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江戸時代が260年程続いた理由を教えてください。
出来れば鎌倉時代と室町時代との比較をして下さると有難いです。
良ければ
①大名統制
②貿易
③身分
の観点からお願いします

A 回答 (8件)

「武家諸法度」「公家諸法度」を制定して天皇、諸大名を締め付けた。

難くせを付けてお取潰しになった大名は数知れず。「士農工商」の下に四つの身分制度があった。鎌倉、室町時代はまだ「国盗り物語」の時代だね。
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この回答へのお礼

なるほど、お取潰しのおかげで各大名も大きな反乱を起こさず素直に従ったんですね。
参考になりました!
ありがとうございます(*^^*)

お礼日時:2021/07/04 09:37

①三代将軍の家光が、自分は生まれながらの将軍と言い切って、体制を強化。

参勤交代は、江戸幕府から。外様大名ほど、費用負担が大きい。
②貿易港を長崎に限定。南蛮貿易の利益を幕府がほぼ独占。
③豊臣秀吉の刀狩りで、武士とその他をはっきり分けた。人別帳(戸籍)でしっかり記録。
鎌倉時代は、初代頼朝の直系がすぐ絶えたけど、徳川は御三家、御三卿の制度で、次の将軍候補をしっかり確保。家光の時、特に問題がなければ、長男が継ぐと確定。
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この回答へのお礼

やはり参勤交代は大名統制の中でも重要なものだったんですね。
戸籍をしっかりさせてたことで一揆の危険も減ったんですね!!
参考になりました!
ありがとうございます(*´∀`*)

お礼日時:2021/07/04 09:40

続きまして、鎌倉時代、室町時代との比較です。


平安時代の平清盛から江戸時代までを武士が政治の中心にいたと考えると、
鎌倉時代を黎明期、室町時代を発展期、そして戦国時代を武士による日本統一の最終期、江戸時代は完成期として捉えることができると思います。

平清盛の時代は天皇とその取り巻きの貴族すなわち文官が政治を担い、平清盛はその下の武官にすぎませんでしたが、源頼朝は武士が文官も担う政治の中心になる役割を果たしています。いわゆる文武両道というやつですが、中国や李氏朝鮮とは全く異なる日本独自の政治システムとして発展していきます。

鎌倉時代と室町時代の間には南北朝時代があり、後鳥羽上皇が政治の表舞台に出たこともありますが、ことこどく失敗して、これ以後江戸時代まで天皇が政治の表舞台にでることはなくなりました。
南北朝時代には南朝、北朝のどちらが正統な天皇かを争っていますが、実態は武士の主導権争いに過ぎなかった、ということになると思います。
なお、この頃は傑出した武士が多く表れており、戦国時代の有名な大名よりも時代の先を読んでいた人が多いと感じます。

なお、天皇家の南北朝の争いは、室町時代の足利義満が決着をつけています。足利義満は明国からは日本の王として認識されており、武士の中で最も天皇に近づいた人物と言えるかもしれません。

武士の時代が終わり明治になると、突如として天皇が政治の中心となり強力な中央集権国家が成立します。これは敗戦まで続きます。

以上、試験には役立たない知識だと思いますが、過去の歴史が現代日本や日本人にどのような影響を及ぼしているのか?という視点にたつと面白いと思います。
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先進国の中で200年以上も平和だった国はありません。


戦後の日本も平和を享受していますが、それでも江戸時代の半分にも満たず、当時の世界情勢を考えると驚異的なことだと思います。
鎌倉時代、室町時代との比較については触れませんが、以下のような事が大きな理由になると思います。

・あなたの望む答えとしては、戦国時代とその後の文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いを生き抜いてきた徳川家康が天下泰平を強く望み、初期の三代にわたってその仕組みを築きあげたことが大きいと思います。それが、大名統制であり身分制だと思います。また、島原の乱後に(植民地化の手段となる)キリスト教の国内浸透を防いだことも大きいと思います。

素人ですが、私独自の視点では次の二つになります。
・島国という地理的な特殊性が非常に大きいと思います。
・鎖国政策により国の発展が途絶えたにも関わらず、ある時期から人口増加が止まったため内乱等の内部崩壊が起きなかったことも江戸時代が長く続いた理由だと思います。なお、鎖国は貿易の拠点を限定し国が直接行っていて、明との貿易は朝鮮経由で細々と行われていました。

詳細な説明は長くなってしまうので省きますが、日光東照宮を見ると家康を神格するために明の威厳に頼っていたことが良くわかります。これは、当時の日本の手本は中国だったことを示しています。

参考までに、日本の人口推移のグラフを添付します。
「江戸時代は何故260年も続いたの?」の回答画像5
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この回答へのお礼

ありがとう

とても詳しく書いてたくださりありがとうございます!
とても分かりやすかったです!
島国の特殊性については気づきませんでした。
ありがとうございます(*´∀`*)!
また鎌倉時代室町時代と分けて書いてくださりありがとうございます(*´∀`*)
そちらもとても分かりやすかったです!

お礼日時:2021/07/04 09:53

長さだったら、室町幕府も240年ほど続いています。


江戸幕府だけが驚異の長さではありません。
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この回答へのお礼

そうだったんですね!
参考になりました。
ありがとうございます(*´∀`*)

お礼日時:2021/07/04 09:55

鎌倉幕府は、幕府創業者としては、よくやっていた。


しかし。元寇に勝利したとはいえ、恩賞問題で不満が高まると同時に経済的困窮に陥る御家人の続出、さらには幕府上層部の内乱による幕政の混乱が相次ぎ、執権の権威が落ちてしまった。

室町幕府は、早々から南北朝の大動乱で幕を開け、その後も大大名が幕政に関与したため、すぐに対立が激化しやすい構造のまま推移した。そして赤松氏に騙し討ちに合って横死した足利義教を最後に、幕政を推進する力を持った将軍が出なかった。

江戸幕府が幕府を造った頃の日本は、戦国末期以来の鉄砲大国で、陸軍力は世界一だった。他国は日本に軍事介入する余地がなかったので鎖国も簡単に出来たわけだ。
また幕政は、徳川宗家を中心に、親戚筋としての松平姓の大名を要所に据え、いくつかのそれほど領地の大きくない直臣家を中心に幕閣を形成するなど、諸大名に対する統制の強化に成功した。

このように国外勢力の軍事介入・政治干渉の排除が可能だったこと。
そして諸大名の統制に成功したこと。
以上の二つが、鎌倉・室町幕府との違いであり、260年の概ね平和な社会を維持できた理由だろう。
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1.諸大名と将軍家との格差を設けたから。


鎌倉も室町も、有力大名の力が強すぎ将軍の統制が利かなかった。
家康はそれを教訓とし、
・譜代衆には参政権を与えたが広い領地を与えなかった
・外様衆には大封を与えたが参政権は与えなかった
・自らは600万石という広大な領地を独占し、軍事経済で諸大名を圧倒した。

また、各大名領の配置にも注意を払っている。
ローマのストラテジーでもあった
「分割し統治せよ」である。

2.家康は明との貿易を望んでいたが断られた。
貿易で見るべきものはない。
南蛮貿易を独占したが、幕末の薩長を見ればわかるとおり、それで諸大名を圧倒できるほどではない。

3.これは特筆事項がないので後継者対策で替える。
同じ「徳川」でも将軍家と御三家では差があった。
あくまで徳川将軍家が天下人であり、御三家ですら一大名に過ぎなかった。
御三家を作った理由は、子孫が絶えることを防ぐためである。
医学が発達していなかった当時、乳幼児死亡率はとても高かった。
成人できても、病気にかかれば簡単に命を落とした。
現に7代将軍家継の死をもって将軍家の血筋は絶え、紀州徳川家の吉宗が将軍家となることにより徳川世襲は存続した。
もし御三家を作っていなかったら、徳川幕府は7代で終わっていた。
その吉宗もこれに倣いさらに御三卿を創設している。
最後の将軍慶喜は、水戸藩から御三卿の一つ一橋家に養子入りした。
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先行事例(鎌倉や室町)を研究して組織を作っていった



先行事例では、有力者=政権中枢となり
専横があったり、露骨な権力闘争が起きたりして行った

徳川は、大大名は幕府の役職には就けず、役職には譜代だけど石高としては中堅~小規模な家に担当させた

他にも、直属の軍事力を確保しているとか
大名統制の法令を整備したとか

そもそもが中世期は自力救済だったからね
法令や指令に実行力が伴わずに統制できなかった
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