HP、庭 三郎『現代日本語文法概説』が開示されている。
http://niwanoda.web.fc2.com/bunpou/0mokuji.html
しかし、ここに示されている言語観、文法観は現在のソシュールパラダイム下の非科学的な、言語の本質を捉え損ねた形式主義/機能主義的な言語論、文法論で、これに基づき論理が展開されている。
ここに展開されているのは、機能主義的ないわゆる言語道具観に立つ、アプリオリな実体としての文の存在を前提とした生成文法と同様な発想による逆立ちの論理が展開されている。
この言語観、文法論の誤りについては、
庭 三郎『現代日本語文法概説』に見る非論理性―機能主義文法論の迷妄
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9466 …
で詳しく展開したが、品詞の定義一つにしても、
「単語」をその形の特徴・文の中での働きによって分類したものを「品詞」と言います。//
と、誤った定義がされている。品詞とはその語が表す意義により分類されなければならない。
文は話者の認識を表現するもので、表現に先だって文が存在するのではない。その話者が、文の表現に先だって「文の中での働き」を考えて表現するというのは因果を逆転した、言霊としての単語が存在しなければならないことになる。
科学的言語論を誇る生成文法の教祖チョムスキーは、さすがに言霊では気が引けるので、その産みの親を更に妄想することになった。それが、普遍文法である。しかし、その下っ端信者は親の心子知らずで、言霊を直接に裸体的に売り出しにかかったということである。
このため、
疑問文の文末などにつく「のか」「のかな」の「の」の品詞はなんなのでしょう
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11788778.html
のNo.24 では、「私はこういう細かい品詞論議にはあまり興味を感じないほうなのです」と全くピント外れな回答をされている。「品詞はなんなのでしょう」という問いの回答には全くなっていないことに無頓着である。さらに、「こういう細かい品詞論は、あんまり突き詰めても得るところはない」と問題を回避している。得るところがないのではなく、論じることができないということを告白しているということである。
これは、<名詞>と<助詞>の品詞の区別もできない事実を露呈している。
こんな雑な、文法とはいえない回答を繰り返されるのは、『概説』が露呈している非論理性に起因するものである。
「まえがき」では、
中学・高校で国語の文法(国文法・学校文法)をいちおうは習っていても、わかった気がしなかった、そしてまた、英語の時間に英文法を習い、その用語をいくつか記憶しているが、国語の文法との共通点および相違点がよくわからない、というような人です。//
などと述べているが、この文法論では学校文法の混迷を拡大再生産することにしかならない。
さらに、この文法論を真に受け中味のない質疑を繰り返しているのが、<疑問文の文末などにつく「のか」「のかな」の「の」の品詞はなんなのでしょう>の質問者である。
このような、無用な混乱を招く念仏、SF文法の繰り返しはスペース、タイムの浪費でしかない。
適切な論理的回答を、「頭が痛いだけ。」などという体たらくで、愚問を繰り返すことのないよう自覚、学習すべきであろう。少なくとも、自身の理解力のなさを棚に揚げ、悪罵を繰り返すのは良識ある大人の為すべき行為ではない。
真に迷惑なのは念仏に付き合わされ、混迷に落とし入れられる善良な回答者諸賢である。
この点、諸賢はいかがお考えであろうか。■
A 回答 (67件中31~40件)
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No.39
- 回答日時:
No.39=37=36=9です。
No.37で動詞を含んだ一部を文の中にあるまま文と呼んでいました。誤りました。ごめんなさい。下記のように訂正します。スロさん指摘ありがとうございました。旧)2個の文があります。
新)2個の節があります。
旧)
文2 文3
┏━┻━━┓┏━┻━┓
そこにあったのを食べる。
┗━━┳━━┛┗┳━┛
文4 5
新)
節2 節3
┏━┻━━┓┏━┻━┓
そこにあったのを食べる。
┗━━┳━━┛┗┳━┛
節4 5
『57. 名詞節(1)』さんhttps://niwasaburoo.amebaownd.com/posts/5773253/より引用の「昔、後楽園で王がホームランを打つのを見た。」を参考にしました。サロさんありがとうございました。王がホームランを打った。左のものは文です。8個目の補足 comment のようにのの左で分けます。2個の節があります。各々を取り出します。文2.王がホームランを打った。文3.のを見た。形式媒介抽象名詞のは名詞節王がホームランを打ったを捉えなおします。のはをを伴う目的語です。のは打撃棒になりません。文1.王がホームランを打ったを見た。
文1
┏━━━┻━━━━┓
節2 節3
┏━━┻━━━━━━┓┏┻━┓
王がホームランを打ったのを見た。
┗━━┳━━━━━━━┛┗┳┛
節4 5
┗━━━┳━━━━━┛
文1
王がホームランを打ったの。左のものは文です。のの右で分けます。各々を取り出します。文4.王がホームランを打ったの。5.を見た。形式直接抽象名詞のは自身と王がホームランを打ったを合わせて名詞節になります。名詞節王がホームランを打ったのはをを伴う目的語です。のは打撃棒になります。文4.王がホームランを打った打撃棒。文1.王がホームランを打った打撃棒を見た。
中井悟『「文法遺伝子」は存在するのか--遺伝性特定言語障害をめぐる論争--』https://ci.nii.ac.jp/naid/110000988335が凄かったです。p.3より引用します。「健常者は, book から books を作るように, 名詞の語尾に-sを付加するという一般的な規則を適用して名詞の複数形を作るが, 不全失語症者は一般的な規則を適用する事ができないというのである。しかも, この障害が, 3世代にわたる家族の祖母, 子ども, 孫に見られることから, この語形変化表を作成できないのが遺伝的要因によるものであり, 多分, 人間には語形変化表の作成にかかわるメカニズムを制御する遺伝子が存在する」
>>王がホームランを打った。左のものは文です。
文ではなく、節です。
>>形式媒介抽象名詞のは【名詞節】王がホームランを打ったを捉えなおします。
「名詞節」ではなく、「連体修飾節」です。「名詞節」は「の」を含む、節4です。
>>形式媒介抽象名詞のは【名詞節】王がホームランを打ったを捉えなおします。
これも、「名詞節」ではなく、「連体修飾節」です。「名詞節」は「の」を含む、節4です。
>>形式直接抽象名詞のは自身と王がホームランを打ったを合わせて名詞節になります。
形式直接抽象名詞ではなく、形式媒介抽象名詞です。「の」は名詞で、連体修飾節と合わせて名詞節になります。
>>のは打撃棒になります。
以下意味不明?
>> 人間には語形変化表の作成にかかわるメカニズムを制御する遺伝子が存在する」
こういう妄想に囚われてはいけません。
「」の使い方をマスターしましょう。■
No.38
- 回答日時:
No.32の「お礼」欄について
「静詞」について。
その他、たくさんの(かなり多い)、学校文法では名詞とされる語が含まれる
のではありませんか?
これは、膠着語である日本語の語とは何かが理解できていないための混乱です。
★この命題は真だ
は、単語に区切ると、「この/命題/は/真/だ」で「真」が<静詞>です。
同様に、「彼/は/病気/だ」で「病気」が<静詞>です。
つまり、「学校文法では名詞とされる語が含まれる」わけで、どこが「混乱」なのでしょうか?
「ある」について。
「ある」は、時間的に変化する属性で、それゆえに命令形を持ち、静的な属性を
表わす形容詞は命令形を持ちません。無から有への変化を命令します。
「時間的に変化する属性で、それゆえに命令形を持ち」ここは面白い。
紳士であれ!
「紳士だ/である」は「時間的に変化する属性」であるのかどうか。そうなんだろうな。
「病気だ/である」はどうなんでしょうか。
では、「要る」「できる」「違う」などはどう考えるのか。命令形はない。
「できる」に命令形があるかどうかは前に話題になったが、ふつうはないと考えるのだろう。
この三語は、
<動詞>:時間的に変化する属性
<形容詞>:時間的に変化しない属性
のどちらになるのでしょうか。
saburoo
適切な質問をありがとうございます。
『概説』の根本的な誤りが理解できましたか?
>>つまり、「学校文法では名詞とされる語が含まれる」わけで、どこが「混乱」なのでしょうか?
「学校文法では名詞とされる語」が<形容動詞>、つまり「病気だ」なのか、語幹部分「病気」なのかが一慣性がなく混乱しているということです。つまり、まず膠着語である日本語の単語とは何かが根本的に理解できていないということです。この点、回答者も助詞は語ではないなどと混乱したことを言っているのと同じです。
<静詞>の場合、「病気」が単語であり、「病気」が名詞として使用される場合もあるということです。
>>「病気だ/である」はどうなんでしょうか。
この、「だ」は指定の助動詞です。
「である」は、「だ」の連用形「で」+判断辞「ある」で、肯定判断の強調です。「~であるのであります。」のように、<形式(抽象)名詞>「の」を挟み、さらに強調されます。
>>「要る」「できる」「違う」などはどう考えるのか。
い・る【要る】
〘自五〙
で・きる【出来る】
㈠ 〘自上一〙
ちが・う【違う】チガフ
〘動五〙
【広辞苑】
で、いずれも当然「<動詞>:時間的に変化する属性を表わす」語です。
五段活用動詞くらいは理解できますよね。
もっとも、活用とは何かの理解が言語事実に相違し、根本的に誤まっていますが。■
No.37
- 回答日時:
No.37=36=9です。
『日本語を学ぼう!教えよう!』さんhttp://book-on.net/japanese/note/4_2_2_2.htmlは次の引用「1.自由形態素
・単独で語になる形態素のこと
・例:「傘」={kasa}
」のように{}波カッコを使っています。〔čiRmɯ〕は形態素です。[čiRmɯ]と言っても[tiRmɯ]と言っても球技の敵と味方に別れた各々の人達の集まりです。/t/は音素ではありません。
そこにあった。左のものは文です。8個目の補足 comment のようにのの左で分けます。2個の文があります。文2.そこにあった。文3.のを食べる。形式媒介抽象名詞のはそこにあったを捉えなおします。のはをを伴う目的語です。のは寿司になりません。文3.そこにあったを食べる。
文1
┏━━━┻━┓
文2 文3
┏━┻━━┓┏━┻━┓
そこにあったのを食べる。
┗━━┳━━┛┗┳━┛
文4 5
┗━━┳━┛
文1
そこにあったの。左のものは文です。のの右で分けます。文4.そこにあったの。5.を食べる。形式直接抽象名詞のは自身とそこにあったを合わせて名詞節になります。名詞節そこにあったのはをを伴う目的語です。のは寿司になります。文4.そこにあった寿司。
コメントをありがとうございます。
形態素などというのは形式的な捉え方で誤りです。
「傘」は語、単語です。
>>そこにあった。左のものは文です。
「そこにあった。」は一文ですが、「そこにあったのを食べる。」も一文で、この後者の文の中の「そこにあった」は文ではなく節です。
「文2」というのは、<形式(抽象)名詞>「の」を修飾する連体修飾節です。助動詞「た」の活用形は連体形です。「そこにあった。」の「た」の活用形は終止形です。この相違を正しく理解しましょう。
そして、「文4」が名詞節になります。
この名詞節が格助詞「を」により、動詞「食べる」の目的語として表現されています。
この構文の構造は、「〔{(そこにあった)の}を〕食べる■。」という立体的な入子型構造で、示されたような一次元の線状構造ではありません。■は判断を表わす零記号で、丁寧形の場合は、
「〔{(そこにあった)の}を〕食べ【ます】。」
と判断辞が表現されます。この構造は話者の認識の構造に対応しています。
そこにあったのが「寿司」であれば、「の」は「寿司」という実体に対応しています。それを具体化しているのが、「そこにあった」という連体修飾節で、この場合は具体的な実体(寿司)の捉え直しになっています。
なお、紹介された『日本語を学ぼう!教えよう!』は、
第4部言語一般
第3章日本語の文法2・文法体系
第5節構文による文の分類と複文の諸相
1.連体修飾節を含む文について
1.【未作成】
で、このような名詞節の説明はされていません。ここに示された、
第4部言語一般
第1章言語の構造一般
第1節言語記号の特徴
1.言語とは
・言語とは、音声を媒介手段として意味を伝えるもの
・文字を使用しない言語はあっても、音声を使用しない言語はない
という、ソシュールパラダイム下の音声第一主義、言語道具観では<形式(抽象)名詞>「の」を正しく捉えることはできず、破綻するしかありません。
それにしても、コメントは「」などを活用し、段落を明確にし、判り易く表現しましょう。■
No.36
- 回答日時:
No.36=9です。
伊藤益『言霊論--解釈の転回--』http://ajih.jp/backnumber/16-20.htmが良かったです。p.4下段に「言と事との等価性を信頼する前代的思惟から離れて、言に対する事の優位を認める立場に立った万葉人は、言の事化の可能性に疑問を抱くに至ったが、それにもかかわらず、あえて言の事化を希求するとき、彼らは「言→事」の過程を領導する作用因を必要とし、そしてその作用因として、言霊の存在を要請したのではなかったろうか。」とありました。『現代日本語文法概説』も同様に言葉が事実を引き起こす過程を領導する作用因を要請しているのでしょうか?もし要請しているとして何を要請しているのでしょうか?その何かを本質問は a priori な実体としての文であると主張しています。
興味深い論考の紹介をありがとうございます。
「言と事との等価性を信頼する前代的思惟」を万葉人が離れ得たか否かは議論の残るところですが、言霊の存在を要請したのは間違いないところです。
本居宣長は「意と事と言とはみな相称へて離れず。」(『古事記伝』)と述べて、三つの段階が連結されていることを指摘しています。そして、「古人の用ひたる所をよく考えて、云々の言は云々の意に用ひたりということをよく明らめ知るを要とすべし。」(『うひ山ぶみ』)と述べています。
しかし、『概説』では意の存在を無視し、a priori な実体としての文から出発するという逆立ちの論理が展開されており、a priori な実体としての文からから切り出された語自体が事実を引き起こす過程を領導する作用因とするしかない論理を展開しています。
これは、言語本質をラングとするソシュールパラダイムの論理的要請で、事実を認識する意の写像であるパロールと規範としての語の媒介の関係を捉えられずに、語自体が事実を引き起こす過程を領導する作用因とする観念論へと転落しています。
なお、伊藤益『言霊論--解釈の転回--』では九州王朝の存在が無視されているため、「葦原の瑞穂の国」と「磯城島の大和の国」の関係、「天の河原」とは何かが正しく理解されていません。
この辺は、古田武彦『古代史の十字路 ―万葉批判―』『壬申大乱』他を参照下さい。■
No.35
- 回答日時:
わかった、わかった!
三浦の文章をまた読んでみて、三浦が何をかんちがいしていたのかがやっと(しっかり)わかった。
音素がそのまま形態素と一致する
音素/u/と、形態素〔U〕が「一致する」と思いこんでいるんだ!
そういうレベルの「理解」で、「二重分節」を考えているのか。
それじゃあ、何もわからないはずだ。いやはや。
言語分析の際の、言語の単位、というもの。それがな---んにもわかっていない。
それで言語学をやるのは無理だわな。
質問者もそうなんだろうな。まあ、シロウトだから、そんなもんか。
saburoo
わかった、わかった!
先の応答に回答者の言語理解の限界が露呈しています。
いやいや、本問題提起が
庭 三郎『現代日本語文法概説』に見る言霊論
であることが全く理解できていません。この提起が正解であることを今回の一連の応答が実証してくれました。
反面教師ということです。
>>音素/u/と、形態素〔U〕が「一致する」と思いこんでいるんだ!
そういうレベルの「理解」で、「二重分節」を考えているのか。
それじゃあ、何もわからないはずだ。いやはや。
音韻の定義さえ提示できないので、音素/u/と、形態素〔U〕の相違が理解できないためなのです。
これらは、共に単なる形を問題にした文法の問題ではなく、物理的な音と文レベルの機能の形を問題にしたもので、レベルが異なり本来、分節などという関係で捉えること自体が誤りです。
文法で問題にするのは、音韻、字韻のレベルであり、音声第一主義と形式主義の誤まった発想ではこれらの関係を正しく理解することはできません。
言語分析の際の、言語の単位、というもの。それがな---んにもわかっていない。
それで言語学をやるのは無理だわな。
正(まさ)しく回答者はソシュールパラダイム下の欠陥言語論、文法論のバーゲンセールです。
まあ、奴シロウトの街の御隠居だから、そんなもんですね!■
No.34
- 回答日時:
三浦も無知ですが、質問者はそれに輪をかけて無知ですね。
どこが二重ですか。是非、日本語の音声[u]、音韻/u/の、
どこが二重なのか具体的に指摘いただきたいところです。
はあ?? 「音声」と「音韻」で二重? 何を言っているんじゃい?
私はそんなこと言ってませんよ。
せっかく自分でマルティネを引用しているんだから、その内容ぐらい読みなさいよ。
人間の言語は二重に文節[分節]されているということを、よく耳にする。
実際われわれが知っているような言語現実の手短かな検討によっても
わかるように、人間の言語は、意味単位(記号素)と弁別単位(音素)
とに二重文節[分節]されている。
―アンドレ・マルティネ『共時現語学』 1965
人間の言語は、意味単位(記号素)と弁別単位(音素)
とに二重文節[分節]されている。
「二重分節」の話をしているのに、「文節」という誤植(誤変換)に気付かないというのもそうとうなものだと思うのだけれど、それはいいとして。
マルティネは「記号素」と「音素」といっているが、むろん、「形態素(語)」と「音韻」と言っても趣旨は同じ。
音声のレベルは関係ない。わかりやすさのために音声から話を始めただけ。
この程度のことすらわからずに「二重分節批判」? 話にならない。
「文」のレベルが、「語(形態素)」のレベルに「分節」され、それがまた「音素(音韻)」のレベルに「分節」される。レベルが変わる、ということ。
たまたま、一語・一音の文「絵!」があったとして、それは語のレベル「絵」に「分節」され、「音素」/e/のレベルに「分節」される。
それだけの話。
別の言い方をすれば、言語記号の段階をより基礎的なところへ「下げて」(この言い方は適当でないと思うが)いるだけ。
何がわからないんだろう? 難しいところは何もない。
やっぱり言語学を勉強しないとねえ。
はい、おしまい。
saburoo
残念な応答をありがとうございます。
誤変換、文節→分節は謹んで訂正させていただきます。
>>はあ?? 「音声」と「音韻」で二重? 何を言っているんじゃい?
私はそんなこと言ってませんよ。
何をおっしゃいますやら。
>>それだけの話で、「【一重分節】」でもなんでもない。ごくふつうに二重分節の例である。
これですよ。あなたは言ってますガ~!
>>言語記号の段階をより基礎的なところへ「下げて」(この言い方は適当でないと思うが)いるだけ。
「適当でない」言い方ですね。下げたのは良いのですが、それで!
>>一語・一音の文「絵!」があったとして、それは語のレベル「絵」に「分節」され、「音素」/e/のレベルに「分節」される。
それだけの話。
ここに、回答者のお粗末な言語観が露呈しています。絵は絵に文節はされません。感性的に分割されるだけです。「上(ウエ)」は、「ウ/エ」に分節されますが、「上」は「卜」「_」に分割されるだけで、分節されるのではありません。「卜」「_」という字韻はないためです。
ぶん‐せつ【分節】
(articulation)
①〔言〕事態を表す言語記号である文が、最小の記号である形態素に分けられること。形態素の能記がさらに音素に分けられることも、分節と呼ぶことがある。
ということで、日本語の音声[u]、音韻/u/はこれに以上分節されず、どこが二重なのか具体的に指摘いただきたいところです。
まずは、音韻の定義を提示できないところに根本的な欠陥があります。
何がわからないんだろう?
やっぱり言語とは何かの本質が理解できていないための致命的な欠陥を露呈しています。
反面教師としての意義はありますが。相対的誤謬ということです。
>>難しいところは何もない。
としか感じられないところが限界です。
先に指摘の通り、言語という矛盾を捉える論理が必要です。
はい、おしまい。■
No.33
- 回答日時:
暑さでまともなことは考えられないので、三浦つとむの「二重分節批判」について軽く書いてみました。
三浦つとむの「二重分節批判」について若干の感想を。(引用はmixi上の「言語の二重分節とは何か」による。)
ところが、われわれ日本人は、日本語の音韻表である五十音図を見て、
それぞれの音韻に相当する語を亜、意、鵜、絵、尾……などのように数え
あげ、マルチネのいう音素がそのまま形態素と一致する【一重分節】で
しかない語がどんなにたくさんあるかを知るのである。
初手から呆れるとんちんかんを披露してくれる。
「【一重分節】」だそうだ。この一言で、三浦が何もわかっていないことがわかる。
例えば、日本語の音声[u]は、音韻/u/として日本語の音韻体系の中にあり、それが単音節の形態素〔U〕(意味は鳥の一種)となる。(この場合、形態素〔U〕は、単独で語「鵜」(漢字表記は単に便宜上のもの)でもある。)
それだけの話で、「【一重分節】」でもなんでもない。ごくふつうに二重分節の例である。
三浦は「分節」ということがまったくわかっていない。
以上で話は終わり。三浦はアホ、という結論になる。
以下は蛇足に過ぎない。
日本語の音韻は五十音図に示した数しかなくても
「五十音図」が「日本語の音韻の数」を表しているそうである。「五十音図」は日本語のモーラの一部の表である。
モーラを網羅するなら、「五十音図」では足りない。拗音も、濁音も、促音もないからである。(「引き音」などというものは三浦にはわからないだろう。)
「日本語の音韻の数」なら、母音が五つと子音をいくつと考えるか、ということになる。
これも三浦の無知を表すだけの話である。
三浦は、タ行の子音をどう解釈するか、などという問題の存在を知らないし、ましてやいわゆる「四つ仮名」の問題など指摘されても何のことかわからないのだろう。
知らないということは強い。
せめてwikipedia に書かれている程度の知識が、三浦にあってほしい。
漢字では山(やま)、峠(とうげ)、茶屋(ちゃや)、旅人(たびにん)などのように、
二音節ないし四音節を一字ないし二字で記す場合が多い。それで外国語の単語を
日本語に取入れるときにも、レジ、バイト、コマソンなどのように省略している。
この文の続きは意味不明である。「それで」の前後がまったくつながっていない。
漢字表記とその読みの問題と、外来語の省略の問題をどうつなげようというのか。
文字表記が言語に何を与えたのか、特に漢字、それも日本における受容と音訓の二重の読みの問題は、深く考えるべき問題だが、三浦はまったく表面的な理解によって、漢字ウンヌンと述べている。恐ろしいほどの無知が見える。
思うに、三浦の言語学理解はまったくの独学なのだろう。誰か、言語学者の知り合いがいれば、これほどの無知をさらすことにはならなかっただろう。
そのような「理解」のもとに『言語学と記号学』という本を書いたらしい。編集者も、言語学の知識などないだろうから、ありがたく原稿を受け取って、そのまま出版したのだろう。
残念なことだが、言語学も、記号学も、このような珍説に影響されることはないだろうから、その点は安心してよいのかもしれない。
saburoo
適切なコメントをありがとうございます。
>>例えば、日本語の音声[u]は、音韻/u/として日本語の音韻体系の中にあり、それが単音節の形態素〔U〕(意味は鳥の一種)となる。(この場合、形態素〔U〕は、単独で語「鵜」(漢字表記は単に便宜上のもの)でもある。)
それだけの話で、「【一重分節】」でもなんでもない。ごくふつうに二重分節の例である。
ははは!
どこが二重ですか。是非、日本語の音声[u]、音韻/u/の、どこが二重なのか具体的に指摘いただきたいところです。
人間の言語は二重に文節されているということを、よく耳にする。実際われわれが知っているような言語現実の手短かな検討によってもわかるように、人間の言語は、意味単位(記号素)と弁別単位(音素)とに二重文節されている。
―アンドレ・マルティネ『共時現語学』 1965
なのですが、日本語の音声[u]、音韻/u/の、どこが意味単位(記号素)と弁別単位(音素)とに二重文節されているのですか。
英語の不定冠詞「a」も同様ですが。
「す(酢)」が「s/u」で二重分節なのは理解できますが。
回答者には「分節」ということがまったく判っていない。
回答者はアホ、という結論になる。
ということですが。
以下は蛇足に過ぎない。
>>この文の続きは意味不明である。「それで」の前後がまったくつながっていない。
つながっていないのは、回答者の理解力の問題ですね。
>>漢字表記とその読みの問題と、外来語の省略の問題をどうつなげようというのか。
漢字もまた、外来語ということです。
残念なことだが、現在の言語学も、記号学も、このような三浦の批判が全く理解できていないお粗末なソシュールパラダイムを脱していないことを当初から指摘していますが理解不能のようですね。
トマス・クーン『科学革命の構造』が指摘する革命と通常科学という区分が全く理解できていません。
科学史、物理学史を学んだことがないようですね。
そして、エンゲルス『自然の弁証法』も。■
No.32
- 回答日時:
せっかくだから、まじめな話も書いておきましょう。
下書きはしておいたので。で、品詞論の話。No.23からの続きですね。
(1)
「静詞」に関しては、私が勘違いしていました。失礼しました。
いわゆる「形容動詞」を「静詞+助動詞のダ」とするのは理解していましたが、形容詞も静詞に入るのだ、ということを忘れていました。
つまり、「静詞」には、
形容詞 ~い
形容動詞語幹に当たるモノ+だ
が含まれるのはいいのですが、それ以外に、
この命題は真だ
彼は病気だ
あのへやはがら空きだ
財布はスッカラカンだ
その他、たくさんの(かなり多い)、学校文法では名詞とされる語が含まれるのではありませんか?
例の「三浦文法による日本語品詞体形1/2」によれば、「実態概念」を表すのが名詞で、「属性概念」を表すのが「形容詞」(静詞?)ですね。
上の「真だ」「病気だ」などはみな、「属性」を表していますね? 「実態概念」ではないですね?
それで一向にかまわないのですが、そうすると、「静詞」の中で、「静詞1(形容詞)」「静詞2(形容動詞語幹(に当たるモノ)」「静詞3(学校文法では名詞のモノ)」のような下位分類が必要ですね。
それぞれ、文法的な働きが違うので。
もちろん、それが悪いと言っているわけではありません。そうなのかどうか、興味があるだけです。
私の見るところでは、以上の話は村木新次郎の形容詞に似ているな、と思うのですが、そうなのかどうか。
(2)
次は動詞と形容詞類との話。
前に、「ある」が動詞で「ない」が形容詞に分類されるのは、意義からも言えることなのか、と言う質問をしましたが、答えをいただいていません。これはどうなのか。
「存在」は「動的属性概念」で、「非存在」は「静的属性概念」なのか。
別の所で、
時間的に変化する属性を表わすのが<動詞>で、時間的に変化しない属性を
表わすのが<形容詞>です。
とありましたが、「ある」は「時間的に変化しない属性」なのではありませんか?
もちろん、「ある」ものが「なくなる」、つまり「変化する」ことはありますが、それは「ない」ものが「ある」ようになることもあるわけで、同じです。
同様のことが「できる」(「可能だ」と比較)、「違う」(「同じだ」)、「要る」(「必要だ」)など、いわゆる状態動詞に言えるわけで、つまり、これらと「静詞」をどう分けるのか。
あるいは、これらは皆「静詞」に入れてしまうのか、です。こちらのほうが、論理が一貫していていいように思うのですが、どうなのでしょう。
それに、前にも書いた「曲がった道」の「まがった」は、これも静的属性概念を表しているので、形容詞の類としてしまう、という話。これは案外ありうる話です。(英語のfrightened の類ですね)
「意義」によって品詞を分類する、というのはかなり無茶なことですが、徹底してやってみると、意外に面白い発見につながるかもしれません。(みんなが考えることと同じことを考えていては、新発見は難しいかもしれませんから。)
以上、マジレスをいただければ。
saburoo
貴重な質問をありがとうございます。
(1)
>>それ以外に、
この命題は真だ
彼は病気だ
あのへやはがら空きだ
財布はスッカラカンだ
その他、たくさんの(かなり多い)、学校文法では名詞とされる語が含まれるのではありませんか?
これは、膠着語である日本語の語とは何かが理解できていないための混乱です。
★この命題は真だ
は、単語に区切ると、「この/命題/は/真/だ」で「真」が<静詞>です。
同様に、「彼/は/病気/だ」で「病気」が<静詞>です。
>>「三浦文法による日本語品詞体形1/2」によれば、
<名詞>は「実体を概念化」、静的属性概念を表わすのが<形容詞(静詞)>です。
>>上の「真だ」「病気だ」などはみな、「属性」を表していますね? 「実態概念」ではないですね?
上に回答の通り、「真」「病気」が静的属性概念を表わす<静詞>です。
>>「静詞」の中で、「静詞1(形容詞)」「静詞2(形容動詞語幹(に当たるモノ)」「静詞3(学校文法では名詞のモノ)」のような下位分類が必要ですね。
上記の通り活用を持つもの(和語)と活用を持たないもの(漢語系)の二種類です。
>>以上の話は村木新次郎の形容詞に似ているな
機能による第三形容詞論とは全く異なります。そもそも、客体的表現の語と主体的表現の語という基本の詞辞の区分がありません。
(2)
>>「ある」が<動詞>で「ない」が<形容詞>に分類されるのは、意義からも言えることなのか、
<動詞>:時間的に変化する属性
<形容詞>:時間的に変化しない属性
です。
>>「ある」は「時間的に変化しない属性」なのではありませんか?
「ある」は、時間的に変化する属性で、それゆえに命令形を持ち、静的な属性を表わす形容詞は命令形を持ちません。無から有への変化を命令します。
>>「ある」ものが「なくなる」
は、有から無への変化で「(無く)なる」と動詞で表わされます。
「ない」が<形容詞>であるのは
ここにおいた本が【ない】。
夫婦の間に子どもが【ない】。
のように、【特定の規定を持った客観的な無】を捉えるからです。無の変化はとりもなおさず有になること、すなわち「ある」に変化すること以外にはありえません。それゆえ無それ自体は変化を持たないものとして、<形容詞>に表現されます。■
No.31
- 回答日時:
えー、めんどくさくなってきましたが、一応。
>>「物理的な音」ではなくて、人間の発する「音声」ですよ、それがわからないんですか
音声とて物理音であることに変わりありません。
はあ。音声学の本を読んだことありませんね?
最初に書いてあるんですよ。人間の「音声」と、「単なる物理的な音」との区別が。
昔初めて読んだときは、なんでこんなわかりきったことを書くんだろう、と思ったのですが、やはり必要だったのですね。わからない人がいるのだから。具体的には、「舌打ち音」のことなどが書いてあるのですが、まあ、自分で読んでください。そして無知を恥じてください。
音声とて物理音であることに変わりありません。それが、言語音、つまり音韻として
認識されるのは何故かという根本の所が理解できていません。
つまり、日本語の音韻には「r」はありませんということです。
この「つまり」はぜんぜん論理的に使われていませんね。前後がつながっていない。
自分でわかります?
記号の体形[体系]から、どのように文法が定義され、音韻や語が定義されるのですか?
これは面白い話ですね。ぜひ、持論を展開してみてください。
「権威」の本のページ数を引用するのではなく。
三浦つとむの「二重分節批判」のめちゃくちゃさは一度書きたいと思いながら、あんまり馬鹿馬鹿しいので書いていません。そのうちに。
「三浦つとむの言語原論 (長文)」
http://transhistoy.jugem.jp/?eid=6081
また、シロウトさんの感想文ですね。何も内容がない。「長文」とは三千字程度のものを言うのでしょうか。続きがある?
シロウトさんが、わけもわからずに三浦をほめて、それが何か? もう少しきちんと「論証」がある文章が読みたい。
まあ、宗教のお経のようなものですから、ありがたい人にはありがたいのでしょう。何の論証もなくても。でも、それは科学ではない。
しかし、私の具体的な質問(質問者の痛いところで、答えられないところ)には、何も触れないのですね。いつも通り。そして、「体形[体系]」だの何だのと「大きな」(ほめてない)話ばかりで字数をかせぎ、何か書いたつもりになる。
まあ、いいですけど。
saburoo
ご丁寧な応答をありがとうございます。
>>最初に書いてあるんですよ。人間の「音声」と、「単なる物理的な音」との区別が。
それは最初から誤まっているというだけの話ですね。
恥ずかしくて具体的な内容が書けないのですね。
アラビア語が我々にとっては「単なる物理的な音」でしかないことが理解できませんか?
現在は音声も機械合成されていますが?
やはり必要だったのですね。わからない人がいるのだから。音韻とは何かの定義が書けないのでは、
>>この「つまり」はぜんぜん論理的に使われていませんね。前後がつながっていない。
としか理解できないということです。まず、音韻とは何かを正しく理解しましょう。
そして無知を恥じてください。
>>記号の体形[体系]から、どのように文法が定義され、音韻や語が定義されるのですか?
これは面白い話ですね。ぜひ、持論を展開してみてください。
ソシュールパラダイムの誤りを指摘しているのですが、理解できませんか?
当方は、言語とは規範を媒介とした話者の概念認識の表現であると何度も指摘していますが。
この規範こそがラングで、これは媒介であり、認識の特殊な在り方であることを理解しないと言語論を展開することはできません。
そもそも、記号とは何かも提示できませんよね!
>>「権威」の本のページ数を引用するのではなく。
ははは!
それを要求されたのは質問者ですが。
要求にお応えしたまでですが、明確な反論がありませんね。
できるだけの論理が無いのが見え見えです。
>>三浦つとむの「二重分節批判」のめちゃくちゃさは~、あんまり馬鹿馬鹿しいので書いていません。
そうですか。是非mixiの当方のトピックに応答いただければ幸いです。
>>「長文」とは三千字程度のものを言うのでしょうか。続きがある?
ブログとしてのコメントに過ぎません。反論があれば要点だけでも展開いただければ幸いです。
>>シロウトさんが、わけもわからずに三浦をほめて、~もう少しきちんと「論証」がある文章が読みたい。
ははは!
『日本語はどういう言語か』を読めずに、投げ出しておいて<もう少しきちんと「論証」がある文章が読みたい。>はお笑い草でしょう。
『日本語はどういう言語か』を読み通し、その論理的な基礎が知りたければ『認識と言語の理論 第一~三篇』他へと進みましょう。
■
No.30
- 回答日時:
No.28への「お礼」について
[1]
>>「r」は「単なる物理的な音」ですか?
はい、そうです。
日本語の文法に規定された音韻ではありません。
また議論をずらしていますね。
この話の前に、私は、
「r」は「音声」です。「単なる物理的な音」ではありません。
と書いている。そして、再び、「単なる物理的な音」だと言うのですか、と聞いている。
「物理的な音」ではなくて、人間の発する「音声」ですよ、それがわからないんですか、ということ。
それなのに、返答は「音韻ではありません」。
やっぱり「音声」と「音韻」の区別がついていないのが明らか。
こう言うところにシロウトさんの馬脚が現れる。
[2]
自分のまちがいに気づいたのか、何のコメントもなし。
[3]
上に同じ。
[4]
ごく常識的な説で、「誤植」であるわけがないと書いているのに、
これも、誤植ですか?
などとまた書く。
私の書いたことを読んでいない。あるいは、読んでもわからない。末期的症状。
[5]
都合の悪いところには一切コメントしない。いつまでたっても逃げ回る。
こちらがあきらめるまで。
ねえ、間違いを認めるのは死んでも嫌ですものねえ。自尊心肥大。
[6]
上に同じ。もう一度書いておきましょう。
で、「濁音や半濁音、促音」は「日本語の音韻」ではない?
だから「音韻表」にない??
それとも、もっと何か複雑な言い訳がある???
何か言い訳を考えましたか?
[7]については前回書いたとおり。シロウトさん相手に、まじめな、本格的な議論はしません。ありきたりの通説で十分。
上の1,2,3,5,6程度の基本的な話にしどろもどろで逃げ回る人相手じゃねえ。
No.29への「お礼」について
>>「音韻」として、「を」を「お」とは別に立てる正当な理由があるのですか?
そんなことも理解できないのですか。
「お菓子」を「を菓子」と書いたら、小学校でも☓になります。
これはひどいですね。「答え」を書いてしまうとこういうひどいことになる。
だから、書きたくない。その気持ちはわかります。
「お菓子」を「を菓子」と書いたら
って、表記の話じゃありませんか。「ひらがなのつかいかた」です。(元が「かわいいひらがな表」ですからね。)
「音韻」として、「を」を「お」とは別に立てる正当な理由
を聞いているのです。(ちなみに、「音声」としては同じ)
ここで、質問者は「音韻」と「表記」の区別がついていないことが明らかになりました!! (「音声」と「音韻」どころの話じゃない。)
論外ですね。
そして、「わ」と「ん」が同じ行にあることの問題には答えられない。
それで、
音韻とは何か規範とは何かという根本が理解できていないための寝言ですね。
などという。
あーあ。もうやめましょうかね。シロウトいじめは。
でもこのシロウトさん、自分のほうがわかっているつもりでいるから始末が悪い。
上の1~6に答えが書けたら、あるいは、全部自分のまちがいであることを認めたら、しつこい音韻論のお勉強はやめましょうか。
品詞論にもどらないと。
saburoo
御隠居さんの逃げが露呈しましたね。
>>「物理的な音」ではなくて、人間の発する「音声」ですよ、それがわからないんですか
音声とて物理音であることに変わりありません。それが、言語音、つまり音韻として認識されるのは何故かという根本の所が理解できていません。
つまり、日本語の音韻には「r」はありませんということです。
やっぱり「音声」と「音韻」の区別がついていないのが明らか。
こう言うところに奴シロウトさんの馬脚が現れる。
何度も指摘している通り、回答者の云う音韻とは何かを示していただかないと議論は進みません。
自分の間違いに気づいたら、素直に認めましょう。いきなり、独善論など持ち出さないで。
>>[4] ごく常識的な説で、「誤植」であるわけがないと書いているのに、
常識に依拠して進歩がありますか?
誤植でなければ、誤りですよと指摘しているのが理解できませんか?
橋本文法の品詞体形を持ち出し、自身の品詞論は無く、文論もなく、諸説の切り張りに終始した非論理的な『概説』であることを指摘していますが理解不能ですか?
>>「言語」とは、難しく言えば、意味・情報伝達のために人間が築き上げてきた「記号の体系」です。
などと言っているようでは日暮れて道遠しです。記号の体形から、どのように文法が定義され、音韻や語が定義されるのですか?
そもそも記号とは何ですか?
それが、文とどう関係するのですか?
二重文節論の誤りは理解できましたか。
都合の悪いところは逃げまくっても始りません。
辞書の信仰から抜け出ることなく、独善論を持ち出しても何の論理性もありません。
御隠居のお遊びです。
あーあ。もうやめましょうかね。御隠居いびりは!
でもこの奴シロウトさん、自分のほうがわかっているつもりでいるから始末が悪い。
当方が相手にしているのは、世界的な言語論の最先端、認知言語学や理論言語学と称する非科学的、非論理的な、まがいもの言論です。
「三浦つとむの言語原論 (長文)」
http://transhistoy.jugem.jp/?eid=6081
の云う、「言語の原論ならば、三浦つとむ(1911-1989)を越えるものは日本にも外国にもなかった」が理解できませんか。
まずは、この点を理解してからツベコベ云うようにしましょう。
相変わらず暑いですね~!■
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なお、生成文法の逆立ち的性格については、
三浦つとむ「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」
http://okrchicagob.moto-chika.com/DME/work/GJBHG …
を参照願います。■
なお、チョムスキーの発想の原点は、
TIIKEE MODELS FOR TIE DESCRIPTION OF LANGUAGE
https://chomsky.info/wp-content/uploads/195609-. …
などを参照下さい。この原点の誤りに立ち戻らない限り科学的な言語論、文法論には成り得ません。
しかし、この点に立ち戻り反省すれば生成文法は崩壊します。まあ、チョムスキーも傘寿を超え、遠からず言霊となることと思います。そして、教祖が崩御すれば信仰は崩壊する他ありません。
その他の初期論考も、以下に公開されています。
CHOMSKY.INFO
https://chomsky.info/articles/
■
なお、上記論文を批判的に検討するためには、
クロード・E. シャノン (著), ワレン ウィーバー (著), 植松 友彦 (翻訳)
『通信の数学的理論 (ちくま学芸文庫) 』( 2009/8/10)
の「Ⅰ 離散的無雑音システム」なども参照下さい。この辺に関し、チョムスキー自身は、
ノーム・チョムスキー (著), 福井 直樹 (翻訳), 辻子 美保子 (翻訳)
『生成文法の企て』 (岩波現代文庫; 2011/8/19)
で、当時の雰囲気を語っています。■
「暑い中、自尊心回復のための必死の努力、お疲れ様です。」
これは、てっきり自戒を込めた告白かと思いましたが、そうではないのですか?
頭を冷やし、この夏に貴『概説』の論理を再検討、再学習するようにお薦めします。
チョムスキーの論理的逆立ちについては、具体的な例や資料を掲げておきましたが、この理解も夏の宿題ですね。■
応答をいただけるのは有りがたいのですが、いつも言い訳、他人の権威にすがる云い立てに終始し、対象事実と論理に基づく展開は無いことを自覚、反省されたことはありませんか?
時枝は次のように述べています。
「今日、我々の持つ何等かの言語本質観は、凡て歴史的に規定されたものであって、先ず我々は自己の歴史的に所有する処の言語本質観に対して、飽くまでも批判的であることが必要である。」「言語過程説は、我が旧き国語研究史に現れた言語観と、私の実証的研究に基づく言語理論の反省の上に成立し、国語の科学的研究の基礎概念として仮説せられたものであって、言語のいはば本質が何であるかの謎に対する私の回答である。」☇
「学問の至極の妙味は、スペキュレーションにあると、僕は思ってゐる。事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだろうなんて期待するのは、学問の邪道さ。」「地球が円いと考えた最初の人間は、やっぱり大変な思惑師だよ。最初の見込みさへ確実なら、事実はあとからついて来るものさ。思惑をやる人間が無精なのぢやなくて、資料の上に安心して寝そべってゐる人間の方が余程のんきだし、無精だよ。」//
ということで、学問を舐めちゃあいけません!■
No.6 への再補足です。
>> 名詞節=連体節+(底の)名詞
と書いてある文献を提示してください、と言っているのですが
良い例が、貴『概説』にありましたので提示致します。
まず、『概説』より
10.修 飾
補語と名詞述語の名詞を修飾する「連体修飾」について、次に述語を修飾する「連用修飾」について、どのような形式があるかをかんたんに述べます。
「連体」の「体」というのは「体言」のことで、国文法で名詞と代名詞を合せてこう呼びます。つまり「連体」とは【名詞にかかる】という意味です。
56.1 概観
連体節とは、連体修飾節、つまり【名詞(体言)】を修飾する」節です。//
(【】は引用者による強調)
であれば、
【[そこにあった]パン/の】
の[そこにあった]が連体節であれば、「パン/の」は名詞、【[そこにあった]パン/の】が名詞節でなければ矛盾します。☇
また、「ウィキペディア」の「複文」を引用しておきます。
複文(ふくぶん)とは、次に掲げるようなものをいう。
文の中に名詞句【名詞節】があり、かつ、それに主語・述語が含まれているもの。
~
例えば、「太郎がきのう花子に会ったのは彼女の家だった」は「太郎がきのう花子に会った」と「・・・のは彼女の家だった」の2つの節に分けられ、それぞれに「会った」「彼女の家だった」という述語が含まれる。//
(【】は引用者による強調)
ということです。
ところで、「書名とページ数を教え」ましたが確認いただけましたか?
別に、急ぎませんが。
■
要は、三浦(つとむ)の云う、「音韻は、表現上の社会的な約束に結びついている音声の普遍的な面であり、一族である」ということが全く理解出なかったということですね。
この誤りと、膠着語である日本語の活用とは何かが理解できない所に展開されたのが、ナロックや田川 拓海 や三原健一・仁田義雄(編) (著)『活用論の前線』(2012/11/6)などの謬論ということです。■
もう少し補足させていただきます。
音声第一主義のソシュールパラダイム下では語基論も、もっともらしく聞こえますが、字韻に「ら」「ラ」はあっても「r」はありません。こんなことも理解できずに良く文法を論じますね。馬鹿馬鹿し!■