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HP、庭 三郎『現代日本語文法概説』が開示されている。
http://niwanoda.web.fc2.com/bunpou/0mokuji.html

しかし、ここに示されている言語観、文法観は現在のソシュールパラダイム下の非科学的な、言語の本質を捉え損ねた形式主義/機能主義的な言語論、文法論で、これに基づき論理が展開されている。

ここに展開されているのは、機能主義的ないわゆる言語道具観に立つ、アプリオリな実体としての文の存在を前提とした生成文法と同様な発想による逆立ちの論理が展開されている。

この言語観、文法論の誤りについては、

庭 三郎『現代日本語文法概説』に見る非論理性―機能主義文法論の迷妄
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9466 …

で詳しく展開したが、品詞の定義一つにしても、

「単語」をその形の特徴・文の中での働きによって分類したものを「品詞」と言います。//

と、誤った定義がされている。品詞とはその語が表す意義により分類されなければならない。

文は話者の認識を表現するもので、表現に先だって文が存在するのではない。その話者が、文の表現に先だって「文の中での働き」を考えて表現するというのは因果を逆転した、言霊としての単語が存在しなければならないことになる。

科学的言語論を誇る生成文法の教祖チョムスキーは、さすがに言霊では気が引けるので、その産みの親を更に妄想することになった。それが、普遍文法である。しかし、その下っ端信者は親の心子知らずで、言霊を直接に裸体的に売り出しにかかったということである。

このため、

疑問文の文末などにつく「のか」「のかな」の「の」の品詞はなんなのでしょう
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11788778.html

のNo.24 では、「私はこういう細かい品詞論議にはあまり興味を感じないほうなのです」と全くピント外れな回答をされている。「品詞はなんなのでしょう」という問いの回答には全くなっていないことに無頓着である。さらに、「こういう細かい品詞論は、あんまり突き詰めても得るところはない」と問題を回避している。得るところがないのではなく、論じることができないということを告白しているということである。

これは、<名詞>と<助詞>の品詞の区別もできない事実を露呈している。

こんな雑な、文法とはいえない回答を繰り返されるのは、『概説』が露呈している非論理性に起因するものである。

「まえがき」では、

中学・高校で国語の文法(国文法・学校文法)をいちおうは習っていても、わかった気がしなかった、そしてまた、英語の時間に英文法を習い、その用語をいくつか記憶しているが、国語の文法との共通点および相違点がよくわからない、というような人です。//

などと述べているが、この文法論では学校文法の混迷を拡大再生産することにしかならない。

さらに、この文法論を真に受け中味のない質疑を繰り返しているのが、<疑問文の文末などにつく「のか」「のかな」の「の」の品詞はなんなのでしょう>の質問者である。

このような、無用な混乱を招く念仏、SF文法の繰り返しはスペース、タイムの浪費でしかない。

適切な論理的回答を、「頭が痛いだけ。」などという体たらくで、愚問を繰り返すことのないよう自覚、学習すべきであろう。少なくとも、自身の理解力のなさを棚に揚げ、悪罵を繰り返すのは良識ある大人の為すべき行為ではない。

真に迷惑なのは念仏に付き合わされ、混迷に落とし入れられる善良な回答者諸賢である。

この点、諸賢はいかがお考えであろうか。■

質問者からの補足コメント

  • なお、生成文法の逆立ち的性格については、

    三浦つとむ「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」
    http://okrchicagob.moto-chika.com/DME/work/GJBHG …

    を参照願います。■

      補足日時:2020/08/11 10:13
  • なお、チョムスキーの発想の原点は、

    TIIKEE MODELS FOR TIE DESCRIPTION OF LANGUAGE
    https://chomsky.info/wp-content/uploads/195609-. …

    などを参照下さい。この原点の誤りに立ち戻らない限り科学的な言語論、文法論には成り得ません。

    しかし、この点に立ち戻り反省すれば生成文法は崩壊します。まあ、チョムスキーも傘寿を超え、遠からず言霊となることと思います。そして、教祖が崩御すれば信仰は崩壊する他ありません。

    その他の初期論考も、以下に公開されています。

    CHOMSKY.INFO
    https://chomsky.info/articles/

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/11 17:29
  • なお、上記論文を批判的に検討するためには、

    クロード・E. シャノン (著), ワレン ウィーバー (著), 植松 友彦 (翻訳)
    『通信の数学的理論 (ちくま学芸文庫) 』( 2009/8/10)

    の「Ⅰ 離散的無雑音システム」なども参照下さい。この辺に関し、チョムスキー自身は、

    ノーム・チョムスキー (著), 福井 直樹 (翻訳), 辻子 美保子 (翻訳)
    『生成文法の企て』 (岩波現代文庫; 2011/8/19)

    で、当時の雰囲気を語っています。■

      補足日時:2020/08/11 17:46
  • 「暑い中、自尊心回復のための必死の努力、お疲れ様です。」

    これは、てっきり自戒を込めた告白かと思いましたが、そうではないのですか?

    頭を冷やし、この夏に貴『概説』の論理を再検討、再学習するようにお薦めします。

    チョムスキーの論理的逆立ちについては、具体的な例や資料を掲げておきましたが、この理解も夏の宿題ですね。■

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/11 21:23
  • ムッ

    応答をいただけるのは有りがたいのですが、いつも言い訳、他人の権威にすがる云い立てに終始し、対象事実と論理に基づく展開は無いことを自覚、反省されたことはありませんか?

    時枝は次のように述べています。

    「今日、我々の持つ何等かの言語本質観は、凡て歴史的に規定されたものであって、先ず我々は自己の歴史的に所有する処の言語本質観に対して、飽くまでも批判的であることが必要である。」「言語過程説は、我が旧き国語研究史に現れた言語観と、私の実証的研究に基づく言語理論の反省の上に成立し、国語の科学的研究の基礎概念として仮説せられたものであって、言語のいはば本質が何であるかの謎に対する私の回答である。」☇

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/12 11:04
  • 「学問の至極の妙味は、スペキュレーションにあると、僕は思ってゐる。事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだろうなんて期待するのは、学問の邪道さ。」「地球が円いと考えた最初の人間は、やっぱり大変な思惑師だよ。最初の見込みさへ確実なら、事実はあとからついて来るものさ。思惑をやる人間が無精なのぢやなくて、資料の上に安心して寝そべってゐる人間の方が余程のんきだし、無精だよ。」//

    ということで、学問を舐めちゃあいけません!■

      補足日時:2020/08/12 11:05
  • どう思う?

    No.6 への再補足です。

    >> 名詞節=連体節+(底の)名詞
    と書いてある文献を提示してください、と言っているのですが

    良い例が、貴『概説』にありましたので提示致します。
    まず、『概説』より

    10.修 飾
    補語と名詞述語の名詞を修飾する「連体修飾」について、次に述語を修飾する「連用修飾」について、どのような形式があるかをかんたんに述べます。
    「連体」の「体」というのは「体言」のことで、国文法で名詞と代名詞を合せてこう呼びます。つまり「連体」とは【名詞にかかる】という意味です。

    56.1 概観
    連体節とは、連体修飾節、つまり【名詞(体言)】を修飾する」節です。//
    (【】は引用者による強調)

    であれば、

    【[そこにあった]パン/の】

    の[そこにあった]が連体節であれば、「パン/の」は名詞、【[そこにあった]パン/の】が名詞節でなければ矛盾します。☇

      補足日時:2020/08/14 17:04
  • また、「ウィキペディア」の「複文」を引用しておきます。

    複文(ふくぶん)とは、次に掲げるようなものをいう。
    文の中に名詞句【名詞節】があり、かつ、それに主語・述語が含まれているもの。

    例えば、「太郎がきのう花子に会ったのは彼女の家だった」は「太郎がきのう花子に会った」と「・・・のは彼女の家だった」の2つの節に分けられ、それぞれに「会った」「彼女の家だった」という述語が含まれる。//
    (【】は引用者による強調)

    ということです。

    ところで、「書名とページ数を教え」ましたが確認いただけましたか?
    別に、急ぎませんが。

      補足日時:2020/08/14 17:07
  • ムッ

    要は、三浦(つとむ)の云う、「音韻は、表現上の社会的な約束に結びついている音声の普遍的な面であり、一族である」ということが全く理解出なかったということですね。

    この誤りと、膠着語である日本語の活用とは何かが理解できない所に展開されたのが、ナロックや田川 拓海 や三原健一・仁田義雄(編) (著)『活用論の前線』(2012/11/6)などの謬論ということです。■

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/16 07:03
  • ムッ

    もう少し補足させていただきます。

    音声第一主義のソシュールパラダイム下では語基論も、もっともらしく聞こえますが、字韻に「ら」「ラ」はあっても「r」はありません。こんなことも理解できずに良く文法を論じますね。馬鹿馬鹿し!■

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/16 15:47

A 回答 (67件中61~67件)

#7です。



>文は話者により表現されて初めて生まれます。そうではなく、無数の文が形式として存在し、それを生みだすのは普遍文法であり、

人間という装置の内部構造ですべてを説明しようとするあやまった人間観を持っている

ということです。

それは、サイトに書いていることそのままですよね。

言語過程説では、

※「庭に二羽鶏がいる」
という文においては、表現主体が、
「鶏がいる」場所としての「庭」という【対象】を、区間的に位置付けたいと【認識】したため、格助詞「に」を使って表現している。※

のように正しい解釈をするが、普遍文法ではどのように解釈するのですか?
「庭に二羽鶏がいる」という文に即して解説してください。

とお願しています。
質問の意味はわかりますよね?
わからなければ、そうおっしゃってください。
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この回答へのお礼

良く分かります。

生成文法では補文化辞として捉えています。

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/6 …
<助詞「に」の統語的性質について : 補文化辞の観点から>

を参照下さい。

暑い夏を過ごすには最適の論文と思いますので味読下さい。■

お礼日時:2020/08/13 11:15

#5です。



【 言語規範が多義的であるときに、表現に際してどの意味が選ばれるかは、いわゆる〈表層構造〉の背後で決定されるのであるから、その意味で〈深層〉を考えねばならぬ、というところまではチョムスキーの考えかたも正しかった。ところが人間という装置の内部構造ですべてを説明しようとするあやまった人間観を持っている以上、その論理的強制によって〈深層〉の構造もすべてを人間の内部構造と解釈しないわけにはいかなくなった。表現の過程的構造を逆にたどって、表現主体の認識からその対象へと考えをすすめていくことができなかった。こうして〈深層構造〉がデカルトの「本有観念」(ideae innatae)と一致することになったのである。】

筆者が結論として述べている上記箇所は非常に興味深いです。
ただ、いくつか素朴な疑問があります。
まず、

チョムスキーは本当に【人間という装置の内部構造で [ すべて ] を説明しようと】しているのか?

という点。
人間が言葉を話したり他人の言葉を理解したりできるのは、ブローカ野・ウェルニッケ野などをはじめとする言語中枢が『アプリオリ』なアプリとして人間に埋め込まれているからであるのは間違いのない事実。
この言語中枢の存在が無ければ、どんな言葉も生まれていないし、理解もできない。
こうした〈人間の内部構造〉がアプリオリに備わっているのは確かなこと。
しかし、なんらかの外部刺激が加わらなければ、どんな言葉も生成されないし、むろん文法も存在する必要がない。
つまり、なんの刺激もなければ、こうした〈人間の内部構造〉は(高機能を備えた)空箱同然と言える。
さて、筆者言うところの〈深層構造〉を、外部刺激に反応したそれらのアプリが、次々と構築していく記憶のネットワークと考えることはできないだろうか。
しかるに筆者は、まるで当初の『(高機能を備えた)空箱同然の〈人間の内部構造〉』を〈深層構造〉と定義しているかのように見える。
だから、

《文は表現されなければ存在しませんが、先に実体としての文を存在すると見做す逆転の発想をしているということです。》(#2お礼欄)

といアスナロウさんによる批判にもつながってくるのではないですかね。
まあ、それにしても、この批判は、よく考えてみると非常にわかりにくい内容です。
逆転してるならしてるで良いとしましょう。
では、ここで、下記の※で囲まれた内容をご覧ください。

※「庭に二羽鶏がいる」
という文においては、表現主体が、
「鶏がいる」場所としての「庭」という【対象】を、区間的に位置付けたいと【認識】したため、格助詞「に」を使って表現している。※

これは、《対象(現実(実想)/空想)→認識→表現という過程的構造》の具体例としてアスナロウさんが認めた例です。
この文においては、どのような解釈をチョムスキーはすることになるのか解説できますか?
このように解釈しないから「言語過程説」を知らないダメ人間だ、とチョムスキーを批判しいるわけですから、具体的に解説してください。
《先に実体としての文を存在すると見做す逆転の発想》とは具体的にどういうことを指すのか?
具体的に記述できるならしてください。
できないならできないとおっしゃってください。
何か、あれこれ言いたければ、まず、この質問に答えてからにしてくださるよう、くれぐれもお願いしておきます。
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この回答へのお礼

毎度の応答をありがとうございます。

>>どのような解釈をチョムスキーはすることになるのか解説できますか?

普遍文法(深層構造)に基づくアプリオリな語の組み立てと理解することになります。対象の存在を認めない、

すべて文法のありかたを人間という装置の内部構造で説明しようというわけである。

ということです。

>>《先に実体としての文を存在すると見做す逆転の発想》とは具体的にどういうことを指すのか?

文は話者により表現されて初めて生まれます。そうではなく、無数の文が形式として存在し、それを生みだすのは普遍文法であり、

人間という装置の内部構造ですべてを説明しようとするあやまった人間観を持っている

ということです。

>>いくつか素朴な疑問があります。
人間が言葉を話したり他人の言葉を理解したりできるのは、ブローカ野・ウェルニッケ野などをはじめとする言語中枢が『アプリオリ』なアプリとして人間に埋め込まれているからであるのは間違いのない事実。

それは単なる結果で、狼少年は一生、語を話せません。間違いのない事実ではなく、幼稚な唯(ただ)物論です。

>>こうした〈人間の内部構造〉がアプリオリに備わっているのは確かなこと。

備わっているのは、肉体から生まれた認識能力で、アプリオリに備わっているのではなく、成長による学習により修得されたものです。。

>>むろん文法も存在する必要がない。

文法のない言語はありません。文法とは何かが理解できていませんね。■

お礼日時:2020/08/12 09:23

えーと、相変わらずの話ですが。



   名詞節=連体節+(底の)名詞

と書いてある文献を提示してください、と言っているのですが、いまだに一つもありませんね。

長谷川の論文、少しでも中身を読みました? それからMiaoの論文も。
「名詞節」と言っている? もちろん。ただ、その名詞節は、連体節(関係節)などを中に含んではいない、それだけのことです。
つまり、私が言う「名詞節」と同じ。連体節とはまったく別物。(この「まったく別物」とは、「名詞節が中に関係節を含むなんてことはない」という意味です。)

あー、疲れるなあ。

ホントに、もうあきらめなさいよ。古くは国語学の山田から、橋本まで。「日本語学」の寺村その他、みんな私の言っている説を、例文とともに繰り返し示しています。生成文法の人は、議論の内容が理論的な問題に特化していますが、「関係節(連体節)」「名詞節」という用語の指すものは明らかです。

それに対して、上の

   名詞節=連体節+(底の)名詞

を主張した人はいない。「名詞節」という人はもちろんいるが、それは連体節を含まない。
「連体節+名詞」全体を何と呼ぶか? 前に、生成文法で「複合名詞句」ということがある、と紹介しましたが、忘れました?

昔の寺村その他は、「連体節+底名詞」と言っていたんじゃないかなあ。昔の本を見ないとわかりませんが。
特に名前が使われないのは、それ全体を頼大きな構造の分析の対象にすることがないからですよ。
連体節は修飾節なので、主文の述語とは基本的に関わらない。だから、問題になるのは修飾節と名詞の関係だけ。それ全体をひとまとまりとして他の構造との関係を考えない。

まあ、複文を全体的に分析・記述したことがない人は、何が議論すべき問題で、何が必要な用語なのかはわからないでしょうが。

ほんとに、シロウトの思いこみはめんどうですね。

ああ、名詞節の話はともかくとして、品詞の話。

つまり、質問者の説によると、国語辞典・百科事典の「品詞」の定義は皆ダメだということですね。ここでも独自説?
世の中みんな間違っていて、正しいのは我一人。いいですねえ。

品詞は意義によって分類する、と時枝がはっきり言っているのですか?
どこで? 書名とページ数を教えていただけますか?
詞と辞を分ける、ぐらいならわかるのですが。時枝も結局は文法機能で分けていませんか?

まあ、時枝が正しいかどうかがそもそも問題なのですが。

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>「名詞節」という人はもちろんいるが、それは【連体節】を含まない。

【連体節】とは連体修飾節で、体言(名詞)を修飾する節という用語です。「それはを含まない。」節とは一体何なんですか。
中学生でも、みんな私の言っている理解をしています。云うも愚かなことです。この非論理性が貴『概説』全体を覆っていると指摘していますが。

>>生成文法で「複合名詞句」ということがある、と紹介しましたが、忘れました?

どこが複合なのですか。どういう定義ですか?

>>複文を全体的に分析・記述したことがない人

そもそも文とは何かが理解できていないのに複文などという名称を使用していますが、本来は一文であり複節文というべきものです。この名称に混乱させられているだけです。言語事実と、正しい論理に基づき思考できなければそこらじゅうに矛盾を生じます。

ほんとに、どシロウトの思いこみはめんどうですね。
最後は開き直りか、遁ずらか、幼稚な学会の権威に逃げ込むようではお話しになりません。

>>国語辞典・百科事典の「品詞」の定義は皆ダメだということですね。

今ごろ何を寝惚けたことを言っているのですか。カマトトぶっちゃって気持ち悪いです。
日本語文法学会が欠陥文法事典を出している事実をどのように理解されているのですか?

>>品詞は意義によって分類する、と時枝がはっきり言っているのですか?
どこで? 書名とページ数を教えていただけますか?

時枝誠記
『国語学原論』「二 単語に於ける詞・辞の分類とその分類基礎」(岩波文庫版;258p~)
『日本文法 口語篇』「第二章 語論」(講談社学術文庫版;65~)

三浦つとむ
『認識と言語の理論 第三部』「語の分類について」(勁草書房;68p~)
これが、山田孝雄、松下大三郎、英語学者、空西哲郎の誤りを批判し、時枝の詞辞論の意義を明らかにしています。問題は、理解出できるか(能力があるか)ですが。

>>時枝が正しいかどうかがそもそも問題なのですが。

時枝言語論による「言語学のコペルニクス的転換」の意義と、その限界については、

三浦つとむ『言語学と記号学』所収(183p~)、「時枝誠記の言語過程説」(初出:雑誌『文学』1968年12月号)

『認識と言語の理論 第一~三部』参照。

無智が栄えた試しはありません!

お礼日時:2020/08/12 08:55

#3です。



>『言語は現実から生まれたので』はありません。
先にも回答の通り、言語は表現です。この基本的な理解ができていません。

だから、「かいつまんで言うと」と言っています。
表現として生まれた と解釈すれば済む話でしょ??
なぜ、こんなどうでも良い点にこだわるのか???全く理解できません。

>表現の過程的構造を逆にたどって、表現主体の認識からその対象へと考えをすすめていくことができなかった。こうして〈深層構造〉がデカルトの「本有観念」(ideae innatae)と一致することになったのである。

ということです。もう少し、論理的な理解力を鍛えないと解読不能でしょう。

どういたしまして。
それは理解していますよ。
アスナロウさんに読解力がないだけです。

勘違いなさってるかもしれませんので、申し添えておきますが、私は、かのサイトに対する批判を展開しようとしている。
あのサイトの内容は非常にわかりやすい。
大いに参考になります。

ただ、本質的に同意できないので、色々ご当人に聞きたいと思うのですが、それは叶わないことでしょう。
代理として紹介者のアスナロウさんに聞いているわけですが、かのサイトの内容を本当に理解なさっているなら、私の質問にも答えていただけるはずです。
今回は、その前段階の確認事項としてお尋ねした次第。
引き続きよろしく。

では、欄を改めて、再度。
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>「かいつまんで言うと」と言っています。

「かいつまみ」方を誤っていますよということです。

>>かのサイトに対する批判を展開しようとしている。

どのような点に批判を展開しようとされているのでしょうか?

お礼日時:2020/08/11 23:39

暑い中、自尊心回復のための必死の努力、お疲れ様です。



そろそろ、「名詞節=連体節+名詞」の定義が「一般的」でなどないことがわかってきたでしょうか。誰もそういっていませんものね。

長い間、自分が決定的に間違っていたことを認めるのは、辛いことですが、そうしないと次へ進めません。潔く、「一般的」な定義でないこと、自分のかんちがいであることを認めるか、あるいはさらに、あくまでもこの定義が正しく、「一般の研究者」がまちがっているのだと強弁する道を選ぶか、決めなければなりません。

その憂さ晴らしに、私の「文法概説」にケチをつけるのは、まあ、どうぞご自由に、と言うしかありませんが、ここでもまた、自説が「一般的」であるかどうか考えてみたほうがいいようです。

◇品詞の定義について

   品詞の定義一つにしても、
     「単語」をその形の特徴・文の中での働きによって分類したものを「品詞」と言います。
   と、誤った定義がされている。品詞とはその語が表す意義により分類されなければならない。

ふーむ。品詞は「意義により分類」するのですか。いかにもシロウトさんらしい発想ですね。
品詞というのは語の文法的分類のはずなんだけどなあ。
では、「意義による分類」は一般的な方法か。

いつもの、国語辞典・百科事典などの定義を見てみましょうか。
(以下、「コトバンク」によります)

   デジタル大辞泉の解説
     文法上の職能によって類別した単語の区分け。

「文法上の職能」だそうです。「機能」と言ってもいいのでしょうね。「機能主義」はダメですか?

   百科事典マイペディアの解説
     文法的機能・形態による語の分類。
   
これも「文法的機能・形態」ですね。

   ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
     文法的性質によって分けられた単語の類。名詞,動詞など。
     分類の基準となる文法的性質とは,どのような語形替変をするか,
     文のなかで他の単語とどのように結合するかなどである。
     このような形態的・機能的分類に加えて,意味的定義もしばしばなされるが,
     定義そのものが曖昧になりがちで厳密な適用は困難である。

「文法的性質」(形態的・機能的分類)です。
「意味的定義」は「定義そのものが曖昧になりがちで厳密な適用は困難」だとわざわざ書いています。

   大辞林 第三版の解説
     単語を文法上の形態・機能・意味などの上から分類した区分け。

おお、よかった。「意味」も加えてくれています。でも、もちろん意味だけではありません。

   世界大百科事典 第2版の解説
     文法用語の一つ。それぞれの言語における発話の規準となる単位,すなわち,
     文は,文法のレベルでは最終的に単語に分析しうる(逆にいえば,単語の列が
     文を形成する)。そのような単語には,あまり多くない数の範疇(カテゴリー)が
     存在して,すべての単語はそのいずれかに属している。
     一つの範疇に属する単語はある種の機能(用いられ方,すなわち,文中のどの
     ような位置に現れるか)を共有している。
     こうした範疇を従来より品詞parts of speechと呼んできた。

「機能」ですか。世界大百科は執筆者がわかるはずですが、誰でしょうかね。

ということで、私の、

   「単語」をその形の特徴・文の中での働きによって分類したもの

という定義は、「誤った定義」かどうかはおくとして、ごくふつうの定義です。
そこ、誤解のなきように。(また、「珍説」などと言わないように。)

なお、今後も、私の「文法概説」の誤植を発見されましたら、お知らせください。

猛暑の中、お身体お大切に。

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>そろそろ、「名詞節=連体節+名詞」の定義が「一般的」でなどないことがわかってきたでしょうか。誰もそういっていませんものね。

いいえ。
何度も回答している通り、だれもが常識としており、日本語が理解できれば当然の理解です。
名詞句、名詞節というように、底名詞を修飾するのが、句であるか、節であるかにより区分しているだけです。

先に質問の通り、

何を血迷ったことを。連体節の後ろに底名詞があれば、「宙に浮いて」なんかいない。
その全体を「名詞節」とは言わない、というだけのこと。

というのであれば、<連体修飾節(連体節)+底名詞>は何と呼ぶのですか、名無しのごんべいで宙に浮くのですか?
お答えがありませんね。

「そこにあるのを取って。」の「そこにあるの」は名詞節で「の」が名詞であることが理解できませんか。そもそも、名詞とは何か、助詞とは何かも定義でずに何を言わんとしているのか困惑します。
長谷川 信子「主要部内在型関係節:DP 分析」が名詞節としているのが理解できませんか?

>>「文法上の職能」だそうです。「機能」と言ってもいいのでしょうね。「機能主義」はダメですか?

最初からダメだと言っているのに何をいまさら寝惚けたことを聞かれるのですか。牛車や自転車や自動者や飛行機が物を運ぶ機能を持っているからと言って、これらを自動車か運搬機と呼ぶのかということです。当然、音韻とは何かも理解出来ていないこと指摘しておきましたが。誤植ではありませんよ!

>>「単語」をその形の特徴・文の中での働きによって分類したもの
という定義は、「誤った定義」かどうかはおくとして、ごくふつうの定義です。

ソシュールパラダイム下では普通でも、非科学的な誤りだと何度も指摘していますが。

>>品詞というのは語の文法的分類のはずなんだけどなあ。

文法の定義、本質も理解できずに、何をもって文法的分類と言うのですか。
貴文法理解からは、語はアプリオリな言霊となるしかないことを指摘していますが。

語が意義を表わすのであれば、意義という本質により分類するのが分類の科学的な常識です。
時枝誠記が師である橋本進吉の自立語/付属語という機能主義的な誤りを指摘し、本質的な分類を提示したことをご存じないのでしょうか?

誤植ではなく論理自体の誤りを指摘していますが?■

お礼日時:2020/08/11 21:17

#2です。



>言語は話者の認識の表現で、
対象(現実(実想)/空想)→認識→表現という過程的構造をもっています。
文は表現されなければ存在しませんが、先に実体としての文を存在すると見做す逆転の発想をしているということです。

それはもう十分理解しています。
同じことばかり繰り返すのではなく、論点としているサイトの内容に従って述べるようにしてください。

『中間に認識が介在するとはいえ、現実の結びつきがことばの結びつきを規定しているのであるから、文法が現実のありかたから規定されていることは否定できない。』
と書かれている箇所から、

『言語は現実から生まれたのであるのに、人間が文法を駆使して現実を表現しているかのように捉えているから逆立ちだ』
と申し上げたわけですが、この解釈に誤解があるということですか?
どのような誤解なのか、【内容に即した形で】お示しください。

因みに、今回のような応答からすると、あのサイトはアスナロウさんのサイトではないのですね?

いずれにせよ、必然性が無いのに、あれ読め、これ読めと、論点をはぐらかそうとするのは勘弁してください。
それとも、論点を絞られると何か支障が生じますか?
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この回答へのお礼

相変わらずですね。

>>『言語は現実から生まれたのであるのに、人間が文法を駆使して現実を表現しているかのように捉えているから逆立ちだ』と申し上げたわけですが、この解釈に誤解があるということですか?

『言語は現実から生まれたので』はありません。
先にも回答の通り、言語は表現です。この基本的な理解ができていません。
なので、

人間が文法を駆使して現実を表現しているかのように捉えているから逆立ち

なのではありません。

表現の過程的構造を逆にたどって、表現主体の認識からその対象へと考えをすすめていくことができなかった。こうして〈深層構造〉がデカルトの「本有観念」(ideae innatae)と一致することになったのである。

ということです。もう少し、論理的な理解力を鍛えないと解読不能でしょう。当方が紹介した、『日本語はどういう言語か』が理解できればここで言われていることもある程度力できるでしょう。

まず、それが第一です。■

お礼日時:2020/08/11 20:22

補足のサイトを興味深く拝見しました。



チョムスキー批判の要諦がなんとなくわかったような気がします。

かいつまんで言うと、

言語は現実から生まれたのであるのに、人間が文法を駆使して現実を表現しているかのように捉えているから逆立ちだ、ということですね?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

若干、誤解があるようです。

言語は話者の認識の表現で、

対象(現実(実想)/空想)→認識→表現という過程的構造をもっています。

文は表現されなければ存在しませんが、先に実体としての文を存在すると見做す逆転の発想をしているということです。■

お礼日時:2020/08/11 17:05
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