特にこのコロナ禍の中、雑用が増えてしまいやりたいと思っている勉強ができないでおりました。
これでは、自分の知りたいことに到達するのに一万年かかってしまうと思い反省をしました。
神は無根拠であるという議論もあるようですが、私は私の筋道で進んでゆこうと思っています。
即ち、「カント以前の哲学はすべてカントに流れ込み、それ以降の哲学はすべてカントから流れ出る」と言われているカント哲学から近代・現代哲学の流れを知り、そのあとに古代ギリシャに遡り、仏教哲学に帰還する、と。
私のカント哲学に対する知識は微々たるものです。その知識からカント哲学の「コペルニクス的転回」について超簡単にまとめてみます。
・カントは元々、理性によって「普遍の真理」にたどり着けると考えていた。
・ところが、ヒュームの「理性とは知識と経験の束に過ぎない」という哲学に出会い考えを改める。
・しかし、人はそれぞれ違う知識と経験を持っているのに、何故共通の認識を持っているのか、という
疑問を持った。
・その疑問に対する答えとして、人間には先天的に知識や経験を受け取る特有のパターンを持っているのではないか、と考えた。
・人間はその特有のパターンによって物事を認識し、認識した時点でそれは、永遠普遍の真理ではなく、人間にとっての真理であると。また、人間は「モノ自体」に到達することはできない、と考えた。
このことを「認識のコペルニクス的転回」という、と。
今、私が疑問に思っていることは、
1.カントは、人間は何故「モノ自体」に到達できないと結論したのか、その根拠です。
2.カントは「モノ自体」を否定しているのではなく、認識しえないとしているのであるから、「無神論である」との評価は違うと思うのですが、どう思われますか?
この二点に限らず、カントに詳しい方には色々教えていただきたいし、そうでない方には様々持論を聞かせていただきたいと思います。
A 回答 (7件)
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No.1
- 回答日時:
カントは色に関する論文も書いたりしていて、人間の視力、広く言えば人間の知覚力について考えた人です。
その思索の中で、色のスペクトラムを何種類に識別できるかは、人によって異なり、つまり、色の種類とは、観察者から独立に存在しているわけではなく人間側の認識能力に依存すると言うことに気づいた様です。
そこからがカントという思索家の凄いところですが、人間は物そのものを知ることはできず、人間の網膜に現象した色を認識しているだけだと普遍化したのです。
カントは無神論者かどうかは議論の分かれる所です。
カントが否定したのは哲学者がやってきた「神とはかくかくしかじかの存在である」などと論ずることで、この神に関する論議の無意味さを指摘しましたが、同時に「神の存在が要請される」とも言っています。要請されるという意味は、神を措定することを否定していないのだから、無神論者とは言えないのでは無いでしょうか。
100年後のWittgensteinの名言「語りえぬものに関しては沈黙しなければならない」を、カントは既に自ら実践していたと私は評価しております。
カントの哲学に対する解釈でよく聞くのは、物自体つまり神、のことを考えることは無意味であるばかりでなく、分からないことを分かろうとすることによって大きな間違いを生ずる可能性があるから、するべきでない、というものです。また、神による人間の支配から脱することにもなる、と。
これは、カントは無神論であると言っている人の言です。
そして、カントの哲学の功績は、19世紀以降の科学の著しい進歩をもたらした、と。
しかし、カントは著書の中で、
>「神の存在が要請される」
とあるわけですね?
とすれば、無神論とは言えないし、冒頭の解釈も少し違う気もする。
つまり、「物自体」の扱い方、ということがやはり私としては大きな問題になります。これは「神論」ですね。
>「語りえぬものに関しては沈黙しなければならない」
ですから、これも私としては大変に微妙と言わざるを得ません。
No.2
- 回答日時:
ヒトはモノに対する認識が、ヒトそれぞれであるがゆえに、いくらその認識が近いとはいえ、完全なる共通認識を持つことが出来ない。
ゆえに、完全なる普遍性としての「モノ自体」に到達できないと結論した。
ブッダは結論の出ない抽象的議論に関しては「笑って答えず」という具合に微笑むだけで何も答えなかった。
カントも、神の存在という、その実在性を証明できないモノについては、個人的には神を信じていたとしても、公式にはその有無を答えることを避けたということだろう。
釈尊は法華経において、物自体=神、について明らかにしています。
カントは、そういうことなのかなあ、と思ったことはありますが、どうでしょうか?
No.3
- 回答日時:
Mokuzoさんの回答で知りました。
カントは云っているんですね。
人間は、個々によって性能がマチマチな網膜で捉えた映像を、認識しているに過ぎないと。
これは、弁栄(べんねい)上人の「自身の心の映像を向うに見ているのだ」と云う言葉と“クロス”しています。
心って、完全・完璧ではないですよね。
その不完全な心が捉えた“物”が完全であるはずはなく、であるならば物自体に到達できない、と云えるでしょう。
☆ 釈尊が真理に“到達”したのは、自身の心の曇りや歪みなどを修行によって、取り除いたから。
この様に思います。
例えば、ある女性を見たときに、その人が好みのタイプである場合、物凄く美人に見えるわけです。網膜に映る像はおそらく同じでも。
釈尊は物自体を認識したとしているわけで、仏教哲学ではそれは可能としているわけです。
カントは釈尊を否定したのでも無視したのでもなく、知らなかったのでしょうね。当時は仏教の経典のドイツ語訳なんてなかったのでしょうから。マルクスもしかりでしょう。
No.4
- 回答日時:
にゃぽりつさんおはようございます。
カント『純粋理性批判』(下 全3冊 篠田英雄訳 岩波文庫)p.40と41より引用は「つまり一般に行われている成見のために、現象が物自体と取り違えられ、したがって現象の総合の絶対的完全性が、双方からそれぞれの仕方で要求されたのであるが(しかしいずれにせよこの総合は、これらの仕方では不可能であった)、これは現象からは全く期待せられ得ないことである。したがってあの時には、『それ自体与えられた現象の系列は絶対的な第一の始まりを持つ』という命題と、『かかる系列は絶対に、またそれ自体決して始まりを持つものではない』という命題とに関しては、理性の自己矛盾と言うものは実際には存しなかった、これらの両命題は十分に両立しうるからである。つまり現象は、その現実的存在について言えば(現象としては)、それ自体まったく無である、換言すれば、自己矛盾するものではない。ところが現象を物自体として前提すると、当然矛盾する結果を招かざるを得ないのである。」です。それは現象の系列です。現象自体は無です。現象を物自体にします。物自体自体は有です。物自体の系列自体は始まりを持ちます。物自体の系列自体は始まりを持ちません。理性が自己矛盾します。カント『純粋理性批判』(下 全3冊 篠田英雄訳 岩波文庫)のp.147より引用は「いかなる経験にも与えられ得ないような対象をも考えだすことができる、と言うのは、可能的経験の条件に必然的に属するようなものは、かかる概念の結合(例えば精神という概念)から除去せられ得るし、また純粋悟性概念は、経験の把握し得る以上に遠くへ達する(神の概念)からである。」です。
ダニエルカーネマン『ファスト&スロー』(上 全2巻 村井章子訳 早川書房)のp.285より引用は「 根拠薄弱な情報に基づいて極端に偏った予測やごく稀な事象を予測するのは、どちらもシステム1のなせる業である。」です。根拠は薄弱だったリ濃厚だったりします。『どうしたら、自分という人の存在を自己定義できるようになると思いますか??』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12309278.htmlさんが良かったです。『デジタル大辞泉』(松村明 監修)に無根拠が載っていません。無根が載っていました。引用は「よりどころのないこと。」です。無根は形容動詞語幹です。否定の接頭辞が付くと品詞が変わります。野村雅昭『否定の接頭語「無・不・未・非」の用法』https://ci.nii.ac.jp/naid/120006557224が良かったです。p.2よりの引用は「 (1)造語要素の意味的な結合関係が,他の前部分にくる一字漢語とちがって,一般の構成上の修飾関係の順序と異なる。」です。
No.5
- 回答日時:
カントに詳しい方ではありません。
哲学にも詳しくないです。① 夢を見たり、希望を持ったり、○○の法則をイメージしたり、力学的説明をしたり、簡単な計算をしたり、自分の年齢を述べたり、私は日本人だと思ったりします。 デモ、日本人・55歳・体重や体積・重力加速度・電流・元気とか病気・美男美女若者老人・月・火星・富士山・富・心・神・真・善などは、(行為し思い感じる人間)と別個にポロンと存在するようなものではなく、(行為し思い感じる人間)がいてこそ成立し存在できるものだろう、と思います。
南極も、火星も、重力加速度、電位や体積、質量、時間なども、人間がいない状態でも存在はしているかもしれませんが、人間がそういう認識や概念操作、コミュニケーションなどをしないと、概念としての枠も形成できない、推考もできないのであれば、「そのような存在はない」と哲学的には言えるのでしょう。
② 人間がいろいろ推考した結果、直線や2次元平面、3次元空間、時間とか、実数、制度、権力、動物、植物、鉱物、等価、同量、多少、比較、電磁波の概念を「作り出し、修正し、改訂する」のであれば、「不変・普遍の最終概念」に到達してしまうことはあり得ないと考えるのが、まあ、自然な結論でしょう。 あることについての概念は、その時の関係者の合意程度のものなのでしょう。 そうであれば、いつまで検討しても、概念の決定打には達しないし、概念さえもそうならば、「物自体」という事柄?・実体?にも、「これが"物自体"である」ということを言ってみても、永久的普遍性はないですよね。 思考する人間が、新たな概念規定で2つや3つに分けたり、従来別物としていたものを一つにまとめてしまったりするのですから。
「世界十五大哲学」PHP文庫には、次のような文章がありました。
~~~~~~~~~~~~~~~~
ところで、素材である感覚を12の範疇(枠、形式)を用いて整理すれば、12通りの判断(認識)が成立つことは明らかである。カントは、この12の範疇の相互の関係についてはよく考えないで、この12の範疇を、更にその奥にあって統一するものを考える。
この統一するものは、カントによれば、先験的「統覚」とか、先験的「自我」)とかいわれる。この「統覚」は、全認識を統一する働きをするが、それというのも「統覚」が12の先天的な範疇をそれぞれ使用して、感覚を相手にして、感覚を組織化するからである。だから、「統覚」にこそ、科学的な認識にとって必要である「客観性」の終局の根拠があるということになる。
そして、この「統覚」という地点に立つことが「先験的」立場に立つといわれるのであり、そして、この立場から「認識」を取扱うことによって、主観的であるにすぎない感覚が超主観的なものへと引上げられるのである。つまり、あの「客観性」とは、この超主観的であるということを意味している。
カント以前の合理論者たちは、まず「物自体」--実体ともいわれた--が客観的に存在していて、この「物自体」について、それと一致した認識を行なうのが、学問の客観性であると考えていた。ここでは、「客観性」の根拠は、「物自体」におかれている。
ところが、カントはこれに反して、「統覚」あるいは「自我」にそれを求めた。このようなやり方を、カントは自ら、哲学における「コペルニクス的転回」といった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
①カント以降の哲学では、物事は人間が認識して「なんぼ」ですから、そういうことになるでしょう。
②人間の認識能力の限界、ということなのでしょうか。
12の範疇とそれを統一するものーああ、そういうのがありました。難しいですね、哲学は。
No.7
- 回答日時:
どんなに愛していても モノ自体 他者 には到達できません。
知ること、愛することは出来ても その人自身には成れません。
客観的に観ても 主観的に観ても何処まで迫っても モノ自体
はモノ自体であってそれ自体に到達することは出来ない。
自分自身がやっと存在すると分かるくらいだから 客観的唯物論
には限界があります。 どんなに愛してもその人自身にはなれません。
神については信じていたのではないでしょうか。
「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」
というカントの言葉は 神の摂理を言っているように聞こえますが。
カント自身はキリスト教徒だったようですので、神の存在を信じていたのでしょうけれど、神と自分との関係というか、人間観ですね、人間の存在をどう考えていたのか?
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