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HP、庭 三郎『現代日本語文法概説』が開示されている。
http://niwanoda.web.fc2.com/bunpou/0mokuji.html

しかし、ここに示されている言語観、文法観は現在のソシュールパラダイム下の非科学的な、言語の本質を捉え損ねた形式主義/機能主義的な言語論、文法論で、これに基づき論理が展開されている。

ここに展開されているのは、機能主義的ないわゆる言語道具観に立つ、アプリオリな実体としての文の存在を前提とした生成文法と同様な発想による逆立ちの論理が展開されている。

この言語観、文法論の誤りについては、

庭 三郎『現代日本語文法概説』に見る非論理性―機能主義文法論の迷妄
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9466 …

で詳しく展開したが、品詞の定義一つにしても、

「単語」をその形の特徴・文の中での働きによって分類したものを「品詞」と言います。//

と、誤った定義がされている。品詞とはその語が表す意義により分類されなければならない。

文は話者の認識を表現するもので、表現に先だって文が存在するのではない。その話者が、文の表現に先だって「文の中での働き」を考えて表現するというのは因果を逆転した、言霊としての単語が存在しなければならないことになる。

科学的言語論を誇る生成文法の教祖チョムスキーは、さすがに言霊では気が引けるので、その産みの親を更に妄想することになった。それが、普遍文法である。しかし、その下っ端信者は親の心子知らずで、言霊を直接に裸体的に売り出しにかかったということである。

このため、

疑問文の文末などにつく「のか」「のかな」の「の」の品詞はなんなのでしょう
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11788778.html

のNo.24 では、「私はこういう細かい品詞論議にはあまり興味を感じないほうなのです」と全くピント外れな回答をされている。「品詞はなんなのでしょう」という問いの回答には全くなっていないことに無頓着である。さらに、「こういう細かい品詞論は、あんまり突き詰めても得るところはない」と問題を回避している。得るところがないのではなく、論じることができないということを告白しているということである。

これは、<名詞>と<助詞>の品詞の区別もできない事実を露呈している。

こんな雑な、文法とはいえない回答を繰り返されるのは、『概説』が露呈している非論理性に起因するものである。

「まえがき」では、

中学・高校で国語の文法(国文法・学校文法)をいちおうは習っていても、わかった気がしなかった、そしてまた、英語の時間に英文法を習い、その用語をいくつか記憶しているが、国語の文法との共通点および相違点がよくわからない、というような人です。//

などと述べているが、この文法論では学校文法の混迷を拡大再生産することにしかならない。

さらに、この文法論を真に受け中味のない質疑を繰り返しているのが、<疑問文の文末などにつく「のか」「のかな」の「の」の品詞はなんなのでしょう>の質問者である。

このような、無用な混乱を招く念仏、SF文法の繰り返しはスペース、タイムの浪費でしかない。

適切な論理的回答を、「頭が痛いだけ。」などという体たらくで、愚問を繰り返すことのないよう自覚、学習すべきであろう。少なくとも、自身の理解力のなさを棚に揚げ、悪罵を繰り返すのは良識ある大人の為すべき行為ではない。

真に迷惑なのは念仏に付き合わされ、混迷に落とし入れられる善良な回答者諸賢である。

この点、諸賢はいかがお考えであろうか。■

質問者からの補足コメント

  • なお、生成文法の逆立ち的性格については、

    三浦つとむ「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」
    http://okrchicagob.moto-chika.com/DME/work/GJBHG …

    を参照願います。■

      補足日時:2020/08/11 10:13
  • なお、チョムスキーの発想の原点は、

    TIIKEE MODELS FOR TIE DESCRIPTION OF LANGUAGE
    https://chomsky.info/wp-content/uploads/195609-. …

    などを参照下さい。この原点の誤りに立ち戻らない限り科学的な言語論、文法論には成り得ません。

    しかし、この点に立ち戻り反省すれば生成文法は崩壊します。まあ、チョムスキーも傘寿を超え、遠からず言霊となることと思います。そして、教祖が崩御すれば信仰は崩壊する他ありません。

    その他の初期論考も、以下に公開されています。

    CHOMSKY.INFO
    https://chomsky.info/articles/

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/11 17:29
  • なお、上記論文を批判的に検討するためには、

    クロード・E. シャノン (著), ワレン ウィーバー (著), 植松 友彦 (翻訳)
    『通信の数学的理論 (ちくま学芸文庫) 』( 2009/8/10)

    の「Ⅰ 離散的無雑音システム」なども参照下さい。この辺に関し、チョムスキー自身は、

    ノーム・チョムスキー (著), 福井 直樹 (翻訳), 辻子 美保子 (翻訳)
    『生成文法の企て』 (岩波現代文庫; 2011/8/19)

    で、当時の雰囲気を語っています。■

      補足日時:2020/08/11 17:46
  • 「暑い中、自尊心回復のための必死の努力、お疲れ様です。」

    これは、てっきり自戒を込めた告白かと思いましたが、そうではないのですか?

    頭を冷やし、この夏に貴『概説』の論理を再検討、再学習するようにお薦めします。

    チョムスキーの論理的逆立ちについては、具体的な例や資料を掲げておきましたが、この理解も夏の宿題ですね。■

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/11 21:23
  • ムッ

    応答をいただけるのは有りがたいのですが、いつも言い訳、他人の権威にすがる云い立てに終始し、対象事実と論理に基づく展開は無いことを自覚、反省されたことはありませんか?

    時枝は次のように述べています。

    「今日、我々の持つ何等かの言語本質観は、凡て歴史的に規定されたものであって、先ず我々は自己の歴史的に所有する処の言語本質観に対して、飽くまでも批判的であることが必要である。」「言語過程説は、我が旧き国語研究史に現れた言語観と、私の実証的研究に基づく言語理論の反省の上に成立し、国語の科学的研究の基礎概念として仮説せられたものであって、言語のいはば本質が何であるかの謎に対する私の回答である。」☇

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/12 11:04
  • 「学問の至極の妙味は、スペキュレーションにあると、僕は思ってゐる。事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだろうなんて期待するのは、学問の邪道さ。」「地球が円いと考えた最初の人間は、やっぱり大変な思惑師だよ。最初の見込みさへ確実なら、事実はあとからついて来るものさ。思惑をやる人間が無精なのぢやなくて、資料の上に安心して寝そべってゐる人間の方が余程のんきだし、無精だよ。」//

    ということで、学問を舐めちゃあいけません!■

      補足日時:2020/08/12 11:05
  • どう思う?

    No.6 への再補足です。

    >> 名詞節=連体節+(底の)名詞
    と書いてある文献を提示してください、と言っているのですが

    良い例が、貴『概説』にありましたので提示致します。
    まず、『概説』より

    10.修 飾
    補語と名詞述語の名詞を修飾する「連体修飾」について、次に述語を修飾する「連用修飾」について、どのような形式があるかをかんたんに述べます。
    「連体」の「体」というのは「体言」のことで、国文法で名詞と代名詞を合せてこう呼びます。つまり「連体」とは【名詞にかかる】という意味です。

    56.1 概観
    連体節とは、連体修飾節、つまり【名詞(体言)】を修飾する」節です。//
    (【】は引用者による強調)

    であれば、

    【[そこにあった]パン/の】

    の[そこにあった]が連体節であれば、「パン/の」は名詞、【[そこにあった]パン/の】が名詞節でなければ矛盾します。☇

      補足日時:2020/08/14 17:04
  • また、「ウィキペディア」の「複文」を引用しておきます。

    複文(ふくぶん)とは、次に掲げるようなものをいう。
    文の中に名詞句【名詞節】があり、かつ、それに主語・述語が含まれているもの。

    例えば、「太郎がきのう花子に会ったのは彼女の家だった」は「太郎がきのう花子に会った」と「・・・のは彼女の家だった」の2つの節に分けられ、それぞれに「会った」「彼女の家だった」という述語が含まれる。//
    (【】は引用者による強調)

    ということです。

    ところで、「書名とページ数を教え」ましたが確認いただけましたか?
    別に、急ぎませんが。

      補足日時:2020/08/14 17:07
  • ムッ

    要は、三浦(つとむ)の云う、「音韻は、表現上の社会的な約束に結びついている音声の普遍的な面であり、一族である」ということが全く理解出なかったということですね。

    この誤りと、膠着語である日本語の活用とは何かが理解できない所に展開されたのが、ナロックや田川 拓海 や三原健一・仁田義雄(編) (著)『活用論の前線』(2012/11/6)などの謬論ということです。■

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/16 07:03
  • ムッ

    もう少し補足させていただきます。

    音声第一主義のソシュールパラダイム下では語基論も、もっともらしく聞こえますが、字韻に「ら」「ラ」はあっても「r」はありません。こんなことも理解できずに良く文法を論じますね。馬鹿馬鹿し!■

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/16 15:47

A 回答 (67件中41~50件)

しつこいようですが、(じじつ、しつこい!)下の「質問1」と「質問2」も、そろそろ答えていただけません?



     かわいい ひらがな表
      わ ら や ま は な た さ か あ
        り   み ひ に ち し き い
      を る ゆ む ふ ぬ つ す く う
        れ   め へ ね て せ け え
      ん ろ よ も ほ の と そ こ お
        https://happylilac.net/hiraganahyo-g.html

この表への疑問を提示しましたが、ついに答えは得られませんでしたね。

   例えば、最後のいわゆる「わ行」ですが、ここに「ん」を入れてしまったら、
   音韻の表としては致命的ミスではありませんか。(なぜかわかります?-質問1)
   (ついでに言うと、「を」の位置も変です。) 

   「を」がありますが、(ひらがなを書くための練習としては「を」は必要ですが、)
   「音韻」として、「を」を「お」とは別に立てる正当な理由があるのですか? 
                                質問2
saburoo
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この回答へのお礼

あらら!
また逃げまくっていますね。

音韻の定義なしにグダグダ云っても、奇妙な独自論にしかならないということです。

いつも細部しか問題に出来ず、木を見て森を見ざる典型ですね。

>>「音韻」として、「を」を「お」とは別に立てる正当な理由があるのですか? 

そんなことも理解できないのですか。

「お菓子」を「を菓子」と書いたら、小学校でも☓になります。

音韻とは何か規範とは何かという根本が理解できていないための寝言ですね。

まず、言語とは何かが捉えられない以上、対象の廻りをうろつき廻るしかないということを実証していただいている点で、相対的誤謬の一例という意義はありますが。■

お礼日時:2020/08/27 07:48

また逃げまくっていますね。



[1]    >>「r」は「音声」です。「単なる物理的な音」ではありません。
    その違い、わかります? 音声学の基本の基本です。

    音声と音韻の相違が理解できていませんね。

あら、また逃げられちゃった。

    >>「r」は「音声」です。「単なる物理的な音」ではありません。

と言っているのですよ。それへの反論は? 「r」は「単なる物理的な音」ですか? そんな馬鹿な。

[2]    日本語に単独子音や子音の重複はありません。

はい、「単独子音はない」、賛成ですよ。あるなんて言いました?
「r」という「音韻」としてあるのですよ。

「子音の重複」は解釈によりますね。まさに促音や撥音など。あるというのが普通でしょう。

[3] それに、英語では単独子音が発音されるのですか? そこに答えていませんね。
「厳然たる事実」? 具体例は?

       >>単独で子音が発音されることはない、ということなら、西欧の言語も
        ほとんどそうなのでは?
    まあ、日本語の言語事実が理解できないようでは英語、フランス語、独逸語他の
    言語事実の理解を期待するのが誤りですね!

いつもこうやって逃げ回っている。たまにはまともに答えてみたらどうですか?

[4]   >>「言語」とは、難しく言えば、意味・情報伝達のために人間が築き上げてきた「記号の体系」です。

これも、すでに書いたとおり、ごく常識的な説の一つを繰り返しているだけで、「誤植」であるわけがありませんね。大丈夫ですか?

[5]   >>何度も質問しているのですが、「名詞の定義」と、その定義によって
      「洗濯し」が名詞とされることの説明をしてほしいのですが
   何度も「名詞の定義」を提示していますが、理解できましたか。
   違うというのであれば、先ず名詞の定義を示していただきたいものです。
   そして、助詞の定義もまた。

えーと、私との議論の中では「名詞の定義」はなかったと思いますが。私の勘違いであれば、失礼。ではもう一度「定義」を示してください。
そして、重要なのは、その定義で「洗濯し」が名詞であるという論を。そこは今までに提示したことはないでしょう? 何度も問うているのに。

私の、名詞とはどういうものか、については、すでにどこかで「文法概説」の品詞の話を引用されていたと思いますが。忘れました?

[6]   >>「かわいいひらがな表」にも、時枝の掲げている表にも、いわゆる濁音や半濁音、
     促音などの「音韻」がないのはどうなっているのか、ずーーーーっと逃げ回り
     っぱなしですね。そろそろ答えがもらえませんか?
   ははは!
   何も逃げてなどいません。答えは、あなたが記されている通りです。
   つまり、濁音や半濁音、促音であるというに過ぎません。

おやおや、やっと「答え」が出たようですが、まるで答えになっていませんね。

   濁音や半濁音、促音であるというに過ぎません。

とは何を意味しているのか。これで答えたつもり?「学問的議論」をしたことがないのがはっきりわかりますね。こんな答え方を研究者の集まりでしたら、見放されますよ。
もし、こんなことを言うのなら、その後に長~い説明が不可欠なんですが。
まあ、シロウトさんに言っても仕方ないか。

で、「濁音や半濁音、促音」は「日本語の音韻」ではない? だから「音韻表」にない??
それとも、もっと何か複雑な言い訳がある???

苦し紛れの「答え」なのでしょうが、もっときちんと「日本語の音韻」について論じてもらえません?
まあ、ゼッッタイ無理な話ですが。質問者は、音韻論、なんにも知りませんものね?

[7]「語」については、私は私なりの独自論があるのですが、こんなところで発表する気はありませんね。
本気で書くなら、論文にします。でも、それで色々議論するのは面倒くさい。

明鏡でお茶を濁しておきますか。(「語」は「単語」とあります。)

  たんご【単語】言語音と意味と文法上の機能をもつ最小の言語単位。
たとえば「雪が降る」という文は「雪」「が」「降る」の三つの単語からなる。
                        [明鏡国語辞典 第二版]

もちろん、この明鏡の「定義」にしても、これで話が終わるわけもなく、少なくとも「最小の」とは何か、の議論が相当長く必要になります。(それは、国語辞典の範囲を超えます。)

なお、私の「独自論」では、「が」は語にしません。文法的接辞の類ですね。
(つまり、「格助詞」は「語」ではないとします。しかし、「本が」を「語」とする立場には立ちません。ゆえに「独自論」なのですが、こんなことをあれこれ時間をかけて議論するより、もっとやりたいことが別にあるので、「語論」「品詞論」の類で論文などを書くつもりはない、ということです。)
(こんなことを研究者でない人に話してもしょうがないのだけれど、なんとなく言ってしまいたくなったので。)

saburoo
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この回答へのお礼

化けの皮が剥がれましたね!

>>「r」は「単なる物理的な音」ですか? 

はい、そうです。
日本語の文法に規定された音韻ではありません。その程度の言語事実も理解できていないということですね。
まあ、シロウトの御隠居さんに言っても仕方ないか。

>>もっときちんと「日本語の音韻」について論じてもらえません?

ははは!
何度も指摘しているように音韻とは何かの定義を示していただかないと話がすれ違う他ありませんね。上記もしかりです。
回答者は、音韻論、なんにも知りませんものね?

>>明鏡でお茶を濁しておきますか。

誤った辞書の解説で御茶を濁すしかないということですね。おまけに、誤まった独自論を披露されてもどうしようもありません。

>>少なくとも「最小の」とは何か、の議論が相当長く必要になります。(それは、国語辞典の範囲を超えます。)

当たり前田のクラッカーですね。誤まった定義を並べ、その用語を議論しようという発想が非科学的ということです。何回もしつこく云いますが

>>「言語」とは、難しく言えば、意味・情報伝達のために人間が築き上げてきた「記号の体系」です。

などと言っているようでは日暮れて道遠しです。これも、誤植ですか?
ここから、文法とは何か、語とは何か、音韻とは何かを論理的に導くことはできません。
全く、科学的、論理的ということが理解できていない、諸説切り張りの街の好事家のお遊びにしかなりません。

論理的な展開もなしに、つまみ食いの独自論など聞いて呆れます。

説明できないから、「論以前」といって誤魔化す。いつもの逃げパターンですね。

もう少し、中身のある、論理的な議論ができませんか?■

お礼日時:2020/08/27 07:34

いつものパターンですね。



     >>だから、それを説明しないと、何の「論」にもならないのだけれど、
    言語事実を正しく理解、認識する能力が無ければ論以前の問題ですね。

説明できないから、「論以前」といってごまかす。聞いていた問題はこれですね。

      日本語では「r」は単なる物理的な音でしかなく、文法の対象とは
      なりえないということです。
   そう主張するのは自由ですが、何も根拠も立証もないのですね。

「根拠も立証もない」ことはいつも同じ。主張だけ。「科学的」議論ではない。
(ほんとに、今までに「科学的議論」をしたことがあるのですか?)

それに、

     日本語では「r」は単なる物理的な音でしかなく

というのがそもそも間違いでしたね。この前は私も気付かなかった。あまりにも基本的すぎて。

「r」は「音声」です。「単なる物理的な音」ではありません。
その違い、わかります? 音声学の基本の基本です。


    >>単独で子音が発音されることはない、ということなら、西欧の言語も
      ほとんどそうなのでは?
   まあ、日本語の言語事実が理解できないようでは英語、フランス語、独逸語他の
   言語事実の理解を期待するのが誤りですね!

ここも同じ。何も言えないからごまかす。「日本語の言語事実」も知らないし、英語などの「屈折語文法」についても何も知らない。
ただあるのは、上のような修辞的ごまかしの技術だけ。哀れ。

   辞書の引用に頼るしか能がないのでは高校生レベルですよね!

ここにシロウトさんの考え方がはっきり出ていますね。
自分の論が、ごく常識的な、一般に受け入れられている論であることの証拠として辞書を引用するのは、「頼って」いるわけではない。こんな常識的なことも知らないの?という問いかけです。

それより、いつもいつも、時枝と三浦の引用に頼っているのはそちらでは?
その発展としての具体的な問題になると、何も説明できず、逃げてしまうだけなのでは?

何度も質問しているのですが、「名詞の定義」と、その定義によって「洗濯し」が名詞とされることの説明をしてほしいのですが、相変わらず逃げ回るのですか?
これこそ、「日本語の言語事実」なのでは?

「かわいいひらがな表」にも、時枝の掲げている表にも、いわゆる濁音や半濁音、促音などの「音韻」がないのはどうなっているのか、という質問にもずーーーーっと逃げ回りっぱなしですね。そろそろ答えがもらえませんか?

まあ、あまり期待していませんが。答えられないのは明らかだから。

saburoo
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この回答へのお礼

本当にいつもの応答をありがとうございます。

>>「r」は「音声」です。「単なる物理的な音」ではありません。
その違い、わかります? 音声学の基本の基本です。

音声と音韻の相違が理解できていませんね。
当方は音韻の定義を提示しましたが、それに異を唱えるのであれば、まず回答者の定義を提示下さい。
議論の根底が相違していてはすれ違いにしかなりません。
わかります?言語学の基本の基本です。

形容動詞の誤りについても指摘しましたが応答はありませんね。

>>「日本語の言語事実」も知らない

日本語に単独子音や子音の重複はありません。あれば示して下さい。しかし、英語等にあるのは厳然たる事実です。
この程度の事実認識もなしに音韻を論ずるなど笑止です。
あまりにも基本的すぎて。

なぜ、そうなるのか。それは、何度もしつこく云いますが

>>「言語」とは、難しく言えば、意味・情報伝達のために人間が築き上げてきた「記号の体系」です。

などと言っているようでは日暮れて道遠しです。これも、誤植ですか?
ここから、文法とは何か、語とは何か、音韻とは何かを論理的に導くことはできません。
全く、科学的、論理的ということが理解できていない、諸説切り張りの街の好事家のお遊びにしかなりません。

>>こんな常識的なことも知らないの?という問いかけです。

その誤まった常識では言語事実を説明できませんと言っているのですが?

>>何度も質問しているのですが、「名詞の定義」と、その定義によって「洗濯し」が名詞とされることの説明をしてほしいのですが

何度も「名詞の定義」を提示していますが、理解できましたか。違うというのであれば、先ず名詞の定義を示していただきたいものです。そして、助詞の定義もまた。

いや、それ以前に語とは何かを!

>>「かわいいひらがな表」にも、時枝の掲げている表にも、いわゆる濁音や半濁音、促音などの「音韻」がないのはどうなっているのか、ずーーーーっと逃げ回りっぱなしですね。そろそろ答えがもらえませんか?

ははは!
何も逃げてなどいません。答えは、あなたが記されている通りです。つまり、濁音や半濁音、促音であるというに過ぎません。

>>時枝と三浦の引用に頼っているのはそちらでは?

本当に、今までに「科学的議論」をしたことがあるのですか?
科学に対する無智丸出しです。■

お礼日時:2020/08/26 09:13

もう一つ。



   >>そう主張するのは自由ですが、何も根拠も立証もないのですね。
   なによりも日本語の言語事実がそれを証しています。
   日本語に単独子音など存在しません。それを論理的に説明できない論理に意味はありません。

「なによりも日本語の言語事実がそれを証しています。」
だから、それを説明しないと、何の「論」にもならないのだけれど、論文を書いたことのないシロウトさんにはわからないのかなあ。「言語事実」がこれこれこうで、そこから導かれることはこうで、、、というのを延々と続けて行くのが「論証」なのですよ。

「なによりも日本語の言語事実がそれを証しています。」
こんなことを主張しても、研究者は相手にしてくれません。

(Mixi にいろいろ書いていますが、あれはみな「感想」に過ぎません。なんの「論証」にもなっていない。大学1年生でも、もう少しましなレポートを書きます。だいたい、あの程度の字数でまともな論証はできないし。短く書くほうが難しいのです。シロウトさんは、まず1万字程度で一つの事柄について書くような練習をしないと。千字、二千字程度の長さで、あれこれ書くのは単なる書き散らし。)(いや、最初から1万字は難しいか。せめて五千字程度から。つまり、この質問板の1回分を超えるぐらいの量で、「一つの事柄」<←ここ大事>について書く練習をする必要があります。Mixi であれこれ書かれた「感想文」を見て、つくづくそう思いました。)

「日本語に単独子音など存在しません。」
これはどういう意味か。単独で子音が発音されることはない、ということなら、西欧の言語もほとんどそうなのでは?
そうでないならどういう意味か。

ここでも、「存在しない」理由(それが何を意味するにせよ)を何も説明しないで言い切っているだけ。これは学問的議論ではない。わかる?

「それを論理的に説明できない論理」の「それ」とは?
どうも文章が論理的でない。

「根拠」とか、「立証」とか、基本的な用語の意味をしっかり知ることから始めないと、「学問」はできません。

シロウトさん、がんばってください。

saburoo
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この回答へのお礼

シロウトの戯れ言をありがとうございます。

>>だから、それを説明しないと、何の「論」にもならないのだけれど、

言語事実を正しく理解、認識する能力が無ければ論以前の問題ですね。

>>こんなことを主張しても、研究者は相手にしてくれません。

生成文法などという逆立ちの論理を信仰する研究者を相手にしているのではありません。

>>単独で子音が発音されることはない、ということなら、西欧の言語もほとんどそうなのでは?

まあ、日本語の言語事実が理解できないようでは英語、フランス語、独逸語他の言語事実の理解を期待するのが誤りですね!

>>学問的議論ではない。わかる?

単なる感覚的な議論は論理以前であることが理解できますか?
当然、学問的議論ではない。わかる?

科学、論理という基本的な用語の意味をしっかり知ることから始めないと、「学問」はできません。

街の好事家を脱する最低限の条件ですね。
わかる?

辞書の引用に頼るしか能がないのでは高校生レベルですよね!■

お礼日時:2020/08/25 11:34

簡単にいくつかのコメントを。



    >>日本語の音韻に「r」があるというのは、多くの研究者(というよりほとんどの研究者)が認めることだと思いますが、
   ここが以前から指摘している本質的な誤りです。欧米の言語には子音文字「r」はありますが、
   日本語に単独子音としての音韻も字韻もないということです。
   日本語では「r」は単なる物理的な音でしかなく、文法の対象とはなりえないということです。

そう主張するのは自由ですが、何も根拠も立証もないのですね。
「ひらがなを意識せざるを得ない」ですか?
次の「参考」もまったく「参考」になりません。ただのシロウトの感想文じゃないですか。元の文献を見てみないと。

   参考
   <言語はたんなる物理現象ではない 「音響的不変性の欠如」の謎について>
   http://transhistoy.jugem.jp/?eid=4967

あれこれ文献を紹介するのはいいのですが、もっとしっかりしたものを出してもらわないと。

「語基」の話。大辞林のは「インド・ヨーロッパ語」の話ですね。
日本語では、「語幹」と「語基」は使い分けることが多いと思うのですが。その辺のことはご存じない?

  「三浦つとむ 認識と言語の理論Ⅲー語の分類について;日本語の裸体的性格」
   https://gasukan.exblog.jp/26582725/

繰り返し言っていますが、「品詞分類」でこういう「総論」を言うのは易しいのですよね。
問題は、個別の問題になる語をそれぞれどう処理するか、なのです。

動詞・形容詞・名詞などをどうきっちり定義するか。それぞれの定義で問題になりそうな語をどう処理するか。そこまで書いてないと、議論のしようがありません。
まあ、三浦はそこまでやってないでしょう。シロウトさんは、何が問題なのかわかっていない。
大ざっぱなことを言って、それで済んだと思ってしまう。よくあることです。

   「三浦文法による日本語品詞体形1/2」を参照下さい。
    http://www.languetech.co.jp/e_2_1_9.html
    http://www.languetech.co.jp/e_2_1_10.html

こういう、「大ざっぱの極致」みたいなものを出されてもねえ。(これに関する詳しい解説はどこかにあるのですか?)


もう一つ、別のことですが。

    >>「言語」とは、難しく言えば、意味・情報伝達のために人間が築き上げてきた「記号の体系」です。
   などというお粗末な言語観に基づく『概説』の非論理性、迷妄を脱し、科学的な言語論に基づき文法論を展開するしかないことを自覚して下さいということです。■

「お粗末な言語観」というなら、それに対する「言語観」を書いていただかないと、たんなる中傷にしかなりませんが。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大辞林 第三版の解説
思想・感情・意志などを互いに伝達し合うための社会的に一定した組織をもつ、音声による記号とその体系。また、それによって伝達し合う行為。音声によらない手話や文字の使用を含めていうこともある。

デジタル大辞泉の解説
音声や文字によって、人の意志・思想・感情などの情報を表現・伝達する、または受け入れ、理解するための約束・規則。また、その記号の体系。音声を媒介とするものを音声言語(話し言葉)、文字を媒介とするものを文字言語(書き言葉)、コンピューターなど機械を媒介とするものを機械言語・アセンブリ言語などという。ことば。ごんご。げんぎょ。

百科事典マイペディアの解説
人間の社会集団における相互伝達の手段としての本来音声による記号。文字によっても表現される。言語は音と意味が恣意的に結びつけられた言語記号を単位とする体系で,その規則は社会的慣習として存在する。

世界大百科事典 第2版の解説
人間同士の意思伝達の手段で,その実質は音を用いた記号体系である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつものように、国語辞典・百科事典と同じ内容を書いて、「お粗末」と言われるなら、「お粗末」でいいかなあ、と思います。

「言語過程論」あるいは三浦の「認識論?」は、言語をめぐるおしゃべりの材料としては面白いかもしれませんが、「科学的な言語学」には不要のものです。

以上、それぞれ簡単に。

saburoo
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この回答へのお礼

コメントをありがとうございます。

ようやく、ソシュールパラダイム下の限界が判りかけてきたようですね。

>>そう主張するのは自由ですが、何も根拠も立証もないのですね。

なによりも日本語の言語事実がそれを証しています。
日本語に単独子音など存在しません。それを論理的に説明できない論理に意味はありません。

>>繰り返し言っていますが、「品詞分類」でこういう「総論」を言うのは易しいのですよね。
問題は、個別の問題になる語をそれぞれどう処理するか、なのです。

易しい筈の「総論」自体がないのが現在の言語論、文法論、そして『概説』の実態です。『概説』の継ぎ接ぎについて指摘、論証した通りです。
個別には、時枝、三浦が展開し、それに基づき工学的な応用として翻訳システムが開発されています。

>>まあ、三浦はそこまでやってないでしょう。

きちんと展開されていますが、『日本語はどういう言語か』さえ投げ出すしかない理解力ではどうしようもありません。

>>これに関する詳しい解説はどこかにあるのですか?

『認識と言語の理論 第3篇』で、その論理的な基礎付けは、1~2編、またその論理については『弁証法とはどういう科学か』他多数展開されています。

>>「お粗末な言語観」というなら、それに対する「言語観」を書いていただかないと、たんなる中傷にしかなりませんが。

これまでの応答や、「言語とは何か」https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=8721 …
他で展開していますが、何よりも『日本語はどういう言語か』で主要な点を展開し、『認識と言語の理論 第1,2篇』で詳述されています。これに基づき、

「庭 三郎『現代日本語文法概説』に見る非論理性―機能主義文法論の迷妄」
https://mixi.jp/list_bbs.pl?id=2748&type=bbs

を論述しています。

>>「お粗末」でいいかなあ、と思います。

お粗末そのもので、「科学的な言語学」とは無縁です。

結局、最初から最後まで、言い訳、他の権威の紹介、引用に終始し、自分の論理は何もないことが明かになりましたね。

記号とは何かの定義もなく、巡環論法に過ぎません。詳しくは、三浦つとむ『言語学と記号学』を参照下さい。(理解できるまでの道則は果てしなく遠そうですが)■

お礼日時:2020/08/24 09:45

小さなことですが、質問があります。



「No.20の回答に寄せられた補足コメント」の中の「字韻」というのは何でしょうか。

日本語の音韻に「r」があるというのは、多くの研究者(というよりほとんどの研究者)が認めることだと思いますが、「字韻」にない、というのは初めて聞く説です。どういうことでしょうか。

それと、「語基論」というのも、聞き慣れないことばです。「語基」というのは、形態論の中である形態を呼ぶ用語だと思いますが、「語基論」という形で使われた例を知りません。何に由来するのですか。

以上二つ、小さなことですが。

saburoo
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この回答へのお礼

「字韻」というのは何でしょうか。

ソシュールや橋本進吉は音声第一主義で文字は音声を写すだけであって言語の代用品でしかないという発想からは文字とは何かを明らかにすることができません。

しかし、文字言語も音声言語と同じく言語なので、文字にも音声と共通した個人的な特殊性が存在していることが考えられます。さらに、音声と音韻を区別するのであれば、文字言語についても文字と字韻を区別することができ、字韻とは何かが問われなければなりません。

>>日本語の音韻に「r」があるというのは、多くの研究者(というよりほとんどの研究者)が認めることだと思いますが、

ここが以前から指摘している本質的な誤りです。欧米の言語には子音文字「r」はありますが、日本語に単独子音としての音韻も字韻もないということです。日本語では「r」は単なる物理的な音でしかなく、文法の対象とはなりえないということです。

参考
<言語はたんなる物理現象ではない 「音響的不変性の欠如」の謎について>
http://transhistoy.jugem.jp/?eid=4967

「Hypostasede la forme に つ い て」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/belf/7/1/7_ …

語基

インド━ヨーロッパ語などで、語から屈折語尾や派生語をつくる接辞などを取り除いた残りの基本的な部分。意味・形式からみて、それ以上分析できない究極の要素となるもの。
【大辞林 第三版の解説】

で、いわゆる語幹を語基として独立し論ずるものということです。■

お礼日時:2020/08/22 13:33

さて、少しことのありようがが見えてきましたね。



   >>品詞は意義によって分類する、と時枝がはっきり言っているのですか?
     どこで? 書名とページ数を教えていただけますか?

という私の問いへの答えが、

   時枝誠記  『国語学原論』「二 単語に於ける詞・辞の分類とその分類基礎」(岩波文庫版;258p~)
   『日本文法 口語篇』「第二章 語論」(講談社学術文庫版;65~)

これだったわけですが、結局時枝は、

   以上のように、体言の名称は、語の形式に基づくものであって、その意義に関係しない。
    概念内容の上から動詞を規定することは、用言の場合と同様、国語の性質から見て適切でない。//

意義によって分類していない、ということですね。

これはちょっと安心しました。
さすがに時枝はそこまで極端なことは言っていないだろう、と思っていたので。(時枝は、他の学者にすぐ否定されてしまうような、どう見ても無理なことは言わないんじゃないか、と多少は信用していたわけで。)

で、三浦つとむですか。

   三浦つとむ 『認識と言語の理論 第三部』「語の分類について」(勁草書房;68p~)
   これが、山田孝雄、松下大三郎、英語学者、空西哲郎の誤りを批判し、時枝の詞辞論の意義を明らかにしています。問題は、理解出できるか(能力があるか)ですが。

ふーむ。三浦の本を確かめるのは、私にとってはちょっと大変なので、次に見る機会があるのは10月ですかね。

まあ、そもそも無理な話だろうとは思うのですが。
前にも書いたように、「意義によって」、形容詞と形容動詞(静詞?)それに名詞をどう区別するのか。難しいでしょう。

例えば、「あたたかい・あたたかな/だ」のような語をどう位置づけるか。「あたたかい」は形容詞で「あたたかな/だ」は形容動詞(静詞)と二つの品詞にするのは「意義によって」は無理でしょう。「形態的性質」で分けるしかない。
さもなければ、「形容動詞」は全部形容詞とする。

「いろいろな・いろいろの」はどうするか。片方は形容動詞で、片方は名詞か。あ、これは両方名詞でいいのか。違うのは形態だけですね。

存在の「ある」は動詞で、非存在の「ない」は形容詞。それでいいか。「意義」の違いは何か。

「曲がった道」の「曲がった」は動詞なのか、形容詞(連体詞?)なのか。意義からすれば動詞ではないでしょう。動詞を「意義」からどう定義するのか。

その他いろいろ。どこから見ても無理難題が山積しています。
そこをどう切り抜けるか。

三浦による、動詞/名詞/形容詞/形容動詞の定義を知りたいものですね。
たんに、これこれこういうものである、という宣言(主張)だけでなく、上のようなめんどうな例(その他にもたくさんあります)を具体的にどう処理するのかも含めて。
そこまで考えていない「宣言」だけなら、「論」ではない。

「認識論」から原理的な方針を導くことは出来るかもしれませんが、それを日本語の「事実」に当てはめるのは、相当強引なこと(というより、明らかに無理なこと)をしないと出来ないでしょう。

というより、そもそも「事実」を知らなければ、何も困らないのでしょうね。何も見えていなければ、怖がる必要はない。
かんたんに言って、三浦の日本語論、あるいは日本語文法のレベルは、「何も知らないから何でも言える」レベルです。いや、言語論と言ってもいいかな。言語学を知らず、言語の事実を知らない。(さすがに時枝はそうではない)
事実に基づいていないので、「科学」などとは言えない。「言語学」ではなく、「言語評論」ですね。言語学者、ではなくて、言語評論家?

私としては、時枝がそう言っていない、ということが確認できたところで満足です。
三浦の「品詞分類の基準」は検討するまでもないでしょう。
あ、でも、もしよろしければ、詳しく紹介してください。上のいくつかの例への適用もお忘れなく。

saburoo
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この回答へのお礼

>>三浦の本を確かめるのは、私にとってはちょっと大変なので、次に見る機会があるのは10月ですかね。

取り敢えず下記を参照下さい。

「三浦つとむ 認識と言語の理論Ⅲー語の分類について;日本語の裸体的性格」
https://gasukan.exblog.jp/26582725/

まあ、『日本語はどういう言語か』一つ理解できないレベルでは如何ともしがたいということですが。

>>形容詞と形容動詞(静詞?)それに名詞をどう区別するのか。難しいでしょう。

別に難しくありません。
『日本語はどういう言語か』できちんと解明されていますが、理解できない(する能力がない)に過ぎません。

>>「あたたかい」は形容詞で「あたたかな/だ」は形容動詞(静詞)と二つの品詞にするのは「意義によって」は無理でしょう。「形態的性質」で分けるしかない。

まず、膠着語である日本語の品詞、語とは何かが明確にされなければなりません。
それ以前に、言語とは何かが第一ですが、

>>「言語」とは、難しく言えば、意味・情報伝達のために人間が築き上げてきた「記号の体系」です。

などと言っているようでは日暮れて道遠しですね。これも、誤植ですか?

膠着語である日本語の単語は裸体的、単純な概念を一語が表わすもので、名詞は実体概念を、形容詞は静的な属性概念を、動詞は動的な属性概念を表わします。この点は、

「三浦文法による日本語品詞体形1/2」を参照下さい。
http://www.languetech.co.jp/e_2_1_9.html
http://www.languetech.co.jp/e_2_1_10.html

従って、まず「あたたかな/だ」は「あたたかい」が属性表現の語で一語であり、「な」「だ」は判断辞として一語であり、「あたたかな/だ」を一語とする形容動詞という品詞分類自体が日本語の言語事実に相違する誤りということになります。

「あたたかい」は和語の形容詞ですが、「綺麗」「華麗」「平和」などは属性表現の語である漢語であり活用を持ちません。
従って、活用を「な」「だ」などを付加し和文に取り込んだもので、形容詞と併せ<静詞>とするのが適切な品詞分類です。

これらの、「綺麗」「華麗」「平和」などは実体概念を表わす名詞としても使用され多義であるということになります。■

お礼日時:2020/08/22 12:52

どうもお忘れのようなので、改めて。



No.17から。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、時枝ですが、私は岩波文庫版を持っていないので、「日本の言語学」という「論文集」で「原論」のその個所を読んでみました。「口語篇」も学術文庫版は持っていないので、岩波全書版を見ました。
で、 「品詞は意義によって分類する」とは書いていないように思ったのですが。

「詞」と「辞」は意義によって区別するのだろう、と理解しましたが、それぞれの品詞の区別は、文法的な係り方と形態なんじゃないですか?
もし、私の理解が間違っていましたら、お手数でも、はっきり書いているところを引用していただけませんか?
形容詞と形容動詞(それをなんと呼ぼうとも)の区別など、意味ではできないでしょう。(きれい:きたない・美しい、じょうず:うまい)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上の引用部分の、次のところです。

  それぞれの品詞の区別は、文法的な係り方と形態なんじゃないですか?
  もし、私の理解が間違っていましたら、お手数でも、はっきり書いている
  ところを引用していただけませんか?

お手数でも、書いていただけたら、勉強になります。

動詞の「意義による」定義、同じく名詞・形容詞・形動動詞に当たるものの「意義による」定義がどう書かれているか、です。
できれば、「日本文法口語篇」のほうがいいですね。手元で確認できますから。

以上、よろしく。

saburoo
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この回答へのお礼

まず、詞と辞の区分が概念内容によるものであり、次に体用の区分について述べていますが、ここでは、

体言、用言の別は、詞が、他の語との接続関係に於いて、その語形式を変えないものを体言といひ、その語形式を変えるものを用言といふ。この分類法とその概念規定は、古来の方法とその命名法に従ったもので、国語の性質をよく反映してゐるものとして合理性が認められる。体言をはたらかぬ語、用言をはたらく語といふのも、語形変化の有無の点から云ったものである。

以上のように、体言の名称は、語の形式に基づくものであって、その意義に関係しない。

概念内容の上から動詞を規定することは、用言の場合と同様、国語の性質から見て適切でない。//

と、<用言>とよばれる語についてその内容的な分類を拒否しています。この点については、三浦(つとむ)が次のように批判しています。

これは私の論文『日本語の「裸体的」性格』で検討したように、時枝が属性の変化の実体化の把握という問題を理解していないところと結びついている。時枝は山田(孝雄)と異なって、<接頭語><接尾語>を語の構成要素と見ない。//

また、時枝は動詞の語基論的な解釈も行いながら、「語が独立して用ゐられるか否かといふことは、必ずしも絶対的なものではなく、語を分類する絶対的な条件とはすることが出来ないものである。」とも述べ混乱しています。

この点を、三浦(つとむ)は、「時枝の認識論的な弱さが彼の検討を阻止することになったものと思われる。」と批判し、正しい分類を提示しています。

言語が話者の認識の表現であるという言語表現の過程的構造を、認識論に基づき展開しないかぎり正しい、科学的な語の分類もできないということです。■

お礼日時:2020/08/18 23:26

まったく、頭の悪い方ですね。



   「ローマ字を使わないと表せない」のであれば、「ローマ字」を意識せざるを得ないでしょう。

こういうことを本気で言っているのですか? 言語構造の話ですよ。そこまで無知なの?

いやあ、文字を持たない民族は何を意識して話しているのかなあ?

文字がなかった時代の日本人の祖先は? やっぱり「かな」が意識にあった? どうやって?

ばかばかしくて話になりませんね。

それに、上代語の音韻を表すのに、ローマ字(もちろん、正確には「音韻表記としてのローマ字」ですよ。ローマ字論者の「(日本語の)ローマ字表記」ではありませんよ。その辺の区別、つきますか?)を使いますけど? 上代人(と言っていいのかなあ?)はローマ字を意識していた? 

音韻論が専門の馬淵和夫の「国語音韻論」でも見てください。いいテキストですよ。
https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E9%9 …

日本語がモーラ言語だから、モーラを基準として記述できる部分が多いのは事実だし、その点で「かな」単位で音韻を考えても、まあ、表面的にはそれほど大きくはずれる部分はないのだけれど、仮名に頼っていると、音韻史(音韻の歴史的変化)を分析、記述するのにかえって複雑になるのですよ。その辺、勉強したことないんだろうなあ。(もちろん、現代語の「深い」分析には仮名なんて問題外です。)

で、上のテキストを薦めておきます。もうちょっと勉強してください。
音韻も、ましてや音韻史など、まったくの専門外の人間からこんな初歩的なアドバイスを受けるのは、アドバイスするほうが恥ずかしいぐらいの話なんですよ。
まあ、私の見るところ、時枝は音韻に関してはほとんどシロウトだったんじゃないかと思います。論文は一つもないでしょ?
時枝以後、音韻研究はどんどん進んだわけだし。

   科学的とは何かが根本的に理解できていませんね。

こういう空疎な強がりばかり言っていたって、言語事実を何も知らないんだから、悲しい話です。

   「音韻は、表現上の社会的な約束に結びついている音声の普遍的な面であり、一族である」

これは三浦つとむでしたね。「普遍的」「一族」が何を意味するかという点に問題が残りますが、言っていることは他の学者の受け売りですね。三浦つとむに有坂音韻論がわかるわけがない。

空疎な強がりという点でも師匠ですか。

saburoo
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この回答へのお礼

おやおや!

音韻とは何かの理解もできずに空疎な世迷い言が並べられていますね。

>>三浦つとむに有坂音韻論がわかるわけがない。

ははは!
無知ほど怖いものはない。
ということですね。

今度は有坂信仰の告白ですか。
言語の本質も理解できずにどうして音韻が理解できるのですか?
もう少し勉強しましょうよ。

音韻については、

音声そのものが言語としての表現ではなく、音韻と呼ばれる面が言語表現であることの自覚です。音声は具体的であるが音韻は抽象的であるとか(金田一氏)、音声は客観的であるが音韻は主観的であるとか(神保氏)、音声は具体的であるが音韻は理念的であるとか(有坂氏)、音声は生理的であるが音韻は意識的であるとか(時枝氏)、いろいろ説明されています。

と諸説を検討のうえ、

異色なものとしては、有坂秀世と時枝誠記の音韻論が存在する。有坂は音韻を理念として解釈した。「音韻は発音運動の理想であり、音声現象の背後にあって之を意味づけるものである。」という。理想は現実と一致せず、まだ実現されていないし、発音としての理想であるから語の意味としての区別とも直接の関係を持たないというわけであって、これによって前にあげた二つの問題は統一的に説明されているかに見える。」

これに対する佐藤喜代治の批判を検討し、「有坂は表現の側面に音韻論を限定する点でこの混同からのがれてはいるものの、音声の構造についての検討が不十分であったために表現相互の区別の問題を説明できなくなってしまった。」とその限界を指摘し、活用、連濁や音便のなどの解明をしています。

この点が理解できていないのが、ナロックや田川や、三原健一・仁田義雄(編)『活用論の前線』という謬論だと言う訳です。

空疎な強がりと信仰への埋没という点で奴シロウト丸出しです。

まったく、頭の悪い方ですね。■

お礼日時:2020/08/16 19:26

「No.19のお礼の欄」について。



問題の元はここ。

     日本語を話すのに「ローマ字」を意識しているなどトンチンカンな議論をしている
     のはどなたでしょうか?
   はあ? 少なくとも私じゃありませんね。
   そう書いた部分があったら引用してください。(変な「切り取り」引用はなしで)

それに対する引用。

      食べ-ない   なぐr-areru   食べ-させる
     (「なぐる」は「五段動詞」なので、「語幹」は「nagur」で、これはローマ
      字を使わないと表せません。くわしくは第2部の「活用」を見てください。)

    自分で書いたことをお忘れですか。日本語の音韻には「なぐr」などありません。
    何をとぼけているのですか。「r」の音韻表があったら示して下さい。馬鹿馬鹿しい。

ぜんぜん違うなあ。
「ローマ字を使わないと表せない」と「日本語を話すのに「ローマ字」を意識している」が同じだと思う人はいないでしょう。
言語学による分析と、話者の発話時の意識ですよ。
これが同じに思えるほど、読みとりが雑駁なのかなあ。

日本語の音韻については、wikipedia の「日本語の音韻」の「子音」を見てください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC …子音

/r/は「ふるえ音」「はじき音」として表にあげられています。(「r」の音韻表、って何?)
言語学でごくふつうの説です。というより、それ以外の説があるかどうか。

ひらがな単位で「音韻」を考えるのは、シロウトにはわかりやすいけれど、分析としては中途半端ですねえ。
上の「日本語の音韻」では「日本語のモーラの一覧」として挙げられているものですね。
それでも、時枝の表や、「かわいいひらがな表」とは違って、濁音/半濁音と言われるものも、拗音もちゃんと入っています。

まさか、日本人が「日本語を話すのに「ひらがな」を意識している」なんて言わないでしょう?

   大好きな時枝の『日本文法 口語篇』でも読んで下さい。

この「大好きな」は意味不明ですが、「かわいいひらがな表」よりは時枝のほうがましでしたね。
どうしてそうしなかったんだろう?

   論理的、科学的な回答を提示するのがこういう質問掲示板の正しいやりとりではないのですか?

私の質問に対する「論理的、科学的な回答」はないんですか?

トマセロ? 本は何冊か持ってますが、今の話にぜんぜん関係ないでしょう? チョムスキーも。
どうも話をそらすのに一生懸命ですね。よくないですよ。

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>「ローマ字を使わないと表せない」と「日本語を話すのに「ローマ字」を意識している」が同じだと思う人はいないでしょう。

「ローマ字を使わないと表せない」のであれば、「ローマ字」を意識せざるを得ないでしょう。こんな初歩的な誤りは、佐藤喜代治『国語学概論』(1952年)で、ローマ字論者の誤りとして指摘されています。<語基>論はローマ字論者の<活用>語尾論に、内容についての解釈でさらに輪を掛けたものです。

>>ひらがな単位で「音韻」を考えるのは、シロウトにはわかりやすいけれど、分析としては中途半端ですねえ。

仮名が日本語の音韻であることを理解できない奴シロウトの戯言です。
科学的とは何かが根本的に理解できていませんね。

「音韻は、表現上の社会的な約束に結びついている音声の普遍的な面であり、一族である」ということが全く理解出なかったということですね。

言語という対象の本質を正しく捉えることが科学的な言語論の第一歩です。

>>「言語」とは、難しく言えば、意味・情報伝達のために人間が築き上げてきた「記号の体系」です。

などと言っているようでは日暮れて道遠しですね。これも、誤植ですか?

>>トマセロ? 本は何冊か持ってますが、今の話にぜんぜん関係ないでしょう? チョムスキーも。

「今の話にぜんぜん関係ない」としか捉えられない所が致命傷です。

視野狭窄ということです。

学問を舐めてはいけません!

お礼日時:2020/08/16 15:22

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