその一因であったとも言われている。
理由としてはとても脆弱で、家康はまさに存亡の危機に立たされていたといえる。
(秀吉はその後一転して家康を優遇し、それは秀吉の死まで続く。その理由は謎である)
このような状況で、好んで京を敵にできるわけがない。
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