実際戦ってないので分かりませんが、皆さんが思う最強の剣豪はだれですか?時代は刀を使っていた時代なら誰でも良いです。多くの回答お待ちしております。

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A 回答 (16件中1~10件)

♯12です。

思ったより武蔵は人気がありませんね(泣)。

そこで、「私説」武蔵最強論を2点補足します。第一は、武蔵の体格、第二はそれに伴う膂力の問題です。

武蔵の身長は、六尺あまり(180センチ超)と伝えられているようです。これが事実だとすれば、当時の日本人の平均身長(160センチ内外か)からすると十分大男の部類に入りますよね。

記録は確認しておりませんが、それを推測させるものが武蔵の肖像画(立像)です。武蔵の愛刀の一つ(藤原兼重)は、刃長二尺七寸と伝えられておりますので、肖像画における刀が兼重だとして、その長さから武蔵の身長を推し量ると、やはり180センチを優に超えるものであったであろうと推測されます。

身体が大きいのですから、当時の平均男子の膂力を上回るものであったことは容易に想像できます。(片手で青竹を握りつぶしたとも言われているようですが、これはとても信じられません)

しかし、普通に力が強いくらいでは、とうてい二刀(片手一刀)を自在に振り回すことはできません。真剣を持ってみると分かるのですが、普通の長さ(二尺三寸程度)のものでもかなり重いものです(約1.5キロ)。まして、二尺七寸というと、これは相当重いものでしょう。

1.5キロというと軽いように思われるかもしれませんが、これの約半分の重さの竹刀を振り回してみるとその重さを実感できます。竹刀ですら、片手ではなかなか十分な打ち込みができないものです。

佐々木小次郎や塚原卜伝の愛刀は、三尺を超える太刀であったと伝えられておりますが、これは両手で一刀を持つ場合。武蔵は、二刀流をとなえ、片手で一刀を操ることを真髄としていますから、これは比較にはなりません。

事実、兼重は、柄が短く、かつ鍔も軽量化を図ったもの(これらを称して「武蔵拵え」という)で、おそらく片手斬りを想定した刀です。片手斬りは、両手に比較して射程において有利だとされますが、相当の膂力を必要とします。

武蔵の場合は、単なる片手斬りではなく、右手に普通より重い長刀、左手に短刀を携え、これら二刀を自在に操って斬り合うことを想定しているのですから、これはもう想像外の膂力がなければ実現できない刀法と思われます。

「観・見」の両目付け(五輪書)によって、彼我の間合いを見切ったうえで、腰高の構えから片手斬りに打ち込んだ伸びのある一撃をよく避けうる敵は存在しなかったと想像するところです。

奇しくも、二刀流に対する一刀流は、日本人の体格および膂力に合った通常の剣法であり、故に、広く一般に流布し、やがて現代剣道を生み出す母体となったのでは、と愚考しております。

以上をまとめると、武蔵の二刀流は、「異常」の剣法と言っても過言ではなく、そうであるが故に、武蔵は孤高であり、最強なのだと固く信じる所以です。
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足利義輝を挙げます。

御存知の通り、室町幕府の13代将軍です。
上泉信綱に教えを受け、塚原朴伝に奥義の伝授を受け、自らの最期は数え切れない程の足軽を切り殺したそうですから、1対1の勝負を専門としている方とは評価の仕方も違ってきます。
刀を何本も地面に突き刺し、近寄る足軽どもを切りまくり、刃がこぼれれば地面から刀を抜き、バッサバッサと切りまくる。
こんな人、他にいたのでしょうか。実際に武蔵と戦ったらどうなのかとかはわかりませんが、死に臨んでの武者振りは古今類を見ない豪傑だと思います。
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辻月丹だと思います。


ご存知だとは思いますが、月丹は無外流創始者です。
その剣のエピソードに、月旦が薪割りをしているところに試合を求めてやってきた男があまりにもしつこいので、薪で「これが無外流だ」と相手の頭を殴りつけたというものがあり、特に戦法にこだわっていないのです。
また、山に籠もったあと道場を開いたら、月丹のあまりにも凄絶な剣技のせいで、入門者が誰一人としていなかったとか…。
こういう史話を持つ剣士は珍しいのではないでしょうか?

それとあえてつけ加えさせていただくと、武芸百般を誇る黒河内伝五郎を押します。
この人物を知ったとき、もはや人間業ではないと思いました。こうした名剣士に実戦記録がないのは非常に残念ですね。
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山岡鉄舟(てっしゅう)です^^


静舟(せいしゅう)という人も強かったそうですが、毎日何万と素振りの稽古をして、そのせいなのか早世してしまったとか。
鉄舟は去年の大河「新撰組!」にもちょこっと出ていましたよ。
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この回答へのお礼

初めて聞いた名前です。お恥ずかしい(^_^;)早速調べてみたいと思います。回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/25 12:58

宮本武蔵だと思います。



60回以上の真剣勝負を勝ち残るというのは只者じゃあないですよ。塚原ト伝を除けば、一対一の真剣勝負では最高の実績でしょう。

剣技という点では、活人剣(ボクシングのカウンターのようなもの)や殺人刀(先制のワンツーパンチのようなもの)を発明した新陰流一門(上泉→石舟斎→兵庫)も捨てがたい。

現代剣道にも繋がる一刀流の系譜(伊藤一刀斎→小野忠明)もなかなかのもの。面打ち落とし面のようなワザが流祖の時代から存在したとしたら、真剣勝負において恐るべき威力を発揮したでしょう。

しかしながら、五輪書や残された肖像画から推察すると、武蔵は戦国末期の人であるにもかかわらず、すでに「腰高の構え」を発明しているのです。

当時、実戦といえば合戦場。したがって、どの流派も鎧兜を着けての実戦を想定しており、したがって、腰を落とした低い構えからの斬り付けワザが主流でした。そんななか、武蔵が、一人、腰高の構えをとり入れ、実戦(この場合、合戦ではなく一対一の真剣勝負の場)に臨んだとすれば、生涯60回を越える真剣勝負において、ことごとく勝ちをおさめたというのも納得です。(腰高の構えは、腰を落とした構えに対して非常に有利で、現代剣道はみなこれです)。

ただし、伝書からすると、同時期、柳生兵庫も「つったったる構え」として武蔵と同じく腰高の構えをに発明しております。これが偶然なのか、それとも二人が遭遇した結果であるのかは分かりませんが、この点において、武蔵と兵庫は同格です。しかし、兵庫には武蔵に匹敵する実績がない。ゆえに武蔵に軍配を上げるところです。

武蔵と兵庫以後、各流派はおおむね腰高の構えとなり(もちろんそうでない流派も存在)、一刀流も同様です、したがって、その流れを汲む北辰一刀流の千葉周作も腰高であり、その点、武蔵と同格です。しかし、兵庫と同様、真剣勝負の実績において(もちろん千葉は道場試合においては格別の実績を残しておりますが、これは考慮外です)武蔵に及びません。

以上をまとめると、武蔵以前の剣豪には腰高の構えをもって武蔵の勝ち。武蔵以後の剣豪には、実績をもって武蔵の勝ちと致したいところです。

なお、実績において、塚原ト伝は、武蔵を凌駕しているのですが、これは腰の低い剣法同士の話。仮に、彼の極意とする「一つの太刀」の正体が津本陽氏の言うように、「右足を出した構えから左足を前に出しながら斬り付ける刀法」だとすれば、これは武蔵とて危ないかもしれません。間合いが読めないからです。したがって、実のところ、ト伝はダークホース的存在です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!宮本武蔵・・やはり出てきましたね。最強とは難しい称号ですね

お礼日時:2005/03/24 14:09

海音寺潮五郎氏の「実説武侠伝」文春文庫から出ています。

(いました。?)そこに、武蔵、上泉伊勢守、柳生宗厳、丸目蔵人、森の石松、等が、載っています。また、薩摩の示源流については、講談社文庫の「史伝と史論」収録されていました。残念ながら、絶版のようですが、文春文庫で、別の書名で編集を替えて、出版されていたと思います。もし、まだお読みでないようでしたら、是非お読み頂きたく。
お読みになった時の感動が薄れてはいけませんので、詳しくは申し上げませんが、剣術で生計をたてている人は、仕合に、(試合つまり、負ければこの次があるのではなく、文字どおり真剣勝負ですからその身は死ぬか、死ななくても、その流派消えてしまいます。)勝てると見極めがつかない限り、決してしないのです。佐々木小次郎の編み出した巌流は、武蔵と仕合をするまでは、西日本であれほど学ぶ人が多かったのですが、小次郎が死んだ後、その流儀そのものが消えてしまい、どんな流儀だったか分からなくなってしまっています。それほどのものですから、勝てるときは、その宣伝効果考えて行います。派手な衣装を着て、その地方で有名な人と仕合をし、いかにその流儀が優れているかを、身を持って実証するのです。
それを考えると、上泉信綱は、仕合に彼が考案した竹刀を用いて、たちあっています。もちろん相手は真剣です。恐るべき技量じゃないでしょうか?

話は、変わりますが、もし、歴史に興味があられるのなら、是非海音寺氏の史伝をお読み頂きたく存じます。読んで面白く、為になります。まずは、武将列伝、悪人列伝から。頓首謹言
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この回答へのお礼

上泉様・・・二票!千葉周作と並びました。この二人でもし、試合したら・・・歴史はおもしろい(*^_^*)
回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/22 14:33

上泉伊勢守信綱に一票。


やはり石州斎の師匠ですから。
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この回答へのお礼

この人も強い!!しかし、皆さんが思う剣豪とはやはりいろいろですね。

お礼日時:2005/03/22 14:27

上泉伊勢守信綱!


彼抜きには剣の歴史は語ることはできません。
1対1の試合のみならず、箕輪城の戦いにおいても武田信玄がどうしても配下に加えたいというほどの働きを見せてますし。
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この回答へのお礼

戦国時代の豪傑ですか・・・。前田慶次などの名は以外と出てこないのですね。

お礼日時:2005/03/18 15:52

ご参考までに申し上げます。



私も、千葉周作、東郷重位は剣豪の名に恥じない技量を持った武芸者と聞いております。
聞いたところでは、千葉周作は酒席の余興に五寸五分(16cmくらい)の厚さの碁盤を片手でつかみ、うちわのようにあおいでろうそくの火を消して見せたと言います。
東郷重位は、友人との剣術談義で激高し、持っていた刀で碁盤(やはり、五寸五分の厚さがあったと言われています。)をまっぷたつにしただけでなく、畳、床板を切り貫き、床下の梁の途中で刀が止まったと言い伝えられています。(つまり、碁盤だけでなく、床板まで切ったと言うことです。)
ご存知のように、真剣は結構重いものです。これを自由自在に振り回すにはそれなりの膂力が必要です。本当の剣豪は、千葉や東郷のような無双大力の士の中から現れるものと愚考します。
宮本武蔵を剣豪とするなら、武蔵と同様決闘で一度も負けたことがないと豪語する塚原ト伝も十分剣豪の資格があります。「まず左腕、次に首を切って進ぜる。」と予告してその通りに相手を斬ることができた薙刀の名人を、塚原は一刀のもとに切り捨てたというエピソードがあります。
徳川家の剣術指南役になった小野忠明(小野派一刀流の始祖)は、あの柳生但馬守宗矩に剣の腕を認められて指南役に推挙されたと言われています。小野は陶器のかめの中に隠れている敵をかめごと一刀両断にした腕の持ち主でしたが、師匠に当たる伊東一刀斎には全く歯が立たなかったと言われています。(伊東一刀斎はそれほど強かったらしいです。)
戦国時代の剣豪と言われている人たちは自己PRが上手な人が多いです。これに加えて後の世の講談師や小説家の手にかかればそれが誇張されてしまいます。鍵屋の辻の32人切りで有名な荒木又右衛門は実際には二人しか斬っていません。宮本武蔵が戦った相手としてあがっている人たちは、出自不明の人物だったり、剣術家としての実績が記録に残っていない人たちだったりします。真の最強の剣豪なら、有名な流派(一刀流や新陰流やタイ捨流など)の免許免状持ちを倒してなんぼというのが私の意見です。
異論は多々あるでしょうが、私は少なくとも宮本武蔵が(十分剣豪ではありますが)最強の剣豪ではないと考えます。

とり散らかった話になりましたが、ご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

いろいろありがとうございました<(_ _)>でました!私は伊東一刀斎が好きなんですよね!!この後の皆さんの回答が楽しみです。

お礼日時:2005/03/18 15:50

私も2番の方同様に「千葉周作」に一票。


ご承知のように彼以前の剣豪は剣を精神論でオブラートし、無の境地とか凡人では判らない理論で教えました。
千葉周作は剣の極意を「それ剣は俊息、心気力一致」とし、相手を広い視野で捕らえ気力が充実したときに一瞬で打つ、というもので、その体系だった理論は現在にも通じるものがあります。
また現実強く、高柳又四郎などの剣豪にも勝っているとか。
個人的には現在連載中の「子連れ狼」で拝大五郎の父親代わりでお馴染みの、示現流の東郷重位も好きです。
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この回答へのお礼

おお!!千葉さん二票です!!やはり千葉さんかな
(>_<)

お礼日時:2005/03/18 15:45

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Q最強の剣豪

時代は明治まで、特にこだわりません。

●最強の剣の達人(その他の武器)は、誰ですか?

上位3人ぐらいで、お願いします。

できれば簡単なエピソードも添えてもらえれば、うれしいです。

まったくの素人ですが、出来るだけお礼させて頂きます。

Aベストアンサー

宮本武蔵

剣豪では無く策士だったという説も広く知られていますが代名詞と言うべき二刀流を実戦で使った記録が残って無いんですよね。
考え方によっては最終兵器である二刀流を使わなければいけないところまでは追い詰められたことが無いとも考えられるので。

坂本龍馬

御前試合での成績もありますが幕末に一番刺客を送られたと言える方で何度も相手を殺すこともなく切り抜けていたようです。
新撰組と直接衝突した記録もあるのでそこで生きていただけでも凄いのでは。
暗殺はされたものの闇討ちに近い奇襲で相手は室内用に短刀を使っていたと言う説も龍馬自信が患っていたという記録もあるので剣豪の名を落とす最期ではなかったと思っています。

武蔵坊弁慶

三人目は迷ったのですが諸説、反発、色々あるのを知っている上で好きな弁慶にしました。
白兵戦では最強の武将と呼ばれる義経から「日の本に弁慶以上の剛の物無し」と言わしめた説を信じて(好んで)いますので。

凡庸な回答となりましたが専門家では無く、あくまで素人の一回答ということで。

Q戦国時代の戦は実際に互いの軍の兵士や武将たちがワーワー叫びながらだだっ

戦国時代の戦は実際に互いの軍の兵士や武将たちがワーワー叫びながらだだっ広いようなところで敵味方混ざりながら戦っていたんですか?
戦国時代がかかれた映画とかゲームとか見るとそんな感じでかかれていますが

Aベストアンサー

何とも言えませんが・・・そうですね、自然に考えれば戦闘の際は現在の科学戦法と違い、真っ向勝負が基本だった事が「何々合戦図屏風」なんかを見れば、分かります。敵味方入り乱れて背中に自分の軍である幟を背負い目印にし、ワーワーやっていたんだろうという事は想像に難くありません。大声を上げるのは「自分を鼓舞」するのと「相手を威圧」する効果があるので、「おりゃ~」「きさま~」「死ね~」「お前らの負けじゃ~」とか言いながら戦闘してたんでは無いですかねぇ。それが入り混じれば、ワーワーとしか聴こえないので、12noname34さんが疑問に思っている事は正しいと思いますよ。

Q新撰組で最強なのは?

新撰組最強と言われた天才剣士・沖田総司ですが、
本当に、強かったのでしょうか?

早い時期から、師匠である近藤や土方を、はるかに凌ぐ剣術の腕前・・と、されていますが、
近藤、土方は、目立って剣術が強かったわけでは、ありませんよね?
隊内の試合や、稽古で最強だったのでしょうか?
実際の斬り合いで、活躍が目立ったのでしょうか?

そもそも、剣客集団新撰組は、奇襲・待ち伏せ・多勢に無勢、敵を倒すためなら、なんでもあり集団だったとか。
(本当に、剣豪の集まりだったのか?)

個人の憶測でしかないですけれど、真の新撰組最強は、誰だったのでしょう?
また、沖田総司が、現在の全日本選手権に出た場合、優勝できるでしょうか?(笑)

Aベストアンサー

夢を壊すようで申し訳ありません
我々が知っている新撰組のほとんどは明治の時代に子母沢寛が想像で書いた小説から広げられた物です
現代の新撰組関連の小説や話は全てこの人の作品から広がったと言っても過言ではありません

近藤勇は稽古では弱かったようです、道場破りのような事があると助っ人を頼んでいたようですよ
沖田総司も早死にした為に話を大きく膨らまされたのでしょう
それだけあの時代ではこの人たち個人を知るような人が少なかったのでいくらでも膨らませられたという事です

剣道と真剣術は全く違うのでもし沖田総司が剣術最強なら剣道の世界で優勝するのは難しいのではないでしょうか?
剣道の大会で刀を振り下ろしたり振り切るところなんて見た事無いですよね
また刀で面、面、面、なんてできる訳がありません

よって練習方法も変わってくるので剣道の大会でどうこうと言うのはナンセンスだと思います

『小さな親切大きなお世話、アナタの悩みママンが解決致します』

Q江戸時代 刀術の流派について教えて下さい

江戸時代、幕末までに刀術の流派で「志賀東成流」という流派がありましたでしょうか? ある小説に出て来たのですが、作者の創作でしょうか? どなたか教えていただけませんか。

Aベストアンサー

daisimae-502 さん、こんばんわ。


どうも見当たりません。おそらく創作ではないかと思います。

詳細は下記のURLを参照ください。

日本の武術流派
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%B1%85%E5%90%88

日本の剣術流派
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%89%A3%E8%A1%93%E6%B5%81%E6%B4%BE

Q●剣豪3についての質問●

宝蔵院インシュンが倒せません。槍のリーが長くてどうにもなりません。どうしたらいいでしょうか?コツを教えてください。あと、真剣勝負でインシュンに勝ったら槍が使えるようになったりするんでしょうか?型を貰えたりするんでしょうか?

あと、もう一つ質問があります。最強の剣豪編をがんばってますが、吉岡道場がなくなってしまいました。攻略サイトではそこで伝七郎に会わなくちゃいけないのに会えません。あと、江戸に東海寺がありません。だから沢庵にも会えません。

たくさん質問をして申し訳ありません。どなたかお教えください(--)

Aベストアンサー

う~ん、だいぶ前のゲームなのでうろ覚えですが
間違っていたらすみません

槍の型はないので使えるようにはなりません、鎖鎌も同様です
ですが対戦モードでキャラが使えるようになります
沖田の型があるならば開始そうそう○ボタン連打で勝てます
突きではなく横切りのほうです
運の問題ですが・・・、リセットをかさねれば

伝七郎は道場がつぶれるのはそれでよいです
上野だが北のほうにいったら会えたと思います
武蔵に復讐しようとしてるってヤツですね
シナリオレベルがあがるとダメなのでそれは攻略サイトを参照してください

東海寺も同じく武蔵の噂をきかないとでてきません
いろいろ町を転々してたら武蔵の話をきける思います

最強の剣豪編はややこしくて僕も何度も挫折しました
一回間違うと取り返しもつきません
いろいろなシナリオクリアして最後に剣豪皆殺してやるというモードなので
どいつとどこで会うかを確認するためには
サブシナリオをいろいろやったほうがわかりやすいと思います。

Q「火牛の計」を使ったのは中国の戦いですか?誰と誰の何時代でしょうか?

平家物語で、昔中国で戦法として行われたのを真似て、
木曽軍が「火牛の計」を使ったシーンがありましたが、
それは中国のいつの時代の戦いですか?
誰が牛の角にたいまつをつけて走らせる攻撃法を
思いついたんですか?
そして、結果成功したのですか?
教えてください。

Aベストアンサー

平家物語で「火牛の計」が使われたとされる「倶利伽羅峠の戦い」ですが、実際に牛の角に松明を括り付けて実験をしてみると牛は頭の上の炎におびえて動こうとせず、また当時の周辺地域で数百頭の牛を集めるのも困難で、実行不可能と結論されています。
後世の創作と見てほど間違いありません。

Q失礼します。剣豪や剣聖といった位は誰が決めるんですか?

失礼します。剣豪や剣聖といった位は誰が決めるんですか?
また、剣豪や剣聖や剣客以外に位はありますか?

Aベストアンサー

剣聖や剣豪については、前のかたがたがおっしゃるとおりです。

剣の位については、各流派で位や位のようなものはありました。一子相伝でない限り、流派も商売として成立して以降は弟子の募集が大事です。

例えば、目録や免許皆伝なんかですね。あとは、秘伝や奥義といったものです。

まあ、武蔵や上泉のように開祖は自分が最初ですから自分が認めるしかないわけです。

Q原始時代から平安時代までと 奈良時代から室町時代までの 間にそれぞれ何がありますか?

原始時代から平安時代までと
奈良時代から室町時代までの
間にそれぞれ何がありますか?

Aベストアンサー

原始時代から平安時代までには「(古墳時代と飛鳥時代と)奈良時代」
奈良時代から室町時代までには「平安時代(と鎌倉時代)」がありますけど、試験範囲でしょう?
多分「そう言う話じゃない」はずで、事象は多岐に及ぶので、教科書や年表・資料をもう一度読み返しましょう。
としか言い様がないです。

Q昔の剣豪が現代によみがえったら、誰もかなわない?

居合道や、剣道の経験のない者です。
バガボンドなどの漫画で、宮本武蔵、上泉伊勢守、伊藤一刀斎などの、超人的な剣の達人を知りました。

まぁ、漫画や伝記などは多かれ少なかれ誇張されたりしているのでしょうが、彼ら(上記にあげた剣豪)がもし現代に甦り、現代の剣道家、居合家たちと、真剣なり木刀なりでやりあったら、どちらが勝つでしょう?
また、もし昔の剣豪たちが勝つとしたら、彼らのどんな部分が優れているというのでしょうか?

Aベストアンサー

ルールによりますよね。
真剣はかなり重い。
同じくらいの重さの木刀を振っていましたが、それを自在に扱うというよりトレーニングといった感じになります。
剣豪がそれを自在に操り戦っていたとなると、それこそ脅威ですね。
私が一撃を加える間に、相手は二撃加えることが出来るということです。
今の剣道家では、真剣で戦えば足元にも及ばないでしょう。

もし、木刀を扱い、ルールを小手・面・胴に対する有効打突のポイントを競うものであれば、
あえて互角であろうといっておきましょう。
木刀を扱うことが剣豪も出来るでしょうが、小手・面・胴に対する打突の習熟度は剣道家(もちろん日本トップのですが)のほうが上です。
剣道家の打つと、剣豪の斬るとは、やはり違うものと考えざるを得ません。
剣豪の斬るというは理解できると思いますが、
剣道の打つとは、最小限の動きで、もし真剣ならば、相手に致命傷を与えられるということです。
面ならば、頭蓋骨を三寸だけ斬る。小手ならば手首を半分だけ落とす。
それだけで相手に致命傷を与えるか、戦闘力を削ぐことが出来る、という考えのものとに立っています。
本当の最小限の動きを鍛錬しているので、剣道家に分があると思います。
(まあ、相手の親指や小指を切ることで相手を制した剣豪もいるそうで、一概には言えませんけど)

が、剣道とは本当に心の戦いでもあります。
相手の間や呼吸を読み、虚虚実実の駆け引きの中で、勝機を見出し、時には捨て身で向かっていかねばなりません。
その心の戦いは、やはり昔の剣豪に一日の長があるように思います。
これは絶対に他人には分からないことですし、比較のしようがありませんが、
命をかけての戦いをくぐってきた剣豪が強いと思います。

ということで、あえて互角としておきます。
居合いはすこし形式色が強いので、比較の対象とならないでしょう。

ルールによりますよね。
真剣はかなり重い。
同じくらいの重さの木刀を振っていましたが、それを自在に扱うというよりトレーニングといった感じになります。
剣豪がそれを自在に操り戦っていたとなると、それこそ脅威ですね。
私が一撃を加える間に、相手は二撃加えることが出来るということです。
今の剣道家では、真剣で戦えば足元にも及ばないでしょう。

もし、木刀を扱い、ルールを小手・面・胴に対する有効打突のポイントを競うものであれば、
あえて互角であろうといっておきましょう。
木刀を扱...続きを読む

Q江戸時代の武士がもつ日本刀について。

うちには先祖が武士家系ということで 日本刀が何本か残されているのですが 時代劇に使われているような見事なものではなく とても質素なものです。 鞘にしろ鍔にしろ 簡素なもので 刀身も63,8センチ の無名刀です。 小柄とよばれる小刀もついていません。 そこでいくつか質問があります。

(1)やはり昔も 上級武士(位の高い)はそれなりにいいものを身に着けていて 持っている刀がその武士の 品格を表すようなものだったのでしょうか?

(2)また映画などではチンピラ風の町人も脇差しのようなものがありますが そういうチンピラ風のものでも高級な刀をもてたのでしょうか?とくに 「先生」と呼ばれた腕のたつ殺し屋みたいなのもでてきますが長いいい刀を持っているように見受けられます。。

(3)また武士に生まれた家系は 子供のときから刀を差していますが 体の成長により刀を自分の体格にあったものに常に変えていたのでしょうか? 

(4)時代劇のように あんなしょっちゅう刀を抜く機会って 武士でもチンピラでもあったんでしょうか?いまでいうピストルを相手に向けるようなものですよね お互いが刀を抜いた時点で 死を覚悟するようなものだと思いますが。 ドラマや時代劇では みね打ちとかいって どしどしやっつけていますけどあれでも実際やったら相当なダメージではないですか?  

以上わかることだけでも結構です。 お詳しい方どうかよろしくお願いいたします。

うちには先祖が武士家系ということで 日本刀が何本か残されているのですが 時代劇に使われているような見事なものではなく とても質素なものです。 鞘にしろ鍔にしろ 簡素なもので 刀身も63,8センチ の無名刀です。 小柄とよばれる小刀もついていません。 そこでいくつか質問があります。

(1)やはり昔も 上級武士(位の高い)はそれなりにいいものを身に着けていて 持っている刀がその武士の 品格を表すようなものだったのでしょうか?

(2)また映画などではチンピラ風の町人も脇差しのようなも...続きを読む

Aベストアンサー

(1) 江戸時代の中期頃から、幕府や各藩が厳しい贅沢禁止令が出していますから、特別な時以外には上級武士(大名も含む)でも目に見えて分かるような贅沢などしていません。

 まあ、裕福な武家の次男坊や三男坊(部屋住みとか言われる層)が、粋を気取ってやたらと凝った鞘を差していたようですが…。
 象嵌で絢爛豪華な鞘を作ったりとか…。

(3) 最初に子供に与えるのが、所謂「守り刀」と言われる30cm以下の刀で、藩の学問所とかに通う頃に脇差クラスの30cm以上の刀を差し、元服や出仕する様になると二本差しになると。

 なお、江戸時代の武士の骨格は刀を差していた関係で、左肩が極端に上がった形に成っていたとか…。
 (子供ではとても差せない…。)

(4) 江戸時代の武士は、たとえ町人相手でも刀を抜くような真似は滅多に有りません。

 もし、刀を抜いて相手を仕留められなければ、国家鎮護守・外敵制征圧を担う兵として不心得者であるとされ処罰されます。

 仮にちゃんと成敗しても、それが無礼打ちであった事をちゃんと証明(切った本人は必ず一定期間謹慎に成るので、家中の者が死に物狂いで、証人を探す)できなければ、やっぱり処罰されます。
 (証人が見つからなかった為に、処罰が下る前に切腹する者も多い。)

 そして、侮辱を受けても刀を抜かないでいる所を同輩などに見られると、臆病者であるとされやっぱり処罰されました…。

 なお、上記の事を知っていた町民の中には、粋を衒ったり、度胸試しのために故意に武士を挑発する物もいたとか…。

 と言う訳で、当時の武士は町へ行く時などは、共の者を連れて行き主人が屈辱を受ける様な場面に遭遇しないよう、体を張って庇う必要が有ったようです。

 また、他領の領民に対する危害行為は、たとえ正当防衛である切捨御免の結果であったとしても、その領民が属する封建領主への敵対的行為とされる恐れがあり、各藩は藩士に対して江戸領民に触れ合うような場所に行く事を可能な限り避けるよう厳命していました。

(1) 江戸時代の中期頃から、幕府や各藩が厳しい贅沢禁止令が出していますから、特別な時以外には上級武士(大名も含む)でも目に見えて分かるような贅沢などしていません。

 まあ、裕福な武家の次男坊や三男坊(部屋住みとか言われる層)が、粋を気取ってやたらと凝った鞘を差していたようですが…。
 象嵌で絢爛豪華な鞘を作ったりとか…。

(3) 最初に子供に与えるのが、所謂「守り刀」と言われる30cm以下の刀で、藩の学問所とかに通う頃に脇差クラスの30cm以上の刀を差し、元服や出仕する様になると二本差...続きを読む


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