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評価に必要以上に大きな意義が与えられる場合、本当はそこにないものがあるかのように思われると、「過剰ポテンシャル」が生じてくる。

自分の内部または外部において、質、対象、事象などに過剰な意義を与える場合に限り、過剰ポテンシャルが産み出される。

あるはずのない束縛・依存関係・他のものとの対比・過大評価・理想などがそれにあたる。


過剰ポテンシャルを築いてしまったら、あなたの意志とは関係なく、自然と過剰ポテンシャルを減少させる方向に働く力が発生する。

いかなるエネルギーであっても過剰ポテンシャルが生じたところならばどこでも、不均衡を解消しようとする「平衡力」が働く。

<省略>

願望は、過剰ポテンシャルから解放された「純粋な意図」に変わったとき、実現される。
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願望とは、自分の内部で精神的エネルギーを集中させることである。
ただし、集中したエネルギーは内部に滞留させたままであると自らを破壊する。
また、目的にあったエネルギーの集中でなければ、さんまを焼くのに家を燃やすような結果になる。

たとえば「世界を支配したい」という願望は、実現ルートを示されなければ出口のないエネルギーの滞留になり自己破壊を生む。
一方、「純粋な意図」とは道理に沿ったエネルギーの活用であり、幸福への切符でもある。

これぞまさしくブッダの説いた「業」の現代的説明であると思う。
異論反論は大変役に立つので是非聴きたい。

A 回答 (3件)

補足ありがとうございました。



どうやら仰っている「純粋なる意図」とは 第七識以下の働きの結果のように思われます。
第七識は 汚れたマナス とも言われるように煩悩を生じる主体です。
欲求の過剰なるポテンシャルとは 第七識によって生じた煩悩を指すようにも思えます。
それは 前六識により与えられたものに対して 瞬時に生じてしまうものでもあるようです。
この場合の「平衡力」とは 第七識以下の選択と消去の働きであるように思います。

その内容は
生起においては感性の働きが優先し 選択においては悟性の働きが優先しているようにも見えます。
感性における直観の働きが瞬時であるのに対して 悟性における分析的思惟の働きは ある程度の時間を要するものです。
両方の働きにおける時間的性質は同一ではないはずです。
厳密に言えば 直観の連続的な働きにおいても 空白や遮断というものはあるでしょうし そこには時間もあると思われます。
しかし 意識に付随する形で直感もまた連動しているならば
意識の時間的認識においてのみ 直感の時間が存在することになります。
「刹那」という意識の時間的認識は 直感のもつ時間性を表してはいないものであると思います。

以上から 刹那という一瞬の内にも時間があり
過剰ポテンシャルの生起に比べて その消去を担う平衡力の働きはゆるやかであると思われます。
譬えて言い換えれば 煩悩は矢よりも速く その消滅は矢の速さほどでもない という事になりますでしょうか。
苦の生成消滅についても同様の考えを当てはめる事が可能のように思います。

振り出しに戻りますが
第七識は第八識に浸潤する真妄和合の識であり、第八識であると錯覚される性質を帯びたものと言われています。
そのような見方も併せれば
「純粋なる意図」とは 第七識以下の所産であり 人の業の一部であるように思えます。
それは ブッダが示した正しい業の有り方に連なるものかもしれませんし
仰っている「幸福への切符」なのかもしれません。
もし 私にも手に入るものでしたら 薄汚れた切符でも大切にしたいと思います。
以上です ご参考にして下さい。
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仰られている内容は 業の中の意業における事のように思われます。


それは人の心理面の働きの一端を解き明かしているようにも思えます。
潜在的な仮定には 同時にその消去の仮定が生じてしまうという事から
人の思考や心の働きは 人それぞれの領域の中で繰り返し行われていて、欲求の消滅も伴っている という事になりますでしょうか。
この「繰り返す」という見方が妥当ならば 「業」という表現もまた適当であるように思います。

仰っている「純粋な意図」というものが、よく分かりませんが
道理に基づいた、明瞭な意識や概念の確定だとするならば
それは 確定の後においても 常に否定や消去の検討に晒されているはずです。
それでも純粋といえるほどの崇高なものを保ち続けられるためには
単なる道理の認識だけではないように思います。
また100%純粋という事もないように思います。

一例を上げれば
(終戦記念日も近いので)
太平洋戦争で国のために散っていった数多くの若者は
迷いつつも純粋であろうとしたはずです。
純粋になりきれぬまま、純粋であろうとした痛ましい姿がそこにはあったように思います。
国というものが持つ 愚かな「共業」の中においても、純粋であろうとした悲しい姿です。
彼らは間違ってはいない、国が間違っていたのです。
個人の その事実における業は正しくとも 全体である国の業は誤りであった という事だったのでしょう。
純粋であったはずの若者の個人の業ですら その誤りから輝きを失いかねない解釈をされがちです。

このように 業の判別とは難しく 時を隔てた客観性に基づいてこそ分かるのかもしれません。
ブッダにしても 人間個人としての業果を背負っていたのではないでしょうか。
悟りを求めるという純粋な意図から 妻子を捨て、国を捨てたのです。
出家せずに王位を継いでいれば、国が滅びることは無かった という思いや苦しみは終生あったのではないでしょうか。

「業」という言葉ほど 重く、また人に嫌われる言葉はないように思います。
そこには 余りにも人の真実を指し 苦しみを表しているように感じられるからです。

ブッダにも見るように 純粋な意図という欲願さえも 何らかの苦を招くものであるならば
その実現には 代償としての相応の苦を受ける覚悟が必要なのかもしれません。
100%純粋な意図から 100%幸福になるという事は有り得ない事です。
人間の業とは そうしたものではないでしょうか。
ただ 個人における業の収束、安らぎ といったものはあるような感じがします。
救いを招く「業」の有り方を ブッダが示したのだとすれば
やはりそれは貴重だったのかもしれません。
実践は中々難しいですが
そんなところです。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

>仰っている「純粋な意図」というものが、よく分かりませんが

海外旅行に行きたいならば、お金をためたり、安上がりな計画を調べたりするのが
道理(因果法則)にそった「純粋な意図」となるでしょう。
さらに「純粋な意図」ならば、歩く、見る、探す等といったものになるでしょう。
さらに「純粋な意図」ならば、刹那のこころの働きというものになります。

それらは、探すことに満足、歩くことに満足可能なわけですから
悶々と「海外に行きたいなあ」というような継続的欲求は生まれようがありません。

>ブッダにも見るように 純粋な意図という欲願さえも 何らかの苦を招くものであるならば

純粋な意図という欲願もまた苦を招くのではありますが、苦の生滅の時間が瞬間的でありますので苦は無いものと同じになると思われます。

補足日時:2012/08/14 00:35
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・・・「そう、ありたい」と思った瞬間、そこには「欲」が生じる。



とらわれとか、こだわりというのは、それくらい難しい問題と思われる。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>とらわれとか、こだわりというのは、それくらい難しい問題と思われる。

後悔せず理想にとらわれずという状態というのは、現在に満足しないことには
不可能なのでしょう。
そして、現在に満足するのは、生は苦または不満足であるという実感が必要であり
苦もまた無常であるという実感に救われるしかない。

すばらしい直観をいただきました。

お礼日時:2012/08/14 00:04

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