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何故源頼朝は世界史上でも類を見ない「幕府」という武士のみの権力組織を作ろうと思ったのでしょうか?
わざわざ朝廷に対抗する新しい統治組織を作った理由が知りたいです。

A 回答 (6件)

坂東の地は、古代日本では蝦夷地との境界に接した、大きな不毛の地だった。

富士山の火山灰のために水稲耕作に向かず、武蔵野の山林が広がる荒れ地だったのだ。

そういう土地柄ゆえに、植民が進まず、古代大和朝廷が朝鮮半島から逃れてきた人々を移住させる場所でもあった。

そういう中で、やはり中央から下野した天皇家ゆかりの貴種の一団の中から、土着の一団と一体化して朝廷の抑圧に反旗を翻すものが現れた。
平将門だ。
将門は「新皇」を称し、坂東の独立を目指したが敗死した。

しかし、坂東の土豪たちには将門の威風は残った。
そして、坂東に流刑となって下向してきた源頼朝という、結束の旗印を再び得ることになった。

源頼朝が、「朝廷に対抗する新しい統治組織」を最初から創ろうと思っていたとは思わない。
彼は、坂東武者の朝廷から独立したいという想いを汲むことによって、最初は、それを利用して平家を打倒して復讐しようとしていただけかもしれない。
しかし、頼朝には自前の兵力が全く無い。ゆえに、親交があった朝廷の下級官吏を呼んで、「征夷大将軍と幕府」という「占領地の臨時軍政権」を拡大解釈した「恒久的な自治組織である幕府」を、自分を支持してくれる坂東武者達のために造った。ということだろう。

晩年の頼朝は、京の朝廷に接近し、娘を入内させる工作を行っている。
これは、源氏が平家に成り代わり、再び坂東を中央に隷属させるための準備と考えられた。少なくとも坂東武者たちの中には、そのように不安を感じた人々が多かっただろう。
結果的に、京での工作を終えた頼朝は、その帰路に急死した。暗殺の疑いもない訳ではない。
そしてその後に将軍となった頼家も実朝も、京を志向する態度に変わりなく、両名とも横死。頼朝王朝は三代で幕を閉じることになったが、その後も北条得宗家の執権体制は揺るぐことがなかった。

「朝廷に対抗する新しい統治組織」を創ろうと思っていたのは、頼朝ではなく、坂東武者たちの悲願だった。そういうことだと思う。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
長年の武士の不満の爆発を頼朝率いる源氏が中心核として階級闘争を起こした結果、幕府が開かれたのですね。

お礼日時:2021/02/15 15:31

誤解されてますよ。

”武士のみ”でも”朝廷に対抗”でもないです。朝廷から政治を外託されたのが幕府です。鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府、どれも全部そうなのです。武士が成長して貴族の政治に飽きたらなくなったということ。貴族にまかせていたら結局争いになってしまって武士がいいように使われるだけでは面白くないという訳です。しかし武士の正統性が朝廷に依拠していることには変わりません。正統性を武士は、山賊・野武士と変わらない訳で。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
やはり武家政権の開幕は長きに渡る武士の不満の爆発によって起因した階級闘争だったのですね。

お礼日時:2021/02/15 15:27

世界史との比較という点でいえば「国内の内輪もめだったから」です。



>わざわざ朝廷に対抗する新しい統治組織を作った理由が知りたいです。

世界史上なら、普通は朝廷を倒して自分が支配者になる新しい国家を作るのが普通です。だから世界史なら『「幕府」という武士のみの権力組織』にならず、支配階級がそっくり入れ替わる征服王朝が誕生するわけです。

それが日本で起きなかったのは「国内の内輪もめ」だったからです。

日本の政治闘争の特殊性を負ってみると「常に天皇の権威を味方につける事」が重大な要素だったことが分かります。
・藤原氏の摂関政治
・平氏の政治
・戦国時代の「天下統一の意味
・大政奉還と明治政府
など、すべて「天皇の威厳をどのように活用するか」がテーマでした。

鎌倉幕府も同じで、世界の他の国のように「天皇を倒して、自分達の王朝を開く」という認識は全く無かったのです。

だとすれば東国武士たちが直面していた問題「自分達が苦労して土地を管理しているのに、都にいる貴族たちに収穫や収税を持って行かれる」を解決するには「都の統治から離れて、自分達の統治をするしかない」という結論に達します。

しかもこれには前例がすでにあり、平泉政権は独自の奥州支配を実現していたわけです。ただ鎌倉幕府はもっと確実な独立政府が欲しかった、わけです。

鎌倉幕府開闢の時期の東国武士は二つの相反する問題を抱えていました。
・都から遠い関東の武士たちが土地支配を確実にすること
・都に近く、また古来から天皇家と近い西国の実力者を刺激しないこと
です。

だから軍政に目を付けたわけです。現代でも「軍が政府を掌握している」にはいくらでもあります。日本もGHQによる沖縄軍政を経験しています。
 軍というのは「国を運営するシステム」が全部そろっているので「軍政府」というのが成立するし、それが認められるとその内部は一種の自治国になるわけです。

しかも天皇から勅許をえれば西国の実力者たちに対して「天皇が軍政を御認めになったのだ。それに異議を唱えるのは不敬であろう」ということです。

このやり方をすると「東国武士の支配権を確実にしつつ、西国との争いにならない」ようにできたわけです。

これが世界史と違って「王権の中に武家政権ができた」日本独特の理由です。

ただ、西国の人々はやっぱり納得できなかったんでしょうね。だから後醍醐天皇の建武の親政が可能になったわけですし、西国と東国の権力闘争は室町幕府でも調整しきれず、結局戦国時代になっていったわけです。

戦国時代の朝廷や貴族たちは、すでに武力を失っていたので、日本全国で「誰が天下を取るんだ」という争いをしたうえで、織田・豊臣・徳川と天下人が決まり、信長は弑されましたが、秀吉には関白、家康には征夷大将軍を与えて、朝廷と武家政権のバランスが取れたから、徳川幕府は250年も安定して続いた、といえるわけです。

蛇足ですが、日本と同様島国のイギリスは、古代に征服王朝が無かったために、すでにイングランド・スコットランド・アイルランド・ウエールズと4つの独立国になっていました。それを征服したのが今のイギリス王家の始祖になるギョーム公(英語だとウィリアム)です。

日本は大化の改新の時代までに、国家としては統一国家になってましたから、鎌倉幕府に限らず、明治政府なども「天皇の権威をつかって日本国を統治する」ことができたわけです。
 
 鎌倉幕府は武力で東国の自治権を得たうえで、天皇の権威を使って無駄な軍事闘争にならないように配慮出来た、という点がものすごく日本的です。
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この回答へのお礼

非常に詳しい回答ありがとうございます。
日本の政治のあり方について色々と知る事が出来ました。
天皇の権威を利用して自身の地位を高め、実権を握るのが日本の権力者の特徴なのかもしれませんね。古くは摂関政治、現代では旧帝国軍の統帥権などがそれですね。
天皇陛下の存在が如何に絶大かが分かりました。

お礼日時:2021/02/15 15:24

朝廷は農民が生産した米の6~7割を年貢として、上前を撥ねて


してました、それを管理して、朝廷に納めていたのが武士です、
盗賊などから、守っていた武士が、何でわしらが血を流して年貢を
守って、納めなきゃならんのか思う人が出てきます、朝廷に納ないで
我々で管理しようと考え独立国を造ろうと考えるのは必然でしょう。

坂東の地(関東)で決起したのが、平将門です、でも、この頃は、
朝廷の言う事を聞いて居た方が旨い汁を吸えると考えてる豪族が
多くて、将門の乱は失敗します。
将門の首を取った平家一族の繁栄の始まりです。
将門は殺されたけれど、坂東の地には独立の機運は残ってました、

源氏の嫡流の頼朝が罪人として伊豆に流されてきました。
坂東の豪族達が頼朝を担いで独立国を造ろうとしたのです。
将門と違い頼朝は自前の軍隊を持ってません、豪族たちに担がれた
存在なので、頭脳明晰な頼朝が考えた事は、弟の義経が朝廷には
目障りな平家を滅ぼしたのを見計らって、京都から東の坂東の地は
私目が管理しますので、付きましては臨時職である征夷代将軍を
頂だいと願い出て、朝廷も臨時職だから良かろうと言う事で
授けました(ここは、私の推測です)。

征夷代将軍は臨時職だけれど、常設の鎮守府将軍の上になる権限が
与えらていました、頼朝はこれを利用して、坂東の豪族たちに、私の
言う事を聞けば、支配地はあんたらが管理して良いよ・・・
但し、鎌倉に事有らば、直ぐに駆けつけて頂戴と、一所懸命の制度を
造りました。
子孫作りと蹴鞠と和歌造りに勤しんでいた、朝廷(公家)から、
独立し自分達で領地を支配する、戦国大名への歴史の流れを
頼朝が導いたのです。

義経は、お兄ちゃんの政治的な構想が解らず、朝廷から官位を貰い
牛車に乗って浮かれていたのですから、邪魔な存在でしかなかった・・・

頭脳明晰で武士の世の構想が有り、人望がなければ、出来ない事
です、頼朝さんは凄いです。(北条政子さんのチカラも凄いです)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
武士の、武士による、武士のための武家政権を確立した頼朝の偉業は日本史上最高クラスですね。
また、大将軍の権限を活かし、あくまで朝廷の規律に沿って合法的に野望を実現させたところも感服です。

お礼日時:2021/02/15 15:19

もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念である。


武家政権を幕府と称したのは江戸時代後半、幕末になってからのことであり、鎌倉幕府という概念が登場したのは、明治20年以降とされる。
以上の理由から、鎌倉幕府の統治機構としての概念、あるいは
成立時期というのも後世の、近代歴史学上のとらえかたの問題であり、一応の通説があるとはいえ、統一された見解がないのが現状である。
歴史学者の林屋辰三郎は「そもそも幕府というものの本質をいずれに置くのか、歴史学上未確定である」と述べている。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2021/02/15 15:15

出来るだけ短く説明します。

平安末期「武士」は「土地の管理人」でした。全国の土地は「国衙(京都政権の公有地)」と「荘園」に分かれていましたが、在地で管理していたのは武士でした。ただ武士に土地の所有権はありません。武士は、平氏にそうした権利を認めてほしいと期待したのですが、いつの間にか京都政権の味方になってしまったので、源氏に期待したのです。そのことを敏感に察した「源頼朝」は、京都政権と全く別な権力構造を作り、そのトップに就きましたこれが「幕府」です。そして「武士」の土地の支配権を認めました。「本領安堵」です。それに不満を持った京都政権は「承久の乱」を起こしましたが、敗北しました。この結果「幕府」は京都政権と関わらない伝統が出来上がりました。別の権力構造の出現です。こうした構造が、江戸末期まで続くのです。そのおかげで「天皇家」や「公家」は殺されずに済んだとも言えます。
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この回答へのお礼

非常に簡潔で分かりやすいご回答ありがとうございます。それまでの律令制から土地の所有権が認められる封建制に政治体制を切り替えることこそが目的だった故に、朝廷とは独立した組織を敢えて作った訳ですね。そう考えると、貴族政を打倒してそれ以降続く武家政権の土台を築いた頼朝公の功績は相当凄いと思いました。

お礼日時:2021/02/09 21:49

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