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自我や人格について

人間の能力になるのか、成らないのか!
解らないけど
動物や物体を擬人化して
感情を投影したりする事ができるんですけど!

これって、他人の人格なんかも擬人化して勘違いしてる可能性なんてないでしょうか!
突き詰めてかんがえたら、自分の人格なんかも、擬人化したりしてる可能性が
Σ(゜Д゜)妄想の暴走だぁ~!

個性や性格、人格なんかも自己評価や自己判断して、自我が自分自身を擬人化してるのかな。
( ̄~ ̄;)暴走の妄想かも!

ちょいと話を替えて
産まれてから、沢山の事を経験して
ひとり、ひとりの違いなんかが出てきますが、同じ経験をしても!ひとりひ、ひとり感じ方に違いなんかが出てきますもんね
(解りにくい表現でm(__)m)
経験から得る情報の違いが
情報から獲られる経験の違いでもある


ここで話を戻して

自我があるからこそ、経験や情報を沢山蓄積して、自分の意識てなのが造りあげられるなら
経験や情報の蓄積から、他人の人格なんかも、造り上げてるのかもと思ったりしてるのですが!

ここまで自我があると仮定して話してますが、この自我って考え方も経験や情報の蓄積の産物だと捉えて考えてみると
自我そのものを否定して

経験や情報の蓄積だけで人格が造り上げられて
経験や情報の蓄積から自我てのが造り上げられてるのかも!

この自我を、意識てな事柄に置いて考えたら感情を司る分野として捉えると
情動や感情をあらわす、大脳辺縁系の働きになるらしいですね

でね

脳ミソのはなしなんかも、難しすぎるから

自我を魂だと捉えると

輪廻転生や神様、宗教なんかの話にもなりますもんね

脳ミソが確りと、情動や経験を蓄えてこそ、意識が(自我)確立されるなら

ごく稀なケースでは
前世の記憶(自我・魂)なんてなものを持ち合わせて産まれてくるケースもありますもんね

有名な話だと、第二次世界対戦で戦死したかたの記憶を持って産まれたかたとか

人間の子供の脳ミソは、3歳から4歳あたりで、フォーマットされるなんてな説もありますもんね

ではでは、なが~くなってますけど
ここらで質問です

(  ̄▽ ̄)にっこり

自我や人格!意識や魂!

御自身の人生経験で、疑って疑問に思われた事なんかは、ありますか?

妄想の暴走的な疑問なんですけど
他の方の御意見を頂けると

妄想が、さらにハッキリと暴走しそうなんで!

哲学好きで、お暇な方や!
宗教好きで、お暇な方の!

御意見やアドバイス、お待ちしてますよ

(。-人-。)ヨロシク

訳のわからん質問なんで、あまり深く考えないで
気軽な御意見も!お待ちしてま~す

御意見をいただけると

(  ̄▽ ̄)にっこりしてしまいますで

にっこり目当ての御回答もおまちしてますね

質問者からの補足コメント

  • 個体なのか、集合体なのか
    わしの右脳とあなたの右脳を
    安全に交換することが出来たら
    この論争は答えが出るけど
    ロボ・トミーの実験では
    右脳と左脳を繋ぐ部分を切断した結果
    ひとりの人間に二つの意識が存在した
    てな話はありますからね
    右脳だけに、ジュースを買って来てくださいと話して
    ジュースを買い終わったら
    左脳に、なんでジュースを買ったんですか?
    てな疑問をぶつけると!
    喉が乾いたから

    右脳には、頼まれたからってな事実があるけど!左脳には事実がないから、とっさの嘘なのか?経験則からくる発言なのか!
    ジュースを買う=喉が乾いてる

    人格はひとりだけど
    意識や記憶は二つあった
    てな話です

      補足日時:2020/09/25 14:30
  • さてさて

    自我と人格と意識
    擬人化など、色んな事柄から

    他のかたが、自分自身をどのように捉えてるのか
    また、他の方をどのように捉えてるのか

    人って、同じ世界を観てても
    微妙に違う世界を観てる者なんですね

    今回のベスト・アンサーは
    熱い想いをしたためていただいた
    こちらの回答に
    贈りたいとおもいます

    お二人様には、格別の感謝を
    (^∧^)ありがとうございました

      補足日時:2020/10/01 14:24

A 回答 (83件中81~83件)

哲学的な難しいことはさっぱり分かりませんが、私は私で生まれてきてからずっと意識も性格も変わらないし、前世の記憶もないし、疑ったこともないです。



生きられるの一回しかなくて、一生も短かすぎるから、できれば何度でも生まれ変わりたいなぁ…とはよく思いますが(^^)

少し話がそれるかも知れませんが、物の見方、捉え方は経験やその時の気持ちで変わってしまうんだなー、と実感することは、日々よくあります。

そう言えば、小学校2年の時に、海水浴に行く前に父に一眼レフのカメラをもらいました。
父は学生時代から写真が趣味で、一眼レフのカメラやレンズを色々持っていました。
カメラ屋さんにもよくついて行ってて、横で父とカメラ屋さんのおじさんのマニアックな話を聞いてたので、立派なカメラをもらって、カメラマンになったみたいで嬉しかったです♪

ぶれない構え方や撮り方のコツやいい構図の作り方は教えてもらって練習もしてたので、海水浴の日、朝から写真いっぱい撮っていい?と聞くと、フィルムはたくさん持ってくから好きなだけ撮っていいと言われました。

京都に住んでいたので、神戸の須磨海岸まで、行きの電車のいつも見慣れた駅のホームから見る景色や、電車の中から見る外の景色をいっぱい撮りました。
海が見えてくると嬉しくて、たくさん撮りました。
連続でたくさん撮ってると
「もうそのくらいにしとけ」
と言われて
「なんで〜?なんぼでも撮っていいって言うたやん」
って言うと
「後で分かるから」
と言われました。

帰って来て、現像してもらった写真を見ると、電車の車内から撮った写真にはどれも窓の汚れが…(><)、、
ショックを受けていると
「唐草が唐草の心で撮ってたからや。分かってたんやけどな、自分の心で見えてるものと実際は違うことがあるって知って欲しかったんや。」
ってニコニコしながら言われました。
楽しい気持ちで外ばかり見てると、すぐ目の前の汚れが見えないこともある。人は自分の心が見たいものを見てしまうものなのだと。
生きてきた経験やその時の気持ちで見えるものが違ってくる。
でも、現実をしっかり見ることも大切だけど、同じ景色の中にも綺麗な部分を捉えることができたり、美しい景色が見えることは素晴らしいことなのだと。
それがその人の世界だから。
同じ景色でも、見える景色は人によって違うから面白いのだと、そんな話をしてくれました♪
今なら当たり前に分かることですが、子供心に面白いな〜♪と思いました(^^)

質問を読んでいてふっと懐かしく思い出したので回答してみましたが、哲学カテゴリーなのに大丈夫だったでしょうか?
一応質問に『気軽な御意見も!』って書いてあるし…(^_^)
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この回答へのお礼

素敵なお父さんですね
(*’ω’ノノ゙☆パチパチ

心で捉える風景と
現実に写し出される風景
子供の頃に実感されてて
それとなく教えてくれる
お父さんの優しさってのが
ありありと伝わるはなしですね
思い込みで写す1枚!

今みたいに、撮って直ぐに確認できる
デジタルカメラではないから
家に帰って、現像するまでの時間なんかも!貴重な時間になったと思いますよ
そうそう!Σ(゜Д゜)
この話って写真だけに限らず
とても奥深いですよね
自己評価と他人の評価
誤差があるからこそ、冷静に捉えて
より現実的に物事を捉える
てな話から
人が人と噂話(評価)なんかするときなど
どうしても、好きや嫌いなんかの価値観から!
思い込みや先入観なんかを
心のレンズにフィルターをかけてしまいますもんね
より、現実的に物事を捉えようとする努力なんかもしながら
日々の気持ちで、レンズがやはり替わってしまって
感じる風景なんかも、自分自身でも
違ってきますもんね
唐津さんの心のレンズがあると
意識したからこそ
他人にも他人の心のレンズがあって
色んなレンズの違いがあるからこそ

現実にカメラで写す、
写真の1枚に
色んな人が、心がひかれたりもしますもんね

子供の頃の素敵な思い出話から
少し話を拡げてみましたよ

御回答ありがとうございました
(  ̄▽ ̄)にっこり

お礼日時:2020/09/15 03:35

自我は 日本語に翻訳したときから まやかしの概念です。



《 das Ich ( the 'I' )》すなわち 《わたし あるいは わたくし
なるもの》と言っているだけなのを 自我といった分かりづらい用語
にしました。

欲望するエス(リビドー)と規範を求める超自我との葛藤をおさめよ
うとする最終の判断者として 自我があると言う。

けれども 欲望するのも わたしですし これを倫理の問題として考
える超自我もわたしですし 調停者たる自我がおなじくわたしである
ばかりでなく これら三者はすでに初めからまとまって わたしです。

わざわざ分裂させることはないわけです。



自我が出来てかたまるとか あの子は自我が強いとか へんな言い回
しがつくられてしまった。

そんなものは 押しが強いあるいは傲慢だとか 《わたしがわたしで
ある》確信のことを言ったに過ぎない。

自我は 死語であり 歪曲した概念またその用法でしかない。


さもなければ わしやけど。。。。。さんご自身が定義してください。




人格は 《わたしがわたしである確信を得たわたし》が 社会にあっ
て人びとのあいだで あたかも格子のごとくあるいはネットワークの
ごとく網目の結節点としてあることです。

やはり わたし です。




☆ 定義から始めよ というご意見かつアドヴァイスでした。
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この回答へのお礼

自我は、間違って伝えられた説ですか

日本的なのか
東洋的なのか

己(おのれ)なる言葉なんかもあるから

分けてとらえたのが
混乱の始まりてな説ですね

(  ̄▽ ̄)にっこり

定義を求める質問ではなくて
個人の捉え方や違いなんかを

教えて貰う質問なんで
多様性からみえてくる
喜びみたいなものですよ

アドバイスありがとうございました
(  ̄▽ ̄)にっこり

お礼日時:2020/09/15 01:27

自我や人格は、コントロール出来るなーと思うと、じゃあ本当の自我や人格はどれなの?と分からなくなってしまうことは多分にありました。


思春期の頃のアイデンティティですね。
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この回答へのお礼

自我や人格をコントロールしようとすると
確かに、Σ(゜Д゜)ならコントロールされてる自分は!自分じゃないの?

おかしな感覚ですもんね

コントロールする自分を造り上げて
自分をコントロールしてもらってたら

こっちが本当の自分?
( ̄~ ̄;)

どちらも、自分自身だけど
どちらも、自分自身じゃない感じもしたりして

何かしらの判断なんかをするときに出てくる
天使と悪魔

なんてなのも、( ̄~ ̄;)自分自身で造り上げてるはず(経験や情報でね)なんだけど

何故か、天使と悪魔に例えたりしますもんね

思春期のアイデンティティー

成長過程でみられたり!感じられたりする

感覚ですもんね

歳をとるにつれて失われたりする
感覚なのか

より、現実的な判断を迫られたときなんかで!
本当の自分なんて、悩んでる暇を与えられないですもんね

社会にでたら、それこそ!人格のコントロールを多用に求められるのが、凄く当然の事柄ですもんね

御回答!感謝(。-人-。)ありがとうございました

お礼日時:2020/09/14 10:06
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