実際戦ってないので分かりませんが、皆さんが思う最強の剣豪はだれですか?時代は刀を使っていた時代なら誰でも良いです。多くの回答お待ちしております。

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A 回答 (16件中1~10件)

♯12です。

思ったより武蔵は人気がありませんね(泣)。

そこで、「私説」武蔵最強論を2点補足します。第一は、武蔵の体格、第二はそれに伴う膂力の問題です。

武蔵の身長は、六尺あまり(180センチ超)と伝えられているようです。これが事実だとすれば、当時の日本人の平均身長(160センチ内外か)からすると十分大男の部類に入りますよね。

記録は確認しておりませんが、それを推測させるものが武蔵の肖像画(立像)です。武蔵の愛刀の一つ(藤原兼重)は、刃長二尺七寸と伝えられておりますので、肖像画における刀が兼重だとして、その長さから武蔵の身長を推し量ると、やはり180センチを優に超えるものであったであろうと推測されます。

身体が大きいのですから、当時の平均男子の膂力を上回るものであったことは容易に想像できます。(片手で青竹を握りつぶしたとも言われているようですが、これはとても信じられません)

しかし、普通に力が強いくらいでは、とうてい二刀(片手一刀)を自在に振り回すことはできません。真剣を持ってみると分かるのですが、普通の長さ(二尺三寸程度)のものでもかなり重いものです(約1.5キロ)。まして、二尺七寸というと、これは相当重いものでしょう。

1.5キロというと軽いように思われるかもしれませんが、これの約半分の重さの竹刀を振り回してみるとその重さを実感できます。竹刀ですら、片手ではなかなか十分な打ち込みができないものです。

佐々木小次郎や塚原卜伝の愛刀は、三尺を超える太刀であったと伝えられておりますが、これは両手で一刀を持つ場合。武蔵は、二刀流をとなえ、片手で一刀を操ることを真髄としていますから、これは比較にはなりません。

事実、兼重は、柄が短く、かつ鍔も軽量化を図ったもの(これらを称して「武蔵拵え」という)で、おそらく片手斬りを想定した刀です。片手斬りは、両手に比較して射程において有利だとされますが、相当の膂力を必要とします。

武蔵の場合は、単なる片手斬りではなく、右手に普通より重い長刀、左手に短刀を携え、これら二刀を自在に操って斬り合うことを想定しているのですから、これはもう想像外の膂力がなければ実現できない刀法と思われます。

「観・見」の両目付け(五輪書)によって、彼我の間合いを見切ったうえで、腰高の構えから片手斬りに打ち込んだ伸びのある一撃をよく避けうる敵は存在しなかったと想像するところです。

奇しくも、二刀流に対する一刀流は、日本人の体格および膂力に合った通常の剣法であり、故に、広く一般に流布し、やがて現代剣道を生み出す母体となったのでは、と愚考しております。

以上をまとめると、武蔵の二刀流は、「異常」の剣法と言っても過言ではなく、そうであるが故に、武蔵は孤高であり、最強なのだと固く信じる所以です。
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足利義輝を挙げます。

御存知の通り、室町幕府の13代将軍です。
上泉信綱に教えを受け、塚原朴伝に奥義の伝授を受け、自らの最期は数え切れない程の足軽を切り殺したそうですから、1対1の勝負を専門としている方とは評価の仕方も違ってきます。
刀を何本も地面に突き刺し、近寄る足軽どもを切りまくり、刃がこぼれれば地面から刀を抜き、バッサバッサと切りまくる。
こんな人、他にいたのでしょうか。実際に武蔵と戦ったらどうなのかとかはわかりませんが、死に臨んでの武者振りは古今類を見ない豪傑だと思います。
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辻月丹だと思います。


ご存知だとは思いますが、月丹は無外流創始者です。
その剣のエピソードに、月旦が薪割りをしているところに試合を求めてやってきた男があまりにもしつこいので、薪で「これが無外流だ」と相手の頭を殴りつけたというものがあり、特に戦法にこだわっていないのです。
また、山に籠もったあと道場を開いたら、月丹のあまりにも凄絶な剣技のせいで、入門者が誰一人としていなかったとか…。
こういう史話を持つ剣士は珍しいのではないでしょうか?

それとあえてつけ加えさせていただくと、武芸百般を誇る黒河内伝五郎を押します。
この人物を知ったとき、もはや人間業ではないと思いました。こうした名剣士に実戦記録がないのは非常に残念ですね。
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山岡鉄舟(てっしゅう)です^^


静舟(せいしゅう)という人も強かったそうですが、毎日何万と素振りの稽古をして、そのせいなのか早世してしまったとか。
鉄舟は去年の大河「新撰組!」にもちょこっと出ていましたよ。
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この回答へのお礼

初めて聞いた名前です。お恥ずかしい(^_^;)早速調べてみたいと思います。回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/25 12:58

宮本武蔵だと思います。



60回以上の真剣勝負を勝ち残るというのは只者じゃあないですよ。塚原ト伝を除けば、一対一の真剣勝負では最高の実績でしょう。

剣技という点では、活人剣(ボクシングのカウンターのようなもの)や殺人刀(先制のワンツーパンチのようなもの)を発明した新陰流一門(上泉→石舟斎→兵庫)も捨てがたい。

現代剣道にも繋がる一刀流の系譜(伊藤一刀斎→小野忠明)もなかなかのもの。面打ち落とし面のようなワザが流祖の時代から存在したとしたら、真剣勝負において恐るべき威力を発揮したでしょう。

しかしながら、五輪書や残された肖像画から推察すると、武蔵は戦国末期の人であるにもかかわらず、すでに「腰高の構え」を発明しているのです。

当時、実戦といえば合戦場。したがって、どの流派も鎧兜を着けての実戦を想定しており、したがって、腰を落とした低い構えからの斬り付けワザが主流でした。そんななか、武蔵が、一人、腰高の構えをとり入れ、実戦(この場合、合戦ではなく一対一の真剣勝負の場)に臨んだとすれば、生涯60回を越える真剣勝負において、ことごとく勝ちをおさめたというのも納得です。(腰高の構えは、腰を落とした構えに対して非常に有利で、現代剣道はみなこれです)。

ただし、伝書からすると、同時期、柳生兵庫も「つったったる構え」として武蔵と同じく腰高の構えをに発明しております。これが偶然なのか、それとも二人が遭遇した結果であるのかは分かりませんが、この点において、武蔵と兵庫は同格です。しかし、兵庫には武蔵に匹敵する実績がない。ゆえに武蔵に軍配を上げるところです。

武蔵と兵庫以後、各流派はおおむね腰高の構えとなり(もちろんそうでない流派も存在)、一刀流も同様です、したがって、その流れを汲む北辰一刀流の千葉周作も腰高であり、その点、武蔵と同格です。しかし、兵庫と同様、真剣勝負の実績において(もちろん千葉は道場試合においては格別の実績を残しておりますが、これは考慮外です)武蔵に及びません。

以上をまとめると、武蔵以前の剣豪には腰高の構えをもって武蔵の勝ち。武蔵以後の剣豪には、実績をもって武蔵の勝ちと致したいところです。

なお、実績において、塚原ト伝は、武蔵を凌駕しているのですが、これは腰の低い剣法同士の話。仮に、彼の極意とする「一つの太刀」の正体が津本陽氏の言うように、「右足を出した構えから左足を前に出しながら斬り付ける刀法」だとすれば、これは武蔵とて危ないかもしれません。間合いが読めないからです。したがって、実のところ、ト伝はダークホース的存在です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!宮本武蔵・・やはり出てきましたね。最強とは難しい称号ですね

お礼日時:2005/03/24 14:09

海音寺潮五郎氏の「実説武侠伝」文春文庫から出ています。

(いました。?)そこに、武蔵、上泉伊勢守、柳生宗厳、丸目蔵人、森の石松、等が、載っています。また、薩摩の示源流については、講談社文庫の「史伝と史論」収録されていました。残念ながら、絶版のようですが、文春文庫で、別の書名で編集を替えて、出版されていたと思います。もし、まだお読みでないようでしたら、是非お読み頂きたく。
お読みになった時の感動が薄れてはいけませんので、詳しくは申し上げませんが、剣術で生計をたてている人は、仕合に、(試合つまり、負ければこの次があるのではなく、文字どおり真剣勝負ですからその身は死ぬか、死ななくても、その流派消えてしまいます。)勝てると見極めがつかない限り、決してしないのです。佐々木小次郎の編み出した巌流は、武蔵と仕合をするまでは、西日本であれほど学ぶ人が多かったのですが、小次郎が死んだ後、その流儀そのものが消えてしまい、どんな流儀だったか分からなくなってしまっています。それほどのものですから、勝てるときは、その宣伝効果考えて行います。派手な衣装を着て、その地方で有名な人と仕合をし、いかにその流儀が優れているかを、身を持って実証するのです。
それを考えると、上泉信綱は、仕合に彼が考案した竹刀を用いて、たちあっています。もちろん相手は真剣です。恐るべき技量じゃないでしょうか?

話は、変わりますが、もし、歴史に興味があられるのなら、是非海音寺氏の史伝をお読み頂きたく存じます。読んで面白く、為になります。まずは、武将列伝、悪人列伝から。頓首謹言
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この回答へのお礼

上泉様・・・二票!千葉周作と並びました。この二人でもし、試合したら・・・歴史はおもしろい(*^_^*)
回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/22 14:33

上泉伊勢守信綱に一票。


やはり石州斎の師匠ですから。
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この回答へのお礼

この人も強い!!しかし、皆さんが思う剣豪とはやはりいろいろですね。

お礼日時:2005/03/22 14:27

上泉伊勢守信綱!


彼抜きには剣の歴史は語ることはできません。
1対1の試合のみならず、箕輪城の戦いにおいても武田信玄がどうしても配下に加えたいというほどの働きを見せてますし。
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この回答へのお礼

戦国時代の豪傑ですか・・・。前田慶次などの名は以外と出てこないのですね。

お礼日時:2005/03/18 15:52

ご参考までに申し上げます。



私も、千葉周作、東郷重位は剣豪の名に恥じない技量を持った武芸者と聞いております。
聞いたところでは、千葉周作は酒席の余興に五寸五分(16cmくらい)の厚さの碁盤を片手でつかみ、うちわのようにあおいでろうそくの火を消して見せたと言います。
東郷重位は、友人との剣術談義で激高し、持っていた刀で碁盤(やはり、五寸五分の厚さがあったと言われています。)をまっぷたつにしただけでなく、畳、床板を切り貫き、床下の梁の途中で刀が止まったと言い伝えられています。(つまり、碁盤だけでなく、床板まで切ったと言うことです。)
ご存知のように、真剣は結構重いものです。これを自由自在に振り回すにはそれなりの膂力が必要です。本当の剣豪は、千葉や東郷のような無双大力の士の中から現れるものと愚考します。
宮本武蔵を剣豪とするなら、武蔵と同様決闘で一度も負けたことがないと豪語する塚原ト伝も十分剣豪の資格があります。「まず左腕、次に首を切って進ぜる。」と予告してその通りに相手を斬ることができた薙刀の名人を、塚原は一刀のもとに切り捨てたというエピソードがあります。
徳川家の剣術指南役になった小野忠明(小野派一刀流の始祖)は、あの柳生但馬守宗矩に剣の腕を認められて指南役に推挙されたと言われています。小野は陶器のかめの中に隠れている敵をかめごと一刀両断にした腕の持ち主でしたが、師匠に当たる伊東一刀斎には全く歯が立たなかったと言われています。(伊東一刀斎はそれほど強かったらしいです。)
戦国時代の剣豪と言われている人たちは自己PRが上手な人が多いです。これに加えて後の世の講談師や小説家の手にかかればそれが誇張されてしまいます。鍵屋の辻の32人切りで有名な荒木又右衛門は実際には二人しか斬っていません。宮本武蔵が戦った相手としてあがっている人たちは、出自不明の人物だったり、剣術家としての実績が記録に残っていない人たちだったりします。真の最強の剣豪なら、有名な流派(一刀流や新陰流やタイ捨流など)の免許免状持ちを倒してなんぼというのが私の意見です。
異論は多々あるでしょうが、私は少なくとも宮本武蔵が(十分剣豪ではありますが)最強の剣豪ではないと考えます。

とり散らかった話になりましたが、ご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

いろいろありがとうございました<(_ _)>でました!私は伊東一刀斎が好きなんですよね!!この後の皆さんの回答が楽しみです。

お礼日時:2005/03/18 15:50

私も2番の方同様に「千葉周作」に一票。


ご承知のように彼以前の剣豪は剣を精神論でオブラートし、無の境地とか凡人では判らない理論で教えました。
千葉周作は剣の極意を「それ剣は俊息、心気力一致」とし、相手を広い視野で捕らえ気力が充実したときに一瞬で打つ、というもので、その体系だった理論は現在にも通じるものがあります。
また現実強く、高柳又四郎などの剣豪にも勝っているとか。
個人的には現在連載中の「子連れ狼」で拝大五郎の父親代わりでお馴染みの、示現流の東郷重位も好きです。
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この回答へのお礼

おお!!千葉さん二票です!!やはり千葉さんかな
(>_<)

お礼日時:2005/03/18 15:45

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Q最強の戦国武将は?

最強の戦国武将は誰だと思いますか?皆さんのご意見を聞かせてください。戦略的にではなく戦術的に強い武将でお願いします。ちなみに私は上杉謙信だと思います。

Aベストアンサー

織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
信長が世に出たきっかけは桶狭間の戦いですが、人間若いうちに成功するとなかなかそのやり方を否定することが出来ません。
彼の場合、これ以降は余程でなければ相手より少ない兵力で戦をすることは無く、やる場合も損害が少ないように上手に逃げます。
信長の大失敗で知られる越前攻めですが、部下を全て見捨てて自分だけ逃げ帰るような事はなかなか出来ることではありません。
途中で名も無き土民に首を獲られれば末代までの恥ですし、リーダーが逃げ出せば軍団は壊滅し、裏切り者が出て岐阜に反転し、自分の妻子すらどうなるか判らない。
私なら落城した金ケ崎城に兵を入れて浅井軍を牽制し、全力で木の芽峠を越えて朝倉を攻撃します。
運がよければ朝倉を壊滅させて浅井と対峙できますし、運悪く命を落としても武士の名誉は守れ、悲運の名将という名が残ります。
それがあんなにも大胆に逃げたのは、将に天才的な名将と言えるかと思います。
途中の朽木も、それを見越したからこそ恩を売るつもりで朽木谷を通したのではないでしょうか。

上杉謙信は結局人間の心理が読めない武将と思います。
この時代の武士はドライなもので、恩とか義理とかは余り考えていません。
実質の無い関東管領を名乗り、見入りの無い信州に介入し、部下の心は離れ、関東の諸将は冷ややかに彼を見つめ、同盟していた北条もメリットが無いとして同盟を破棄します。
戦に出ても勝ちを拾えず、砂上の楼閣のような物を得て引上げる、しかも田植えが済んでごく短期間だけちょろっと戦をして引上げる。
上杉謙信、武田信玄などは所詮はアマチュア武将であり、嘗て清原・桑田を擁したPL学園が阪神タイガースより強いのではないかと幻想を抱かせましたが、実際にはプロとアマとの間には大きな差があるように考えます。
短期の戦ではアマチュアがプロを抑える事は出来ても、決定的に破ることは出来ませんし、やがて破れていく。

上杉は運良く謙信が死んだので幕末まで残りましたが、生きていれば、北陸道を進む柴田軍と信州から進入する信忠軍、伊那から徳川軍などが進軍し、じりじり春日山に迫られ自刃したかと思います。

歴史的にも徳川家には武田の生き残りが多く仕え、彼らにとって武田信玄は神のような武将で、それに5分に渡り合った謙信は神に準じる武将と祭り上げられ、逆に家康が臣従した今川家と織田家は低い評価が付きますので、そこは割り引いて考えてもよいのでは。

最強というからには、やはり兼業武士(アマチュア)ではなく専業の武士(プロ)で競うべきで、信長を除けば、蒲生氏郷、結城秀康、柴田勝家、加藤清正などかと思います。

私の独断と偏見で。

織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
信長が世に出たきっかけは桶狭間の戦いですが、人間若いうちに成功するとなかなかそのやり方を否定することが出来ません。
彼の場合、これ以降は余程でなければ相手より少ない兵力で戦をすることは無く、やる場合...続きを読む

Q昔の剣豪が現代によみがえったら、誰もかなわない?

居合道や、剣道の経験のない者です。
バガボンドなどの漫画で、宮本武蔵、上泉伊勢守、伊藤一刀斎などの、超人的な剣の達人を知りました。

まぁ、漫画や伝記などは多かれ少なかれ誇張されたりしているのでしょうが、彼ら(上記にあげた剣豪)がもし現代に甦り、現代の剣道家、居合家たちと、真剣なり木刀なりでやりあったら、どちらが勝つでしょう?
また、もし昔の剣豪たちが勝つとしたら、彼らのどんな部分が優れているというのでしょうか?

Aベストアンサー

ルールによりますよね。
真剣はかなり重い。
同じくらいの重さの木刀を振っていましたが、それを自在に扱うというよりトレーニングといった感じになります。
剣豪がそれを自在に操り戦っていたとなると、それこそ脅威ですね。
私が一撃を加える間に、相手は二撃加えることが出来るということです。
今の剣道家では、真剣で戦えば足元にも及ばないでしょう。

もし、木刀を扱い、ルールを小手・面・胴に対する有効打突のポイントを競うものであれば、
あえて互角であろうといっておきましょう。
木刀を扱うことが剣豪も出来るでしょうが、小手・面・胴に対する打突の習熟度は剣道家(もちろん日本トップのですが)のほうが上です。
剣道家の打つと、剣豪の斬るとは、やはり違うものと考えざるを得ません。
剣豪の斬るというは理解できると思いますが、
剣道の打つとは、最小限の動きで、もし真剣ならば、相手に致命傷を与えられるということです。
面ならば、頭蓋骨を三寸だけ斬る。小手ならば手首を半分だけ落とす。
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本当の最小限の動きを鍛錬しているので、剣道家に分があると思います。
(まあ、相手の親指や小指を切ることで相手を制した剣豪もいるそうで、一概には言えませんけど)

が、剣道とは本当に心の戦いでもあります。
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その心の戦いは、やはり昔の剣豪に一日の長があるように思います。
これは絶対に他人には分からないことですし、比較のしようがありませんが、
命をかけての戦いをくぐってきた剣豪が強いと思います。

ということで、あえて互角としておきます。
居合いはすこし形式色が強いので、比較の対象とならないでしょう。

ルールによりますよね。
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Q歴代の剣聖って誰ですか

上泉信綱、柳生石舟斎、宮本武蔵
上記3名しか分かりません。
足利義輝や伊藤一刀斎、千葉周作も剣聖と呼ばれたんでしょうか?
同時代に複数の剣聖がいたりはしなかったのでしょうか?
剣聖と呼ばれるにいたる経緯(仕組み)なんかも教えて頂けたらと思います。
詳しい方、ご解答お願いいたします。

Aベストアンサー

剣聖というと、大概は流派の創始者のことを
敬っていう言葉です。
将棋とは違うので別に認定基準があるわけではありません。

日本の剣術、もとい兵法は、
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上泉信綱とその高弟の丸目蔵人、柳生宗厳は特に有名で、
後者二人は、タイ捨流と新陰流という日本の二大流派を築きました。
だから主流派の祖として上泉信綱はかなりの地位を持ちます。

しかし一般的には誰でも尊敬に値する剣術の開祖なら
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Q戦国時代のおける大名の妻のなかで、一番の妻は誰だと思いますか?

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もし、この女性が戦国武将になったらすごかったと思う人は誰ですか?
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Q織田信長の性格 考え方

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 まあ人生訓的水先人の師的にもこの人物を深く知りたいと思っています。大雑把なことはなんとなく評判だった行動(実父の死の墓前での行動、坊さんへの討伐等でわかりますが)で推測がつきますが、それ以上つっこんだ記事を見たことがありません。
 ぜひ、思われていることがあればご意見をお聞かせください。
 また、くわしい文献も知りたいです。
志半ばで倒れたので文献的には書かれたのが少ないのかもしれませんけど。

Aベストアンサー

いまだに桶狭間の戦いを梁田出羽守の情報による奇襲と信じている向きが多いようですが、この説は今では信憑性が低いです。当時信長の家臣であった太田牛一の著書である信長公記には、奇襲と読み取れる文言はありません。寧ろ正面攻撃をかけたと読み取れる内容で、正面の今川軍を鷲津、丸根両砦を攻略した後の労兵と誤認して(実際は新手)攻撃をかけたようです。
長篠合戦における鉄砲三段撃ちも江戸時代の創作であり、実際の主な勝因は酒井忠次の別働対が長篠城の救援に成功した為、腹背を敵に圧迫された武田軍が厳重に野戦築城された織田、徳川連合軍を正面突破せざるを得ない状況に追い込まれたからです。織田、徳川連合軍は第三次川中島の戦いに於いて武田軍の採用した啄木鳥戦法と同じ方法をもっと堅実にやったとも言えるでしょう。
このように、信長と雖も情勢を読み違えることもありましたし、軍事的には割合常識的な作戦行動を取る事が多いです。さらに、美濃攻めや長島一向一揆相手の戦闘で何度も敗北している事を考えると、兵農分離が精兵を養うのに有効だったかも疑問です。実際に、当時の人口構成では農兵の方が精強だったと主張する論者も存在します。信長の行った合戦で勝ちが多くなったのは、上洛以降圧倒的大軍を動員出来るようになってからです。このように見ますと、安易に信長を軍事の天才と称えるのは早計かと思います。
人材を抜擢して競争させる人事方針も、組織の膨張期には威力を発揮しますが、安定期に入ってからは害になる事もあります。どこかで方針転換が計られなければ、永久に膨張を続けるしかありません(ナチドイツと似た構造)。この点をどうするつもりだったのかは、信長勢力が安定期に入る前に信長が死にましたので、何とも言えません。
最後に参考になりそうな書物としまして、藤本正行氏著、信長の戦争-信長公記に見る戦国軍事学 をお勧めいたします。

いまだに桶狭間の戦いを梁田出羽守の情報による奇襲と信じている向きが多いようですが、この説は今では信憑性が低いです。当時信長の家臣であった太田牛一の著書である信長公記には、奇襲と読み取れる文言はありません。寧ろ正面攻撃をかけたと読み取れる内容で、正面の今川軍を鷲津、丸根両砦を攻略した後の労兵と誤認して(実際は新手)攻撃をかけたようです。
長篠合戦における鉄砲三段撃ちも江戸時代の創作であり、実際の主な勝因は酒井忠次の別働対が長篠城の救援に成功した為、腹背を敵に圧迫された武田軍...続きを読む

Q時代劇に登場する大嘘を教えて下さい

時代劇が好きでよく見るのですが、中には素人が考えても 「こんな時代に、それはないだろう」 と感じるシーンも多いです。

まず 「暴れん坊将軍」 のタイトルシーンに江戸城の天守閣が背景として映りますが、吉宗の時代には天守閣は大火で焼失していたはずなので、これは嘘だと思います。

それとか既婚女性のお歯黒ですね。 本当は真っ黒だったはずです。

遠山の金さんなんて、町奉行が桜吹雪の刺青をして遊び人として町に入っていたなんて、実際にはとても思えませんね。 ま、これはフィクションですから大嘘と言うのはかわいそうかも知れませんが ・・

あと、このカテでも西部劇で主人公が馬に乗って荒原を旅するシーンがありますが、実際には馬1頭で旅する事なんてあり得ず、予備の馬を必ず連れて行ったはずと聞きました。

時代や洋の東西を問わないで結構ですので、時代劇の登場する大嘘について教えて頂けないでしょうか?

Aベストアンサー

また失礼します。m(__)m。鉄漿(おはぐろ:お歯黒)一考。

元々、お歯黒は虫歯対策でした。
今は歯医者でエアートームという「うぃ~ん」って音がする忌み嫌われてる機械の出現で虫歯で死ぬ人はいませんが、あの機械が出現するまで、虫歯は命に関わる病気でした。
虫歯を放置すると歯の根元で化膿し、そこから虫歯菌が血液に進入、全身の血液が化膿してしまう敗血症という恐ろしい病気で死亡します。
今でも敗血症は起こってしまえば即命に関わる恐ろしい病気です。

虫歯になったら、麻酔やエアトームのなかった頃はまだ歯がペンチなどで掴める状態の時に力づくで引き抜く以外に治療法が無かったのです。

このために、虫歯を予防する方法として、お歯黒が開発されました。
女性は妊娠により赤ちゃんにカルシウムを取られて虫歯になりやすいので既婚女性に真っ先に普及したわけです。
また優雅な生活をしていた公家なども、甘いものを一杯食べられるので虫歯になりやすく、お歯黒が普及し、それぞれ既婚女性の、あるいは公家のステータスシンボルみたくなりました。

これが映画で見られなくなったのは、戦後、テレビで時代劇が放映され始めた初期です。
歯磨きが普及し、お歯黒を知らない世代が増えた影響でしょうか「歯が黒いと気持ち悪い」という抗議が殺到したのだそうです。
それで「明らかに間違えなのだけど」お歯黒を入れるのを止めたそうです。

また失礼します。m(__)m。鉄漿(おはぐろ:お歯黒)一考。

元々、お歯黒は虫歯対策でした。
今は歯医者でエアートームという「うぃ~ん」って音がする忌み嫌われてる機械の出現で虫歯で死ぬ人はいませんが、あの機械が出現するまで、虫歯は命に関わる病気でした。
虫歯を放置すると歯の根元で化膿し、そこから虫歯菌が血液に進入、全身の血液が化膿してしまう敗血症という恐ろしい病気で死亡します。
今でも敗血症は起こってしまえば即命に関わる恐ろしい病気です。

虫歯になったら、麻酔やエアトームの...続きを読む

Q戦国武将の性格、意外な一面、暖かい話しなど

タイトルの通りですが、人格、意外な一面、暖かい話を知ってる方何が教えて下さい!最近一気に小説など読んだのですが、裏切りや残酷なことが多く少しぐったりしています…
よろしくお願いします!

Aベストアンサー

 信長のはなしをひとつ 将軍義昭を奉じて 上洛し 諸事万端の段取りを済まして 岐阜に帰還 ところが それを見越して また
そぞろ 三好の一党が京周辺で動き始め 不穏な情勢に 義昭は不安になって 岐阜の信長に来援を要請しました 雪の積もる季節でしたが
ものともせず 急ぎ急行の指令を城下にだしました
そのときの顛末が信長公記にあります
荷の運搬に対して 信長は信玄や謙信のような 伝馬制度は採らず 馬借でした 城下で営業を許可しておりまして 通常は一般の請負ですが
いざというときは 独占貸切になり どこの誰が何をどれぐらいのものを積むかは すでに決めてありまして ほら貝とともに 短時間で出発できるようになっていました が そのときは何がたりなかったのか
少々混乱しまして (既定の人数にたりなかったようです)いつもより
たくさん積もうと(積めば積むほど金になる)荷持の取り合いがどうもあったみたていで 混乱したんです
信長は じきじきに 出て行って こういったそうです
京は 急いでいかなければならないので けんかするな
濃がいちいち見て採決してやるから さわぐな と
いちいち点検して これでよし  いくぞといって 出発したそうです
今で言うところの宅配便です
信長は もちろん京に間に合い 蹴散らしたそうです
馬借の人夫らと雪のちらつく中 馬の背に荷持を担ぎ上げたりしていたわけです
この距離感が信長なんでしょうね
支配するものと支配されるものの間の中間を排除しょうとした
行動の一端がかいまみれる思いです
  

 信長のはなしをひとつ 将軍義昭を奉じて 上洛し 諸事万端の段取りを済まして 岐阜に帰還 ところが それを見越して また
そぞろ 三好の一党が京周辺で動き始め 不穏な情勢に 義昭は不安になって 岐阜の信長に来援を要請しました 雪の積もる季節でしたが
ものともせず 急ぎ急行の指令を城下にだしました
そのときの顛末が信長公記にあります
荷の運搬に対して 信長は信玄や謙信のような 伝馬制度は採らず 馬借でした 城下で営業を許可しておりまして 通常は一般の請負ですが
いざというと...続きを読む

Q世界ボクシング各階級の歴代最強は誰だと思いますか?

題名のとおりです。世界のボクシングの長い歴史の中で、各階級において歴代最強の選手は誰だと思いますか?

単純に防衛記録の面だけでなく、対戦相手の質やファイティング・スタイルなども考慮して、考えてみてください。

質問の性質上、独断と偏見になるのは当たり前なので、自由に考えてください。

できればスーパー(ジュニア)階級も含めて考えてください。また、全階級思いつかなくても、一部の階級だけの回答でもOKです。

Aベストアンサー

ボクシング好きです

全ての階級ではありませんが

●ヘビー級

「アイアン」マイク・タイソン

●ミドル級

「マーベラス」マービン・ハグラー

●ウエルター級

「パウンド・フォー・パウンド」フロイド・メイウェザー・ジュニア

●フェザー級

「悪魔王子」ナジーム・ハメド

●バンタム級

「デスマスク」ウィラポン・ナコンルアンプロモーション

●ライトフライ級

「カンムリワシ」具志堅用高

●ミニマム級

「エル・フィニート」リカルド・ロペス・ナバ


こんな感じですね。個人的には。

Q歴史上の最強の忍者

比較する方法によるとか、その時代の武器は弱かったとかそう言うのは別にして、最強と呼ばれるにふさわしい忍者って誰でしょう?

Aベストアンサー

#5です
いきなり自説を否定するようですが

柳生十兵衛が忍者だったという説があります。
●大和柳生の庄は伊賀甲賀に近く親交があったと思われること
●十兵衛の父、但馬守宗矩が幕府惣目付(大目付)の地位にあり、弟子の柳生剣士を大藩の剣術指南役に推挙してたのも、弟子を間諜(忍者)に使っていたとも考えられる点
●柳生十兵衛はその生涯に全く記録に残っていない次期があり、その間の同行が完全に不明な点
●十兵衛は世間一般には隻眼と流布されているが本当は両目ともあったことが情報操作や変装を匂わせること
●十兵衛は鷹狩の途中で変死しており、それを幕府が検死していること(大名や高級旗本の子弟の死に対して幕府が改めるのは異例中の異例)

これはあくまで「仮説」にしか過ぎませんが、時代小説などでは「柳生忍軍」「裏柳生」の存在は定番ですよね。
そして、もし彼が忍者であるなら、「柳生石舟斎の生まれ変わり」とも「梟雄」とも呼ばれた剣の天才十兵衛でしたら「最強の忍者」の称号を得ても不思議ではありませんよね

Q戦国時代の猛将・勇将

見てくださった方ありがとうございますm(_ _)m

僕は日本史(戦国時代だけですが^_^;)が好きで戦国武将達の評価を記した本や小説などをいくつか読んだりしてます。

それらを読んだりしていると「猛将・勇将」などの言葉が出てきます。例えば、加藤清正、福島正則、本多忠勝、柴田勝家などです。僕のイメージですが、そういう方々は戦場で槍を振い敵の首をスパスパ取っていくような武将って感じなのですが、いろんな本を読んだりしていると、身分が高い武将は自ら戦うことは稀、と書いてありました。

さらに「強い武将といわれるのはその人自身が強いのではなく、手勢の兵が強かったり、用兵が巧みだったりする」のようなことが書いてありました。
ではその時代、猛将・勇将の基準は何なのでしょうか?
黒田孝高のように武勇に秀でていない(それは分かりませんが)が、用兵や戦術が巧みな武将は猛将・勇将とは言われないのでしょうか?

どうでもいいような質問ですみません(>_<)
また、下手な文章で読みにくいかもしれませんがお許しください。

どなたかご回答お願いします!

見てくださった方ありがとうございますm(_ _)m

僕は日本史(戦国時代だけですが^_^;)が好きで戦国武将達の評価を記した本や小説などをいくつか読んだりしてます。

それらを読んだりしていると「猛将・勇将」などの言葉が出てきます。例えば、加藤清正、福島正則、本多忠勝、柴田勝家などです。僕のイメージですが、そういう方々は戦場で槍を振い敵の首をスパスパ取っていくような武将って感じなのですが、いろんな本を読んだりしていると、身分が高い武将は自ら戦うことは稀、と書いてありました。

さら...続きを読む

Aベストアンサー

近頃は有名な武将や姫自らが武器をとって戦うような、3Dアクションゲームが
人気を博している時代ですからね。戦国武将の小説も、根っこの部分は
これらのゲームと同じです。
それに、時代を遡れば遡るほど、いわゆる職業軍人的な武将は少なくなり、戦が始まりそうな
気配になったら、自分の領地にいる農民やら氏族やらを徴集して、兵士や小隊長として使います。
彼らはお偉いさんに命令されて集められただけの一般庶民ですから、戦い方などの
知識は素人以下です。
つまり、戦術や戦略に詳しいリーダーたる武将は、彼らを上手く鼓舞し士気を上げながら、
後ろに立って、陣形の組み方、攻め際、引き際などを指示し、集団を動かす
要となる役割があるのです。それこそ前線に出て戦ったりなどし、討ち取られでもしたら、
その時点でアウト。城から財産から領地から領民まで、根こそぎ敵方へ奪われてしまいます。
小説などの物語は、いわゆる娯楽用のフィクションです。読者の気持ちを盛り上げる為には、
史実に沿うより、勇ましい描写や格好良いイメージを大事にした方がウケも良く、読者も
気持ち良く物語を読めます。
夢をぶち壊してしまったかもしれませんが、今後は、史実は史実、物語は物語と
割りきった上で、改めて歴史小説を楽しんでみてはいかがでしょう?

近頃は有名な武将や姫自らが武器をとって戦うような、3Dアクションゲームが
人気を博している時代ですからね。戦国武将の小説も、根っこの部分は
これらのゲームと同じです。
それに、時代を遡れば遡るほど、いわゆる職業軍人的な武将は少なくなり、戦が始まりそうな
気配になったら、自分の領地にいる農民やら氏族やらを徴集して、兵士や小隊長として使います。
彼らはお偉いさんに命令されて集められただけの一般庶民ですから、戦い方などの
知識は素人以下です。
つまり、戦術や戦略に詳しいリーダーたる武将...続きを読む


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