No.14
- 回答日時:
昭和10年といえば、NHK海外放送〔東京ローズ 情報宣伝プロパガンダ〕開始の年。
庶民は、捏造虚報情宣で洗脳され、事実を知る術も無く、戦争の当否を判断できなかった。https://ncode.syosetu.com/n0129gu/7/
〔参考〕
1935年7月25日からロシアのモスクワで開かれた第七回コミンテルン大会で、スターリンが演説した
「ドイツと日本を暴走させよ!しかし、その矛先を祖国ロシアに向けさせてはならぬ。ドイツの矛先はフランスと英国へ、日本の矛先は蒋介石の中国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。日、独の敗北は必至である。そこで、ドイツと日本が荒らしまわって荒廃した地域、つまり、日独砕氷船が割って歩いた後と、疲弊した日・独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ。」
1936年2月26日_資本家を殺すという「尊皇討奸」を掲げた陸軍青年将校らが千五百名弱の下士官兵を率いてクーデターを試こころみ、高橋是清蔵相、斎藤実内務相、渡辺錠太郎陸軍大将、松尾伝蔵大佐らを殺し、鈴木貫太郎侍従長らに大けがをさせた
1936年9月_十年間空席だった日本放送協会総裁に近衛文麿が就任しゅうにんし、国家社会主義的な考え方でウソを流す放送を始めた
1936年11月_「昭和研究会」正式発足ほっそく
昭和研究会は、新聞記者や共産主義者の巣窟そうくつで、主宰者しゅさいしゃは近衛のブレーン後藤隆之助だった。
https://ncode.syosetu.com/n0129gu/8/
〔補足〕
諸悪の元凶はNHK
https://ncode.syosetu.com/n0129gu/12/
No.13
- 回答日時:
A:>私のある質問に対して、wellow様から下のような回答を頂きました。
そのソースや前後の回答内容が不明なのでその回答の真意がわかりません。
事実であっても、都合の良い切り取りの引用は、誤解を招き当人の名誉を損ねる場合があります。
それ以前に、そのような回答があったのかという事実確認すらできません。
B:>昭和10年ころ、為政者でなく、庶民も戦争を待望していた、のですか?
昭和10年(1935年)ということは、
時期は満州事変(1931年)以降の国民党との紛争期ですね。
(最近のユーザーのレベルの低下は泣きたくなりますね これを理解できずに対米戦争を語っている者までいるし)
回答:後述の当時の情勢から国民は「綺麗ごとの平和主義」より「権益を守る為の正統な自衛の為の行動」を欲していました。
当時の支那大陸ですが、清国の滅亡により、複数の軍事政権が独自に各地を支配する無法地帯でした。
そのような中で勢力を伸ばした国民党(蒋介石)は中国共産党(毛沢東)と共闘し、列強が管理していた租界で暴動を起こします。
列強はそれらに武力で対抗しようとしましたが、日本は消極的でした。
彼らは、そのような日本の態度を見て、攻撃を日本に集中するようになり、↓のような日本人が被害にあう事件が多発しました。
【漢口事件】(1927年)
漢口で日本の租界が襲われ、暴民による掠奪が行なわれた。
日本政府は漢口の日本人居留民2000人以上を上海に退避させた。
【南京事件】(1927年)
支那の北伐軍に浸透していた共産党員が南京で日本・イギリス・アメリカの領事館や学校、企業、外人住宅を襲って、虐殺、暴行、掠奪を行ないました。(これには支那の一般市民も便乗していました)
この暴動に対して英米両国は日本に「一緒に行動しよう」と呼びかけましたが、日本政府から「支那を刺激してはならない」という訓令の為に、日本の軍艦は避難しようとする日本居留民を見捨てて揚子江を下って帰還しました。
居留民保護の為に共同出兵をしようというイギリスの提案にも応じませんでした。
日本が攻撃しない事を知った支那兵は日本領事館に押しかけ、暴行と掠奪を行ないました。
領事夫人は27人に輪姦され、30数名の日本人婦人は少女に至るまで陵辱されました。
日本領事館員も日本の軍人は、武装していなかったために抵抗できませんでした。
南京事件の結果、揚子江流域の日本人は財産を放棄して内地に引き揚げざるを得なくなりました。
【間島暴動】(1930年)
ソ連から支援を受けていた満州と朝鮮人の反日・共産主義諸団体が間島地方で暴徒が交通機関や発電所などを破壊し、日本の領事館や親日朝鮮人の家が襲われた事件。
この後も日本の施設や親日朝鮮人に対する攻撃が続いた為に、現地朝鮮人から日本の武力行使を要望する請願が出されました。
ところが、日本の対応は消極的だった為に彼らは増長し、大陸での反日・侮日は激化していきました。
満州事変は、このような状況下で満州の居住民と満州鉄道を守る為に起きたものです。
その後も国民党の反日暴動は続きました。
【日本人僧侶殺害事件】(1932)
上海で日本人法華宗僧侶2名、信徒3名が300名の支那人に襲われ、2名が死亡し3名が重傷を負った事件。これがきっかけで第一次上海事変が勃発しました。
【親日社長暗殺事件】(1935年)
日本と満州に友好的な「国権報」と「振報」の社長が暗殺された事件。
調査の結果、国民党の関与と、犯人が国民政府によって上海のフランス租界に匿われたことがわかりました。
【通州事件】(1937年)
冀東政府の保安隊千数百人が、日本守備隊と日本人居留民(韓国合後の朝鮮人も含む)を襲撃して虐殺した事件。
当時の通州は日本軍主力が出動した為100人くらいしか残っていませんでした。
「通州事件の目撃者による口述書の一部引用」
守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。
某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。
旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部にほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。
東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。
夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、
鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこのちり箱の中やら塀の陰から出てきた。
この事件に日本の世論は沸騰し、支那への感情は取り返しの付かないほど悪化しました。
【大山大尉虐殺事件】(1937年)
上海で車で視察中の大山勇夫海軍中尉が支那の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれ殺された事件。大山中尉は機関銃弾を浴びて殺された上に、頭を青竜刀で割られていました。
No.12
- 回答日時:
はい。
大正時代はメディアも日本国民も反戦傾向が強かったのでが、盧溝橋や日華事以降は戦争に熱狂する空気は強まってゆきます。開戦直前には当時の首相官邸に政府の弱腰をなじり、日米開戦を望む投書が何千通もきたとか。ちなみにこの当時の庶民の政治への意思の示し方は、選挙以外はこの「投書」が大きな位置をしめています。また開戦時には当時の著名人がこぞって開戦を喜んだコメントを発しています。たとえば
伊藤整(小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家)
身体の奥底から一挙に自分が新しいものになったような感動を受けた。(略)ああこれでいい、これで大丈夫だ、もう決まったのだ、と安堵の念の沸くのを覚えた
高村光太郎(詩人・歌人)
世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。(略)私は不覚にも落涙した
火野葦平(小説家)
神々が東亜の空へ進軍してゆく姿がまざまざと頭のなかに浮かんで来た。(略)私はラジオの前で涙ぐんで、しばらく動くことも出来なかった
太宰治(小説家)
日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。(略)目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起こさせるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。
アメリカの歴史学者であり戦前戦後の日本の研究をおこなっていたケネス・ルオフという学者は次のように指摘しています。
(戦後)日本を戦争の暗い谷間へと引きずりこんだとして、漠然とした少数の『軍国主義者』を非難することが通例となった。しかし、国民の支持がなければ全面戦争の遂行などできるわけがないのだから、これは奇妙な言い草だった
これ以外にも戦前の民衆は戦争を支持していた、というのは明らかな裏付けが結構あります。例えば「戦前の」主要新聞は戦争をあおる記事にあふれています。こういうのは図書館などで閲覧することができると思います。
庶民も戦争を熱望していた?そんなこと聞いたことはない、というのは、戦後の民主主義教育によって軍部だけに責任を負わせちゃった結果の言い分じゃないですかね。
早速のご回答ありがとうございました。
事情があるにしても、〈戦前の民衆は戦争を支持していた>ようですね。
<軍部だけに責任を>ではなさそうですね。
No.11
- 回答日時:
No.10
- 回答日時:
「戦争しろー!」と喚く人間はいつの時代もいたでしょう。
特に、庶民に限定すれば、無責任にというか、政府や政策に対する意見としてそのような発想といのは多くあるし、景気の後退や外国に押されている雰囲気が強い時期には、そうなりがちです。
昭和10年前後だと、そういう発想で声を出す庶民も増えたし、そのような心情を読んで、これに訴えて自分の存在価値を誇るような主張者や政治家、主義者も増えます。
https://www.jftc.or.jp/kids/kids_news/story/inde …
http://www.edu.pref.kagoshima.jp/sh/yakushima/do …
file:///C:/Users/hiroomi/AppData/Local/Temp/4.pdf
為政者が庶民を扇動し利用するという面もありますが、一種の相乗効果で、政治家、軍、事業家、学者、ジャーナリスト、庶民が、皆で、盛り上げていくようなことが多いです。
早速のご回答ありがとうございました。
<一種の相乗効果で、政治家、軍、事業家、学者、ジャーナリスト、庶民が、皆で、盛り上げていくようなことが多いです。>
おみこしを担いでいるようなものですね。
No.9
- 回答日時:
尼港事件殉難碑が熊本県天草市にあります。
尼港とは、アムール川河口に近いニコライエフスクのこと。日露戦争の結果、日本はロシアから沿海州の沿岸漁業権を得て天草出身者が居留していたのです。明治時代後期に急激に発展した北洋漁業に関する日露の対立が、日露戦争に至った要因のひとつでもあります。”戦争で勝って植民地を増やさなければ”ではないです。政府は国民の正当な権利を守る義務があるのです。そうでない政府は国民の信任を失い倒されるだけです。だからシベリア出兵も起こった。日本人居留民の治安を維持するため、権利を守るために出兵したのです。日本人が全員漁民である訳はないが、漁民だって日本人だし庶民です。漁獲量を増やして豊かになりたい。漁民なら誰だってそう考えるのが当たり前ではないでしょうか。ところがそれが尼港事件の惨劇を招いてしまった。事件の遺族は、仇討ちを望んだ。”戦争で勝って植民地を増やさなければ”じゃないのです。戦前は尼港事件のような日本人居留民がロシア人・中国人・朝鮮人に虐殺される事件が数多く起こりました。仇討ちを望む心情、それは安易な考えだったのでしょうか。No.8ベストアンサー
- 回答日時:
「庶民」をどのように定義するかで違ってきます。
政治的には昭和7年の「満州事変」や「5・15事件」以降は軍が主導した戦時体制への流れができていましたが「都市生活者」は「植民地や戦争」は「国(軍)がやること」だと思っていたようです。ただ中国での戦火拡大に少しの優越感と重苦しさを感じていたはずです。昭和11年の「2・26」事件以降は「急激な戦時体制」が取られていますが、このあたりになると「都市生活者」も軍隊の勝利を願い何か協力することが当然だと思われ、「戦争が身近」になっていたようです。ただ戦争を待望していたという風には思えません。一方農村では「昭和恐慌」の後、「満州への開拓」政策や「兵役の強化」によって「戦争の勝利」を待望するというより、願う人が増えていったようです。ここでは「安易な考え」ではなく「生活苦の中から絞り出された願い」として「戦争の勝利と植民地の拡大」があったように思います。むしろ、軍や産業界は「安易な考え」であったのかもしれません。早速のご回答ありがとうございました。
1.<「都市生活者」>は<戦争を待望していたという風には思えません。>ですね。
2.<農村では>「生活苦の中から絞り出された願い」があったのですね。
生活によって、考えが違っていたのですね。
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